かいだせんぱい
「お前、知ってる?」
「は? 何を」
クラスメイトでなおかつ前の席である男子生徒が教室に帰ってきたと思ったら、真っ先にこう言われた。
二年に進級してしばらくたって、やっと落ち着いてきたのだがどうもこいつのうわさ好きにはまだ慣れない。
初めてクラスが一緒になったやつも、俺にすぐに話しかけてくる。別に嫌なわけじゃない。こういうことになるって知っていたから。一年の時も俺の周りには必ず人間がいる。俺は俗にいう人気者という奴であった。そういう自覚はあったし。
「一年の女」
「なんだよそのアバウトな紹介は。分かるわけないだろ」
少しだけ笑いながら言う俺の手を掴んで、男子生徒は教室を出て行こうとする。俺は素直にそいつと行動を共にすることにした。珍しく俺たちの後を追う者はいなかった。
二人で歩きながら、一年生の教室を目指す。
こいつのやりたいことは分からないが、拒否する理由も見当たらない。突拍子もないことをするこいつは、そんなに嫌いじゃない。
「一人じゃ嫌なんだってー」
適当に相槌をしながらたどり着いた一年生の教室の前。そこに、長い髪を持つ女子生徒が立っていた。
俺たちが近づいてきたのを見つけて、顔を上げる。
美人というわけじゃ無い。かわいらしさがあるわけじゃない。町を歩いてたって特に目を止めることも無い、普通の女。
そう思った。それだけだったなら、良かった。
その女が、俺と目を合わせる。
「何か、用ですか?」
大きいわけでも、釣り目というわけでもない。二重で、まつ毛はちょっとだけ長くて。そして、真っ黒だった。光を飲み込むかのように、全てを拒絶するように。
俺を、見ていない。
「お前の名字! すげぇ気になったの! なんて読むわけ?」
クラスメイトの声が聞こえない。何も聞こえない。
女の瞳が俺から離れる。慌てて肩を掴んでしまった。女がまた俺を見る。
真っ黒な瞳。俺が映っていない。
みんな、俺になつくのに。俺は人に好かれやすくて。それなのに。こいつは、俺にまるで興味が無いように。
手を払われて、怪訝そうな顔を作る女。
「むたぐちです」
クラスメイトの質問に答える。それに対してクラスメイトが大げさな反応をする。そして、俺の二の腕を掴んで別れを告げた。
たったこれだけのために。とか。何も考えられない。
クラスメイトが何か俺に話しかけている。
あの瞳しか思い出せない。あの瞳が頭から離れてくれない。
「おい、海田……?」
「むたぐ、ち」
これは、恋なんだと思う。
一か月近くたっても、あの瞳を忘れられなくて。
牟田口比奈香。フルネームまで知ってしまった。
俺は人気者なのだ。他人に訊けば何でも情報は手に入る。信頼ってこういう時に便利だよなぁ。
「牟田口」
目の前は闇だ。今は何時だろう。さっきから眠れない。だから何度も名前を呟いてみる。
俺が名前を呼んだら、長い髪を揺らして振り返るんだ。それで、俺の姿を見つけるとあの目を細めて笑う。それで唇を動かして、用件を訊いて。
「……呼んだだけ」
そう言ってみると、少しだけ残念そうにしてそうですかって言う。
寝返りを打って枕に顔を埋める。
寝よう。眠ってしまおう。
これ以上考え事をすると、変な気持になりそうだ。
「おやすみ」
名前を呼んだような気がする。
答えが返ってきたような気がする。
「海田、一緒に帰ろうぜー」
俺と牟田口が出会うきっかけを作ったクラスメイトが鞄を持ってやってきた。それに乗っかって、女子生徒も数名とほかの男子生徒もやってきた。だけど俺は首を振って立ち上がって手早く荷物をまとめる。
「悪いな。今日は用事があるから」
「まっまさか! 海田、ついに彼女できたのか!?」
クラスメイトがのけぞりながらそんなことを言うものだから、その場にいた女子生徒の表情に影が差す。質問をしようと思って開いたのかもしれない女子生徒の唇に指をあてる。すると素直に黙ってくれた。
俺は少しだけ笑ってクラスメイトの頭を軽く叩く。
「んなわけないじゃん。それじゃあ、また明日」
さっさと教室を出たい時も、挨拶は必ず。ちゃんと笑うこと、手を振ることを忘れない。後、その場にいる全員の方をちゃんと見ること。
そして俺は二階へと足を進める。二階にはやたら高い本棚が詰め込まれた図書室がある。
周りに誰もいないことを確認してから扉に耳を付けた。牟田口が図書委員だと言うことは最近知ったことだ。
中から誰かと話している牟田口の声が聞こえる。争っているわけでも、楽しそうでもない。
俺は扉から離れて、その隣の壁に背を付けた。
ここで俺が中に入っていたら、牟田口はどんな反応をするんだろう。
普通に何を借りるのかって聞くのか。今は貸し出せる時間じゃないっていうのか。何しに来たのかって訊くのか。それとも俺のことを無視するのか。あの瞳で俺を一度見ただけで、何も言ってくれないのか。
あいつは俺に興味がなさそうだもんな。
何でかって聞いてみようか。何で俺に興味無さそうなのって。
そうしたら、牟田口はちょっとだけ考えるかもしれない。俺を傷つける言葉を吐くのかもしれない。もしくはそれをためらって、言葉を慎重に選ぶのかもしれない。
それか、慌てるかもしれない。俺に自分のことを話したくないかもしれない。
入ってみたい。入って、声をかけてみたい。
入って、みようか。
壁から背を離して、ドアノブに手を近づける。手が震えている。自分でも分かるくらいに汗が滲んでいる。ギュッとこぶしを作る。呼吸がうるさい。
なんて声をかけよう。俺を見て驚く牟田口を見て、なんて声を。
「海田? なんだ、帰ってなかったんじゃん」
「っ!」
手を扉から一気に遠ざけて、咄嗟にこちらに近づいてくるクラスメイトのほうに駆け寄る。俺が入ろうとした場所を確認しようとするので無理やり肩を抱いて歩き出した。
何でここに来たんだ。そんなことは聞けない。怪しまれるかもしれないから。
「女子、残念がってたぜ? なんで一緒に帰ってやらないんだよ」
身長に差があるので歩きにくい。いびつな足音を響かせながら俺たちは昇降口に向かう。曖昧な声を出すと、なんだそれを笑われた。
クラスメイトの女は、俺が多少ないがしろにしたって離れたりはしない。
でも。
でも、牟田口は。多分、俺が近づくことを止めたら姿を消してしまう。と言っても、あいつの瞳に俺が映ったことはあれ以来ないのだけれど。
「……ん?」
「うわっ! いきなり止まるなよ!」
悪い、と小さく言ってからまた歩き出す。
本当に、そうだったか。
あれ以来、俺たちって本当に会話してないんだっけ?
何度か言葉を交わしたんじゃないか?
よく憶えていない。
クラスメイトの肩から手を離して、顎に手を当てる。
それでも記憶は混雑したままだった。
「牟田口」
良く眠れない。そう思ってた。でも、眠れた。いや、眠れているのか。じゃあ、これは夢か。でもしっかりとした夢で現実みたいだ。
牟田口の眉が少しだけ動く。不満だってことか。
恐る恐る手を伸ばす。あの時の感覚と似ている。図書室に入ろうとした時の、あの感覚と。
でも、あれはいつのことだったか。
今日の昼間?放課後?学校?それとも、夢の中?
弁当くって、それで寝たのかな。その時に見た夢かな。
だって、あの程度のことで俺がためらうはずが無い。
そうだ。
俺は、簡単に牟田口に触れることができる。
髪の間に指を通す。誰もいない図書室は静かだ。かすかに、髪の毛がこすれる音がする。
冷たいけど、柔らかくて。その髪の中から牟田口の耳を見つけた。それを優しく撫でると、牟田口は困ったように笑う。
笑って、それで俺をあの瞳で見上げるんだ。
牟田口が俺の名前を呼んだ。しかし声が小さすぎて、よく聞き取れない。
「もう一回、言って?」
牟田口の頬が赤くなった。そんな顔をされると、期待したくなる。
彼女の唇が震えている。でも決して俺から目を離さない。
俺は後頭部に手を回して、顔を近づけた。それでもっと顔が赤くなる。
彼女は震えながら俺の名字を呼んだ。
言ってはいけないことを言うように。ためらうように。期待するように。
湿ったような声を出す。
鼓膜が揺れた。じんわりとしみこんでくる牟田口の声が心地いい。
答えようと、思った。
牟田口とたくさん喋るようになった。
恥ずかしがっているのかわからないけど、そんなに口数が多くない。でも俺の言葉にはちゃんと反応してくれるし、俺のことをちゃんと見てくれる。目を逸らしたりなんかしない。
時々頬を染めたり、ちょっと慌てたりして。笑ったり、切なそうな顔をしたり。
俺にだけ見せる表情なのか確かめてみたい。
学校でもっとお前のことを見ていたい。
「……比奈香」
名前で読んでみたら、牟田口も俺のことを名前で呼んでくれると思った。でも、呼んでくれなかった。
困ったような表情の末に、『海田先輩』といつもの様に俺を呼んだ。
何で。何で。何で。何で、俺のこと。俺たち、両思いなんじゃないの。そうしたら、お互いに名前でよんで。それで。
視界が歪んだ。情けない。
手の甲で目の周りを乱暴に拭う。
こんなになるくらい。
俺は、お前のことしか考えられなくて、好きなのに。
わかったよ。
わかったから。
俺、お前の嫌がることしないから。俺は名字で呼ぶから。気にしないで良いから。お前も俺のこと、名字で呼べばいい。これでおあいこ。
「今日は一緒に帰れるだろー?」
「んー、まぁ」
たまにはいいかな。
最近はずっと牟田口のことを考えたり、牟田口と一緒に帰ったりしていたから、クラスメイトと距離が開いていた。
たまにはいいかもしれない。嫌いってわけじゃないのだから。
俺が返事をすると、すぐにクラスのやつらで帰り道の方向が同じやつらが群がってくる。
「海田くん、彼女できたって本当?」
女の一人がついに訊いてきた。
答えることはできない。だって、牟田口嫌がるだろうし。俺の彼女である自信が無いって言っていたもんな。
でも、自慢の彼女なんだから本当は言いふらしたい。こいつは俺の彼女なんだって言ってやりたい。そうしないとアイツの周りの男は消えないだろうし。
少しの我慢か。牟田口が許してくれるまで。
「さぁ、どうかなぁー?」
なんていってやれば、その場しのぎになる。
それで良い。
「牟田口、俺たちって」
恋人だよな。
小さく呟いてみる。すると牟田口は一瞬戸惑ったみたいだったけれど、電話の先で小さく肯定の言葉を吐いた。
面と向かって話すと恥ずかしがるくせに、こうやって電話で話すと大胆で素直になる。
愛しくて、可愛くて。俺を見つめる真っ黒の瞳が、頭から離れなくて。あれに見つめられると、お互いに目が逸らせなくなるんだ。
「今日、一緒に帰ってやれなくてごめんな」
学校でじっくり話せない分、電話はすごく長くなる。ちゃんと目を見て話せないのが嫌だ。でも仕方ない。こうやって声が聞けるだけ幸せだ。
牟田口もそう思ってくれていると嬉しい。
いつか、ちゃんと昼間の学校でも堂々と話せるようになれるといいな。そんなこと、言えない。牟田口をまた傷つけたくないから。
電話越しに彼女の吐息が伝わってくる。
愛おしい。好きだ。
その気持ちを抑えるので必死だ。
名前を呼びたい。名前で呼んでほしい。
今日のことは申し訳なかった。牟田口を一人にしてしまった。
怒っていないと牟田口は言ってくれるけれど、それが我慢の証だと俺は分かっている。
「ありがとう。ごめんな。おやすみ」
牟田口は笑っていたと思う。声が眠そうにしていたので、電話を終わらせることにした。
どうせ、また明日も会える。
放課後になったので早速俺は教室を飛び出した。みんなに挨拶するほどの余裕も無かったので申し訳ないとは思うけど、仕方なかった。牟田口のことが俺が一番大切だから。
今日は必ず二人で帰ろうと思っていた。彼女のことだ、きっと教室で待っているに違いない。
そう思って心臓を高鳴らせ、彼女の反応を想像しながら階段を駆け下りる。
「っうわ!?」
驚いて、転びそうになった。ぎりぎりで踏ん張っててすりを掴む。
踊り場に女子生徒が立っていたのだ。しかもその後ろ姿には見覚えがあった。
「むた、ぐち……」
彼女が振り返る。牟田口の両手には本が積みあがっていた。
「? どうかしたんですか?」
首を傾げる牟田口。そういえば今日迎えに行くこと、伝えていなかった。少しだけ迷った。言葉に詰まる俺を見て、牟田口は視線をさまよわせている。
俺をしっかり見てくれないのは、やっぱり昨日のことを怒っているからだろうか。さみしい思いをさせてしまったことを後悔した。やっぱり、牟田口を最優先させなくちゃいけない。
俺の一番は牟田口なんだから。いつだって。
「どこいくんだ?」
「図書室です。委員会の仕事があるので」
腕の中の本を見せながら牟田口は足を動かし始める。俺もついて行くように歩き出すと、牟田口は不安そうに俺を振りかえって来た。
俺を待たせることを申し訳ないと思っているのなら、問題ない。
「手伝おうか?」
「えっ……? だ、大丈夫です。気にしないでください」
機嫌を直してもらおうと思ったのだが、牟田口は受け取ってくれなかった。少しだけ寂しいけれど、すぐにどうせ俺に甘えるに決まっている。
だって俺が牟田口を好きなくらい、牟田口も俺のことが好きなのだから。
「本当にいいのか?」
最後の確認として顔を覗き込もうとすると、すごい勢いで顔をそむけられた。その行動で牟田口のバランスが崩れた。咄嗟に彼女の細い腕を掴んで引き寄せる。本が辺りに散らばって階段を滑り落ちていく。
「っ、大丈、」
夫か。
その言葉は言うことができなかった。
牟田口が、俺の手を振り払ったのだ。明らかな拒絶の色が、瞳を埋め尽くしている。
手から力が抜ける。牟田口はそんな俺を置いて本を素早く拾い上げて走り去っていった。
動くことができなかった。何が起こったのか、今市分からなかった。ただ、後になってどんどんと状況が掴めてくる。
牟田口が、俺のことを嫌がった。拒絶した。昨日のこと、そんなに怒ってるのかよ。俺、謝った。ちゃんと謝った。
また目の前が滲んできた。どんどんと目に水滴が溜まって、頬を伝っていく。
「っぅ、うぁっ……」
海田先輩って言えよ。
膝から力が抜けて、階段に座り込んでしまう。袖が涙を吸って色を変えていく。そんな光景すら、ぼやけてよく見えない。
鼻をすすりながら顔を腕の中に埋める。
すると、後ろから誰かが抱きしめてきてくれた。
「ひな、か」
恐る恐る名前を呼んでみる。返事は無かった。しかし、それが正解だと俺には分かった。
「ごめ、ごめん、ぅ、っ、す、きだ……」
何度も繰り返すと、どんどん抱きしめる力が強くなっていく。
苦しい。
でもこれで彼女が許してくれるなら、それでよかった。
こりゃあ、完璧に壊れちまったなぁー。
まあ、後悔とか何にも考えてないけど。
「かぁいだー」
小さく名前を呼んでやっても、腕の中のこいつはずっと謝り続けている。
最近ずっと、変だった。
そしてある日、見てしまった。放課後の図書室で見えない人間に話しかけている海田を。
牟田口、と何度も愛おしそうに名前を呼んで。
だから俺が答えてやった。相手をしてやった。すると、俺とその牟田口を重ねて、何度も愛の言葉を吐くのだ。
面白かった。この遊び、最高。
「くくっ……」
クラスメイトでしかも牟田口と海田を引き合わせた俺がこんなことをしてるって知ったら、どんな反応をするだろうか。そんな時、来ないかもしれない。来たとしても、海田が認めないかもしれない。
あとどれくらいで、完全に海田の世界とこの世界が混ざるんだろうか。その瞬間が楽しみでならない。
そうしたらこいつ、どうなるんだろう。
この世界の牟田口は思い通りにはいかない。
それを知った時、こいつはどうやって現実を受け止めるんだろうか。
「海田先輩、好きですよ」