長征(Ⅴ)
王師下軍の後背に回りこもうとしたのはステロベ旗下の北辺軍の騎兵だった。
数としては二千と言ったところだったが、数よりも背後に回られるという危機感が実際の数にも増して、下軍の将兵の心に重く圧し掛かった。
戦列を維持したまま、無理矢理後退と回転とを同時に行った結果、側面を守る壁を構成した王師下軍の右翼の戦列は交戦前にすでに乱れている。
そこに敵の攻撃が集中して加えられたから、たまらない。瞬く間に劣勢に追いやられる。
リュケネは後方に控えていた予備の部隊を惜しげもなく全て投入し、右翼のほつれを補おうと試みる。
既に王の命令は出ている。斜行戦術を取る敵に対して、軍全体を回転させて正対し敵左翼の回りこみを防ぎ、リュケネが右翼の戦列を堅持している間に、自軍の主力を左翼から回り込ませる。
つまり両軍共に左翼からの回りこみを計り戦場に大きく二つ巴が描かれることとなろう。
その鍵はリュケネにかかっている。味方左翼が回りこむ前にリュケネが敗退すれば、その作戦は破綻する。
すでに三十メートルは押し込まれている。このままだと戦列の崩壊は時間の問題だ。
あとは隊列を崩し乱戦になった時に、踏みとどまれるかだ。
兵の死屍を積み上げ山を作ろうとも、なんとしてでも時間を稼がなければならない。しゃにむに戦うだけだ。
後方に回る回避運動を取り終わり、今や後背に襲い掛からんとする敵騎兵隊に視線を向ける。
さぁ、少しでも長く持ちこたえてくれよ、とリュケネは騎兵に対抗すべく急ごしらえで立てた槍衾を見て祈った。持ちこたえられないのは既に想定済みだ。戦列が切断された後、どれだけ粘れるかだな。
できれば半刻は欲しいな。半刻あれば王師左翼は敵右翼を蹴散らすことが出来るだろう。
激突は熾烈だった。錐状になった騎馬隊は駆けてきた勢いそのままに王師下軍に突き刺さり、戦列を押し返し切り裂いた。
切り裂かれたら後方に回り込まれ終わりだ。
一瞬ひやりとしたものがリュケネの体を走り抜けた。
だがそこはさすがは王師、押し込まれながらもなんとか踏みとどまると果敢に反撃を試みる。
錐のように敵中に揉みこむというのは逆に言えば敵に挟まれる形になる。途中で足が止まると逆に不利な体勢になるということだ。
「退くなぁ! もう少しで敵を押し切れる!」
味方に押されて後ろに流される馬を必死に御しながら、敵の指揮官が絶叫する。
と、鋭い音と共にその絶叫はかき消された。
突然その指揮官の顎から上が消失し、兵たちの顔に鮮血が飛び散った。顔をなくしたその体は血を噴出しながら、ぐらりと兵たちの上に覆い被さる。一瞬、何が起きたのか理解できずに両軍ともその場に固まった。
と、突然離れたところから悲鳴が上がった。
その男は持っていた剣を取り落とし、その手に抱えた赤黒い塊に怯えたように声を張り上げた。
それは彼らの指揮官の見慣れた、ただし顎から上だけの顔だった。頭は体から遥か7メートル離れた兵のところまで、見たこともないような長大な矢と共に飛行したのだ。
もう一度、唸り声が空中を切り裂いた。
大きな鈍い音と共に、騎馬武者がとなりの騎馬武者にぶつかる。
ぶつかったほうの騎馬武者は先ほどと同じような長大な矢に胸を射抜かれ瞬時に絶命していた。ぶつかられたほうの武者も、篭手をつけていた左手を完全に貫かれ、大量の血で着物を赤く染めていた。
それでこの場所で何が起こっているのかが、誰の目にもはっきりと理解できた。
どこからか矢が飛んできて二つの死体を作り上げたのである。
全ての兵がどこから矢は飛んできたんだ、と周囲を見渡す。そして南面に求めていた姿を見出す。
小高い丘の上に巨人が立っていた。見たこともないような巨大な弓を持って矢を番えていた。
その距離はなんとゆうに百メートルは離れた場所である。
まさかあの距離から兜を射抜ける者などいるわけがない。悪い冗談に違いない。
だが、兵たちのそんな常識を、皆の視線が集まる中、その男が放った矢が軽く弾き飛ばした。
矢は再び唸りをあげて襲い掛かり、今度は一人の騎馬武者の左腿を貫いて、鞍を砕き、馬の体に突き刺さった。傷を負った馬は暴れて、哀れ騎馬武者は振り落とされる。
恐怖に包まれた兵たちは悲鳴を上げる。
「ひょう! 間に合ったぜ」
ザラルセンは機嫌よく奇声を上げた。再び矢を番えると大きく引き絞って、おもむろに放つ。
矢は一本一本違うことなく北辺軍の騎兵を射抜き、その余りにも規格外の威力で敵陣に動揺が走る。
浮き足立った敵に追い討ちをかけるように、ザラルセン自慢の騎兵隊がようやく丘を回り込んで、射程内に敵を捉えた。移動しながら矢を一斉に放ち、下軍の側面を襲い、背後に回ろうとした騎兵の脚を止める。
援軍の到着に鼓舞されるように、押され気味だった王師下軍も再び気力を取り戻し敵を押し戻した。
「今一歩であったところを」
迂回運動を行わせるよりも、只しゃにむに力押しでひた押しに押し倒すべきだったか。ステロベは臍を噛むような想いだった。
だが、まだ敵が退勢を立ち直らせたわけではない。こちらの余剰戦力を全て新規の騎馬隊にぶつける。合流させなければなんということはない。隊列の乱れきった敵が支えきれなくなるのは時間の問題なのだ。
敵は馬上で器用に弓を使う。だがどんな射手でも移動する敵を狙うのは難しい。
そこでステロベは余剰の騎馬隊に、側面攻撃にまわしていた騎兵も含めて、急ぎ南の丘に現れたザラルセン隊に向かわせる。騎馬のすばやい動きで矢を放つ前に敵に取り付く。
接近戦に持ち込めば得意の弓も使えまい。
一時敵の援軍を食い止めさえすれば、戦列を組み直す余裕すらない、この目の前の敵の右翼は崩壊する。そうなれば戦の趨勢は関西のものだ。浮き足立った敵兵は片翼包囲されて、その最期の時を待つだけになろう。
「それにしても粘るな」
敵の戦列は大きく見て四つに分断されている。その文断面ごとで小規模な三方包囲が行われているようなものなのだから、いくら王師といえども崩れ落ちるのが当然と言える。
だが分断面では劣勢に追いやられているにも関わらず、王師下軍は驚異的な粘りで陣の崩壊を防いでいた。
敵将も然る者だ。陣が崩れると見るや、兵を送り込み立て直す。なかなか致命の一打を与えられない。
それでも、とステロベは気を取り直す。
敵はあくまで退勢を取り繕っているだけだ。決して盛り返したわけではない。その証拠にステロベ指揮下の兵はいたるところで敵を切り崩している。
長い戦いになるかもしれない。ここは諦めたほうが負ける。
有斗は本陣にて落ち着かなく小刻みに右足を揺らしていた。
と、その足に傍に控えるアリアボネがその細く美しい指を押し付けるようにして、有斗の貧乏ゆすりを止めた。
「陛下、落ち着いてください。兵が見ております。王が落ち着かれないと軍全体が不安に包まれることになりますよ」
と耳元でささやくように小さく告げる。
確かに眼前にいる羽林の将兵も王師中軍の兵もチラチラと不安げに有斗を覗き見ている。
おっと、そうだった。有斗は姿勢を素早く直すと小声でアリアボネに不安をぶつける。
「そうは言ってもベルビオら王師の騎馬隊は渡河地点を探して下流に行ったままだ。対岸に姿も現さない。左翼の兵は川と沼沢で移動もままならず、軍全体を右回転して敵に正対することがまったく出来ていない。芳しい報告はひとつとして上がってこなかった。中央でこそ王師中軍が押してはいるものの、左右の翼に合わせるため突出を避けている。リュケネの王師下軍は丘の向こうで敵に押されて苦戦しているんだよ」
「敵も考えたということでしょう。確かに敵は三万で味方は五万。だが今現在、敵は全部隊が戦っているに対して、我が方は中央と右翼、左翼の一部しか戦っておりませぬ。押されているのも仕方が無いということです。むしろ健闘していると言って良い」
「ちょっとアリアボネ、敵を褒めている場合じゃないよ! このままだと僕らは負けてしまう、なんとかしなくちゃ!」
有斗は声を抑えることも忘れて、落ち着き払った顔のアリアボネに大声を出した。そんな有斗を将士たちは不安な目で眺める。
「それより気付きませんか?」
「何を!?」
「リュケネ殿の下軍のほとんどはあの丘の向こうにいます。正対する敵の左翼もです」
「・・・だから何?」
僕は言葉の裏に何かあると思い、再び声を潜めてアリアボネの瞳を覗き込んだ。
アリアボネがこう言った間接的な表現を使うときには、すでに腹中に策がある。だが婉曲な表現をわざと使うことで有斗に悟らせ、その有斗の口から改めて直接言わせたいのだ。そうやって王を立てているのだということに最近気付いた。
誰かの意見をそのまま言うだけだったら王というよりロボットだもんな。
「戦闘開始時にはリュケネ隊は元より敵の左翼もここから見える位置にありましたですよね? しかし回り込みを計ろうとする敵左翼、それを阻止せんとする王師下軍、共に右へ右へと斜行しました。だが敵の中央は我が方の王師中軍と一進一退の攻防を続けている。・・・ということは?」
はっとして有斗は右前方に視線を走らせた。やはり、そこは有斗の想像通りの形になっていた。
「そうか・・・! 敵の中央と左翼の間にはわずかな兵士しか残っていない・・・!」
ならばそこに余剰戦力で攻め入れば両翼を回るよりも早く、効率的に後背に回りこむことが出来る。
「ご明察です」
「ひょっとして、これを見越して南部諸侯からの出陣要請を却下して、両翼から回り込む部隊に南部諸候を回さなかったってこと?」
「はい。とはいえ左翼に向かった王師の騎馬隊が行く手を遮られる形になるとは思いませんでしたけれども」
アリアボネは見事に己の意図を悟った有斗に、にこやかに微笑み返す。
「もう戦もたけなわだ。きっと彼らも待ちきれない思いで焦れているよ」
血の気の多い南部諸侯の顔を思い出し、有斗は少し笑みを浮かべた。きっと自分たちの出番を今や遅しと待ち構えているだろう。出撃の命を聞いたときの彼らの顔が目に浮かぶようだ。
そんな有斗にアリアボネは手を組んで深々と揖の礼を返す。
「御意」
それにしても・・・とアリアボネは笑みを浮かべる。アエティウス殿の言葉ではないけれども、陛下は段々王様であることが板についてきた。
この成長ぶりならお守りをするのも、もうしばらくの間だけかもしれない。
そうなった時、自分の居場所は果たして君側に残されているのだろうかと思うと、嬉しい半面、少し寂しさも感じた。