出兵前夜
不在時に予期せぬ事態が起きぬよう、留守居役を据え、それぞれに自分の役目を徹底するように指示をする。これで抜かりはないはずだ。
だが王の決定にもかかわらず、ここに大いに不満を表した不逞な人物がいる。
アエネアスだ。
「なんで兄様が遠く関西まで遠征するという大事の時に、その従妹である私が王都に残らなくちゃいけないんだ」
ぶーぶーとむくれて、不満を有斗にぶつける。
「まさか・・・私と一緒にいるのが苦痛だから、王都に残していくわけではないだろうな?」
ぎろり、と有斗を睨む。
「いやいや、それはないよ」
アエネアスと一緒にいるのはたいそうな苦痛ではあるが、それとこれとは関係が無い。
「僕がいなくても政務は日々こなさなきゃならない。それを残った公卿にやってもらうからには、その動向には常に注意を払わなければいけない。遠征中に反乱騒ぎなど起きたら大変だからね。アリスディアならば朝臣たちの監視は苦も無くやってもらえると思うけど、万一朝臣内に不遜な企みがあったときには兵を率いて鎮圧に当たる信頼できる人物がいないと話にならないだろ?」
「ふふん・・・それが私と言うことか」
「そうだよ」
「ま、お前にそこまで頼まれたのなら仕方が無いな!」
よほど重要な任務を与えられたのが嬉しいのか、得意げな顔で二度三度と頷いている。完全に天狗になっていやがる。
だが良くも悪くもこの分かりやすさこそがアエネアスのアエネアスたる所以だ。実に単純な奴。
それに今は天狗になっているのもかまわないだろう。代わりに、しばらく僕がアエネアスに怒鳴られることもなくなるんだ、全てが丸く収まる。
王の檄に応えて駆けつけた南部諸候は王都郊外に思い思いに軍を駐屯させ、次々と王城に入ってくる。
有斗はその諸侯との会見に大わらわだった。
「ロドピア公、久しぶりだね!」
「これは陛下! この前の南部での戦の折は兵をそれほど出せなくて申し訳ありませんでした」
ロドピア公は白髪交じりの頭を下げて有斗に謝する。
「ロドピア公は南部でも壷関に近い。しかたがないよ。それに出してくれただけで十分助かったよ」
「そう言っていただけると、ありがたいですな。返す言葉もございません。だが今回、その借りを返すべく我が兵は奮闘いたしますぞ!」
「それは心強いね。ところで先ほどからロドピア公の後ろに控えているのは・・・ひょっとしてご子息かな?」
ロドピア公の斜め後ろに立っている若い、といっても見かけは僕よりは年上だが、人物は面影がどことなく似たところを感じる。
「はい。こちらが愚息です。戦場では置物以外の使い道はありませんが、いずれは我が後を継ぐことになりますので、陛下に拝謁させようと連れてまいりました」
「僕は有斗、よろしく頼むよ」
「はっ、エレウシスの子、ガレリウスと申します。へ、陛下にはお、お初に・・・」
段々声が小さくなり語尾が聞こえなくなる。・・・なんて言ってるんだ?
「なにを固くなってるか、ほれ、もっとちゃんと挨拶せんか!」
ロドピア公がガレリウスの尻をひっぱたくと、それまでと違い大きな声を出した。
「うるせぇ! クソ親父が!」
僕もロドピア公も声をあげて笑い出す。ガレリウスは真っ赤になってうつむくと、頭を掻いて気恥ずかしさを誤魔化していた。
本来なら王の面前でこんなことはもとより、笑うことすら許されない行為だろう。
アエネアスと違ってロドピア公は思慮深く、年も取ってるし、諸侯として長年過ごした経歴もある。王を前にした立ち居振る舞いを知らないわけではないのだ。
互いに互いを近しいと感じているからこうなるのだろう。
なんと言っても彼らのおかげで今の僕がある。僕にとっては心の近しい存在だ。それは彼らも同じであるらしく、ややもすれば言葉も軽く態度も軽重になりがちだ。朝廷の官吏たちには彼らの行動に眉を顰めることが多い。だけどそれが反中央の気概が高い南部諸侯たちにも関わらず、一丸と纏まって僕に、いや朝廷に未だに反抗せずに従っている理由でもあると思う。
だがその南部諸侯の中でも一人だけまったく近しくない、いや近しくなりたくない人物がいる。
あらかじめ言っておくと、それはアエネアスではない。あれは諸侯じゃない。
そう、その人物は・・・
「これは陛下ご機嫌麗しゅう」
「マシニッサ卿、じゃないか」
よりによって一番会いたくない奴に会ってしまった、と僕は内心で冷や汗をかく思いだった。
そりゃ檄は出したけどさ、てっきりカヒが怖いとか難癖つけて参加するとは露ほどにも思わなかったのだ。かと言って檄に応えて来た以上は無下にこっちから断るわけにもいかない。まいったなぁというのが本音だ。
体は半身開いていつでも逃走体制に入れるように、そして目はマシニッサの両手を油断無く見張る。
とりあえず間が持たなくなるような事態は避けたい。そう、話している間はマシニッサと言えどいきなり暗殺などはしない・・・はずだ。
そう、無難な会話だけで終らすのだ。今は護衛の兵こそついているものの、アエティウスもアエネアスもいない! まさに命の危機なのだ! なんとか無難にこの時間をやり過ごし、マシニッサの傍から離れないと、明日と言う日が永遠に来ないとも限らない!
「この前の南部での働き、見事だったね」
「領地を拝領いたしましたこと、感謝いたします」
頭を下げるマシニッサは特に害意を含むところは無い表情だ。
よしよし、機嫌は良さそうだ。この調子で会話を続けるんだ!
「そういえば君は貢献の割りにアエティウスとだいぶ官位に差が付いてしまったね。次の除目では必ず上げるよう手配しておくよ。何か希望の官位はあるかい?」
「いやいや、私は南部の土人。位は今の従六位下、官は金吾校尉で結構です。賜った日より、あまりのことに恐れ多くて毎夜眠れぬほどですよ。それに私はアエティウスと違って朝廷勤めが勤まるほどの才は持ち合わせていません。それよりも陛下の為に一兵でも多く兵を率い、敵を討つことこそが我が願い。どうかその為にも、私めにいつか五千の兵馬を指揮できるようにしていただきたい。あのダルタロス家のように。それが我がトゥエンク家歴代の悲願なのです」
・・・トゥエンク家って確かマシニッサが乗っ取った家のはずだから、マシニッサの口から歴代の悲願とか言われても、説得力が皆無だ。歴代当主たちも墓場の下で大いに憤慨していることだろう。
つまり、これって言外に官位なんかはいらないから、領地を寄越せって言ってるんだろうな・・・
でもマシニッサが今以上の大諸侯になった日には、マシニッサは満足してしばらく熟睡できるかもしれないけれども、代わりに僕が心配のあまり不眠症になってしまうことは間違いない。官位だけで満足してくれないかなぁ・・・
有斗は午後の政務を終えると、まもなく諸隊に先駆けて河北へと行くアエティウスを見舞いに中軍府に入った。そこではアエティウスがアエネアスに甲冑を着けてもらっていた。
「兄様、気をつけてくださいよ。遠く関西まで行くんです。敵は関西の軍だけじゃない。民だって襲いかかってくるかもしれない。旗色が悪くなれば味方の中からも裏切るものが出るやも。お気をつけください」
「わかってるさ」
「そうそう・・・あいつは人がいいのだけが取り柄、兄様とアリアボネが頼りなのですから、しっかりと守ってあげてくださいよ」
「陛下かい? 大丈夫、きっと守るさ」
僕のことはついでかよ。まぁアエネアスに心底心配されたらされたで、気味が悪いけどさ。
「あと、もし危なくなったら、迷わず逃げてくださいね。兄様は代わりのきかない身なんですから」
甲斐甲斐しく襟や裾を気にするその姿はどう見ても長年連れ添った夫婦の姿そのものだった。いや、夫婦というよりは・・・
「・・・なんかアエネアスってアエティウスのお母さんみたいだよな」
アエネアスは有斗の言葉に顔を赤く染める。周りにいたダルタロスの将士は一斉に笑った。
「陛下。そこは、せめて妻だとか恋人みたいだとかって言ってあげないと・・・お嬢だってあれでも嫁入り前の娘なんですから」
ベルビオが有斗にそう言うと、
「余計な知恵をつけるんじゃないっ!」とアエネアスから叱声が飛んでくる。
「おお、怖ぇ怖ぇ」
くわばらくわばらとベルビオは肩をすぼめて、その巨躯を小さくする。
「若はほっといても、いくらでもモテるんですから、ちっとは女日照りの可哀想な俺らのことも心配してくださいよ」
「おまえらは例え剣で二、三回突き刺したって死なないんだから、心配する必要はないだろ」
そういうアエネアスの言葉は字面と違って暖かな声色がふんだんに含まれていた。
「うっわ。お嬢ってばヒデェ。俺だって三回も刺されたら死んでしまいますよ」
もう一度、どっと周囲の将士は明るく笑った。
「お前はアエネアス様にではなく、好きな女にやってもらえばいいだろう?」
壁際で腕を組んで立っていたプロイティデスがベルビオに笑いながら声をかけた。
「そんなもん、いやしませんよ」
ベルビオは不服そうにぶすっと言う。
「そうか? 前まであれほど嫌がっていた、陛下の護衛を最近は率先して受けているらしいな。宮廷の女官の中に惚れてる女がいるからじゃないのか?」
「ちょ・・・プロイティデス」
「そうなのか?」「そうなの?」
あまりにも意外な事柄に、有斗とアエネアスはステレオ放送ででもあるかのように左右から同時に言葉を発した。
ベルビオだって健康な男子、好きになる女の一人や二人いてもおかしくは無いのだが、いつも仲間たちとひたすら剣を打ち合うか基礎体力を鍛える練習ばかりする姿からか、どちらかというと筋肉系のイメージが強すぎて、そういったことから遠い存在として有斗には映っていた。
アエネアスの言葉からもダルタロス内でも同じ思いを共有していることがうかがえた。それだけに興味を惹いたのだが・・・
「もう、俺のことはもういいじゃありませんか!」
ベルビオが真っ赤になって打ち消そうとやっきになる。その滑稽な姿を見て、誰かがクスリと小さな笑い声を漏らした。笑いは直ぐに次々伝播していった。陽気な笑い声は次第に大きくなり、最後には地鳴りのような爆笑に変わった。
口を固く閉じ、真っ赤になった顔もあいまって、照れたようにも、苦りきったようにも見えるベルビオだけが、その笑いの輪に加わっていないだけであった。