鼓関の戦い(Ⅵ)
逃げる関西勢はある者は背後から襲われ、またある者は側面から押されるように沼に叩きこまれ急速に人数を減らしていった。
だが甚大な被害を出したものの、退路を塞いでいたダルタロスの騎兵隊を打ち破り、先備を務めていた諸侯の混成軍も含め、全軍なんとか鹿沢の地を離れ、兵を退くことに成功する。
だがそれは関西の軍の奮戦がもたらしたものではなく、アエティウスの思惑通りにことが進んだ結果だった。
西国道に故意に出口を少し開けてやったのだ。死地にいると感じ、それまで文字通り死に物狂いで戦っていた関西勢にも、とたんに生への執念が湧き上がったらしく、ひたすら逃亡に入った。少しでも速く走る為に武器を投げ捨てるものも出る始末だ。
「では行くか」
その様を見てアエティウスはプロイティデスに声を掛ける。
そう、これも予定通りだ。包囲しての殲滅戦ならともかくも、普通戦場でもっとも犠牲者が出るのは互いが勝利を奪い合い戦っている間ではない。敗北が決まった後の退却戦だ。
さらに言えばここでどれだけ負けた相手を完膚なきまでに叩きのめすことが出来るかが、その後の戦略を左右することにもなる。その為に追撃をする。
敵を引き付ける囮になった王師左軍にはもう余力がない。だが王師中軍は違う。じっと待ち構えていたぶん、出番はこれからと言っていい。
ここからはただ逃げていく敵に追いすがり、追撃を加えて出血を強いる。
有斗が戦国乱世の集結を願うのならば、関西とはいずれ決着をつけねばならぬ身。ここで少しでも敵の兵力を減らしておくのは悪いことではない。さらには城内に入る敵兵に付け入って関内に侵入し、あわよくば鼓関を落とそうという魂胆だった。
バアルは当初鹿沢入り口の隘路を抜けたところに迎撃の陣をすばやく整え、そこで敵を迎え撃ち、味方の安全な退却を支援しようと考えていた。
だが、バアル旗下の鼓関の兵も思ったより心理的ダメージは深く、下知に従う兵は少なく、大半は味方と共に逃げる術を選び、陣形を満足に組めず、結局迎撃を諦めざるを得ない状況だった。
「まずいな」
バアルは思わず愚痴を口に出してしまう。
兵卒は大将の顔色を見て戦う。どんなに劣勢であっても大将が落ち着いていれば兵も我慢強く戦える。逆にどんなに優勢であっても大将がうろたえていれば兵も浮き足立つ。将たるもの兵の前では余裕のある姿を見せなければならない。それくらい知らぬことはないバアルだったが、打つ手がまったくない現状には愚痴もでるというものだ。
しかも平原を出たにもかかわらず、敵は最後尾に喰らいついたまま追撃を諦める気配がない。
兵もいまだ混乱状態で、バアルの下知を素直に聞く状態になってるとは言いがたい。
だが三万の軍勢が幅三間(約5.4メートル)ほどの街道を退却するのだ。先頭と最後尾とは距離がある。どこかで一息つくことが出来れば兵も我を取り戻し、敵と戦える状態に戻るだろう。諸候軍はともかく、鼓関の守備兵と王師左軍といえばなんといっても関西きっての精鋭なのだから。
晩秋の風は夜が近づくにつれ寒さが厳しくなる。
風に吹き付けられるように追撃は執拗に続いた。日が傾き山々が長い影を荒涼たる地に落としてもまだ止む事はない。
やがて前方に大きく立ちはだかる影が色を濃くし近づいてくる。鼓関に違いない。
「ついている」
アエティウスは陽に目を向ける。すでに山の向こうに隠れてその目には見えない。だけれども落ちる影から大体の高さは判別できた。完全に暗くなるにはまだ時間がある。近づけば相手の顔もまだ見える。
だがこの暗さでは遠くからでは兵を敵味方判別できぬ。城に『付け入る』にはもってこいだ。
さっと一瞬後方を見、プロイティデスが付いて来ている事を確認すると、眼前の敵にあえて槍を突き刺さずに追い立てる。
関西勢は強行軍で鹿沢まで行軍し、そして敗北して走り続けたのだ。もはや交戦する気力も体力もない。その思いが王師中軍を勢いづける。
目の前の鼓関の門はだらしなく開いたまま。
ここだ、ここで門を抑えさえすれば鼓関の防備は七割がた無力化できる。
次々と王師中軍の騎兵は鼓関の中に乗り入れ、まず門を、ついで篭られると厄介な塔の出入り口を押さえる。次に到着した歩兵がなだれ込み、敵を排除しつつ鼓関を一箇所一箇所制圧して行った。
くたびれきった関西の兵は列伍も組んでいなければ、指揮官や同僚すら近くにいない。次々と血祭りにあげられた。
だが快進撃はそこで止まった。
鼓関は関東側に二枚、関西側に二枚、合計四枚の南北を塞ぐ壁がある。王師中軍が制圧したのは関東側の一番外の城壁だった。
バアルはまだ味方がいるのも重々承知で、関東側内側の壁にある門を非情にも閉じたのだ。
ついでバアルと共に先に帰還し、しばしの休息をとることができた兵の尻を叩き、城壁や塔に上げて、火矢を放たせた。
火災になって城壁間にある各種施設、備蓄食料、秣、軍馬を全て失うことになるかもしれない、さらに炎上が続けば鼓関全てが燃え落ちてしまうかもしれないが、鼓関を陥落するかという非常事態なのだ。選択の余地はなかった。
火矢は一瞬で建物に燃え移り、闇に潜んでいた関東の兵を浮かび上がらせる。
バアルは部下たちに命じ、壁の上より一方的に弓を射させた。しかも普通このような距離では矢戦は起こらないという近距離だ。面白いように当たる。
そのうちの一矢がアエティウスの腕に突き刺さる。
「若!!!」
ベルビオの声が響く。
「大げさな声を出すな、腕をかすっただけだ」
アエティウスは大声で返事をすることで、なんでもないことを周りにアピールする。
だが、矢は腕を切り裂いたのか袖は血で濡れていた。
ここが退き時か。目の前に立ち塞がる完全に閉ざされた鉄扉にアエティウスは臍を噛む想いだった。
だが今我らが相手している将を考えると長居は無用かもしれない、と思い直す。
味方がまだ居るという中、門を閉め味方もろとも火攻めにするとは実に冷血な指揮官だ。だが現状を考え冷静に判断したとも思う。敗北という劣勢な情勢で将として冷静な判断が出来、情に囚われることもなく冷血でいられるというのは名将の条件の一つである。敵がそういった判断ができる将だとするならば、こちらもそれに合わせて冷静に判断するべきだ。
ここまで攻め込んだのだから、もう少しあがいてみようなどという未練がましい深追いは危険だ。
「ここまでだ! 被害が大きくなる前に退くぞ! ベルビオ援護しろ!」
「了解でさぁ、若!」
その間にも矢は関東勢に降り注ぐ。矢の雨が降りしきる中、ベルビオはその特徴ある大声で退却を告げて回る。ベルビオが最後の兵を連れて門を抜けるまで、アエティウスは外門の側に立ち、矢を放って援護を続けた。ザラルセンほどではないがアエティウスの弓も三人引きの強弓だ。
ふと城壁の上に立ち、兵たちを指揮している立派な鎧の男と目が合った。
あれが『七経無双』で高名なバルカだろうか。銀髪の二十歳くらいの男だった。まず間違いないところであろう。なるほど噂どおりの色男だ。
向こうもベルビオを目で追っていたのか、その先に立つアエティウスと目が合う。
アエティウスは悪戯っぽく笑うと馬上で剣を立てて目の前に構え、礼を示す。
激戦の中、敵将からの挨拶という想像もできない出来事に一瞬驚き半歩後ずさったバアルだが、射撃を止めさせ、優雅に笑みを浮かべるとそれに対して深々と揖礼で返礼した。それを見るとアエティウスは高らかに笑い、鼓関を背に暗闇の中へと馬を走らせていった。
「どうして矢を止めたのです! 敵将を討ち取れるやも知れませんのに!」
鼓関で留守を預かっていた将の一人が咎めるような口調でバアルに言った。
「いいのだ。ここまで離れてしまっては矢を放っても無駄であろうよ。それより消火と怪我人の救出を急げ。まだ息があるものは助けてやりたい」
死んだ兵から見たら、兵を見捨てた将軍がいまさら何を言っているのかと憤慨するだろうと、バアルでも思う。だがあれ以上門を開けておけば疲れきった関西の兵に待ち受けているのは全滅でしかない。そうなったら関東に鼓関を取られてしまう。関西に攻め込まれ、大勢の民草の命が奪われるかもしれない。そう思ってやむなく見捨てたのだ。けして本意から見捨てたわけではない。
だが先ほどの将はそのバアルの言の一部を取り上げ、また咎めた。
「追撃せぬので!?」
「馬鹿は休み休み言うが良い。強行軍で戦場まで急ぎ、激戦を戦い、困難な退却戦を戦った我等にこれ以上の余裕がどこにあるというのか」
追撃どころか、とバアルは思う。四、五日は疲労で兵としては使いものにならないだろう。
それを聞いても苦い顔でバアルを見る将をその場に残して、バアルは配下の諸将を連れ、城壁を降りた。
先ほどの金髪の年若い貴公子を思い出す。
あれは王だろうか、ダルタロスの長、王の寵臣アエティウスだろうか、関東王師にその人有りと知られた『陥陣営』エテオクロスだろうか。
いずれにしてもその敵将は、激戦を戦い抜き、敗北する兵の尻を追い駆け、鼓関を陥落できるかという努力をバアルによって徒労に終らされた。だのにその憎むべき相手であるバアルに敬意を表する余裕があるとは! いやはや関東には大した漢がいるものだ。
だが、敵のことを考えるのはこれ位にしておくべきだ。
バアルは軍監を呼ぶと着到状を持ってこさせた。死者と怪我人の数、失われた軍備の量、鼓関の被害状況の確認を命じる。気に入らない相手ではあるが上将軍グナエウスと今後の対応も検討に入らねばならぬだろう。敗軍の将にもするべきことは山ほどあった。
翌日の昼に帰ってきたアエティウスはやけにさばさばしていた。
「敵を追って中には入れたのですが、反撃にあい鼓関は落とせませんでした」
「今回は関西の出鼻を挫いた。それでいいんじゃないかな?」
有斗はそういってアエティウスの健闘を労った。
なんせ鼓関は関東が五十年に渡って破れなかった難攻不落の要塞。そんなにすぐに破れるものではないだろう。今回はこちらの損害も少なかったし、それでよかったんじゃないかなと思う。一度に問題が全て片付くことなんてないだろうし。
兵を収容した王師はゆっくり慎重に鹿沢城に戻る。幸いなことに追撃はなく無事に鹿沢城に入城する。
鹿沢城に帰った有斗を待っていたのはアリアボネだった。紫の長い髪と白を基調とした官服が彼女の持つ美しさを更に照らし出すかのよう。むさくるしい戦場に居た有斗には一服の清涼剤のように眩しく映る。
「陛下。御戦勝をお祝い申し上げます」
「ありがとう。でもこれは策を具体化してくれたアリアボネやアエティウス、困難な囮を引き受けてくれたエテオクロスのおかげさ」
僕が感謝の意もこめてアリアボネの手を取ると横から茶々が入った。
「うんうん。少しはお前も謙虚さが出てきたな。その初心を忘れないことが何よりも大切だぞ」
と謙虚さの欠片もない例の赤い女が言った。
そのアエネアスと有斗のやり取りにアリアボネが口を押さえて笑みを隠す。この二人はいつもそう。外から見ていると仲がいいやら悪いやら。
有斗はアリアボネがいるのに珍しくアエネアスに積極的に話しかけた。
「アエネアス、アエティウスのところに行かないの?」
「お前に言われるまでもない。今行こうと思っていたところだ」
「早く行ったほうがいい。アエティウス怪我してるよ」
アエネアスは口をぱくぱくさせると一瞬静止する。
「なんだと!!」
大声でそう叫んだかと思うと今にも泣きだしそうな顔をして、有斗にもアリアボネにも挨拶することなく走っていった。アエティウスの怪我と聞いて心に余裕がなくなってしまったのだろう。
そんなアエネアスを何故か嬉しそうに見ていた有斗にアリアボネは心配そうに訊ねる。
「・・・陛下。アエティウス殿の怪我はどのくらいで?」
「矢で上腕を少し切った程度だよ、安心して。毒はなかったし、もう血も止まっている」
「まぁ・・・それでは何もあんな言い方をしなくても・・・きっとアエネアスは心臓が止まるような思いを抱いたはず」
少し非難するような口調だった。それに対して有斗は反論する。
「いつもやられっぱなしだもの。たまには僕がアエネアスに対して少しくらい口で復讐したって神様は許してくださると思うよ」
「・・・お人が悪うございますよ、陛下」
言葉で聞くと非難しているような言葉。だけど口調は笑いを含んでおり、どことなく優しげだった