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紅旭の虹  作者: 宗篤
第三章 驚天の章
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西からの凶報

 南京に戻った有斗の元に、二つの知らせがほぼ同時に入ってきた。いい知らせと悪い知らせである。

 いい知らせとは、オーギューガ家が有斗の援兵の頼みを何の見返りもなく引き受けたことである。

 これにより、カヒは領国防衛の必要に迫られた。カヒが畿内に足を踏み入れながら、大慌てで兵を帰さなければいけなかったわけはここにあった。


「坂東の田舎武者である我々が陛下から直々に勅命を下されるのは名誉なこと。一身の光栄これに過ぐるは無し。それに陛下が辞を低くしてまで頼まれたのに、関東の無勢を軽んじ、カヒや関西の多勢に躊躇(ちゅうちょ)し助けぬなどと言われては、末代までの恥辱。先祖から脈々と築きあげた栄えあるオーギューガの名前に泥を塗ることになる。直ぐに兵を起こしましょう」

 そう快諾したそうだ。

 使者が『有斗が望みの官位や官職があれば遠慮なく言ってほしいと言った』ことを伝えると、

「年老いて多病です。中央府に出て宮仕えなど勤まりますまい。それに先祖が朝廷にいただき、長年我が一族が名乗っている従五位下、霜台(そうたい)少弼(しょうひつ)の官位で結構」

 と、一切の官職や官位を拒否した。

 ならば河北の地を割くか兵糧だけでも朝廷に負担させようと、さすがに家臣が提言したらしいが、

「元々、(われ)とカヒは共に天を戴かぬ仲である。頼まれずとも戦う相手である。領土も金品も不要である。我がオーギューガ家の者は金や名誉の為に戦うわけではない」

 と一言の元に断ったということであった。

 世の中にはマシニッサみたいな他人を踏みつけ奪いとることに何の痛痒(つうよう)も感じない私利私欲の権化のような人物ばかりでなく、この戦国の世にもテイレシアのような正義などと言う一文の得にならないようなことを平然と行う人物もいる。人間捨てたものではないな、と有斗はつくづく思った。


 それに反して悪い知らせとは敗北の知らせである。

 王師右軍が関西の兵に完膚なきまでに敗北したという。王師右軍は七千、鹿沢城守備隊は二千もの兵を一度に失った。

 敗北はまだいい。負けは兵家の常、どんな名将であれ人生一度や二度は負ける。

 だがこの敗北は極めて重かった。銃も大砲もないこの時代、負けたほうでも普通の戦なら損耗率は二割にも満たないのが普通なのである。一回の戦闘で七割もの兵を失うなどという事例は聞いたことがない。

 それほどバアルの取った側面奇襲と包囲殲滅が完璧だったということだ。

 単に数だけの問題ではない。その中に一人の指揮官、六人の旅長が含まれており、そしてなにより痛いのは七十二人の優秀な百人長を失ったことである。

 戦場で兵を直接指揮する百人長こそ王師の背骨とも言える存在。一、二年軍務を勤めたぐらいで百人長を務められるものではないのだ。十年以上のキャリア、何人もの仲間を失い、幾度もの死線を越えてこそ、初めて一人の百人長が生まれるのである。

 これは関東と関西のパワーバランスを大きく変える出来事であった。王師一万は諸侯の兵二万に匹敵するのだから。

 追撃を免れた残兵は辛うじて鹿沢城に辿り着いたものの、いまや鹿沢城には右軍三千、守備隊三千しかいないのである。鹿沢城を守ることくらいは出来ようが、関西がもし本格的に出兵した場合、それを防ぐ術がないのが現状である。

 アリアボネから有斗に至急鹿沢城に戻って欲しいという書簡が届く。

 有斗は南部の諸候の軍は解散させ、中軍を急ぎ反転し鹿沢城へと馬を向ける。


 アリアボネはもちろん、自分の権限内でできる手は全て打っておいた。

 長年、関東の朝廷は関西、河北、河東、南部に備えて街道沿いにいくつもの城砦を築き、いつ攻め込まれても即応できるように軍を駐留させていた。

 だが有斗が王となってより、河北と南部に備えるための城はもはや必要ないものといってよかった。

 アリアボネはそれら余剰の城や駐留兵を徐々に廃止にしていくつもりであったが、王師右軍と鹿沢城守備兵が壊滅した現状では、そんな悠長なことを言っている場合ではなかった。集められるだけの兵を急ぎ鹿沢城に集め、失われた兵を補充し、関西に対抗できるようにしなければならない。

 新兵を集めてもいいが、今は国力増強の時機、なるべくなら農村から人手を減らしたくなかった。

 それに、まさか関西との最前線に武器も満足に使えない新兵を配備するわけにも行かなかったのである。


 ここに一人、その命令を受けた者がいる。

 その者の名はガニメデ。武状元、武榜眼、武探花と言った成績上位者ではなかったが武挙に受かり、かつては中央の軍にもいたことがあるというからには、それなりに将来を嘱望(しょくぼう)された将士であったはずだ。

 その頃の彼を知っているものならこう言うだろう。確かに美男子ではなかったが、野心と自信に溢れた目は爛々(らんらん)と輝いており、それが彼自身を照らしていた、と。

 だがそれから何十年もの時が過ぎた今、若い頃に二つほど失態を犯したガニメデは中央からはじき出されて、南部に対して設置されていた小さな城砦の司令官であった。

 司令官といえば聞こえはいいが、部下は百人ほど。直近の任務は三日前、農家の夫婦の(いさか)いを仲裁したことという閑職だった。

 彼のほうも万事先例処理の事なかれ主義。中央への報告を書くのも部下任せ。

 男の部下からは仕事をせず寝てばかりいるとこっそり中央に報告され、女の部下からは尻を触ると大不評。横のほうから伸ばした毛で、薄くなった頭髪を隠すように髪型を整えるという無駄な努力を毎朝することが、彼が一日のうちで一番熱意を持ってやる仕事だ、と部下に陰口を叩かれる始末である。まさに絵に描いたような駄目上司であった。

 そんな彼に一通の書簡が急遽王都よりもたらされた。

 本日をもってこの城砦は廃止される。後始末はこの書状をもたらした官が行う。砦守の任を解除する。ガニメデ卿は旗下の兵を連れて一日も早く鹿沢城に赴くこと、という内容だった。

 ガニメデはその書簡の最後に署名されている名前を見て目を見張る。

 そこには宰相アリアボネ・カシューシと繊細な字でかかれていた。

 突然、大きく欣悦(きんえつ)の声を発した彼らの書類上の上司に驚き、部下たちはいっせいに顔を向ける。

 そこには書類を握り締め嬉しそうに立ち上がったガニメデの姿があった。あまりの喜びに興奮したのか手に握られた書類はもはやくしゃくしゃであった。

 アリアボネと言えば科挙で榜眼(ぼうがん)になった秀才。しかも今は王の信頼がもっとも厚いと目されている政権の中枢にいる人物である。

 その人物からの直々の手紙なのだ、興奮するなとガニメデに言うほうが無理難題だった。

 こんな場末の城砦に、王師右軍が壊滅的打撃を受けたという重要情報は流れてきてはいなかった。

 だがガニメデにもわかった、何かは知らないが大事が起きたに違いないことは。そしてそれにこの自分の力を必要としている、そうガニメデは本能で感じ取った。

 何より喜ばしいことは、どうやってかは知らないが、アリアボネという高官が自分のことを知っていたことだ。きっとその眠っている才能を惜しみ、手を差し伸べたに違いない。

 もしかしたら神かも知れぬ。不遇をかこつ自分を哀れんで、神がその手をそっと優しく地上に伸ばしたのかもしれない。そうだ、自分のような軍事的天才をこの世に産み出したのに、神様がこのまま埋もれさせるわけがないではないか。

 ガニメデは生まれて初めて、信じることができなかった神に心の底から感謝を捧げた。毎日・・・いや、一週間に一回くらいはお祈りをしよう、と心に決める。

 実際は不要な城砦の指揮官たち全員に、同じ書状が送られていたのであるが。

 だが何はともあれ、ガニメデにとっては実に二十年ぶりのチャンスが訪れたのだ。

 今度は必ず失敗はしない。爵位を得て、やれ稼ぎが悪いだとか、子供の面倒を見ないだとか、いつも文句ばかりを言う妻に目にものを見せてやるのだ。突き出た腹を撫でながら、ガニメデは一時幸せな未来予想図に酔いしれた。

 それを見て部下たちは眉を(ひそ)め首を傾げてこう思うのだった。どうやら昼に食べた魚が当たったらしい。生焼きは良くないと忠告しておいたのだが。

 こうして南部と河北との境にある城砦から全ての兵が集められ鹿沢城へと集結しつつあった。


 一方、王師中軍もあと数日で鹿沢城に達するところまで近づいていた。

 道すがら有斗はアエティウスに目下の懸念を訊ねる。

「ねえアエティウス」

「なんでしょうか、陛下」

「南部も河北も騒動が収まり、河東からの脅威も少しは遠のいた。残りは関西だけだ。これで一息つけると思う?」

 疑問形で聞いてはいるが、有斗の中ではやれやれ脅威は過ぎ去った、というのが本音である。

「難しいでしょうね」

 その有斗の楽観をアエティウスは否定する。

「え・・・? どうして?」

「今回のことは、しばしの休戦状態だった関西と我々、武装中立状態だったカヒと我々の間に戦端を開いたということに他なりません。一度兵を退いたとはいえ、カヒはまたきっと近いうちに兵を派兵してくるでしょう。壷関と鹿沢城との間でも関西との消耗戦が繰り広げられると考えるべきです。それに・・・我々は今、王師右軍をほぼ失ったと言ってよい。王師下軍もまだまだ河北から動かしたくはない。使える軍は王師左軍と中軍のみ。とすると、この包囲網が敷かれる前よりも今の我々は戦力的に劣っていると考えていい。つまり関西とカヒにしてみれば我々との戦争を止める理由がない」

「どうにかする方法はないの?」

「難しいです。関西かカヒと和平を結ぶか、どちらかの軍を完膚なきまでに叩きのめすか、壷関を陥落させるか・・・取れる手段はそんなところです。しかしどれも今の我々の戦力では極めて難しい」

「前途多難かぁ・・・」

 有斗は気持ちが重くなり口を塞いだ。


 王師中軍だけじゃなく、王師左軍にも鹿沢城行きの命令は出している。

 王師右軍だって三千だけになったといえども存在する。それにアリアボネが兵を集めて鹿沢城に送るとの連絡もあった。つまり合計二万を超える大軍が鹿沢城に集結することになる。

 関西といえども容易く手は出せないだろう。

 その間に王師を再生し、次の戦に備える。できれば壷関を落としておきたい。そうすれば壷関に将兵を込め関西からの攻撃を防ぎ、その間にオーギューガと手を握ってカヒを滅ぼすという手段が取れる。


 それにしても二度も関東の将兵を破ったバアルという男はどんな男なのだろうか。

 特に王師右軍を破った戦いぶりは凄まじい。兵をほとんど損ずることなく二つの戦合わせて九千もの将兵を葬るなど、アエティウスも聞いたことがないと驚いていた。

 アリアボネほどの策士ではないだろうけど気をつけねば、と有斗は思う。


 有斗はその男がこの世界最大の宿敵となることを、この時はまだ知らない。

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