在りし日の紅玉
それは午後の執務の暇な時間帯、アリスディアが忘れ物をしたとかで尚侍の自室に取りに行ったきり戻ってなかった時のことだ。
僕の部屋には僕とアエネアスの二人だけになった。いつもなら二人きりの空気がいたたまれないから、アリスディア早く帰ってきてくれないかなぁ、などと頭の中で数を数えて時が過ぎるのを待ち続けるだけなのだが、今日は違う。僕は最近疑問に思っていたことを解決しようと遂に思い立ったからだ。
「ねぇアエネアス」
「なんだウスノロ」
やった! ついにボンクラからクラスチェンジに成功したぞ!
「・・・」
日々扱いが雑になっている気がするが、それは僕の被害妄想じゃないよね? その呼び方はないと思う。それにいちおう王・・・のはずだし。せめてもうちょっとマシな呼び方を考えてもらえないものかな。
それは後々考えておくことにして、今はまぁ別の用件があるからな。
「アエネアスってアエティウスと結婚するの?」
僕を冷たい表情で見下ろしていたアエネアスは熟れた李のように真っ赤になったかと思うと、急にうろたえだした。
「な・・・いきなり何を言い出す!?」
どうやら僕の一言はアエネアスにとって不意をつく攻撃だったようだ。
「私が兄さまと、け・・・結婚だと? なんという馬鹿馬鹿しいことを・・・!!?」
「え・・・しないの?」
「あ・・・当たり前だ!!」
おかしいな。どう見ても二人とも互いのことが好きみたいな感じだったけど。
「アエネアスってアエティウスの従妹だよね」
「あ・・・ああ」
「こっちのことはよく知らないけど・・・僕の居た世界ではいとこ同士は結婚できるんだけど、こっちではできないとか?」
「いや、こちらでもできるぞ普通に」
「え? だったらなんでしないの?」
「なんでと言われても、その・・・困るんだが」
「二人とも互いのこと好きなのに?」
アエネアスは顔を更に真っ赤にして反論した。まるで茹で上がったタコみたいになっている。
「ま、ままままままた馬鹿なことを! ににににににぃさささまがががが、わわわわたしのことなどすすきなはずがなかろろろろろうが!?」
いや・・・たぶん好きだと思うぞ。
それにしてもわかりやすいやつ。アニメのキャラかお前は。夏でもないのに真っ赤になって汗だくの顔をぱたぱたと掌で扇いでいる。
少なくともアエネアスがアエティウスを好きなことはこのうろたえぶりを見る限りは確かだ。
「そ、それにだ。好きだからって結婚するとか、庶民はともかく貴族にはいないぞ」
「え・・・そうなの?」
「そうだ」
「貴族には爵位の継承権というものがある。他家の継承順位が高い女性がいればその継承権を狙って、結婚することは少なくない」
「・・ふうん」
「またこの戦国を生き延びるには婚姻は有効な手段だ。他家と同盟を組んだり、被保護下に入ったりするためには結婚するのが一番てっとりばやい。当主たるもの家全体を考えて行動せねばならぬ。ダルタロスほどの名家なら結婚するとしたらどこぞの高級官僚か大貴族のご令嬢とだ。わたしなどありえない」
「ふうん・・・じゃあアエネアスもそうなの?」
親が死んで兄弟のいないアエティウスに一番近い従妹だものな。
「・・・」
一瞬、鋭い視線が僕に襲い掛かる。だがすぐに元のアエネアス特有の人を小ばかにしたような表情に戻ると、ゆっくりアエネアスは口を開いた。
「私は妾腹、正妻の子ではないんだ。よって継承権など持ち合わせてない」
「・・・あ、ご、ごめん」
「あやまることはない、ダルタロスではみんな知ってることだからな」
皮肉げな口調で吐き捨てるようにそう言った。
「それに私は・・・」
そこからは口を少し動かしただけ。しばしの間、空白の時間が出現した。
話すべきかどうか迷ったらしい。
「・・・話したくないことは話さなくていいよ」
人には誰だって他人に触れて欲しくないものを心の奥にかかえているものだ。例えば、僕にとってのセルノアのことのように。
僕はそういったが、
「・・・どうせいつかは耳に入ることだ」
ひと呼吸を入れてアエネアスは続きを話し出す。
「実は私はダルタロスの者ではないかもしれないのだ」
驚きの言葉がアエネアスの口から出た。
・・・どういうことだ?
「私の母は娼婦だった。母が父の寵愛を受けていたのは確からしい。だからと言って私が父の種だという保証はなかった。なにせ娼婦だからな」
アエネアスはポニーテールのしっぽを掴んで僕に示した。
「それに、この髪・・・父はもとより、一族の中に赤い髪のものはいない。そして母の髪は藍色だったという・・・この緋色はどこから来たんだろうな?」
すこし自虐ぎみに言うと首を振って髪を後ろに戻す。
「母はある日、私を連れてきて、父に押し付けたらしい。そして姿を消した。一族皆反対する中、父は私を迎え入れてくれた。ほとんど記憶にないが優しい父だったと思う。よく絵本を読んでくれたことだけ覚えている。私に実の親子ではないかもしれないなどとは一片も感じさせなかった」
父のことを思い出したのか、アネネアスの顔は優しかった。
「だが9歳のときにみまかられた。そしてすぐに私は貴族の美しい部屋から、小間使いとして地下の薄暗い土間に追いやられた。昨日まで家族だったはずの者とは口をきくことも許されず、満足に仕事もできない子供の私には、ただ平伏し罵声をあびるくらいしかできることはなかった。新しく同僚となった小間使いでさえも、家内の雰囲気を感じたのか私を虐めだした」
そう、この世界では下の者は上の者の言うことを、どんな不合理であっても聞かなければならない。そのストレスは相当なものだ。それを全て幼いアエネアスにぶつけたのだ。
「私の心は荒んでいった。ひとりの味方すらもおらず心は閉じていった。それがますます周囲のものをつけあがらせ、私の生活は酷くなる一方だった」
それはどん底。今までの何不自由することのない生活から墜ちるだけ墜ちた、まさに闇の奥底だった。
「日々の食すら事欠くのに、私にはそれすら満足に与えられなかった。私の分は取り上げられ他の者たちが分かち食べていたのだ。空腹に耐えかねて、よく庭の草を口にしては吐き出したことを今でも覚えている」
その時のことを思い出しているのか握りしめた手は少し震えていた。
「力もなく味方もない私は彼らにとって格好のおもちゃだった。貧しさ、飢え、不安、不満、そういった鬱屈した感情をぶつける相手として、味方のいない私はちょうどよかったのだ。もしあのまま、あの暗闇で生活し続けていたら、性欲の捌け口にでもされ、そしていつか彼らの暴力で死ぬか、自身で命を絶つかのどちらかだっただろう」
僕はアエネアスの告白の内容の重さに言葉を失っていた。一言半句すら口から出すこともできなかった。
「・・・それを救い上げてくれたのは兄様だった」