平和の対価
突然、彼らの口から自らの名が出てきたことに有斗は目を丸くした。
「・・・王がいったいどうしたっていうんですか?」
思わず彼らの用件を聞く前に問い返してしまう。
自分が王であることを匂わせるような情報を与えたつもりは毛頭無かったが、まさかとは思うが自分が王であることが見破られたのかと有斗は思わず身構えた。
もちろん、それは杞憂である。
「陛下はせっかく世界を全て平定したのに退位なさるとか聞きました」
その口ぶりでは王はあくまでもこの場にいない第三者として存在していた。有斗は安心して会話を続けることができると少しばかり気を抜いた。
「全てを手に入れたったっていうのにね。実にもったいないことだよ。王はいたって風変わりな人物らしいね」
自分で言うのもなんだが、外から見れば相当な変人に見えるのだろうなと有斗は自嘲する。
せっかくアメイジア全てを手に入れた絶対的な最高権力者となったのだから、その権力のうまみを骨の髄までしゃぶりつくすのが正しい勝利者としてのあり方だろう。それを放棄していなくなるなんて信じられないことであろう。
もっとも命がかかっているのだから、有斗としては元の世界に帰るという選択肢は止むを得ないことだ。死ねば全てが終わりなのである。
だがここで問題が生じた。有斗が何気なく発したその一言が彼らのうちの一人の気に大いに障ったのである。
「風変わりとはなんだ! 陛下を侮辱するなんて許さん!」
若い青年、といっても有斗よりも年上っぽい雰囲気だったが、が有斗が王に対して尊重しない発言をしたことに激高して突然、飛び掛ってきた。
以前は農民が振り下ろす鍬にも怯えて腰が引けていた有斗だったが、長年の戦場往来ですっかり根性も鍛えられた。いくつもの修羅場を潜り抜けてきたのだ。
その青年は有斗よりも体格は勝っていたが、その程度の体、兵士ならばごまんといるのである。この程度のことなど、有斗にとってはもはや危機の内には入りやしない。
有斗は掴みかかってきた青年を体捌きであっさりとかわすと距離を取り、有斗を守ろうと近づいたアエネアスにめったな動きをしないように手で制する。
幸い、それ以上の大事にはならなかった。他の農民たちが取り囲んで、彼を押さえにかかってくれたのだ。
「これ! お役人相手になんて言葉を言うんだ!」
相手が役人だろうと無かろうと、いきなり問答無用で殴りかかってくること自体がよくないことなんだが、と有斗は思った。
「お役人だというならば、尚更陛下に対して無礼な態度を取ることは許されねぇはずだ!! 陛下は自分の為でなく皆の為に乱世を終わらせに異世界から来てくださったんだ! それを欲が無いだとか風変わりだとか・・・! こいつは何も分かっちゃいねぇんだ!!」
どうやら彼らにとっては有斗という王は、ちょっとでも否定的な表現を使うことが許されないような大層特別な存在であるらしい。
随分と持ち上げられたものだなと有斗は噴出したいのを堪えるのに必死だった。
もっともアエネアスやラヴィーニアあたりには詰めの垢を煎じて飲ませてやりたいものでもあるな、とも同時に思ったりもした。
その好意は好意として有難く頂戴するとしても、そもそも自分で自分のことをそう思うのだから不敬も何もない、問題など何処にも無いのではないだろうか。
まぁ、正確な身分を告げられない今、ここで揉め事を起こしても何も得することなど無い。
「これはどうやら僕が失礼をしたみたいだね。しかし弱ったな・・・別に王を貶める気など無かったんだけどな」
有斗はそう言って謝り、頭をかいて誤魔化そうとする。
一定の効果はあったらしい、多少不服そうな様子は残るものの、その青年もそれ以上有斗に対してきつく出ようとする気配は見られなかった。
場が落ち着いたことで、彼らもようやく本来の話題を切り出すことができた。
「陛下は退位なさって、わしらを置いて、どこか遠いところに行ってしまわれると聞いたのですが本当でしょうか?」
「そうだね・・・どうやらそうらしいよ」
有斗がそう言うと彼らの喉で一斉に息を呑む音が鳴った。
「やっぱり噂は本当だったんだ」
まるで自分に大いに関わることのようにおろおろと顔を見合わせ狼狽する彼らを有斗は不思議そうに眺める。
王が交代しても彼らの生活に一ミリの違いもないはずだ。王朝という組織はそういう風にできているのだから。
もちろんよほどの賢君から愚王、またはその逆に愚王から賢君に交代したときは別であろうけれども、有斗とセルウィリアにそれほど王としての資質に違いがあるわけではない。むしろセルウィリアの方が優れているのではないかなどと有斗などは思うのだ。
そんな有斗の考えとは違って、彼らはこの世の一大事が起きるとばかりに必死になって対策を協議していた。
「陛下が旅立たれる前に、早く王都へ向かわなければ」
「間に合わなくなったら大変だて」
彼らの慌てぶりに思わず有斗も余計な差し出口を入れてしまう。
「王都へ行ってどうするんだい? 王に陳情したいことでもあるのかな? それならば、まずは県の長官に訴えてみてはどうかな?」
もし彼らが王になんらかの事情を直訴したいというのならば、それが通常の手続きというものである。それに例え彼らが王都に上っても、王に直接訴える方法は無い。どの役所に行ってもほぼ門前払いだろうし、王城の衛兵も叩き返すだけだろう。
確かに民の意見を聞くことは王にとっても大切なことであるし、有斗だって聞きたくないわけじゃない。だが現実問題として、一つでも民の意見を直接聞きでもしたら、我も我もと次々と王都に陳情者が列を成して群がることになるだろう。
そんなことになったら王はいったい何時寝ればいいというのだ。今現在でも王の仕事は手一杯であるのに。
だから聞きたくても聞くわけにはいかないということになる。ということは彼らが王都に向かうことは残念ながら無意味なことになるに違いない。
だからそれは彼らを突き放したということではなく、どちらかというと彼らに対して好意的な発言だった。
だが彼らはそんな有斗の好意から発した言葉にも聞く耳を持たなかった。
「それじゃ間に合わない! 例え我らの上奏文が取り上げられても、王都にそれが運ばれるころには陛下がいなくなってしまう!」
「今の王には間に合わなくても、次の王には間に合うよ。次の王は賢君だよ。大丈夫、どんな困った問題が君たちに持ち上がっているかは知らないけど、きっとよいようにしてくれるさ」
セルウィリアに対して太鼓判を押す有斗の言葉にも、彼らは納得してくれなかった。
むしろ官吏として恵まれた生活をしているあなたは何も分かっていないというふうに首を横に振って溜息をつかれる有様だ。
「戦が終わっても我らの生活はまだ苦しい。食うや食わずの生活で毎日かつかつで生きています。それなのに官吏が来て、何やかやと理由をつけて訳の分からぬ夫役を科したり、賦税を求めたりすることだって後を絶たない。だけど以前のようにわがまま勝手に搾り取るだけ搾るといったことは無くなりました。地方の役所や公の府に訴えれば悪い官吏は処罰される。もちろん罰せられないことも多々ありますが。だが少なくとも訴えることはできます。前は訴えればその当の役人から手酷い返礼を覚悟しなければなりませんでした。だが今はそこまでのことはない。兵が田畑を荒らすことも略奪することもなくなりました」
「はぁ・・・」
農民の大変さは有斗も承知している。もちろん彼らと暮らしたことは無いからその知識は表層的なものであるが、それでも王として彼らを治める以上、勉強は十二分にしたつもりだ。知識としてはそれなりに持っている。
だがそれがいったい、有斗がアメイジアにいるうちに彼らが王都に行かねばならぬことと、どうやったら結びつくのか有斗には分からない。
「それに・・・この子らをご覧ください」
怪訝な顔を浮かべる有斗にそう言って彼が示したのは自分の子供であろう。年は上は三、四歳、下はまだ一歳かそこらといったところか。どちらも可愛い盛りである。
だが正直に言えば小汚い、どこにでもいる普通の農民の子供に有斗には見えた。
それがどうしたというのだろうか、と有斗は再び首を傾げる。
そんな有斗を見て、人見知りをし、恥ずかしそうに後ろに隠れる子供の頭をなでながら男は有斗に説明した。
「昔は子供が生まれても二人目以上は育てていけず、間引くのはあたり前だったのです。飢饉がおきるとその残された僅かな子であっても殺さねばならないことなど当たり前でした。実の親の手でです。私の兄弟も私以外は度重なる戦や飢饉で間引かれたそうです。百年前、二十近くあったこの近辺の村は今は僅か五つ。しかもその二つは屯田法で陛下が作られた新しい村です。戦国という時代はそれほどまでに我ら民を食い荒らした。我らは今でも貧しい。だけど貧しいながらもなんとか暮らしていけるようになりました。畑を荒らす兵士も荒民も姿を消し、幾人もの子を飢えずに育てていけるようになりました。ひもじくても飢えずに生きていけるのです」
そこに並べられた言葉は王が毎日、目にする上奏書には決して書かれていない真の地下の実態を表していた。
何故なら官吏の報告書のように有斗におもねって機嫌を取り、歓心を買う必要が彼らは有斗に言う必要が無いからだ。だからその言葉は紛れも無い正真正銘の賛辞だった。
「それもこれも陛下がこの世を平和にしてくれたからです」
有斗にとってはこそばゆいくらいの賛辞が続いた。だが彼の口から出てきていた有斗への感謝の言葉が突然そこで変転する。
「ですがその陛下はわしらを捨てて違う世界に行ってしまわれる」
「・・・・・・」
有斗は突然、自分が大切な人を置き去りにして逃げるような悪者になったように感じられて思わず口ごもった。
「でしたら、わしらも陛下の向かわれる世界に連れて行って欲しいと思っておるのです。それを嘆願しようと、わしらは皆で話し合って決めたのです」
だが彼らは有斗が元の世界に帰ることを格別責めているわけではなさそうだった。
「あの陛下を必要とする世界なのですから、きっと昔のここと同じような酷い世界なのでしょう。いやもっと酷い世界なのかもしれません。でも、陛下がそこに行くのならばわしらもそこへ行きたいんです。あんな王様はめったにいない。村の古老に聞いても、そう言います。古い物語の中にもこんなにも民の為に色んなことをなさった王様はいないそうです。わしらはあの王様のいないこの世界で暮らすより、どんな世界であっても共に生きていきたいのです。それにわしらは陛下に恩返しがしたいのです。わしらはこの通り、財産も無ければ大した力も無い貧しい農民ですが、それでもきっと何かのお役に立つことはできます」
彼が話し終わるまで、有斗は一言も言葉を発しなかった。
いや、発せなかったのだ。
彼らは目の前の人物が王であることを知らない。であるならば彼らの発した言葉は有斗を喜ばすために発したお世辞やおべんちゃらではなく、彼らの心の奥底から湧き上がる、魂が放った真実の言葉に違いない。
その言葉が有斗がこれまでしてきたことを、彼らのような何処にでもありふれている名も無き民が認めてくれていると告げていた。
直接的な接点がまったくといっていいほどない彼らが、これほどまでに有斗を王として慕ってくれると知って、有斗は胸を大きく打たれたのだ。
有斗は胸がいっぱいになって言葉を発することができなかったのだ。
そんな何かに取り付かれたかのように固まったまま動かない有斗を不思議そうに見つめる子供の視線に気付いて、ようやく有斗は我を取り戻す。
心の中から沸き起こった時ならぬ感情をのど元へとようやく押し込み、有斗は笑みを浮かべて彼らに諭すように優しく語りかける。
「・・・王はきっとそんなことを望んでないと思うよ。王は民が安全に豊かに暮らしていけるような世界を作ろうと戦い続けたんだ。君たちがこの地で安全に、そして平和に、家族揃って暮らしていくことこそが王が本当に望んでいることだと思うよ」
「しかし・・・!」
「王と共に見も知らぬ世界に行こうと思ってくれる・・・その気持ちだけでじゅうぶんさ。きっと王は満足すると思う。この世界を平和にしただけの甲斐はあったと、笑って元の世界に帰還することができるだろうね」
有斗はそう言うと拱手して頭を下げると足早にその場を立ち去ろうとする。
その後を慌ててアエネアスが追いかけた。
農民たちは立派な着物を着た、偉い役人と思われる男が自分たちただの地下の民に拱手し頭を下げたことに驚いて、有斗を追いかけることを思いつかないようだった。
有斗はただ無言で歩き、彼らの姿がもはやどこにも見えない場所にたどり着くと、川縁の土手に座り込んだ。
ふと瓜を手にしたままだったことに気付く。結局ただで貰ってきたという形になってしまった。
今更、返しに戻るというのも何なので、ありがたく頂戴することにした。瓜を川の水で洗うと小刀で切り裂いてかぶりつく。
そんな有斗の横にアエネアスも座ると、同じように小刀で瓜を切り分けた。
二人は無言で瓜を食べた。
先程から黙ったままで、少し様子がおかしい有斗を気遣い、アエネアスは横目でちらちらと様子を窺う。有斗は少し震えていた。
「どうした? 有斗?」
心配して顔を向けると、そこでは有斗が瓜を食べながら泣いていた。声も立てずにただただ涙を流していた。
アエネアスはドン引きした。
「食べながら泣くなんて気持ち悪いな! 何を泣いているんだよ!」
「だって・・・自信が無かったんだ。僕は王として全身全霊をかけてやり遂げたとは胸を張って誓えるけど、それが果たしてこの世界にとって本当に良いことだったのかということになると、それは自信が無かった。僕は所詮この世界では異邦人だ。この世界での普遍的な正しさを知悉してるわけじゃない。百官は僕を天与の人だ、偉大な王だと褒め称えてくれるけれども、それは僕がアメイジアを治める王だから、彼らの上に立つ存在だから言ってるに過ぎないのかもしれないとも考えてしまう。でもここにいる彼らは僕が王であることを知らない。その彼らが僕がやったことに皆が喜んでくれている・・・これほど感謝してくれている・・・この世界に来て良かった・・・僕は初めて、そう思った」
有斗はそう言って手にした食べかけの瓜を見つめる。
有斗が手に持っている瓜はただの一つの食べ物ではない。
それは瓜一つ盗もうとしただけで他人の命を奪おうとするほど荒廃していた人心が、見知らぬ他人に瓜を分け与えることができるような余裕を心に持つようになっていたことと、命と等価値だった作物が見知らぬ他人にただで分け与えることができるほどにまでに収穫でき、ありふれたものになったことを表していた。
それこそが有斗がアメイジアで成し遂げたことだったのだ。
正直言えばそれほど欲しかったわけでも、美味でもなかったその瓜だが、それを手にしたことこそが、有斗にとってこの世界を平和にした報酬のようなものなのかもしれないと思うと有斗は無性に嬉しかった。その少し汚い、歪んだ瓜が何よりも尊い物にすら思えた。
かつてそれを手にすることができずに鍬をもって追い払われたことを考えると尚更そう思った。
そんなアメイジアに来てからの色々な積み重ねがもたらした涙なのにアエネアスは冷淡だった。
「だからって泣くやつがあるか、男だろ。それに有斗、まだ気付いていなかったのか。本当に・・・ほんっとうに鈍感なやつだな」
アエネアスは呆れた目をして有斗を見、溜息をついた。
「鈍感で悪かったな」
長い付き合いになるアエネアスなのに、そんな自分の心情をちっとも理解してくれないと思って、有斗は思わずいじけた。
そんな有斗のふてくされた態度を見てアエネアスは何故か大きく笑った。
「そこまで鈍感だとは思わなかった。ついでに気付いてないかもしれないから言っておくけどさ。有斗が来てくれてよかった。王になってくれてよかった。この世界に産まれた者なら今、誰もがそう思っている。そう思ってない者など一人としていないさ」
そうだろうか・・・と有斗はアエネアスには珍しい有斗を喜ばし励ますようなその言葉に却って気持ちは暗くなる。
有斗が来なければ死ななかった人たちはどうだろうか?
天下一統の名の下に多くの戦をした。大勢の将士を死に追いやった。その幾倍もの敵兵だって。
その当人や家族、関係者にとって有斗とは、単なる死をもたらすだけの疫病神に過ぎなかったのではないだろうか。
もし死後の世界があるのならそこで聞いてみたいことが有斗にはたくさんあった。
救世主への想いを利用し彼女の純潔を奪い、そして有斗の身代わりとなって死んだセルノアは、天与の人などではなく唯の学生にすぎず、本当は偽者の救世主だった有斗のことを許してくれるのだろうか?
それに何より・・・アエネアスだって本当はそう思っているんじゃないのか、と有斗は疑っていた。
有斗がいなかったら、いや、南部に来さえしなければアエティウスは生きていたはずだ。
限りなく可能性は低いが、それでも、もしかしたら・・・二人は結婚していたかもしれない。
いや、そうでなくても生きてくれていれば彼女の心はもっと満たされているのではないだろうか?
今日も『大好きな兄様』と一緒に過ごしていたはずなのだ。今よりもっと幸せではないだろうか?
その幸せを奪ったのは有斗だった。有斗はどうやってアエネアスに償えばいいのか正直、今でも分からない。
「アエネアスも・・・?」
「ん・・・?」
「アエネアスも僕がここに来てよかったと思う?」
有斗は恐る恐るアエネアスに訊ねる。
アエネアスは有斗に振り返ると、今まで有斗が一度も見たことがないような輝やかんばかりの笑顔でその問いに力強く答えた。
「もちろん!」
・・・
有斗はもう一度、この世界に来て本当に良かった、と強く心の底からそう思った。