側の席
アリスディアがいなくなっても朝廷も後宮も何事も変わらないかのように、今日も正常に営まれている。
有斗にとってはそれが何よりも堪えた。ひょっとしたら、アリスディアと今生の別れを行ったことよりも、そちらの方がショックだったかもしれない。
あれほどの人がいなくなったというのに、全ては何の滞りなく過ぎ去っていくのだ。まるでアリスディアという存在など最初からこの世界になかったかのように。
それは世界という大きな枠組みを目の前にすれば、一人の人物の存在など何ほどのものでもないというあたりまえの現実を表しているのかもしれないが、なんと残酷で非情なことだろうか。
ひょっとしたら・・・と有斗は思う。
有斗がいなくなったとしても何一つ変わりなく、一旦、平和へと舵を切り出したこの世界は、そのままの方向へ動いていくのではないか。
思えばアリアボネやアエティウスが死んでも、世界は何一つ変わりなく動いていたということを今更ながらに実感する。もちろん有斗はそれによって苦労もしたし、それがとても悲しい出来事であったことは間違いなかったのだが。
だが、朝廷と後宮という王朝の屋台骨を支えていたアリスディアを無くしてすらこうなのである。自分だけが例外であると考えることは、ちょっとばかり手前勝手な考え方に他ならないのではなかろうか。
だとしたら、自分は何のために、この世界に呼ばれ苦労しなければならなかったというのだろう。いや、人というのは何のために生まれてきたのだろう。
そんな厨二的な考えに浸らねばならぬほどに、有斗は大きくショックを受けていた。
幸いにしてというべきか、不幸にしてというべきか、有斗には物思いに耽っていられるような時間など与えられなかった。教団の後始末のことも含めて、やらねばならぬ日々の業務が山ほどあったからである。
中でも、施行されてしばらく経た新法が現実との間に生じた乖離に対してどう修正するかといった問題や、旧法との間で起きた衝突にどう折り合いを付けるかといったことが一番の急務として目の前に立ち塞がっていて、それの対処に時間を取られた。
今までは戦いに次ぐ戦いで忙しい王に遠慮して、官吏が棚上げしていた問題が一度に持ち込まれてきたということのようだ。
有斗がそうやって大量の仕事に埋没している間に月日は流れた。
その日、まだまだ多くの仕事が残っているのに、一枚の書簡を眺めたまま身じろぎもしない有斗に脇から声が掛かる。
「何を悩んでおられるのですか?」
明るい橙色の髪がふわりと声と共に宙を舞った。有斗のすぐ横の椅子に座っているセルウィリアが有斗が悩んでいると見て声をかけたのだ。
その場所は、その椅子の前にある机の上に地方や中央省庁からの各種上奏文などを分類して積み上げ、その書簡を滞らせることなく、緊急度合いも加味しながら優先順位を判断し、いつまで経っても草書の読めない有斗に代わって書簡を読むという役目を果たしていた人物、つまりアリスディアが座るべき場所だった。
アリスディア去りし後、先任の典侍であるグラウケネが新任の尚侍となった以上、そこは本来ならば彼女が占めるべき席である。
グラウケネは長く有斗に仕えてくれていて、有斗にとっても気心の知れた女官であり、性格に問題もなければ、実力的にも不足しているところは見られなく、有斗との間になんら心理的なしこりなどがない以上、その席を占めるのは当然であるように思えるのだが、それにもかかわらずに何故、セルウィリアが有斗の隣に陣取っているかというと、それはセルウィリアが人の良い有斗とグラウケネに強引に頼み込んでその席に割り込んでしまったからだ。
それについて少し心配なところがないわけではないけれども、王として育てられてきたその見識と知識は確かに有斗の助けになるし、以前と違って国事にやる気を出しているところも見られるから、一度くらい試しにやらしてみようかという結論に達したのである。
何しろアリスディアが行ってくれていた仕事量は半端なものではなく、グラウケネ一人で賄いきれるかどうか大変心配だったのだ。
ともかくも、そのセルウィリアが有斗が悩んでいるのを見かけて、声をかけたというわけだ。
「ん~と、この上奏文なんだけど・・・これで三度目なんだよ。しかも半年に一回の定例報告じゃない上奏なんだ。何かが彼を駆り立てて上奏文を書かせていると思うんだけど、それが何かがわからない」
「三度もですか・・・ところで同じような上奏文が来たことにお気づきになられていたのに、それを取り上げようとなさらなかったのは、どういうご判断に基づいておられたのでしょうか?」
「一度目と二度目は定例の報告文の形だったから取り上げなかった。それに中身がちょっと・・・というか、よく分からないんだ。理解できない」
「下級官からの上奏は往々にして要領を得ない、王におもねるような、分をわきまえないものが紛れ込んでいるものです。複雑にお考えにならずに、討ち捨て置いても構わないと思いますのよ」
「彼はたしかに官位は高くない。でも今は地方官だけど、吏部、弁官、中書と宮廷の中枢を渡り歩いている男だ。吏部尚書も見識の優れた得がたい人物だと言っていた。それだけにこの書状は何か重大な意味があると思うんだけど、何度読んでも何がいいたいのかわからない」
「どのような上奏ですの?」
「彼の持ち場では今年の収穫も去年に続く豊作で、万民が喜んでいて・・・これも陛下の御聖徳の賜物、願わくば、祭礼を行うことを許可されたく伏し願い奉らん・・・確かそんな感じだったかな」
連年の豊作は農民が農作業を大過なくやり遂げたことと、気象条件に恵まれただけで、別に有斗が何一つしたわけじゃない。
どことなく王に媚を売るようなその文面に有斗は不快に顔を顰めたものだが、それが二度も三度も来るとなっては不快というよりは、むしろ不思議で不気味ですらある。
「・・・問題がなさそうな上奏文ですね。確かに不思議です。わざわざ上奏で知らせるものでもなさそうですし・・・」
「そうなんだよね。しかも関西の彼の赴任地はここ三年、旱魃による凶作にあえいでいると国司からは報告を受けている。その為に坂東遠征でも教団との戦いでも兵糧や夫役の負担を課さなかったくらいだ。つまり言っていることがバラバラなんだ」
「関西の・・・どこなのですか?」
「えっと・・・サルドゥイエという場所だね」
「サルドゥイエと言えば関西の王領の一つですね。西京を支える穀物地帯の一つです」
この王女様の一番の凄いところは類まれなる美貌でなくてここだと有斗は半ば感心し、半ば羨望する。
セルウィリアは地名と人名にかけてはずば抜けた記憶力を有するのである。
以前、有斗の下に関西から来て中書に配属になった下級官吏がラヴィーニアの代理として書簡を有斗の部屋まで届けに来たことがあった。
もちろん王に謁見や直答ができる身分ではないので、本人は神妙に下を向いて押し黙っていたのだが、その下官にセルウィリアが見覚えがあると確認の為に名前を呼んだら的中したのだ。
言われた当人は関西でも身分は相当下のほうで、中書の下官として、その他大勢と共に、通り一遍の任命式を行ったときにセルウィリアとほんの僅かな時間、顔を合わせただけである。
本人は元とはいえ、女王陛下に覚えてもらっていたことをいたく感動していたようだ。
聞けばそれは、幼い頃から独特の記憶強化術なるもので訓練してきた成果だと言う。上に立つものはこうでないと勤まらないのであろう。
この点、有斗はあきらかに王様失格で、未だ近辺に侍る全ての女官と羽林の名前すら全て覚えていない。
そのずば抜けた記憶力が有斗が言った言葉の中に、有斗がまだ気付かぬ矛盾を探し当てていた。
「・・・それはおかしいですね」
「何故?」
「サルドゥイエという地は南に山脈を抱え、数多の河川を有し、王領として富裕の地。私の知る限り、ここ五十年は旱魃などありません。あそこが旱魃になるのなら、関西全域で旱魃になるくらい水の豊かな土地です」
セルウィリアはそう言うと一瞬押し黙り、何事か考え込んだ。
「・・・あ・・・」
「何?」
「わかったかもしれません・・・旱魃の時は租税は減ります。実際に集めた租税と王に納める租税には差が出ます。誰かがその差分を懐に入れているということでは?」
「・・・それが本当ならそのままのことを書いてくればいいんじゃないかな?」
「陛下は甘いですね。中央への上奏はひとたび国司の下に集められてから中央に送られます。つまり国府にいる者ならば上奏をいつでも目にすることが出来ます。横領を働いているものが国司なり誰なり、もし悪辣な者なら公に非難しようとすれば、その前にその者の口を塞ぐに違いありません。それを恐れてかような婉曲な手段を取ったのでは? 一見すると、これは誰かを非難する文とは取られません。違う報告を上げていれば、いずれ国か王が不信に思って調べてくれることを信じてこうしたのではないでしょうか?」
「なるほど」
十分に考えられる線である。さすがは元女王、官僚的な物の考えに長けている。
「よし、按察使を送って、サルドゥイエで実際に何が起きているのか、密かに調べさせよう」
「それがよいと思います」
にっこりと微笑むセルウィリアに有斗は感謝の言葉を口にする。
「いや、本当にセルウィリアは熱心に仕事をしてくれるよね。助かるよ」
正直、アリスディアがいなくなっても、なんとか有斗の執務も後宮運営も滞りなく回っていけているのはセルウィリアがいてくれたからである。
意外なことにセルウィリアは精力的に有斗の補佐役を務めてくれている。
噂で聞いている関西での女王の仕事ぶりや、ここへ来た当初のセルウィリアを思い出したら、この国を支えるという重責を伴う仕事に対する意識の変化は目を見張るばかりである。
意識だけでなく、その知識といい判断力といい、十分にアリスディアがいなくなったことで生じた穴を埋めるだけの働きをしてくれている。
「いいえ。陛下のお役に立てるのでしたなら、本当に嬉しい。このセルウィリア、これにすぐる喜びは他にありませんもの」
自身の意見が入れられたことで、改めて自身が王の一助となっていることを実感し、セルウィリアはこれ以上ないほどの幸せを顔一面に表現して有斗に微笑んだ。
可愛いなぁ・・・本当に可愛い。これでアリスディアがいなくなったことで傷ついた有斗の心を少しは癒してくれる・・・気がする。
まぁ、ただ単にとてつもない美人に好意的に接してもらったことで男の下心とやらが刺激されているだけかもしれなかったが。
「でも・・・本当に僕の手伝いをしてもらっていいの? 結構、大変な仕事だし、関西の王女様にこんなことをさせているのもなんだか悪い気がするし・・・」
「わたくしが自分の意思で陛下のお手伝いをしたいと思っているのです。陛下がお気になさることはありません。それに今のわたくしはただの一人の女、女官たちと同じように如何様にもお使いくださいませ」
「セルウィリアには主に書類の朗読と代筆をお願いすることになるから、僕が執務を取っているほとんどの時間、いてもらうことになるよ。なるべく頑張って、そういった仕事は深夜に回さないようにはしようと思うけれども・・・それでも、どうしても夜遅くなることはどうしても出てくる。王の仕事は時間が来たからと言って後回しには出来ない種類のものが多いんだし」
「陛下、わたくしも関西では一国の主でしたことをお忘れでは? そのようなこと、わたくしとて十分承知しております!」
有斗の半人前扱いに不満なセルウィリアはそう抗議するが、
「でも、お肌が荒れるからってセルウィリアは夜の執務を行わずに早くに寝るって聞いたよ?」
と有斗に指摘されるとふくれっつらをする。変な表情なのにそれもまた大層可愛い。美人とは得なものである。
「もう! 昔のことは忘れてください! 今のわたくしは陛下の立派なお姿に感化されて、責任感が以前のわたくしとは段違いなんですから!」
と、これまた有斗の未熟な女王扱いに対しても抗議を行う。ということは責任感が無かったことは本人も認めていると言うわけだが。
「あはははははは、茶化すようなことを言って悪かったね」
笑ってごまかす有斗に合わせるようにセルウィリアも笑った。
「でも・・・お肌が荒れてお嫁にいけなくなったら・・・責任は取って下さいね」
この場合の責任とはどの程度まで取らなければいけないのだろう、そして逆に言えばどの程度のことまでセルウィリアは甘受するのであろうかと、有斗は少しドキドキした。