辞意
人目がありますからと耳打ちするグラウケネの言葉を無視し、動かない有斗を心配して差し出したアエネアスの手も撥ね退け、有斗は城壁に縋りついて涙を流した。
有斗は人であり、尚侍だったアリスディアとは親しかったことも事実。親しい人が死んで悲しまないというほうがおかしいとも言える。
だが王には王の権威というものがある。人前で泣き崩れている王を見て、改めて王も血の通った生身の人間であると好意的に見てくれる者もいれば、たかが一家臣の処分にこうも動揺するようでは到底、王の器ではないと否定的に見る者もいるのだ。
アエネアスと羽林の兵が女官と協力して、城壁に体を預けるようにして、しがみ付いて泣き喚く有斗を、複数人がかりで力任せに無理やり壁から引き剥がし、周囲をとり囲んで周辺の人目から有斗の姿を隠す。
「ここでは人目もありますし、お部屋に戻りませんか、陛下」
「泣くなよ、男だろ。それにいつまでも泣いてたって、何か現状が変わるわけじゃないぞ」
グラウケネやアエネアスが様々な言葉をかけて有斗を励まそうとするが、完全に精神を折られた形になった有斗は微塵も反応を返さない廃人状態になっていた。
アエネアスは腰に手を当てため息をつく。とうとう有斗を勇気付けることを諦めたようだった。
「仕方が無い。いつまでもこんなところにいて醜態を晒されては、いろいろと差し障りがある。連れて行こう」
屈強な羽林の兵に両脇を抱えられて有斗は引き摺り起こされた。有斗の空ろな目にもう一度刑場の惨事が映る。
「有斗、アリスディアの死体をあのままにしておいていいのか? 確かに磔刑は見せしめとして数日間晒し者にするのが恒例なんだが・・・いつまでも見世物にされているのはあまりにも忍びない。友として人目に触れぬようにしてやりたい」
有斗と違って磔にされたアリスディアを助けようと動かなかったくせに、全てが終わって、アリスディアが物言わぬ骸になってから、アエネアスはどうやらアリスディアとの間に友情とやらがあったことを思い出したらしい。
とんだ友情もあるものだ、と有斗は気分を大きく害した。
だけどそれは正論でもある。いくら国家の威信とやらのために役立つのだとしても、有斗だってアリスディアを見世物にすることは忍びない。
教団の最高幹部として王師の手によって処刑されたのだ。それでもう十分だろう。それ以上、アリスディアを傷つけ貶める必要は全く無いはずだ。
「ああ・・・そうだね。死んでまで見世物にするなんてあまりにも残酷すぎる。皆の目の届かぬところにアリスディアの死体を運んで埋葬して欲しい・・・」
有斗はそう己の希望を呟いた。あくまでも希望、命令ではない。
何故なら、どうせ命令したって朝廷の威信だなんだと屁理屈を付けて皆が寄ってたかって有斗の口を塞ごうとするのだ。命令などしても無駄なのだといった諦めの気持ちがあった。
「・・・・・・」
だが有斗の口から出た、命令とも願望ともつかぬ、その曖昧な言葉にどう反応したら良いものか分からず、女官も羽林も官吏も顔を見合わせて戸惑うばかりだった。
「まさか、これも朝廷の威信とやらの為にできないとか言うのか?」
返答が無いことに有斗は苛立ち、顔を上げる。
「・・・いえ、陛下がおっしゃるのならば、当然、そのように取り計らいますが・・・」
うろたえる一同の中、真っ先にアエネアスが反応した。
「バイオス将軍にアリスディアの死体を埋葬するように伝えろ、王命だ。急げ!」
何が王命だ。都合の良い時だけ僕の言葉を王命といって利用しているだけじゃないか。
僕が・・・王が心から望んだアリスディアの助命を様々な理由を述べて王命と認めなかったくせに、と有斗はすっかりいじけていた。有斗は今やアエネアスさえ信用できない気持ちだった。
有斗はグラウケネに支えられてようやく執務室に帰還する。
アエネアスも支えようと手を差し伸べたのだが、有斗はその手を振り払い、近づけようとしなかった。
王を人目に触れぬように囲んでいた羽林の兵や女官たちを持ち場に戻して、部屋の中に残ろうとしたアエネアスやグラウケネに有斗は手を払って退室を促した。
「出て行ってくれないか、一人になりたいんだ・・・」
「しかし、陛下・・・」
有斗のあまりもの憔悴振りに心配したグラウケネが残ろうとするが、その心遣いも今の有斗には、いらぬお節介に過ぎなかった。
いや、むしろ今の有斗にはそのグラウケネの行為すら、何らかの思惑を持って有斗を利用しようと親切めかしているだけなのではないかという疑惑を感じるほどだった。
ラヴィーニアが有斗を騙してアリスディアの命を奪ったように、何か別の目的の為に本心を隠しているのではないかと疑ったのだ。
有斗は今は誰の顔も見たくなかった。
「出て行け!!」
有斗は思わず机の上の文鎮を手に取ると、グラウケネに向けて力いっぱい投げつける。
幸いにしてそれはグラウケネに当たることは無かったが、壁に当たる前にグラウケネの顔のすぐ側を掠めていき、グラウケネは恐怖で顔を青ざめさせる。
文鎮は有斗のやり場の無い怒りを表していた。
これまで一度も見せたことの無い温厚な有斗のその常軌を逸した言動が、王の怒りの大きさをグラウケネらに思い知らしめた。
これ以上、有斗の怒りの矛先がグラウケネに向かぬように、アエネアスはグラウケネの手を取ると静かに部屋を出て行く。
一人、有斗だけが部屋に残された。
有斗は部屋の中でぼんやりとセルノアと分かれた後、あの永遠とも思えるような時間、思考の迷路の中で考えていたことについて再び考え直していた。
有斗はセルノアの想いを裏切らぬように天与の人になりたいと思った。
それがこの狂乱な世界に平和をもたらさなければならないと思った理由の一つであることは事実だが、それは二度とセルノアのような善良な人が理由も無く惨劇に巻き込まれることの無い世の中を作るためでもあったはずだ。有斗のセルノアへの贖罪の気持ちだけでは無かったはずだ。
有斗が天与の人になるために、朝廷の基盤を確かなものとし、信をもって世を治めるということを見せるために、こうしてアリスディアを犠牲にしなければならないとラヴィーニアは言う。
だがよく考えてみれば、それはおかしい。
有斗はアリスディアのような善良な人々を守るために、戦国を終わらす天与の人になると決めたのだ。天与の人になるためにアリスディアのような善良な人を殺すというのでは、いつのまにか手段が目的に摩り替わっているではないか。言われた時には気がつかなかったが。
これは根本的にどこかが間違っていると思った。そんな世界を作るために大勢の人を犠牲にして、敵味方の血を流して戦ってきたわけではなかったはずだ。
どこからか間違った選択肢を選んできてしまったのだと有斗は思った。もし、人生がゲームのようにコマンド分岐式のものであるとするならば、だが。
しかし悲しいことに有斗にはどこでどう間違いを犯したのか、どうやればその間違いが正されるのか分からないのだ。
有斗は自分自身に、そしてこの世界に絶望した。
「やめだ! もう王なんてやってられるか!!」
そうだ。元々、有斗はただの学生。王なんて柄じゃなかったのである。王になってすぐに四師の乱を起こされたことからだけでも、そのことがはっきりと分かるではないか。
有斗は全てを投げ出すことを決意する。王を辞めて、こんな腐った宮廷からおさらばするのだ。
王宮から出て行って、この世界でどうやって暮らしていくかは一切考え付かなかったが、ただ、これ以上、こんな汚らしい間違った世界には一秒たりともいたくないというのが、有斗の本音だった。
とにかくもう、これ以上あらゆることに我慢が出来なかったのである。
自室に戻って出て行くための荷造りをしようと有斗が執務室を出て行こうとした、その時だった。
「王を辞められて、どうなさるのというのですか?」
俯き歩く有斗の目に、戸口に立つ小さな影が目に入る。顔を上げるまでも無かった。有斗にはその生意気な声の持ち主に大いに心当たりがあった。
「ラヴィーニア!! よくも僕の前に姿を表すことができるな!!」
有斗に噛まれた両手に包帯をぐるぐると巻いた姿で現れたラヴィーニアに有斗は今にも掴みかかろうと、いや、殴りかかろうとばかりに飛び掛る。アエネアスとグラウケネが二人の間に割って入らなければ、確実に有斗はラヴィーニアを殴り殺していただろう。
「待て待て、有斗! 落ち着けって!!」
アエネアスの静止の言葉も有斗の耳には全く届かない。
殴りかかろうともがく有斗を食い止めるのはアエネアスの怪力を持ってもなかなかに難しいことだった。
「決まってる! ここを出て行くんだ!!」
「陛下、王というものには課せられた責任というものがございます。陛下の双肩にアメイジア一千万の民の暮らしがかかっているのですよ。王がいなくなったら朝廷は明日からどうすればいいのですか? 官吏の監督、諸侯の押さえ、王が果たすべき役割はこの世界では限りなく大きい。それらを全て投げ出すとおっしゃるのですか?」
「お偉い中書令様と頭の良い官吏どもが勝手に仕事をするだろうさ! 今回と同じようにさ!! 王なんて必要ないんだよ!!」
「陛下、朝廷は王が要となって纏めなければ動かないようになっているのです。何をするにも王の裁可が必要なのですよ」
「どこがだよ! 王なんてまったく必要ないじゃないか! 僕の意向を完全に無視して、朝廷の権威だとか法律論とかを持ち出してアリスディアを殺した! 今までだってそうだ!! 僕の意向を無視することが度々あったじゃないか! これじゃあ、どちらが王か分かったもんじゃない!! そうだ! そんなに全てに渡って我意を押し通し、王を操り人形にしたいのなら、いっそのことお前が王になれば良い!! これで問題は全て解決するぞ!」
「不可能なことをおっしゃられても困ります。王というのは誰にでも務まるものではないのですよ」
「知ったことか! 少なくとも僕はもう王はやらない! 今度のことで心底、嫌になった!」
「陛下、お静まりを。あたしにお怒りを向けられていることは重々承知しておりますが、臣めの話を聞いていただきたい。決して軽はずみに辞めるなどと申されないでください。内々のここならばともかくも、外に漏れたら大騒ぎになってしまいます」
「大丈夫さ。何せ僕はもう王様じゃないからな。王を辞めると既に口にした。なんだったっけ、あれ・・・? そうそう、綸言汗のごとし、だったっけ? 王が口に出した言葉はひっくり返らないんだろう!?」
何を話しても喧嘩腰の有斗にラヴィーニアはすっかりお手上げだった。
「・・・分かりました。陛下の御気の済むようにあたしを罰していただいて結構です。ただし一言言っておきますが、あたしを罰しても既に起きた物事の結果は覆りませんよ。覆水盆に返らずと申します」
「・・・・・・分かってる!」
ことわざにことわざを返してきた、ただそれだけのことなのに、有斗はそれがどこまでも気に障った。
本当にどこまでも嫌味なチビメス餓鬼だ。有斗は四師の乱を終結した後、その首を刎ねておかなかったことを心底後悔した。
「ですが、その前に臣めに少し釈明の機会を与えていただきたい。それを聴いた上でご納得なされないというのならば、陛下がしたいようになされればいい。あたしを処刑するなり、王宮を出て行くなり好きになされれば結構です。あたしは止めはいたしません」
「いいとも! 聞いてやろう!」
もしそれで納得させられなかったら、殺してやる。そしてその後に本当に王を辞めてやる。
とにかくもう、王様なんてやってられるかというのが有斗の本心だった。
そうさアメイジアを平和にしたんだ。僕は十分すぎるほどやるべきことをしたんだから、誰からも後ろ指を指されることなどないはずだ。有斗はそう思った。