磔刑
もちろんラヴィーニアに任せきりにしたわけではない。有斗は有斗で一人、律(刑法)と先例をひっくり返してなんとかアリスディアを助けるだけの大義名分を探し回った。
だが、そもそもそういったことがもしも現実にあるのなら、有斗に取り入ろうと官吏の中からそのことを告げる者が出ないとおかしいのである。
「とはいえ結婚するのもなぁ・・・誰と結婚するかといった問題もあるし、そもそも相手に別の女性を救うために結婚したいんだなんて言ったら、怒って結婚してくれないだろう。断られるだけでなく、ビンタのひとつやふたつは確実に飛んでくるに違いない。実に失礼な話だもんなぁ・・・」
有斗だって相手がこれ以上ないくらい有斗の好みであっても、親の命を助けるためには王の力が必要なので、結婚してくださいなどと言われたら、大いに萎えてしまうだろう。
だが一向にアリスディアを助ける良策を思いつけるわけもなく、時間だけが過ぎていく。
とはいえ有斗にはすべきことが山ほどある。アメイジア全般の政治に対する採決が有斗を待っているのだ。アリスディアのことだけを考えているわけにはいかない。
ラヴィーニアという頼りになる稀代の中書令に任したということもあるし、日々の政務に忙殺され、有斗はしばしアリスディアのことを忘れていた。
その日は朝から女官たちがどことなくそわそわとし浮ついており、有斗はなんとなくいつもと違った居心地の悪さを感じていた。
しかもそれだけでなく、官吏から来た書類に書かれた草書を読み上げてくれる典侍のグラウケネが間違いを連発して仕事がはかどらない。それも複雑な官僚言葉が書かれているような部分だけでなく、単純な『てにをは』のようなものまでをも間違えるのである。
「グラウケネ、そこは主計寮じゃなくて、主税寮じゃないかな。文脈を考えるとそういう気がするんだけどさ」
主計寮が行うのはどのくらい税が入るか、課せられる税が適切かどうか計算することであり、主税寮が行うのは収められた税の出納が正しく行われているか監査することだ。同じ戸部省に属するが、職域が違う。当然、主計寮か主税寮かで文意が大きく変わってくるのだ。
「あっ・・・! 失礼いたしました。確かに陛下がおっしゃる通りです! 私の読み間違えでした。申し訳ありません!」
「今日はやけに間違えるね」
それは間違いを責めたわけではなく、いつもと違うグラウケネの様子を心配て婉曲に訊ねただけなのだが、グラウケネは勘違いをし、それを有斗の叱責と捉えたらしく、いたく恐縮する。
「重ね重ね、本当に申し訳ありません!」
体を小さく縮こめて頭をぺこぺこと下げるグラウケネに有斗は慌てて誤解を解こうとした。
「あ、いや、責めてるんじゃなくてね。心配でさ。どうしたの? 何かあったの? 体の調子が悪いとか?」
グラウケネは気配りの人ではあるが、アリスディアのように素早いフォローや突発的な物事に対しての対応などは得意ではない。いろんな事柄を総合的に判断し、人事や根回しや下支えなどに実力を発揮するタイプの管理職である。
それだけに仕事は速くはないが、丁寧で間違いが無いというのが売りだった。
そのグラウケネが今日に限って朝から間違いの連発である。有斗が心配するのも無理は無い。
「その・・・やはり今日のことは私にとっても心痛でして・・・考えまいとはするのですが、やはりどうしても気になってしまうのです」
「今日のことって何?」
グラウケネが口にした言葉の意味が何のことか分からない有斗は首を小さく傾げて訊ねた。
「もちろん、天下国家のために仕方がないこととは思うのですが、やはり長年お仕えした方ですし、私にも良くして下さいましたし、このようなことになってしまったことが残念で、残念で・・・」
「このようなことって・・・だからどんなこと?」
「尚侍様・・・あ、いえ、アリスディアの磔刑です。民衆に教団が敗れたことを見せ付けるためとは申せ、あのような華奢な方にそのような酷い刑罰が処されるかと思うと、つい気が滅入ってしまって・・・あ、もちろん陛下のご聖断に口を差し挟むつもりは毛頭ございません! ただ・・・なんと申しますか、あまりにも哀れで、悲しくって・・・」
磔刑とは磔の刑のことである。木に括り付けられ、大勢の前で槍で突き刺されて死ぬ、極めて残虐な刑罰だ。
「た・・・磔刑!? アリスディアが!? な、なんだよそれ! しかも今日!!?」
突然、大声を張り上げて興奮する有斗の姿にグラウケネは奇異の視線を向けた。
「どこで!?」
教団首脳の処刑なのである、王が知らないはずが無いのに、とラヴィーニアに有斗が全てを一任したことを知らないグラウケネはただただ不思議に思うばかりである。
「さあ、そこまでは・・・でも慣例から申し上げて、王城前の広場だとは思いますけれども・・・」
グラウケネの返事を聞くと有斗はやりかけの仕事を放り出して部屋を出ようとする。
「こ、こうしちゃいられない。急いで止めなくちゃ!!」
「止める・・・? 陛下が処刑を決めたのではないのですか?」
「僕がアリスディアの処刑を許したりするものか! これは僕の意向を無視して勝手に行われているんだ!」
「でも・・・陛下の許可無く、このような大事行われるはずが無いのではありませんか? 勝手にそのようなことをすることは王権への侵害で、極刑は免れない行為です。そのことが分からぬ者がいるとも思えません。陛下に処罰されることを覚悟してまで、ことを行うだけの性根の座った人物が果たしているでしょうか・・・?」
確かに有斗の許可を得ずに行ったならば、極刑は免れない事態だ。本人が生き延びるには叛乱を起こして王権を転覆するしかないだろう。
だがいるのだ。先んじて教団幹部の処分について、何食わぬ顔で有斗から全権を勝ち得ていた人物が。そして後から有斗に譴責されることを毛ほども恐れていない、それだけ根性の座った人物が。
「それをできる人物が一人だけいる! 僕がラヴィーニアに教団の後始末に対して全権を与えてしまったんだ! これは中書令の陰謀だよ!!」
そういえばラヴィーニアは王という存在も王権というものも他の官吏と違って重きを置いていない女だった。
その目はいつももっと大きなものを見ていた。社稷に害になると思えば、王であろうと排除する、そういう女だった。そう、四師の乱のように。今更ながらそのことに思い当たり、有斗は冷や汗をびっしりとかいた。
ラヴィーニアめ! あの女狐め!! 確かに教団幹部の処分について全権を委任したが、それはあくまでアリスディアの命を助けること前提の話だ。
もしもアリスディアに何かがあったら、ただじゃ済まさないからな!
有斗は慌てて後を追おうとする女官たちに目もくれず、足を速めて執務室を後にする。
「どうした? 真っ赤な顔をして駆け出したりして。便所か?」
王の護衛という本来の業務もほったらかしにして、入り口でダルタロス出身の羽林の兵と暢気におしゃべりをしていたアエネアスが執務室から有斗が早足で駆け出したことに不審を抱いて、声をかけて歩み寄って来る。
「おいおい、勝手に動き回るなよ。部屋を出るときはちゃんと私に声をかけるんだぞ。万が一、何かあったら大変だからな」
部屋を出るときは声をかける、つまりこれからは羽林が身の回りの警護を万全にするというアエネアスなりの意思表示であろう。
もっとも本来ならば羽林の兵やアエネアスは、何も言われなくても王である有斗を完全に警護しなければならないものなのだ。この一言がこれまでどれだけ有斗の警護体勢が緩かったかということを表している。
だが有斗にとってしてみればむしろその方があり難い。二十四時間、行動を縛られるなんてまっぴら御免だ。今までそんな煩わしいルールは無かった。
しかしそういうことになると、まさかトイレにまでついてくるつもりなのか、と有斗は気分を害するが、あえて無視をした。
今はそういったくだらないことに係っている場合ではないのだ。
「アリスディアが王城前の広場で磔刑にされるらしい。急いで行って止めなくちゃ」
さぞかし狼狽し、有斗の行動に同意してくれるものと思ってばかりいたのだが、アエネアスが返した返事は意外なものだった。
「あ、そうか。今日だったか。忘れていた」
アリスディアが処刑される寸前だというのに、この暢気さはないだろうと有斗は眉を顰める。
確かに結局のところ、最後には有斗たちとの関係よりも教団を選んで去っていったアリスディアだが、それでも長い付き合いのある親しい仲間だったことは確かなのだ。
その仲間が権力によって非情にも死を迎えようとしているのに、そのことに関して大した感想も無く、あまつさえそのことを忘却していたなどとは、ちょっと人として酷すぎやしないだろうか。
死がごく当たり前にその辺に存在するといっても、これが戦国の世の常識だとしたら非常識にもほどがある。
「おい、待てよ! 走るなってば!」
気持ちを分かち合えないアエネアスはそのまま放置して、有斗はとにかくこの蛮行を中止させようと足を速める。
アエネアスと数人の羽林の兵と女官たちを後から引き連れて、内裏を王が先頭を切って駆けて行くという異様な光景を見た官吏たちは思わず目を疑った。
有斗は一刻も早く、外の様子を確かめようと気が急いて、内裏の外、外郭に出ると、城門のある一階まで一直線に下り降りるのではなく、そのまま横へ、城壁の上にある式典などで王が姿を現す展望回廊の上へと移動する。
そこから刑場の現状を確認しようとしたのだ。そこからも下へ降りることは可能だから手間は変わらない。もちろん、降りれるといっても城壁の中にであるから、結局は城門を通らねば外へ行くことが出来ないのは言うまでもないことなのだが。
王城前の大広場では大勢の官吏、そして大勢の民衆でごった返していた。天下を覆そうとした教団の幹部の末路を見ようと、王都内から物見高い市民たちが集まってきていたのだ。しかもそれがかつては後宮の総取締役で絶世の美女ともなれば、大変、悪趣味ではあるが見たくなるのが人情というものかもしれない。
ちょうど兵士が数人がかりでアリスディアを処刑用の十字架に固縛し、今まさに地面に立てたところだった。
「良かった・・・間に合った!」
間一髪だった。今ならば中止を命じることができる、と安心した有斗は城壁の端から身を乗り出すようにして全力で叫んだ。
「その処刑を中止しろ!!! これは命令だ!!!」
突然、響き渡った大声に広場はざわめいた。人々は周辺を窺い、声の持ち主を特定しようとする。
やがて幾人かが、城壁の上にこちらに身を乗り出している男に気が付く。
男の服装は華美だった。そして男の周囲を取り巻く色取り取りの女官たちに、煌びやかな羽林の鎧を着た一団に目を奪われた。
「まさか・・・陛下・・・!?」
ざわつきは瞬く間に広がっていく。
距離が距離だけに、それが王であると確信できる自信は誰にも無かった。だがその一団は明らかに只の官吏の一団であるようには見えなかった。
官吏たちは、特に処刑を担当していた兵士たちは大きな動揺を示した。
中止したほうがいいのかどうか、同僚と顔を代わる代わる見合わせる。だが誰にも判別が付かない。
表情も分からぬほど距離が離れているし、そもそも彼らのような一般兵士が王の顔など知っているはずも無いのだ。
その彼らに発破をかけるように城壁の上から、今度はその一団の横に現れた小さな人影が甲高い声で命令を下した。
「やれ! ここにこの件に関して陛下は全ての全権をあたしに委任されたと書かれた確かな書類がある! 中書、尚書、弁官で決裁された正式な公文書だ!! これに違反したものには厳罰が下るぞ!!」
ラヴィーニアが有斗のすぐ側で城壁から身を乗り出すようにして叫んだのだ。
「ラヴィーニアッッ・・・!!!」
今にも飛び掛りそうな体勢で物騒な視線を向ける有斗に向き直ったラヴィーニアは平然と、今度は広場の人々に聞かせるというよりは、有斗に説教を垂れる様子で、再び己の言葉を響き渡らせる。
「何を持って処罰を躊躇うのか!? アリスディアの磔刑は朝廷が下した正当な処罰なのだ!! 例え陛下の口から放たれた言葉であっても、教団幹部の処分に関してはこの書類を有するあたしの言が優先する。陛下であっても公文書を破棄するには、同じように中書と尚書を通した正式な書類が必要なのだ! つまり、あたしの命令を聞かぬものは朝廷の威を軽んじるものとして処罰されることになるのだぞ!! 何があっても全ての責任はあたしが取る!! やれ! やるんだ!!」
それでも兵士たちは動こうとしなかった。
当然であろう。もしラヴィーニアの言葉通りに処刑を実行して、それが王の意に反していた場合のことを考えたら動けない。
確かにラヴィーニアは全責任を取るとは言ってくれているが、だからといってアリスディアを処刑した彼らを王が許すかどうかは別問題なのだ。ラヴィーニア諸共に今度は彼らが処刑されるかもしれないのである。
しかもラヴィーニアの言葉の文意を取れば、先程彼らに中止を命じた人物は王である可能性が高いのだから尚更だ。
だがその停滞を打ち破って動き出した男がいた。
当日の会場の警護と処刑を請け負っていた、王師第八軍の将軍、アクトール・バイオスである。
河北平定戦以来、長征、カヒとの戦いなど不利な戦で彼こそ真価を発揮した男はいない。どんな劣勢であろうと、どのような戦場であろうとも、恐れを一切見せずに飛び込んでいける男、人呼んで『勇者』アクトール。彼は自らが正しいと思えば、それがどんな死地であっても怯まずに飛び込んでいける男なのだ。
そう、それがアメイジアの絶対君主の怒りを買うと分かっているような絶望的な戦場であっても、彼は恐れなどしないのだ。
アクトールは磔られたアリスディアに近づくと槍を取り出し大きく構えた。有斗は慌てて、再び中止を命じようとする。
「止めろ───!!」
だが、その先の言葉は言葉にならなかった。なにか意味不明な叫び声未満のくぐもった声が出てきただけだった。
ラヴィーニアが有斗の背後から抱きつくようにして覆い被さり、有斗の口に小さな手を捻じ込んで、口と舌の動きを封じようとしたのだ。
もちろんそんなことで諦める有斗ではない。なにしろアリスディアの命がかかっているのである。
有斗は口内から障害物を排除しようと全身の力を込めて手加減なしで歯を噛み合わせる。
有斗の歯が骨に当たる音と同時に、有斗の口の中に血と生肉の嫌な味が一杯に広がった。
「・・・・・・・・・!!!!!!」
ラヴィーニアの口から苦痛にあえぐ悲鳴が放たれる。それでもラヴィーニアは手を引っ込めようとはしなかった。
流れる涙と脂汗で顔をぐちゃぐちゃにしながらラヴィーニアは有斗に必死に訴える。
「陛下! ご理解してください!! こうしないと朝廷も民衆も納得しないのです!! それにこれはアリスディアも納得したこと、陛下はアリスディアの最後の陛下へのご奉公を無にするおつもりですか!!!」
そして有斗に声を出させぬように、傷だらけの手を逆に奥に突き入れる。
ラヴィーニアに口を塞がれていたその時間は、取り返しの付かない時間となった。
有斗の目の前でアクトールが力強く振るった槍が、そっと目を閉じたアリスディアの左下腹部に突き刺さる。
苦痛にゆがむアリスディアの顔、服が切れ、皮膚が切れ、血が噴出す。
止めさせようと獣のような唸り声を出して有斗は叫ぶ。有斗の狂乱振りに官吏も民衆も呆然と事の成り行きを見守っていた。場は凍りついたように静まった。
だがアクトールは有斗に背を向けたまま、振り返りもしない。そしてもう一度、槍を突き入れた。
左の肺の下あたりから心臓目掛けて槍を捻りながら突き入れる。
槍の回転に合わせるように臓物が切れ、飛び散る。深々と槍が突き刺さり、アリスディアの体はくの字に折れ曲がった。
アリスディアの口から血が吹き出し、ぴくぴくと痙攣すると、やがてがっくりと項垂れた。
「・・・・・・あ・・・ああ・・・」
ラヴィーニアはようやく有斗の口から両手を離すと、すとんと尻餅をついて倒れこむ。そして激痛が走る両手を抱え込むようにして丸く縮まった。
「・・・うわあああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!」
有斗はその場に崩れ落ちると、人目もわきまえずに哭泣した。