潜龍坡の戦い(Ⅴ)
「このままでは俺の失策で全軍が崩壊してしまう」
メネクメノスはそう言って、顔面を蒼白にした。
リュサンドロスらと共にメネクメノスが戦場で果たそうとした役割は味方の撤退の援護である。
メネクメノスらが駆けつけてくるまでに既に被っていた損害については仕方が無い。
だがカシウス隊、アストリア隊、カレア隊、アンテウォルト隊合わせて二万近い兵がいるのである。この二万の兵を少しでもこの窮地から救い出しすことこそが彼らに課せられた役割だった。
教徒などいくらいても役に立たない、というのが彼ら傭兵たちの共通した見解である。であるならば、彼らをここで失っては、もはや王師と戦うことは不可能ごとになるに違いない。その数は全傭兵隊の三分の一を遥かに超える兵数なのだから。それだけの数を失っては王師相手に満足に戦列を組むことすら難しくなるといった数である。
しかもこのままではメネクメノス、プリギュア公、リュサンドロスの兵、約一万もがその潰走に巻き込まれて潰えてしまうことになりかねない。
自分が起こした行動に付け込まれて、満足に戦うことすらなく敗北すれば、信心の為に加わっている教団の人間はともかくも、この一戦に己の矜持を引っ提げ、死をも覚悟して戦うことを選んだ味方の将兵たちに申し訳ない。
自分もそうであるだけに、メネクメノスは大きな決意を秘めて戦場に戻ってきた者たちから戦う場所を奪うことになったら、何と言って詫びればいいのか分からなかった。
だから、例え自分の命がどうなろうともそれだけは食い止めなければならぬ、と強く思った。
といってもメネクメノスにこの戦場で出来ることなど限られていた。
なぜなら彼は一流の傭兵隊長であったが、その手腕は傭兵隊を諸侯にいかに高く売り込むかや、王師や諸侯の兵と違って身分や秩序、軍規など無きが如きの荒くれ者達が起こす揉め事や内紛を調整したり、未然に防いだりするマネージメント能力にあった。帥としては数百の傭兵を戦場で混乱させずに進退させることができる程度の器量であった。もっとも、それだけでも十分に凄いことではあるのだけれども。
もっとも有斗であろうとバアルであろうと、いや伝説の王であるサキノーフであろうとも、メネクメノスの手持ちの僅かばかりの兵で、この状態を好転させることなどできやしないことであったろう。
だが戦況を好転させることは出来なくても、自分がしでかしたことの始末をつけることくらいはできる。
メネクメノスは周辺の兵を集めると、彼らに大声で語り始めた。
「見てのとおりの現状だ。このままでは我らは大勢の犠牲を出してしまう。過半の兵すら退くことは出来ないだろう。それだけでなく、このまま味方と近接したまま追撃されれば、我らは上手く攻撃することができずに、せっかく築いた防衛線の突破を敵に許してしまうことだろう。さらにはその混乱に巻き込まれて、敵を押し止めようとするリュサンドロス将軍らの陣までもが崩壊する。つまり逃げる味方に必要なのは隊列を整える時間と敵との距離だ。もしその二つを稼ぎ出すことが出来れば、崩壊した前軍の兵は安全に落ち延び、リュサンドロス将軍らは敵を一度食い止めて、我らは秩序だって撤退することが可能になるに違いない」
どうやらそれがこの頽勢を打開できる唯一の策であるとメネクメノスが考えていることは、それを聞いている傭兵たちにも理解できた。
だが何故、この危急の時にメネクメノスがそんなことを悠長に兵に語るのかが理解できなかった。将は戦術を考え、兵はそれに従う。それが軍隊というものの物の道理である。
兵に語る必要など無い。ただ一言、命令すればいいだけなのだ。
兵たちの疑問の視線にメネクメノスは不器用に幽かに笑いを浮かべて応えた。
「この寡兵でそれを可能にする方法はただ一つ。すなわち逃げる味方に対し逆進し、敵中に切り込むことで敵の足を止め、他の部隊が逃げる時を稼ぐのだ」
メネクメノスの言葉に傭兵たちは息を呑んだ。群がる王師にこの人数で切り込んで無事に帰れるわけが無い。しかも味方の援護は一切受けられないのだ。
「だがこれは生還を期待することができない戦いだ。無理強いはしない。共に戦いたいものだけ残ってくれれば良い」
傭兵たちは一瞬、静まり返った。自らの命がかかっているのだ、黙りこもうはずである。
彼らは金の為に命を懸けるが、いくら金を詰まれても自ら望んで死にはしない。もちろんそれまでにいくら世話になったから、恩義があるからといっても死ぬなど真っ平ごめんだった。教団に対してもメネクメノスに対しても恩義など無いのだから尚更だ。
だがそんな彼らも情の死はする。それに彼ら傭兵たちはとどのつまり、命を張って男を売る稼業だ。
将にここまで言われて、はいそうですかと命欲しさに逃げ出すような真似が出来るわけも無い。
そして何より、ここにいる多くの者が平和な世界で生きていくことが出来なかった社会のあぶれ者なのである。彼らは戦争の中でしか生きられないことを、あのほんの僅かな束の間の夢のような平和な時間で知ってしまった。
ここで逃げ出したら、彼らが味方の為に戦ってやらなければ、彼らが生きるべき世界、戦争のある世界は失われてしまうのである。
「何を馬鹿なことを言ってやがるんですかい。そんなやつは、最初からこんな戦に参加してませんぜ」
メネクメノスの想像外の屈託の無い明るい声で返答は返って来た。
彼らは喜んでいたのだ。指揮官が一兵卒に作戦の概要を話したことに。去就の自由を選ばせてくれたことに。
そして命を懸けて戦うべき十分な理由のある戦場を与えてくれたことに。
だから、立ち去るものは一人もいなかった。
「すまんな・・・皆の命をくれ」
深く、深く拱手するメネクメノスに、兵たちも手を胸の前で組んだだけの不恰好な礼で応える。
「さあ、行きましょう旦那。カヒもオーギューガも打ち破った、この世界最強の王師の兵が俺たちを待っている」
傭兵隊にはどこに行くにも行動を共にする存在がある。酒保とその女たちだ。
メネクメノスが王師に向けて再度攻撃を敢行しようと隊列を整えているまさにその時に、戦闘状態になって一旦、距離をとって離れていた酒保の女たちが馬車と共に彼らの元にやって来た。
メネクメノスは酒保のその不思議な行動を、王師に押されて後退して来たメネクメノス隊が撤退するものと考えた酒保の女たちが、共に戦場から逃れようと近づいたものであると思った。戦場から離れるには、兵と一緒に逃げたほうが何かと心強いからだ。
「何をしている、イアネイラ? 早く戦場から離脱しろ。どうやらこの戦、既に教団に敗北の兆しがある。逃げたほうがいい」
「逃げるって・・・あんたらはどうするんだい?」
「俺たちはもう一度、敵に攻撃をかける」
メネクメノスのその言葉にもイアネイラは驚きを見せなかった。
「やっぱり・・・ね。やけに陣が殺気立って、崩れ去る気配を見せないから、もしやと思って来てみれば・・・」
イアネイラは理解できない趣味を持つ亭主に呆れる世間一般の妻のように、呆れて見せた。
「分かっているのならば、早く離れる算段を考えろ。まもなくここも戦場になる。これから俺らは王師相手に厳しい闘いをしなければならない。悪いがお前たちに構ってやれる余力は無いんだ」
まるで互角の戦いをするかのようなメネクメノスの言葉にイアネイラは苦笑せざるを得なかった。
「この人数で王師相手にどうやって戦って、生き残るって言うんだい。他の部隊は逃げ始めているじゃないか。死にに行くんだろう?」
イアネイラはメネクメノスに一歩近づくと、目を覗き込んで訊ねる。
「それは・・・」
言葉に詰まるメネクメノスにイアネイラは再度問い掛ける。
「違うのかい?」
「・・・・・・すまん」
メネクメノスが観念したかのように謝りの言葉を口から洩らしても、意外なことにイアネイラは怒らなかった。
「やっぱりね」と、子供の粗相に呆れながらも笑う母親のような微笑みを浮かべた。
「ならばあたいたちも付いて行くさ」
「馬鹿なことはやめろ! 勝ち目のまるで見えない、俺たち傭兵でも躊躇するような戦場だぞ、ここは!」
だがイアネイラは頑なだった。
「あんたが止めてもあたいは行く」
イアネイラはメネクメノスの言葉など一切無視して、使えそうな武器が無いか物色する。
「あたいら酒保の女がいるところは、戦場と傭兵隊のいるところと相場が決まっているんだ。ならばあんたらの行くところに付いていかなきゃ。それが例え地獄でもさ」
イアネイラだけでなく酒保の女たちは皆、スカートをたくし上げ、鍋を被り、思い思いの得物を持って傭兵たちの中に加わった。
「無意味だ! 戦場は素人の女が武器を持ったくらいでどうこうなる世界じゃない! 教団の醜態を見ていなかったのか!?」
素人が戦場にいても足手まとい。逃げ惑われては迷惑だし、味方の士気に関わる。
それにメネクメノスとしては彼女らに、特にイアネイラには死んで欲しくなかったのだ。
「無意味じゃないさ」
何故かイアネイラはやけに自信に満ち溢れた表情をして、メネクメノスを振り返る。
「確かに王師の兵をあたいらが倒すことは無理かもしれないけどさ。王師があたいらを切り殺すその一瞬、横からあんたらが王師に切りかかればいい。囮にくらいなれるさ。僅かな一瞬かもしれないけどさ、少なくともあたいらを切り捨てる時間は稼ぐことが出来るだろう?」
彼女らはメネクメノスらとは違う。メネクメノスらが戦場で友軍の為に死ぬことを決めたのは、戦場のある世界でしか生きられない、傭兵の悲しい運命を粛然と受け入れたからである。傭兵で無い彼女たちがそれに殉じるのは道理が合わなかった。
だが彼女ら酒保の女もまた、戦場と隣同士の傭兵隊の酒保でのみ生きてきた女たちである。傭兵が戦場のない世界で生きられないように、酒保の女も傭兵なしの世界では生きられないのである。
共に死にたいと願ってもなんら不思議では無かったのだ。彼女たちもまた、己の心の中の大事なものの為に死のうとしていたのだ。
「それにあたいはあんたの妻。死が二人を分かつまで・・・って約束したじゃないか。一緒に逝けるんなら、それで本望だよ」
イアネイラにとってそれはメネクメノスそのものだったのかもしれない。
王師が後ろを見せて敗走する教団の兵を追撃し、敵陣に逃げ込ますことで戦列の混乱を目論んでいることは明らかだった。
幸い、プリギュア公の部隊もリュサンドロスの部隊もその手には乗るまいと巧妙に小さく戦列を開けて、味方の敗兵を収容する。
だが今現在、王師に追われている大量の兵に一度にやって来られると、そういった細かい対応が出来ないであろう。そうすれば、その後ろについてくる王師の兵に対する対処も困難を極めるに違いない。
リュサンドロスはそのことに対して一切考えようとしなかった。
それは目の前の事態に懸命に対処せねばならなかったという理由もあるが、その時に訪れるであろう破局について考えたくないという後ろ向きの理由もあった。
まさか前から来る味方である兵に陣地内に侵入するなと槍先を向けるわけにはいかない。
もっとも味方に槍先を向けて追い払おうにも、その後ろは敵兵で充満しているのであるから、彼らも前に来るしかない。壮絶な同士討ちが始まるだけである。
つまり敗走してくる兵を自陣に引き入れるにしろ、槍で追い散らすにしろ、結果としてはリュサンドロス隊の陣形が乱れたところに王師の大軍がやってくると言うことだけは変わりが無いのである。
実際問題、それでは防ぎようがなかった。そういった事態に陥った時には全てを捨てて逃走しなければならないだろう。
だがだからといって、今の段階で全てを投げ出してしまうは責任感の放棄というやつに他ならない。一兵でも多くの味方を安全に後方へと逃がすことこそが、今、リュサンドロスにできる全てであり、また、リュサンドロスにしかできないことでもあるのだから。
そんな中、前方で展開される、敵も味方も一律にこちらへ向かって来る動きの中に、異質な動きがあることをリュサンドロスの目が察知した。
「おや・・・あれは何だろう?」
横手から現れた数百規模の小部隊が、こちらへと向かってくる王師の大軍に斜めに突き刺さる。
それは王師の攻撃に押し出されるように後退したメネクメノスの部隊が、散った兵を呼び集め、体勢を整えて、もう一度突撃を開始した姿だった。