潜龍坡の戦い(Ⅳ)
計らずも部隊を横に並べることで戦線を形成し、王師と戦っていた教団側だったが、中央のカシウス隊の崩壊に続いて、右翼のアンテウォルト隊も潰走しては、もう勝敗は決したも同然である。
ましてや王師は主力の十軍のうちの六軍が既にサマリア高原に展開中だ。これでは主力部隊が到着していない教団側には打つ手が無かった。
もっともカレア隊、アストリア隊も前に述べたように既に撤退する姿勢を見せていたから、その点で内部に混乱が見られなかったことがせめてもの救いであった。
組織だっての撤退は追撃してくる敵を逆に攻撃することで押し返し、敵が後ろを見せて逃げ出した時に呼吸を合わせるようにして僅かばかりの距離を撤退するのである。
敵が追撃を諦めるか、味方の援護が受けられる安全な場所に辿り着くまでそれを繰り返すことだけが、このような場合において犠牲者を少なくして撤退する最善の方法である。
だがカレア隊もアストリア隊も上手く敵を押し返すことが出来ない。それだけ王師の勢いは凄まじかったのだ。為にその撤退速度は遅くなり、犠牲者の数は増えていく。
一方、崩れ去るアンテウォルト隊への追撃を行っていたベルビオ隊とエテオクロス、ヒュベル隊は、彼らの苛烈な攻撃の前に随分隊列を薄くしたアンテウォルト隊の向こう側に、こちらへ向かってくる騎影を認めた。
「敵の新手か!」
それは、この頃になってようやく到着した第二陣のメネクセノスとプリギュア公、そして第三陣の先鋒を務めていたリュサンドロス隊の姿だった。
メネクメノス隊は二千、プリギュア公の部隊は一千、リュサンドロス隊こそ七千の大兵を所持しているが、三隊合わせてようやく一万である。教団傭兵部隊の主力の一軍ではあるが、関西の兵中心のリュサンドロス隊はアンテウォルト隊やアストリア隊に比べて一段も二段も兵の質は落ちるし、やはりカシウス隊に比べればメネクメノスの傭兵隊も格下感は否めなかった。要は教団傭兵隊の二軍、誰が見てもその印象が強い混成軍だった。
だが、なにはともあれ敗残の教団にとっては待望の援軍である。逃げ惑うカシウス隊やアンテウォルト隊の兵にとっては神の救いの手のように見えたことであろう。
カレア隊もアンテウォルト隊も明確な撤退目標が示されることで、息を吹き返したかのように兵の動きが活発になる。
だが頼られる形となった方はそうも言っておられなかった。
既に戦闘は始まっていると薄々勘付いていたものの、もはや大勢は決したかのようなこの惨状に、リュサンドロスは大きく失望の色を滲ませる。
先団の兵は彼らより精鋭で数も多かったのである。それが勝てなかった相手に挑もうというのは勇敢でもあるが、愚かでもある。
なれば敗残兵の混乱に巻き込まれぬうちに兵を退くことが望ましいところであるが・・・
「どうやらまだ前方に味方が取り残されているらしい」
リュサンドロスはばらばらになって退いてくる敗残兵の他に、敵の猛攻にも固まって耐え、組織だって退却するカレア隊、アストリア隊の姿を見つける。
それを見てしまった以上、リュサンドロスとしても責任を頬っ被りにして、彼らを見捨てて逃げるわけにも行かなかった。
それにイロス率いる本隊が到着すれば戦況は逆転するかもしれない。いや、何らかの方法で攻め口を少なくすれば、効果的な攻撃が出来なくなり、少なくとも五分に持ち込むことができるのではないか。甘い考えかもしれないが、それがこの惨状に対処できる唯一の方法かも知れない。
それにリュサンドロスはもはや自身の才覚がバアルよりも大きく劣っていることを自覚している。だからバアルのように寡兵をもって優勢な王師を翻弄して勝利を掴むなどといった危険を冒したいとは思ってはいない。ならばこそ王師に付け入る隙を与えないような慎重な戦い方が出来るであろう。
それに自身に才覚がなくても、兵の質が劣っていても、戦い方ひとつで綺羅星たる王師の将軍と精鋭の軍と渡り合うことは可能だ。
要は負けなければいいのである。勝とうという余計な色気を出さなければ、それくらいは俺の才覚でも不可能なことではないだろう、とリュサンドロスは思った。
幸い、陣を敷くに手頃な低湿地帯を先ほど抜けたばかりである。
リュサンドロスは先を進むメネクメノス、プリギュア公に伝令を出し、引き返して一手になって戦うように勧めると同時に、率先して部隊を後退させ、兵を展開させた。
そこは小川が南海道を斜めに横切るだけでなく、水捌けの悪い土地柄からか、いたるところに沼地があり、大部隊同士の会戦に適した地ではない。
だがだからこそ、少数の兵でも王師を押しとどめることが出来るのでは無いかと考えたのだ。
リュサンドロスは王師の攻撃が集中するであろう南海道の東、小川に沿って兵を展開させ、そこを自然の堀に見立てて王師の進撃を食い止めようとする。
独力ではとてものことでは王師と戦えないメネクメノス隊とプリギュア公の部隊も戻ってきて、南海道を挟んだ西側に部隊を展開させて王師に備えた。こちらは小さな沼地がいたるところにあり、足場が悪く彼らのような少数の兵でも十分対応できるはずだ。
カレア、アストリア両部隊を追って進撃していたエテオクロス隊ら左翼の軍は新たな敵影を認め、罠を警戒して一旦、進軍を停止した。
このまま進めば彼らは新手とカレア、アストリア両隊との間に位置することになる。挟撃されることを恐れたのだ。
彼らは相談したわけではないが、一番右に位置したベルビオ隊がカレア、アストリア隊の備えとして一部が残り、その他の部隊で手早く戦列を作ると、槍を並べてリュサンドロス隊に、次いでプリギュア公の部隊へと襲い掛かった。
戦列を組んで襲い掛かった王師だったが、すぐにこれが尋常の戦いではないことに気がつく。
低湿地地帯で戦う彼らは、侵入の不可能な場所、軟弱な地盤を避けて双方が戦闘に及んだため、自然と小集団同士の出入りの激しい戦になった。つまり一方的な戦いはどこでも起こらなかったということである。
狭い入り口を巡って両軍入り乱れての激しい戦闘が繰り広げられた。
ある者は沼地に槍で突き落とされ溺死し、またある者は死んだ兵士を足場に横から無防備な敵に飛び掛って組み打った。
「これでは戦力の逐次投入ではないか! なんたる無様な戦であることよ!」
兵力で優勢であるにも拘らず、その有利さを生かしきれない拙い戦い方に苛立ち、エテオクロスは采配で二度ほど己の腿を打った。
そう、これは消耗戦だ。将として最も愚劣で忌むべき戦い方だ。だが目の前に敵がいて、既に全戦線に渡って白兵戦に突入している現状で将としては他に手の打ちようもない。
今や当初の目的である潜龍坡への王師全軍の侵入が達成されるのは時間の問題である。次は分散した敵を各個撃破することを目指すべきである。その為には一度足を捕まえた敵を逃さぬことこそ肝要である。幸いにして味方の方が兵数が多い。
他の味方が回り込むまで粘り強く戦っていくしか無いだろう。大勢の犠牲を覚悟しても。
それに対して、この情勢をむしろ可としたのがリュサンドロスである。
「これは消耗戦だ! 一歩も退くな!」
教団の方が数が多い。例えリュサンドロス隊をはじめとしたここにいる部隊が全滅しても、王師を大きく傷つけ、二、三の部隊を戦闘不能に追い込むことが出来たならば、それはもう勝ったといっても過言ではない。結論から言えば、この乱暴なリュサンドロスの考えこそが教団が当初から取るべき戦い方であったであろう。
教団の戦略は、素人を集めた軍隊なのに、それを通常の軍隊と同じ兵理で動かそうとしたから破綻が起きたのだ。
何故なら、確かに一軍を率いる将軍には不足した教団だが、兵だけならば代わりはいくらでもいた。対して指揮官の代わりならばいくらでもいる王師だったが、一度失った兵を補充することはなかなかに難しかった。王師ほどの錬度を持つ兵は一朝一夕には得られないのだ。
もっとも次の戦い、王との戦いのその後までも考えなければならない教団幹部にその考えが浮かばなかったからといって責めるのは酷という話だ。
それにリュサンドロスがそういう結論を出すにいたった背景には、関西の敗北を防げなかった慙愧の想いと、関西が降伏したからと全てを諦めて何もせず、バアルの活躍を指をくわえて見ているしかなかった過去の自分への反省と自己嫌悪といった負の感情が多く含まれていたからだ。
そして彼の下で働いている、関西滅亡時に新政権から疎外された者達の悲しみもリュサンドロスは理解していたからだ。
であるから彼は己の身も、部下の身も省みない、その非情な考えに辿り着けたのだ。
言ってしまえば彼には王と教団のどちらが政権を取るほうがいいかなど一切関係なかった。それどころか戦の後のことなどどうなろうと知ったことではなかったのである。ただ王相手に戦い、己の武辺に一片の意地が立てばそれでよかったのである。
ここに進退窮まった部隊があった。後背をベルビオ隊に塞がれたアストリア、カレア両部隊である。
王師は左右からの回りこみも完璧に行い、今や完全な包囲状態で置かれた彼らが殲滅されるのは時間の問題である。
カレアは仲間と歩調を合わせて撤退するなどといった欲目を出したことを心底後悔した。
「これは、さっさと兵どもを放り出して、自分一人でも逃げておくべきだったか」
カレアのその言葉はさすがに口の中で小さく呟かれただけだった。
もしこの情勢でそんなことを周囲に聞こえる大きさで口にでも出そうものならば、彼は部下によってたかって刺し殺されていたに違いない。
もっともこんな状態になってしまっては、一人で隊列から抜けようものならば、周囲を囲む敵兵の格好の攻撃の的である。第一、逃げ場がどこにも無かった。
ここで教団側から動きが出る。南海道の西側、プリギュア公の部隊のさらに外に布陣し、そこまで王師の兵が来なかったため、まったく手隙であったメネクメノスの部隊が移動を開始したのである。
敵中に孤立したアストリア、カレア両隊を救おうと、前進して内側にいるカレア隊を攻撃するために背を向けているリュケネ隊のもっとも薄い部分を狙って攻撃したのだ。
素早く鋭い攻撃で王師の包囲網に穴が開く。内側の兵士からは絶望的な状況下での味方の救援に歓声が上がった。
予期せぬ方向からの攻撃に肝を潰したリュケネだったが、敵の数のあまりもの少なさに、それが王師に対する全面的な反撃の一環では無く、包囲された敵を救うという限定的な目的の攻撃だと判断すると、包囲の穴を塞ぐよりも、包囲の中の兵たちの生存本能を刺激する手段としてその穴を活用することにした。
「穴を塞ぐ必要は無い。むしろ開けてやれ。これまで命の危険を感じ、必死に指揮官の采配に従っていた兵も、いざ目の前に生への扉をまざまざと見せ付けられては、己が命惜しさに指揮官の指示を振り切って逃げようとするに違いない。そこを一気に突き崩し、敵に再度、軍として統一された行動を取れないようにしてやるのだ。だが無秩序に大きく口を開けてしまっては敵を大いに取り逃がす。あくまでも敵の動きをこちらの支配下に置いておくことを忘れるな」
包囲網こそ完成したものの、しぶとい抵抗に手を焼いていただけに、違った切り口で敵を攻撃できる手段を探していたリュケネにとってはこの事態は渡りに船だったのだ。
実際、事態はリュケネの想像通りに進展した。
外への逃げ道が示されると、特に兵と指揮官との結びつきや指揮力などが落ちるカレア隊の一部から勝手に戦列を離れて逃げ出す兵士が出て、それが瞬く間にカレア隊の全て、更にはアストリア隊へと広がっていった。ここまで秩序を持って退却することで壊滅を免れていた両隊は崩れ落ちた。
リュケネもザラルセンもエレクトライもベルビオもその隙を見逃さずに、一斉に槍を揃えて襲い掛かる。
王師は逃げるアストリア、カレア隊、そしてそれを救援しに来たメネクメノス隊をも埃のように掃き散らす。
なにしろ数と勢いが違った。教団側は王師の攻撃を支える寄る辺を持てずにただ逃げ惑う。
王師は不等速の速度で勝手ばらばらに戦列を押し上げ敵を駆逐する。
メネクメノスが駆けて来て、包囲網を切り裂いた先である低湿地帯には障害物が多い。逃げる方も追う方も一定の速度を出せるわけではなかった。
といってもそれがどちらかに有利に働いたかといえばそういうこともなかった。ある者にはそれが幸いに働き、またある者には不幸に働いた。
外縁部にいたことでメネクメノスはある程度の兵と共に混乱地帯から真っ先に抜け出ることができた。
味方を助けようとした行動が、却って味方を奈落の底へと追い落とす事態になってしまった。
メネクメノスは喜劇的な立場に追いやられたことになる。