青野原の戦い(Ⅶ)
左府の本陣に不意の来客があった。羽林大将軍だった。
明日の布陣にたいしての打ち合わせと、回廊に突入した左軍について話すためだ。
「どうやら左軍は損害を出しつつも致命的な失敗をすることなく撤退をしたようだ」
二人が見る前で五色岳口は撤退する左軍を全て吐き出すと、やがて南部諸侯の軍旗が入り口でちらちら見られるようになった。
「だが、敵はあれ以上出て来ぬようだな」
「出入り口付近でウロチョロして我等を誘っておる」
時間がいくら過ぎようとも彼等はそこから青野原に足を踏み入れる様子がなかった。
「行くか? 羽林大将軍?」
「冗談を。私に内府殿の二の舞になれとおっしゃるのか?」
「ということは今日はここまでであろうな」
羽林大将軍は太陽の位置で時刻を確認する。もうすぐ申の刻(午後4時)といったところだ。日暮れまで近い。
「ええ、決戦は明日でしょうな」
その二人にのっしのっしと足音に怒りを込めて近づいてくる影があった。
「どういうことだ!」
怒鳴り込んできたのは内府だった。脂ぎった顔から汗がしとどなく流れ、蒸気を顔中から噴出するような勢いだった。
「何故、我々が敵の攻撃を受け苦労しているのを、黙って指をくわえてみておったのだ!」
「我等が援けに入ったとしても、状況は変わらんよ」
左府は腕を組んで目を伏せたまま、その問いに答えた。
「左様、むしろ狭い回廊により多くの兵が入れば、混乱に拍車がかかり被害が大きくなるだけだ」
羽林大将軍はむしろ勝手な行動をした内府の行動を問題視した。
「そもそも我らは広い平野にて一大決戦を挑むことを決めておったはず。何ゆえ敵の手に乗って追撃などしたのだ? 抜け駆けの功名を狙っておったのではないのか?」
「なんだと!」
左府が二人を制するように片手を挙げた。
「仲間割れはその程度にしておけ。我々の相手は王だ。王師同士で戦っても相手を利するだけだぞ」
「・・・・・・」
「とにかく明日に備えることにしよう」
「このまま今日と同じでは、おそらく明日も青野原に入ってくることはないかもしれぬ。ここは中書侍郎の策に従って陣を後退させ誘い込む。それぞれ今日中に青野原の端、丘陵部まで退いて陣を組もうではないか」
羽林大将軍が意思の統一を計るべく念を押すように言った。
「明日は敵が入ってきてもすぐに攻めぬようにしなければ。陣を整える時間を相手にくれてやろうではないか。正々堂々の野戦ならば負ける気遣いはないのだから」
左府のその言葉にも内府は不満があるのか返事をしなかった。
青野原の入り口に歩哨を残して、追撃をしていた部隊が疲れた足取りで戻ってきた。
今日の前哨戦は我々の勝利といっていい。王師左軍に損害を与え、戦場であった回廊を確保したのだから。だが犠牲もまた大きい。死傷者合わせると五百に近い数であった。
これほど有利な陣形を敷いて、思惑通り伏兵による奇襲が成功したって言うのにこの有様だ。王師三軍とまともにぶつかって勝てるのか?
有斗は暗い気持ちで歩いていると「何、暗い顔してるんだよ!」と、アエネアスが景気づけのつもりか肩をばしばし叩いた。
いいなぁ、いつも明るくって・・・悩みとかないんだろうなぁ・・・
「そういえばアリアボネは?」
と有斗が尋ねると
「ん? さっき兄様のところに行くのを見たけど」との返事があった。
「そうか。明日のことで相談したいこともあるし、行ってみるか」
有斗はダルタロスの旗を見つけるとそこへと足を向ける。
アリアボネは明日の決戦の前に是非とも敵の陣形をその目で確認したかった。
両側の山系は急な勾配で道程も長い。アリアボネの体力では自力で登ることなど不可能ごとだった。そこでアエティウスは屈強な兵士四人に輿を担がせ、アリアボネを山頂まで連れて行かせた。
山頂からの展望は想像以上のもので、一眼の元に敵の布陣が収まっていた。
王師らしく素晴らしい堅陣を敷いて、それぞれ青野原の南端からは離れた位置に陣取っている。
それを見た瞬間、ぞくり、となにかがアリアボネの身体を駆け抜けていった。まるで神様がアリアボネに与えた啓示であるみたいに、とらえどころの無い感覚であった。
今のは何なんだろう・・・?
不思議に思い、もう一度、アリアボネは青野原全体を見渡した。
王師左軍、中軍、右軍、それぞれ青野原の端より、やや高く盛り上がった丘陵地帯にそれぞれ陣を構えていた。
入り口からはそれなりに距離がある。今日敷いた陣を捨て、わざわざ後退させたようだ。
意図は明白だった。我々を平野におびき寄せようとしているのだ。入り口で先頭部隊だけ叩いても確実な勝利は得られない。
わざわざ距離を開けているのは、我々に陣を敷く空間と時間を与えるから、平地に出てきて決戦しろと言っているのだ。狙いは明確、王の首をここで取り、全てのケリをつけるつもりだ。
明日、青野原の敵に対して私たちはどう布陣するだろうか。
敵は両翼に騎兵を配置し、鶴翼の陣で襲い掛かってくるだろう。
いや、左翼に集中して騎兵を配するかもしれない。その方が効率的だ。だとすると我々は敵が回りこみを計るであろう自軍の右翼に最精鋭の騎兵を持つダルタロスを中心とした部隊。
中央に位置するのは、分断されることを警戒すれば、当然王師下軍。左翼は南部の中小諸候となるだろう。
頭の中で幾度も戦わせてみる。だが、一度とて勝利する予想は立てられなかった。
右翼だ。右翼がきっと持たないだろう。
もし右翼に兵を回し、なんとか持たせても今度は左翼が包囲されて陣が崩れ落ちる。やはり無理だ。我々に勝機はない。
勝利するにはそれこそ天から神兵でも降りてきて味方しないかぎりは。
青野原には出て行くべきではない。アリアボネの理性はそう言っていた。
風が吹き抜ける。
青野原は四方を山に囲まれた盆地。だが盆地の湿気もここまでは上がってこない。代わりに山々を駆け抜けていく風が心地よかった。
これくらいの風が麓にもあれば兵たちも過ごしやすくなるのだけど。
陛下も来られれば良かったのに、軍中の陛下は窮屈そうだった。気晴らしにお誘いするべきだった、とアリアボネは今更ながら思った。
境界線の山々の影は長く延び夜に備えて暗闇を作り出していた。
まだ闇に飲まれていない地は夕焼けが綺麗に赤く染め抜いていた。
明日は今日にもまして好天、きっと今朝まで降り続いた雨が作った水溜りも昼の間には消えうせることだろう。
重装騎兵も難なく動かせるようになる、合戦には持って来いだ。
・・・?
再び何かが体の中を駆け抜け、アリアボネは盆地を再び見る。
盆地の端の山々では、森が溜め込んだ水気を靄となして吐き出している。
もう一度西の空に振り向くと、雲ひとつない空に浮かぶ西日がアリアボネの顔を赤く照らした。
・・・
もしかしたら・・・これは!?
高祖神帝サキノーフ様御世の青野原の戦いでは、何故五倍もの兵力差があったにも関わらず高祖神帝が勝ったかは、未だ兵家の論争となるところ。決着は着いていない。
軍記物語では、当時まだアメイジアに無かったサキノーフ様の作られた長槍が局面を打開したとも、もしくはわかりやすくサキノーフ様の神通力で勝利したということになっている。だけど・・・確かサキノーフ様が攻められたのも今頃の季節・・・ひょっとして・・・もし、これが私の想像通りだとすれば・・・!?
・・・
・・・・・・
もし、もしもだ。
そうなった時、もし王師を何らかの方法で個別に撃破すれば・・・?
その時、先ほどと同じようなひらめきが三度アリアボネの頭を駆け抜けた。
左軍と中軍と右軍から南端の入り口までのそれぞれ距離は完全な等間隔ではない。そこに何か付け入る隙があるのではないか。
・・・アリアボネの頭は過去の膨大な戦争、戦術、戦略が全て詰め込まれている。その中にひとつ魅惑的な戦術があったことを思い出した。
それは危険な誘惑だった。
もし意図が見破られれば、我が軍は逆に敗れてしまう。しかも普通に戦うより容易に、だ。
・・・でも、天下に私と知力で五分に戦えるのはラヴィーニアだけ。
私は極力存在を隠してる。私が南部諸候軍にいるとはラヴィーニアは知らないはず。あの娘は認めた相手以外の人物を軽く見て、警戒しないという悪い癖がある。ならば恐らく戦場にまで来て戦術を立てるなどという面倒くさいことはきっとやらない。つまり、目の前の三軍のどこを探してもラヴィーニアはいない。だって王師三軍を敵を包囲するように青野原に配置するという、誰がどう見ても既に勝ちは見えた戦にしたのだもの。もう自分の出番はなくなったと思っているはず。
ならば・・・見破られずに実行できるのではなくって?
もし成功すれば、完膚なきまでに勝利することが出来る。・・・だがそれは危険な誘惑に思えた。見返りは大きいが、不安定要素もまた多かった。
それにラヴィーニアだけを敵と決め付けるのもどうかとも思った。私が知らないだけで、私を上回るまだ見ぬ軍師が王師にはいるかもしれないのじゃなくって?
・・・でも、その時はその時と再び思い直した。
元々、アリアボネたちに勝ち目は薄い戦い。戦略的に負けている以上、アリアボネたちが勝利するには、戦場で危ない橋を渡り、戦局をひっくり返すしかない。
・・・でも、しかし・・・
考えるのよ、アリアボネ。
もし陛下が私の策を採用されたら、失敗すれば大勢の命を失うことになる。
私の夢も陛下の大望も、いや、陛下の命すら失ってしまうことになるのよ。
それは本当に明日取るべき戦術なの?
アリアボネは青野原を赤く染める夕日を見て、遂に決意を固める。
この数日の雨天。西天に雲ひとつない今日の天気。この天気ならば・・・必ずや明日は・・・!
「すみません! 皆様!」
アリアボネはそばで休憩している、自分を担いできた四人の兵士に声をかけた。
「お願いします! すぐに・・・急いで陛下のところまでお願いいたします!!」
先ほどまで風に涼んで何事かを考えていた軍師の、突然の豹変振りに、兵士たちは何が起きたのか、と顔を見合し驚くばかりだった。
アリアボネは真剣な顔で懇願する。
「私たちが勝つかどうかは、明日の朝までに準備ができるか否かにかかっているのです!」
後記
おわらな~い。いつまで経っても青野原が終らない・・・
多分あと一回か二回、長くなるかもしれませんがそこらで収めたいと思います。もうしばらくこの戦いにお付き合いください。