コルペディオンの戦い(Ⅸ)
ザラルセン隊の数は一万五千、ステロベ、ベルビオ、アクトール率いる重装歩兵中心の三師もざっと一万二千はいる。羽林の兵と合わせてざっと三万弱。もちろん全てがまだ戦場に到着して戦闘に加わったわけではないが、相手はバルカ隊、デウカリオ隊だけの計一万三千の兵である。
数だけなら既に逆転している。更には兵の質、軍としての組織力の差では圧倒的な力の差があるし、確かにデウカリオもバアルも攻守に優れた将軍であることは疑いの余地もないことではあるが、王師の将軍もステロベ、ベルビオ、アクトール、ザラルセンと猛将揃いだ。大きく見劣りするわけではない。
付け加えるならば教団は中軍と右翼が壊滅し、敗走したのに対して、王師はこの圧倒的な頽勢を覆し、全ての部隊が戦場に残っている。
何より総司令官がいない教団側に対して、王師には有斗という確たる存在が戦場にいるという有利さもある。
こうして一つ一つのファクターを並べてみると、もはや王師がこの中央部での戦いで負けるべき要素は見られない。
というよりはもはや教団の敗勢は揺ぎ無いものにしか思えない。
だが不思議なことに、この中央部で続けられている戦は混沌の中、教団側優勢で進められていた。
もちろん王がいる本営が完全に敵に包囲され、それを救出することを主眼にした強引な突破が試みられる一方で敵全体に対する攻撃がおざなりになり、全体として敵の攻勢を許してしまったことや、王の救出に焦るあまりに攻撃を急いで、戦列を整える暇を兵士に与えられなかったということもある。
だがそれにしてもここまで戦力的に差がありながら、長時間にわたって五分以上にバアルやデウカリオが戦い続けられたことはやはり不思議なことであった。
そこに戦と言うものが方程式で解き明かされない理由があるのかもしれない。
平原では激戦が続けられた。歓呼の声が鳴り響き、いたるところで剣と剣、戟と戟、槍と槍とがぶつかって火花を散らし、断末魔の声が木霊した。
混乱は一向に収拾する気配を見せなかった。
王師は王を救出しようと、教団は王を首級にしようと、全ての兵員の意識が只一点に向いて集まる形になったからだ。
その中でデウカリオ隊はただ一隊、円を描くように王師の群れの外縁部に突き刺さり、百人隊長の下に集まる気配を見せるなどの王師の組織再生の動きをその度に潰して回った。
主戦場からあぶれたデウカリオだったが、その分、混戦に巻き込まれなかったことで混乱の中から一部の兵と共に離脱し、この戦場において羽林以外で唯一、集団としての意識を持って行動し得れた部隊となったのだ。
バルカ隊は指揮官であるバアルが混乱の中に巻き込まれてしまったため、目の前で起きている混乱に対処する行動をなんら起こすことが出来なかった。
だが代わりに当初の指示を堅守し、相変わらず羽林の籠もった小山をぎゅうぎゅうと締め上げていた。
有斗にとっては、いや王師にとってはこの状況は望ましいことではない。
確かに今だ羽林はアエネアスの指揮の下、バルカ隊の攻勢を退け、戦列を保って有斗を守り続けている。だが同時に今だ救援の兵をその包囲網の中にただ一兵であっても入れることが出来た将軍は存在しなかったのだ。
何かをきっかけに羽林の防衛線が崩れて有斗が討ち取られるという危険は未だにそこに存在していたのである。
頭では一度、陣を後退させて部隊を再編し、再度攻撃をかけた方がいいとは将軍たちは皆、理解しているものの、王師の部隊が兵を退けば、その部分の敵の部隊はその場で戦列を組みなおすことが出来る上、空いた手を羽林に対して向けることが出来る。
今でさえ目の前の敵の相手に苦戦している羽林がその新手の組織立った攻撃に持ちこたえてくれるかといったら自信が持てなかったのである。
自らの撤退によって王を討ち死にさせる事態になったら責任は重大である。良くも悪くもこの膠着状態を打ち破りかねない決断は一人では出来そうになかった。
しかも総大将であるそれを有斗が命じようにも、敵の兵に取り囲まれて彼らと切り離されていたから、それもまた不可能だったのだ。
戦場において長い混迷状態が続き、有斗は一生分の忍耐を使い切るような胃の痛む時間を過ごす。
今は苦闘を続ける王師も兵力において優勢なだけに、いずれはデウカリオ隊もバルカ隊も疲れ果て、戦況を変転させる時が来るに違いない。
だが一秒一秒が過ぎ去るたびに無傷の羽林の兵は数を減じていく。この混迷を抜け出す光明は有斗にはまったく見出せず途方に暮れた。
だが天は有斗を見放さなかったというべきか、それとも王師や羽林の諦めない心による奮戦が道を切り開いたというべきか、大いなる援軍が有斗を助けに天から舞い降りてきた。
それは闇。
どんな権力者ですら意のままにならぬもの、落日による闇。先程まで戦場を赤々と照らし出していた太陽は今や山の稜線にその姿を隠し、周囲は急速に暗闇に包まれて行った。
夜戦というものが一般的になったのはレーダーや照明弾や暗視装置など、夜行性の動物で無い人間の視力を補う手段が開発されてからのことである。
それまでは夜戦というものは極めて特異な戦の形態であった。
考えれば当たり前である。強力な光源を持たない時代、夜間は障害物に対しての確認が困難となり、機動力が著しく低下する。何よりも敵味方の区別が極めて難しく、同士討ちになりやすいのである。
というわけでこの時代の夜戦は双方が夜間、兵を移動しての遭遇戦などではまずありえず、明かりを煌々と照らしたどちらかの陣営地に奇襲をかけることと同義語であった。
そして歴史上、夜戦と呼ばれるものの多くは払暁の頃に行われた、いわゆる朝駆けと呼ばれる類のものが圧倒的に多いのである。
その頃、ようやく混戦地帯を抜け出たバアルは、完全な闇に閉ざされる前に兵を安全な場所まで退避させることを決断した。
決断せざるを得なかった。
「これが限界です。兵を退きましょう」
戦場を長駈、有斗の下まで馳せ参じ数に倍する敵と戦い続けたバアルたちも既に疲労で限界だったのだ。
偶然近辺にいたデウカリオに兵を合わせての撤兵を具申する。バアルにしても気の合わない相手であるが、戦場に取り残して討ち死にでもされると寝覚めが悪いし、生き残って、後で怒鳴り込まれるのも願い下げだった。次の戦にデウカリオがいるのといないのとでは味方の士気にも大きく関わることでもあるし。
「教団どもがへっぴり腰でなければ王師に止めをさすこともできたかもしれなかったのだが・・・」
彼らと行動を共にしていた教団左翼の兵、そのうちの五万・・・いや三万でも彼らと共に王師の本営を突いてくれさえいれば、数の圧迫によって本営を押しつぶすこともできたのだが、とデウカリオは実に悔しそうだった。
それは恐らく無理だろう。そうなれば逆に王師右翼の兵も本営に戻ることが出来たに違いない。そうなれば彼らとてここまでの健闘はできなかったであろうし、何より今度は今から彼らが行う脱出が簡単に出来なかったに違いない。
だがそう思いたい気持ちも分かる、とバアルは思った。これほどまで王師を押し込み、後一歩のところまで追い詰めたのだ。
こんな好機はなかなか巡ってくるものではないのだ。
だが、この戦は決して失敗ばかりではないとバアルは自身に言い聞かせた。
大兵力を結集して、正面から激突し、三方からの包囲を行って失敗したというのは大きなマイナスではあったが、全軍が崩れ去り、追撃戦で全軍に大きな被害を出して再起不能状態に陥ることだけは避けられた。
それに左翼から回り込んだバアルとデウカリオによって王師にもそれなりの出血を強いることも出来、教団としても一定の意地を示すことが出来た。
必ずしも一方的な負け戦と言ったわけではない。
バアルは羽林の囲みを維持して敵に圧力をかけながら、全軍に撤兵の準備を命じ、敵の様子を窺った。
敵の攻防の呼吸に合わせて一気に兵を退くことで自軍の損害を最小限に食い止めようとしたのだ。
幸いなことにデウカリオはバアルの援護要請を了承し、攻撃態勢を取り敵の注意を惹き付ける。
なにかと馬の合わない二人ではあるが、こういうときは大いに頼りになる相棒なのである。
もはや薄明かりだけを頼りに軍事行動を行わなければならなくなった頃、王師はついに羽林の兵と一手になることができた。つまり王の救出に成功したのである。
もっともそれは王師がバルカ隊の包囲網を食い破り、窮地の王を救い出したという話ではなく、バルカ隊が一方的に退いたことにより開いた空間に王師が殺到して羽林の兵と合流したといった話であったが。
周囲から敵を排除したことを確認して、有斗の元に次々と戦闘を終えた王師の将軍たちが駆けつけてくる。
教団左翼と戦いを続けていた王師右翼の諸隊も無事に戻ってきた。教団左翼で一、二を争う強敵であるデウカリオ隊とバルカ隊がいなくなったことで、他の方面からの援軍が到着しなくても辛くも壊滅を免れたのだ。
有斗は各将軍から話を聞き、この戦闘全体がどういった推移でこの結末に至ったのかを知った。
敵の思惑を看破し、思惑通りに戦闘を経過させたのに、只一人の男の行動が有斗の手から完勝という言葉を叩き落し、代わりに危うく完敗の文字を握らされそうになったのだ。
「また、バルカか!」
有斗は再び己の前に大きく立ちはだかった男の名前を聞いて、呻くようにその名前を吐き捨てた。
こんなことならば何を優先してでも、あの男を殺しておくべきだった。アエティウスが殺されたからという感情的な理由からだけでなく、アメイジアの統一事業にここまで妨げになるのならばそうすべきだったと有斗は心からそう思った。
それにその機会はこれまで十分にあったはずだ。関西降伏後に、白鷹の乱後に、カヒ滅亡後に、オーギューガ討伐後に。
それをしたらセルウィリアは悲しむかもしれないが、代わりに多くの将兵の家族が悲しまずに済んだはずだ。
自分が信を掲げて、寛容をもってアメイジアに平和をもたらすとおおっぴらに広言したことをすっかり忘れてそう考えるほど、有斗は心底腹を立てていた。
いったい、何があの男を駆り立てて、ここまで有斗に歯向かわせているというのだろうか。有斗はそこのところがいまいちよく分からなかった。
別に有斗がセルウィリアを寝取ったというわけでもないのに。指一本触れちゃいないぞ。そりゃあ触れられるものならば触れたり触ったりいろいろしたいとは思ってはいるが。
とにかくなんとしてでも戦国の世の終結を試みる有斗の邪魔をしようとしているようにしか見えなかった。
かといって噂に聞く理知的なバアルの姿からは、平和の世の到来をなんとしても阻止したいといったような悪魔のような動機を持つ人物とも思えなかった。
「いったいあいつが僕の前に立ち塞がったのはこれで何度目だ!?」
普段は大人しいだけに珍しく怒りを露わにする有斗に将軍たちは気圧されたか一言も発しなかった。
もっとも単に珍しいものを興味津々で眺めていただけかもしれなかったが。
「それならば敗走している今が好機。退却している時が最も損害を被るものだ。追撃を命じてはどうだ? 討ち取れるかも知れんぞ」
とアエネアスが言いつつ肘で有斗のわき腹を突いて注意を促した。
有斗ははっと我に返る。
王はどんな理由があろうとも、感情のままに喜怒哀楽を容易く表に出してはいけないのだ。表すに足る理由があるときにだけ表してもよいのである。
これではまるで命が危険に晒されたことに対して動揺し、怒りを将軍たちにぶつけている小さな人間のようではないか。
もちろん王師の将軍たちはそうでないことは分かってくれるだろうが、この光景を目にした兵士たちまでもがそう考えてくれるとは限らない。狭量の王だと後ろ指を差されて噂されるに止まらず、王としての資質さえ疑われてしまうだろう。
有斗は深呼吸をすると必死に感情を落ち着かせ、努めて冷静に判断を下そうと熟慮した。
「いや、最後にあっさりと兵を退いたことが気になる。劣勢なのは王師だった。優勢のまま兵を退くなどありえない。あるいは兵を引き込んで伏兵で襲うといった偽退かもしれない」
有斗の言葉にエテオクロスが賛同した。
「陛下、王師は負けてはおりません。戦場を最後まで確保したのは我々です。それに教団の目標が王師の撃破であったのに対して、我々の目標は関西との途絶した連絡を元に復すことです。勝利条件を満たしたのは敵ではなく我々のほうです。しかし確かに敵に勝ったとはいえ、多数を誇る敵兵力を無効化できたわけではないことを考えると、深追いはしないほうがいいかもしれませんな」
今回の戦の戦略目標は教団に勝利し、それを殲滅ないし解体することであるが、今回の戦闘の戦略目標は関西との連絡を取り、関西の諸侯と糧食を手に入れることなのである。
ここで無理をしてせっかくの勝ち戦にけちをつけることはない。