教団の誤算
ともかくも教団はトゥエンクの地に迫っている。まごついている時間はない。
マシニッサは集まってきた兵を手早くスクリボニウスら同行して来た将軍たちへと割り振って、とりあえず軍隊としての体裁だけは整えた。
長らくトゥエンクの軍隊の中核を占めていた部隊長クラスの者たちは、多くがマシニッサとともに坂東へと行き、各々が封地で新たな土地と民に慣れようと刻苦精励していたため、今回の急な出立には残念ながら連れて来ることが出来なかった。
総司令官、指揮官、下士官、兵長、兵士、その全てが揃ってこそ軍隊は機能的に働くことが出来る。
マシニッサの組織した軍は軍隊の背骨ともいえる百人隊長や歴戦の伍長がいないのだ。急造の百人隊長や伍長でどれほどの働きが出来るものなのか不安が残る。
確かに地元で自らの土地を侵略者から守るのだ。その士気も高いし、遠征するときに比べて兵站を考えずに済む分、動員する兵力も増えることにはなるだろう。
だが一つの宗教で結びついた信者の結束だって馬鹿には出来ないだろう。それに何よりもその数は驚異的だ。まともに正面からぶつかって勝負をつけることをマシニッサは考えなかった。
マシニッサはトゥエンクの特殊な地形を利用した。何しろ、皆この地で生まれて育ったのだ。全員がトゥエンクを熟知しているといってよい。対して敵にとっては未知の土地だ。その利点を利用しない手は無かった。
トゥエンクには北方に河北と南部とを分ける急峻な山岳地帯、東には大河、そして大河に注ぎ込む大小さまざまな河川とその周辺にある沼沢地帯がある。
これを利用すれば寡兵であっても戦い抜ける自信がマシニッサには充分あった。そう、かつてカトレウスをしてトゥエンクにあのイタチめがいる限りは迂闊に踏み込めぬとまで言わせた戦い方である。
カヒの統率の取れた騎馬兵団に比べれば教団の兵などマシニッサからしてみれば赤子も同然だった。
「ここは道が狭い。しかも片側が崖、もう片方が谷川と奇襲をするにはもってこいだ。お前はここに兵を伏せ、敵の先鋒が通ったら奇襲をかけ谷川に叩き込め」
マシニッサは教団の進路を予測し、寡兵で攻撃するのに適した地に兵を伏せるようにスクリボニウスに命じる。
「マシニッサ様はいかがなさるので?」
まさかとは思うが、スクリボニウスらを置いて逃げ出すとか、あるいはスクリボニウスらを教団の大軍の前に投げ出して囮にし、全滅するまで戦わせて、敵が疲れたところを背後から強襲するとかいった作戦をマシニッサが取るのではないかと恐れたのだ。
「俺は奴らの足を止めるのだ」
スクリボニウスに歩兵を預けて陣地作成を命じると、マシニッサは集まった兵の中から三百の軽騎兵を率いて裏道を通って迂回し、教団の先鋒集団の背後に回った。
その日より教団の兵たちは眠れぬ日々を過ごすこととなった。
圧倒的大兵力による侵攻に油断もあったのかもしれない。
突如として現れた騎兵に奇襲をかけられた教団の軍は、比較的後方の、安全と思われていた箇所だっただけに、満足な対応も出来ずに散々に打ち負かされた。
「クソッ! また敵に逃げられたか!!」
味方の危機を聞き、せっかく前線より精鋭部隊が救援に駆けつけても、その頃には敵兵の姿は影も形も無かった。そこはマシニッサ、目的を果たせば素早く兵を退く。抜かりは無い。
おかげで教団の行軍速度は落ちる一方だった。
何度も襲撃を食らえば教団だって警戒する。後方集団でも警戒を厳にし、マシニッサの軽騎兵による奇襲はさほどの効果をもたらさなくなった。
だが今度は敵が二手に分かれたことを聞きつけたマシニッサは、数の少ない方の部隊の側面に素早く回りこみ速攻をかけて、これまた勝利を容易く拾う。大きく混乱する教団に付け入り、兵糧を焼くという大戦果をあげることにも成功した。
しかし、それは全て局地的勝利。そうこうするうちに、教団はじりじりと前進を続け、トゥエンクの地の制圧は続いていく。
そこでようやくスクリボニウスに命じていたことが役に立つ時が来た。
崖の上で準備万端待ち受けていたスクリボニウスらは部隊をある程度通したところで不意に兵を立たせて矢の雨を降らせ、崖下へと丸太や岩を転がり落とし、教徒を谷に蹴落とし、あるいは沼の奥底に沈めた。
教団の兵が大勢の兵を失いながら決死の覚悟で崖上に辿り着いた時には、スクリボニウスらは既に逃げ去った後だった。
一千に満たぬ兵に十万を超える教団が手玉に取られたのである。
だがそうはいっても南部から、あるいは河東から大河を渡ってやってきた教徒は想像を絶する数だ。そんな小細工では地鳴りを上げて進撃する教団の足を本格的に止めることはできない。
マシニッサたちはとうとう両軍に挟まれる形でトゥエンクの端に追いやられる。
さすがにマシニッサも部下の手前、散兵戦だけでお茶を濁して、本格的な戦を一戦もせずに畿内へ兵を退くわけには行かない。
もしマシニッサが教団と一戦行う前に畿内への撤退を命じても、自分の住むトゥエンクを守りたいが為にマシニッサについてきた兵たちは行動を共にしないだろう。マシニッサに幻滅して各々が勝手に教団に戦いを挑み、そして数の暴力の前に散っていくことであろう。
マシニッサとしてはこの手持ちの兵力が乱が終わるまではなんとしても必要な以上、一戦交えないわけにはいかなくなったのだ。
といっても兵力を消耗したくはないので、マシニッサとしては本気で戦う気など毛頭なく、ほどほどに戦って逃げ出す気で溢れかえっていた。
だから戦は徹頭徹尾、教団のペースで行われた。入念に堅地を選んで布陣したマシニッサ側に防御陣の外へ打って出る気が無かった以上、当然の結末である。
マシニッサが取った戦法は、カトレウスに対して行ったように、沼沢、森林、丘陵、山岳をもって攻め口が限られるという極めて狡知に長けた陣形だった。
問題はその時と違って時間制限があることである。万を超えるとはいえカヒにはさすがに周辺の山や沼を大きく取り囲んで陣を敷くだけの兵数は無かった。だから攻め口を挟んで睨み合うしかなかったわけであるが、教団の擁する兵は桁が一つ違う。
後方に回り込まれて完全に周囲を包囲されてしまったら終わりである。後は徐々に徐々にと包囲網を狭めれば、マシニッサたちは袋の中の鼠として始末されてしまうだけだろう。
逃げるタイミングだけは間違えるわけにはいかなかった。なにせ己の命が掛かっている。
マシニッサは他人の命は道端に落ちているゴミほどにも気にも留めない男だったが、自分の命ともなれば細心の注意を払って石橋を叩いて渡るが如くに物事を進める気になるという、極めて現金な男だった。
だからマシニッサは敵の動きを常に把握することに全力を注ぎ、戦に集中していたとはとても言いがたい有様だった。
もっともいびつな地形を活用するだけ活用した陣営地があり、自分たちの土地を守ろうと兵士たちの士気も高くて、特にマシニッサが詭計を弄さずとも、防衛戦は優勢に行われていたのだったが。
だが敵は素人とは思えない重厚な陣を築き、木を切り倒して仮橋をこしらえ、マシニッサさえ予想もしていなかった方角から攻撃を加えてくる。
「攻め込んでくる教徒は槍の持ちようもままならない素人だってのに・・・なんだこの息つく暇をも与えぬ組織だった動きは・・・?」
兵の動きはどう見ても素人なのに、軍は兵理を持って動いていることは間違いが無かった。素人と思って油断していると恐ろしいことになるという予感をマシニッサはひしひしと感じた。
その薄気味悪さは戦っているトゥエンクの兵も存分に感じていた。一対一では教徒に後れを取らないし、兵数に差はあれど狭い戦場では同時に戦える兵数はほぼ同じ、陣取っている地形も防御側が有利、だが確かに徐々に教団に押し込まれているという事実が彼らを不安にさせた。
マシニッサは敵が両翼を広げて戦場を広げていることを確認すると、包囲されては勝ち目がないと撤退を決意したことを兵に告げた。
兵たちも反対する者は一人もいなかった。それだけ教団の戦い方が薄気味悪かったのである。
マシニッサたちはその複雑な地形を利用して教団の追撃を振り切ると、地元の者以外には進めぬ奥山深くの山道を伝って畿内へと脱出を図った。
そのためには多くの犠牲を払わなければならなかったが、その困難な退却戦をマシニッサは強靭な意思をもってなんとかやりぬいた。
だが、もしこの作戦を立案したバアルとデウカリオが本当に兵を思うが侭に動かせたというのならば、マシニッサを取り逃がしなどしなかったであろう。
それが不可能だった理由は、教徒たちはあくまで教徒であり兵士ではなかったということにある。
まず彼らは所詮素人の集団で隊伍を組むことさえ満足に出来ない状態だった。
それに同じ教徒で無いバアルやデウカリオの言うことを、教徒たちはまったく聞く耳を持たなかった。上官の言うことを兵士が聞かないというのは軍隊としてはありえないのである。
仕方がなくバアルは教徒たちに命令を伝えるために教団幹部に間に入ってもらうことにしたが、これが却って混乱を引き起こした。
戦場における戦闘とは如何に効率よく味方を犠牲にしつつも敵を多く殺すかである。
ところがその意図を教団幹部たちは理解しない。それではこちらの部隊はただ死ぬだけではないかとか、陽動で動かす部隊の移動を無駄の一言で片付けようとする。
「こちらは数が多いのだ。一斉に襲い掛かって数で圧倒したほうが被害も少なく敵地を速やかに制圧できる」
などと戦の玄人たるバアルらに大上段から素人意見を高説して、バアルを辟易とさせ、デウカリオを激高させた。
確かにそれは数に勝る教団にとって有効な戦い方だ。だがあくまで数の優位さだけを利用して攻める飽和攻撃は、犠牲を省みないやり方である。
消耗品扱いされた兵士は上層部を無能と思い、命令の有効性を疑うだろうし、戦で親しい人を失えば士気も下がる、多大な犠牲を目の当たりにすれば戦に対する恐怖も覚える。兵士たちはしばらく使い物にならなくなるだろう。
そんな戦い方をするのなら将軍などいらないのである。
王と戦うまでにド素人の教徒たちに戦いについてのいろはを教え、戦うことに恐怖を感じないようにして、兵としての自信をつける。
王と戦うという大目標を掲げている以上、将には目先の勝利よりも考えなければならないことがある。それがバアルたちの考えだ。
だがそれを教団の幹部たちは全く理解していないということだ。
さらにはそれぞれが受け持っている信徒たちが戦果を上げれば上げるだけ、教団内における自分の地位が上がると思っているふしがあり、せっかく苦心して考え抜いた布陣図を否定し、自分の信徒たちが活躍しやすい、攻撃に有利な場所に陣取らせることを主張し、事態を一層複雑化させた。当初には戦闘に全く加われぬ、背後に回す部隊を誰が受け持つかでも揉めに揉めた。
怒りのあまりデウカリオが匙を投げる中、バアルはそれでも苦心惨憺調整を続け、なんとか戦闘と言う形にまで持ってきた。
自分がいる限り、どんな戦になろうとも無様な戦にだけはしない。それがバアルの誇りである。
いまだ隊列も碌に組めぬ教徒たちを自由自在に進退させるなど望めぬこと、ならば同じ我攻めで攻めるにしても左右の部隊と連携させるように動かすことで少しでも犠牲を少なく、効果的な攻撃になるように戦場全体を組み立てる。
だがそんな苦労は戦のことを知らぬ教団幹部たちには見えない。
見えるのは戦場の様相、そして結果としての数字。どこの部隊が一番に槍をつけ、いつ敵陣地を奪取し、どのくらい敵の首を取ったかという、表に現れる素人にも分かりやすい結果だけを見た。彼らには戦には裏働きや下働きがあるということをまったく理解しなかったし、しようともしなかった。
そうなると目立ったのはバアルやデウカリオが実際に指揮した部隊ではなく、バラスやカレアが指揮した教徒の部隊だった。
彼らは挙兵以来一貫して行動してきたため、ある程度、軍隊として組織化できており、機能的に動くことが出来たのだ。
だがいうなればただそれだけのアドバンテージだったのだが、教団首脳部はそうは思わなかった。
なんと逆にバアルやデウカリオの采配能力に疑問を持ったのである。
マシニッサは敗れた。教団はトゥエンクの地を押さえて南部全域を支配し、河東の強力な部隊を吸収して一気に戦力に厚みを持った。
だがマシニッサのしたことは決して無駄ではなかった。トゥエンクの地の接収に教団は二週間の時間を費やさねばならなかった。その間、教団は実質停滞していたということになるのだから。
その間に有斗の下に鼓関を発した使者が到着することで、この戦争は大きく動くことになる。
二十人もの数、幾度にも分けて出された使者のうち、王都に無事に辿り着けたのはなんと彼一人だけだった。教徒は本街道だけでなく脇道をも押さえて完全に王都を孤立させようとしていたのである。
そしてその探索の網にかかり、多くの者が命を落とした。だが十九人の犠牲は無駄ではない。その一人がもたらした情報が有斗を決断させるきっかけになったのだから。
「王都に引き続いて今度は鼓関だ。教団はどうやら奇手や奇襲を得意とするようだよ。油断できない連中だね。だがこれで敵の意図と、おおよその規模が把握できたんじゃないかと僕は思う」
朝会でこう切り出した有斗が何を言いたいのか理解できず、廷臣たち一同は顔を見合わせて困惑するばかりだった。
「できれば愚鈍な臣めらに分かりやすく話していただけると我らとしても助かるのですが・・・」
「まず関西では騒ぎが何一つ起きていないことが分かった。つまり関西にも深く広がっているような組織で無いということだ。そして王城に引き続いて鼓関を奪おうと計画し、それに失敗した。つまり教団は我々の眼に見えている南部の信徒こそ人数が多いが、王城襲撃などの計画につぎ込めるような信頼できるだけの実力を持った精鋭は実は少ない。しかも王城襲撃、鼓関襲撃の両方の失敗によってそういった精鋭も失われた。現在の実力は見掛けだけ大きい張子の虎だということだ」
「ですが南部にいる教徒だけでも数十万はおります。対する王師は合わせて五万。決して油断してはならないと臣めは考えますが・・・」
敵への油断は己の慢心へ、そして死への片道切符になりかねないと内府は有斗を戒めようとした。だが有斗はそれも織り込み済みで結論を下していたのだ。
「分かっている。だが敵の目的を考えると、どうしても早く戦わなければならない。何故ならこのままではいずれ戦いどころではなくなるからだ。敵は圧倒的な数を持っているのにそれを利用して津波のように王都に攻め寄せてこない。さらには王都を攻めるよりも何故か鼓関を押さえようとした。そしてそれに失敗すると、今度は王都との中間地点に兵を進駐させ関所まがいの物を造っていると言う。その目的はどう考えても関西と関東の繋がりを絶つことだ。同様に南部や河東との通信も途絶えている現状を鑑みるに、教団は我々、朝廷を諸侯や地方と断ち切って孤立化させるだけでなく、畿内と言う巨大な城に閉じ込め兵糧攻めにするつもりだということだ」
そう、教団が王都に攻めて来ないのが内府らが主張するように王師を王都から引き離して、その隙に王都を奪うことが目的ならば、それらしい動きが少しは無くてはおかしいのだ。按察使亜相の主張するとおりに和睦を求めて槍を向けないのならばそろそろ使者の一人や二人は来なければおかしいし、鼓関の使者を十九人も殺すことは無かったはずだ。
考えられるのは教団が自分の実力に自信が無くて、直接対決で決着を付けるのではなく他の手段で決着をつけようとしているという可能性だけだ。
ならば有斗が取るべき手段は一つ。教団の嫌がっていることを行い、その戦略を打ち破ること。
「それを打ち破ることがどうしても必要だ。このままではいずれ王師は兵糧を欠いて出兵もままならなくなる。だがその全てを一撃で解決する手段が我々にはまだ残されている。幸いにして鼓関は敵の手に落ちなかった。つまり街道上に陣取っている叛徒を排除すれば、我々は関西と連絡が取れ、諸侯に参集を命じれるだけでなく、関西の今年の収穫分の兵糧米を当てにすることが出来る」
有斗の言葉に廷臣は一斉にざわめき立つ。
「確かに・・・!」
「教団の主力は遠く離れた南京南海府だという。王師を急行させれば敵の別働隊など難なく排除できるのでは・・・!」
会議の流れは一気に主戦論へと傾いていった。
「では・・・?」
答えを促すような内府の言葉には廷臣たちも出兵に賛同の意図である空気が込められていた。有斗は重々しく頷いて宣言する。
「僕自ら王師全軍を率いて出兵する。南部を教団の魔手から開放する」
いよいよ王が兵を率いて南部へ向かう。それは名実共に教団が朝敵となったことを意味していた。