柔らかな笑み
小間使いから受け取った絹布の印影を見たアエネアスが、全てを察して屋敷の奥から駆けつけてきた。
アエネアスと目が合ったアリスディアは唇に人差し指をそっと当てると、ことを大仰にしない様に合図を送る。
ここに王がいるということだけは知られてはならない。
アエネアス邸を訪れたのが女官ならば、この一行を見た王都の者は話の種くらいにはするであろうが、そんなに大事にはならない。
だがもし、王がアエネアス邸を訪れているということが知れ渡れば、ひと目見物しようと、あるいは上訴しようと大勢の人が押しかけることだろう。その中に再び襲いかかろうと刺客が紛れ込んでいるかもしれない。
不慮の事故を避けるためにも王の訪問は知られてはならぬ秘事なのだ。
「・・・とりあえず、中へ」
アエネアスはアリスディアに目で頷き、家人に命じて馬車の通れる普段は使わない正門を開ける。
「ありがとう、アエネアス。ささ、それでは馬車を中へと入れてください」
アリスディアの指示に従って有斗の乗った馬車を邸内へと導きいれ、素早く門を閉じ、群衆の好奇の視線から馬車を隠す。
人目を気にする必要がなくなったため馬車は開け放たれ、ようやく有斗は外の空気を吸うことができた。
といっても有斗は馬車から降りなかった。別に尊大ぶったわけではない。ここに来るまでで体力を消耗してしまい、馬車を降りて部屋に移動する気力も無かったからだ。
代わりにアエネアスが有斗の側へと歩み寄った。
「やあ、やっとアエネアスの顔を見れた。普段見慣れている顔を見ないと毎日が何か落ち着かないよね」
有斗は苦痛に顔をゆがませていたが、アエネアスの顔を認めると嬉しそうに顔をほころばせた。
「有斗・・・どうして?」
「迎えに来たよ。アエネアス」
有斗の言葉に一瞬、嬉しそうな顔を見せたアエネアスだが、すぐに困惑の表情に変わる。
「迎えにって・・・、何を言っている? 今がどういう時か分かっているのか?」
「まぁ、もうちょっと安静にしてなきゃダメだと思うけど・・・このままじゃ、アエネアスが南部に帰っちゃうかもって思ったらさ・・・いてもたってもいられなくなって・・・それで、さ」
落ち込んでるであろうアエネアスを励まそうと精一杯喜びそうな言葉を考えて言ったのに、アエネアスがあまり嬉しそうな表情をしなかったことに有斗は少し傷ついた。
「有斗の体調だとか、そういうことを言っているんじゃない。あ、いや勘違いをするな。もちろん、あの怪我だ。もっともっと静養してなくちゃいけないとは私も思っている」
有斗があまりにも悲しそうな顔を見せたからか、アエネアスには珍しく有斗に一定の配慮をする。
「そうでなくて、今は有斗にとって政治的に大変なときだ。有斗に正面切って戦おうとする諸侯は確かにいなくなった。今までは外の敵に向いて一枚岩の結束を誇っていた有斗の朝廷も、権力を求めて各人がこれまでとは違った動きを行うだろう。これからは外でなく内での戦いを見据えて考えなくちゃいけない」
「分かってるよ。僕の意見を朝議で通すために廷臣たちの争いを上手く利用しつつも、彼らの対立が決定的な破局を迎えないように注意を払わなきゃいけない、だろ?」
それは王都に帰ってから刺されるまで、何度ラヴィーニアから耳にタコができるほど聞かされたことか。
「本当に? それは廷臣たち同士の権力争いに留まらないぞ? 全ての時代で王が必ず廷臣の上に君臨しているわけじゃない、王を操って権勢を欲しいままにした悪臣はアメイジアの歴史でも幾人か存在する。きっとそれは特別なことじゃない。王を傀儡にしようと望む野心家はいつの時代にもきっと潜んでいる。きっとこの朝廷にも。だから有斗は廷臣たちに弱みを見せてはいけない。付け込まれるだけだ」
「だから・・・アエネアスは自ら謹慎したの?」
「そうだ。有斗は優しい奴だ。きっと今回の私の不始末も不問にしてくれるだろう。だが、それでは朝臣たちが納得しないだろう。無理を押し通せば朝臣たちの反感を買い、朝廷運営に有形無形の妨害を受け、有斗の政権運営は困難を極めるだろう。かといって朝臣の一部を懐柔し、私の問責を引っ込めさせる代わりに彼らの出す要求を飲むというのはもっと問題だ。有斗はアメイジアを平和にするんだろう? その為には廷臣たちの知恵は借りても、彼らの我利を満たすような行動は許しちゃいけない。廷臣どもが国を食い荒らしたら、民は困窮し、王朝への不満が募ることになる。戦が無くなったかのように見えても、それは仮初の平和だ。政治の失敗から民は反乱を起こす。すぐに兵火は燎原の火のように広がり、再びアメイジアを覆いつくすだろう」
「アエネアスは羽林を辞めて、南部に・・・帰りたいのかな?」
「ま、まさか! そんな訳があるか!」
「それじゃあ僕の立場だとか、朝廷のことだとかアエネアスが考える必要はないよ。それは王様である僕の仕事だ。僕が何とかする。大切なことはそんなことじゃなくて、アエネアスがどうしたいかってことだと思う。アエネアスがこの先、どうしたいのかを僕に教えて欲しい。僕はそれをどうにかして実現してみせる。それが僕がアエティウスに頼まれたことなのだから。なるべく君が望むような結末にしたいんだ」
「そんなこと・・・言える訳が無いだろ!」
王自らが自らの権限を使って一人の部下を特別扱いし、優遇を図る。それは寵臣だ。しかも悪い意味での寵臣である。その他の大勢の特別扱いされなかった官吏は反感を覚えるだろう、それは王に対する不信へと繋がる。
「でも南部に帰りたくない・・・ならさ、ベルビオやアリスディアと一緒に僕の側に、羽林将軍としてこのまま留まりたいってことだよね?」
「・・・言えないと言っている」
「やっぱりそうなんじゃないか」
否定しないって事はそういうことだ。ほんとうに変なところが強情でいじっぱりな厄介な女だ。
「アエネアスは強いよ。僕なんかより遥かに強い。だけど肝心なときに強がるのは悪い癖だ。助けが必要なら言わなきゃだめだよ、分からないよ。もうアエティウスはいないんだ。君の事を全て理解して対処してくれるアエティウスはどこにもいない。そして僕はアエティウスほど君の事を全て分かっているわけじゃない。今回は気付いたけど、いつも君の孤独に気が付くとは限らない。もし悲しいことや不安や不満があれば声を出して僕にぶつけてくれていいんだ、ダルタロス家の移封騒ぎの時のように。そうだよ、あの時みたいに大きく主張すればいい。なんで自分のことになると閉じこもるんだよ? それに僕はアエネアスに頼って欲しいんだよ」
有斗に頼って欲しいと言われたときの顔ほど面白いアエネアスの顔を有斗はいままで見たことが無かった。
初めて告白された少女のように赤く、熟れた李より赤く顔を染めていた。
「~~~~~~~~~!!」
口を噛み締めて声なき声を上げているアエネアスを少し笑いながら有斗は片手を前へと差し出した。
「さ、帰ろう、アエネアス。王宮の執務室の僕の机の横の席で片膝を立てて行儀悪く座っていたかと思えば、食堂でベルビオたちと大声で笑っていて、廊下でセルウィリアと口喧嘩しているのがアエネアスだよ。いつまでも自宅に引きこもっているなんてアエネアスには誰よりも似合っていない」
「わ、わ、わ、わ、悪かったな!」
「で、アエネアスは僕と一緒に王宮に帰ってくれるのかな?」
「ふ、ふん! あ、有斗がそう言うのならば仕方が無い! な、なにせ王様の命令だからな、羽林大将としては聞かないわけにはいかないだろう! しょうがない、王宮に帰ってやる! 有斗がどうしても、と言うのならな!」
「うん、どうしてもだね」
どこのツンデレキャラだよと有斗が笑いを押し殺して真面目な顔でそう言うと、
「な、ならば仕方が無い。一緒に帰ってやろうではないか!」は何故かかなり高いところから許可を与えるような返答を返してきた。
真っ赤になって強がるアエネアスの意地っ張りにアリスディアをはじめ女官は笑いを抑えるのに必死だった。
アエネアスは平服から王宮へ行くための羽林の例の赤い服装に着替えている間に、先ほどの可愛らしい小間使いがお盆に洒落た茶瓶と茶碗を乗せて持ち運んで来てくれた。アエネアスの下で働いているとは思えない気の遣いようを見せた。
「陛下、お茶をどうぞ」
女官が歩み出て受け取ると有斗にではなくアリスディアの前へと持っていった。アリスディアは茶碗になみなみと茶を注ぐと着替えを終えて戻ってきたアエネアスに説明とも言い訳とも取れるような弁明を行った。
「ごめんなさいね、アエネアス。あんなことがあった後だから、今は貴女相手であっても毒見をしなければいけないの」
「・・・気にするな、それがアリスの役割だ」
アリスディアは入れられたお茶の匂いをゆっくりと嗅ぎ、茶碗を取ると慎重に口をつけないようにゆっくりと少量を口中に注ぎ込む。
口をつけてもいいんだけどな、と有斗はちょっとがっかりした。間接キスみたいなワクワクイベントはどうやら今日はないらしい。
「・・・うん、大丈夫です。当然のことですけれども」
胃に収まっても異変が起こらないことを確認してからアリスディアはお茶碗を有斗へと渡す。
喉が渇いていた有斗は二口三口で全てを飲み干すとそれでは足らずに、アリスディアに頼んで再びお茶を注いでもらう。
と、先ほどお茶を運んできた少女がこちらをじっと見ていることに気が付いた。まぁ王様なんてそうそう見る機会も無いからな、興味津々なのだろう。
有斗は感謝の意味も込めて少女に声をかけた。
「ありがとう、おいしかったよ」
有斗がそう言うと少女はにっこりと喜びを顔一面で表現すると有斗に向かって一礼した。
「陛下に喜んでいただけたこと、とても嬉しく存知奉ります!」
宮廷の下女と違って行儀作法的に正しいものではないお辞儀であり、後宮内ならアリスディアからお小言をもらいそうな不恰好なものではあったが、ここは後宮内ではない。
アリスディアら女官らも少女の仕草をむしろ微笑ましげに眺めていた。
「驚いた・・・」
少女がお辞儀する様を見て、有斗はアエネアスに驚いた顔を向けた。
「どうした?」
「アエネアスの家人なのに宮中にいてもおかしくないような礼儀正しさだよ。アエネアスはむしろ彼女に礼儀の何たるかを教えてもらうべきだ」
「おまえな!」
アエネアスは思わずいつものように右拳を振り上げる。だが有斗が重病人であることを思い出したのか珍しいことに今日はそこで拳が止まった。
「・・・今日は機嫌がいいから、殴るのは勘弁しておいてやるッ!」
でも良かった、と有斗は嬉しかった。王であろうと遠慮なく殴りかかるのがアエネアスなのである。その突拍子も無い行動こそがアエネアスが普段通りに戻りつつあるということを示していた。
ちょっとしたミニコントを行う二人に小間使いは不思議な目をしながらも挨拶を続けた。
「陛下にお目にかかるのは二度目でございます。いつぞやは陛下とは知らずに失礼を働きましたこと、お詫び申し上げます」
「あれ? 以前どこかで出会ったっけ?」
記憶の箱をひっくり返してみるが、会った記憶は何処にもなかった。そもそもアエネアスの家に来たことが無い。何回かアエネアスの家に行幸することを提案したのだが、いつも心底嫌そうな顔をして却下されたのだ。
だとすると、南京南海府にいた頃に廊下で出会ったとかそういうのかな、と有斗が不思議な顔で首を捻っていると、
「以前は私、アリアボネ様のお屋敷で働いておりました」と小間使いが言ったことで有斗の疑問は氷解した。
「あ! 確かにアリアボネにお見舞いに行った時に小さな小間使いがいた!」
まだ有斗がラヴィーニアを許しておらず、そしてアリアボネがまだあの世へ旅立つ前の話だ。
この小間使いももっともっと小さく、幼かった気がする。今ももちろんまだ若い。そう、だが幼いというよりは若いのだ。
あの頃は、確かアエネアスが目線を揃えるために膝を曲げて話し込んでいた。今ももちろんアエネアスより背は低いが、その差はほとんど無くなっている。
「大きくなったなぁ・・・」
有斗が感慨を込めて述懐すると、少女は王が覚えていてくれたことがよほど嬉しかったのであろう、
「そうですか、えへへ」と少し頬を染めながら無邪気な笑顔を見せた。
「確か名前はテプル・・・テルプ・・・」
「テルプシコラです、陛下」
「そうそう、そうだったね。懐かしいなぁ」
「えへへ」
そうか、アリアボネは死んだんだもんな、と有斗は今更ながら己の不明を恥じる。突然、職を失った家人は大層困ったに違いない。
本当ならばアリアボネは彼らのことも有斗に頼みたかったに違いない。アリアボネは家人にも優しい女性だったのだから。だけど頼めなかった。それは些細な望みではあるが、臣下として王に自ら要求するなど分を超えた行動でもある。王である有斗に少しでも迷惑をかけまいと頼めなかったのであろう。きっと有斗が気付いて言い出さねばいけなかったのだ。
だが代わりにアエネアスがそれを見てそっと手を差し伸べた。
優しいな、アエネアスは・・・有斗は無邪気に笑うテルプシコラを見てそう思った。
幸せそうな笑みだった。アエネアス邸で働くことになんの文句も感じていない、本当に柔らかな笑みだった。




