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紅旭の虹  作者: 宗篤
第七章 一統の章
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牧野が原の戦い(Ⅱ)

 エレクトライはこのままでは多くの兵が九十九谷川の濁流の中に飲み込まれると危惧し、上州諸侯が潜んでいた葦原へと大慌てで軍を押し進めた。見通しと足場の悪い葦原は思わぬところで双方の兵を遭遇させ、膝までぬかるみの中に浸けながらの壮絶な白兵戦が展開される。

 当然、先に潜んでいただけ上州の兵のほうが足場のいい場所を確保している。エレクトライ隊はより不安定な足場で戦わなければならないだけ不利である。だが、それでもまだそこに逃げ込めるだけエレクトライ隊は幸運であった。

 リュケネにはそこへ逃げ込むという手段は残されてなかった。そこは既に兵士で満ちている。かといって進行方向はベルビオ隊で塞がれていた。

 しかも窮地になった味方を救おうと後方の各将軍も兵を出した関係で街道はたちまち人馬で溢れ、後方に下がろうとしても下がれるスペースが見つからない。

 隊を反転させて迎撃しようにも、今現在後ろから攻撃を受けている最中ではリュケネといえども無理な芸当である。

 無駄に近いと分かっていても押し戻そうとするが、打開策を見出せぬまま、じりじりと九十九谷川の断崖が近づいてきていた。

「いかにリュケネ卿といえども後ろを向いた状態で背後から奇襲を受けては退勢を覆せまい」

 自らの一つ前の部隊である、ヒュベル隊が街道を塞ぐ形になっていることで、エテオクロス隊は前に進むことも出来ず、打つ手が無くなっていた。

 こうなれば街道をはみ出て平原に部隊を展開させ、敵兵の横腹を急襲するしかリュケネ隊を壊滅の危機から救うことは出来ない、とエテオクロスは考える。幸い、敵の目は今だこちらに向いてはいない。通常の手段ならば、縦二列で進んでいる部隊を三列ないし四列に組み直し、先頭を基点に九十度左に回頭させて敵と正対するというのが正しい対処法だと思うのだが、このままの勢いではそれをしているうちにリュケネ隊が川底へと叩き沈められかねない。

「旅長に伝達! リュケネ隊に襲い掛かっている敵の側面を攻撃せよ! 各百人隊は隊長の判断で独自の行動を許す! リュケネ隊が反転する余裕を作り出す!」

 エテオクロスは百人隊単位での部隊の戦場への投入を決意し、旅長にそれを告げる。

 第二軍は戦列を解いて小さな塊となると平原を駈けて、各隊ごとに敵の側面に攻撃を開始した。

 驚くことに敵は側面の防備をそれほど厚くしていなかった。

「側面からの反撃を想定していなかったというのか?」

 オーギューガの兵ともあろうものが実に無用心だ。エテオクロスはその不可思議な事態に首を捻る。

 だがともかくも敵は側面から攻撃を受けて前面のリュケネ隊への攻撃が緩んだ。リュケネ隊はようやくそこで踏みとどまったかに見えた。

 だがその時をテイレシアはじっと待ち構えていたのである。

「よし、今だ。九曜巴(くようともえ)の大旌旗(せいき)を掲げよ!」

 甲高いテイレシアの声と共に牧野が原に突如として九曜巴の旗が乱立し、伏せていた五千の馬廻衆(うままわりしゅう)を中心としたオーギューガの精鋭が姿を現した。

 その中で一際大きい旗こそが、オーギューガ党首の御座所を表す九曜巴の大旌旗である。

 テイレシアは馬にまたがると腕を振り下ろして全軍に突撃の合図を送った。テイレシアが乗る尾花栗毛のド派手な馬は衝天馬と云い、天下の名馬として知られる。

「敵は味方を救おうと戦列を崩してまで我が方への攻撃に踏み切った! 敵は今やそれぞれの部隊がそれぞれの意思で別な方向を向いて戦っているだけだ! もはや軍隊と呼ぶのすらおこがましい存在である! いざ進め、オーギューガの戦士たちよ! 敵は数こそ多いが、これを破るのは百戦錬磨のそなたらにとっては容易いことである!」

 リュケネ隊に襲い掛かったオーギューガの第三波は側面の防備を忘れていたわけではなかったのだ。王師に側面を襲わせるために隙を見せ、防備を薄くしたのだ。

 また、テイレシアの部隊が側面を襲ってくる王師を蹴散らしてくれると知っていたからこそ、襲われても慌てて対策を取ることがなかっただけだったのだ。

 そしてそれに襲い掛かっていたエテオクロス隊は、リュケネ隊を救援することを優先するあまりに周囲への警戒もそこそこに歩を進めていた。

 エテオクロス隊も側面の防備が疎かになっていたのである。そして敵と違い、エテオクロス隊には横腹を衝かれた時に、それをカバーしてくれる友軍がいなかった。

 しかも旅隊が、いやせめて百人隊が横の部隊と繋がりを持って戦線を形成してくれたなら、曲がりなりにも精強をもって知られた元関東王師左軍、オーギューガの猛攻にも少しは耐えて見せたであろうが、こうも部隊がバラバラではさすがのエテオクロスにも打つ手が無かった。

 個々人では奮闘するも、これまでの諸侯相手の戦と違い、オーギューガもカヒと同様に、いやカヒ以上に統率のとれた部隊の動きで王師の兵とても抗しきれなかった。

 それとともに一時期、息を吹き返したかに思えたリュケネ隊も再び敵に押されだす。

 この時、リュケネ隊が受けていた攻撃の一端をヒュベル隊が代わりに受け止めてくれていなかったなら、リュケネ隊は一兵残らず、断崖絶壁の下に叩き落されていたことだろう。

 ところでヒュベル隊がオーギューガの攻勢を受け止めることが出来たのは、リュケネ隊と違い敵の攻撃を陣形の正面から受け止めることが出来たからである。とはいえリュケネ隊に加えられた攻撃を全て代わりに引き受けたわけでもない。それに戦の流れは今のところ完全にオーギューガの手の内にあった。こんな時にいかに奮戦しようと、ヒュベル隊も味方の頽勢に巻き込まれる。守勢に回らざるを得ない。攻勢を弱めることは出来ても、リュケネ隊ほどではなくても、やはりじりじりと押されることには変わりがない。

 すると背後の九十九谷川が気になって戦どころではなくなるというわけだ。

 総司令官である有斗は今だ全戦況を掴めず、各将軍は自軍の士気で手一杯で他の部隊と連携した動きもとることもできない。王師は絶体絶命の危機に陥っていた。

 王師の中で最精鋭はプロイティデスの第一軍ということになるだろうが、将軍込みで考えるとリュケネ、エテオクロスの両部隊が双璧を成すと言って過言ではない。その両部隊がテイレシアの前ではまるで子ども扱いであった。

 そういった意味ではやはりテイレシアは僅か三分の一以下の寡兵で、あのカトレウスを破っただけの武将である。軍神というご大層な名も伊達ではなかったということだ。

 だが、もしここでリュケネ、エテオクロスという王師の中核を成すといってよい二部隊が壊滅したならば、王師にとってはこの地での敗北を意味するだけでなく、以降の作戦計画にも影響が出てくる程の大敗北となることは必至だ。

 王師の再建には何年もかかるに違いない。場合によっては河東の放棄もありうる事態だ。王の天下統一事業は大きな後退を余儀なくされることであろう。


 この時、ようやくエテオクロスからの一方で事態を知った有斗は、ベルビオらから続けての報告が無いのは王師が押しているからで、勝っていたと思っていただけに一瞬呆然とし、次の瞬間蒼ざめた。

「王師は三方からオーギューガに囲まれて、九十九谷川に追い落とされようとしているだって?」

「はい! 救援に入ったエレクトライ殿、リュケネ殿、ヒュベル殿だけでなく我が第二軍も、今や敵の大攻勢を支えきれず後退を続けています・・! このままではあといくらも持ちこたえません! もしかしたら既に・・・」

 そういって不吉な想像をしたのか使い番は顔を暗くする。それを見ると有斗はたまらなく不安になった。

 しかもそれでは王師九軍のうち半数が機能不全に陥ったことになる。深刻な事態だ。

「川を背にしての戦いは危険だ! ここは部隊を方向転換したり、敵の攻撃を支えきるといった小細工を(ろう)するよりも、とりあえずベルビオ、エレクトライらに兵力を前方に集中させて前へ抜け出るように命じる。敵を突っ切り左回りに敵の背後に回りこんで敵を挟撃する。オーギューガは精鋭かもしれないが数は王師に劣る。一時の敗勢にも粘り強く戦えば、きっと兵の多い王師に逆襲の機会は訪れるはずだ。あと、後続の各部隊にも急ぎ前線の各部隊の援護に加わるように命じよう! これできっと逆転できる!」

 有斗はそう言うと参謀たちに次々と命令を下し、使者を各部隊に派遣していった。

 もっとも前線の大混乱を想像するに、ベルビオのいるところまで伝令が進めるとはとても思えない。

 それに後続の部隊が展開できるような空間を残すように今の両軍が布陣しているものだろうか?

 私がテイレシアなら一度に相手に出来る数だけを牧野が原に入れて、後続の兵が入ってこられないような状態になるように布陣する。そこに思い至らないほど、有斗も混乱しているということなのだろうな、とアエネアスは思った。

 戦闘中の危険を考えて、王を最後方に位置したことが王師が直ぐに統一的な行動が取れなくなった原因だ。

 こういう時に王師が横並びの将軍の集団であるということが弱点になってしまう。前線で起きた異変に個々の部隊としてはともかく、軍全体として即応できないのだ。

 兄様がいてくれたら、こんなことにはならなかったのにな・・・と、アエネアスはふと思った。


 テイレシアは勝利を確信していた。

 オーギューガの勁兵(けいへい)はその持てる力を余すところなく発揮し、全戦線で優勢を示し、王師を切り崩して死体の山を築き始めていた。

 特にカストールの騎兵は王師を完膚なきまでに叩きのめし、ベルビオ隊の後備、エレクトライ隊の半分、そしてリュケネ隊の先頭集団を全て寸断し、各部隊の連絡どころか、各百人隊内部の連絡すら出来ない混戦状態を作り上げていた。

 しかもそんな混戦にもかかわらず、王師と違ってカストールの方は兵のコントロールを失わずにいたのである。

「なんという圧迫力だ。これまで戦ってきた兵とはまるでものが違う・・・! これがオーギューガの攻めだというのか・・・!!」

 時間が経つにつれ指揮範囲が狭まっていく現状にリュケネでさえもさっぱりお手上げ状態だった。

 リュケネにはこれほどの勢いで兵を動かし、その勢いを持続させることなど考えられないことだった。いったい、彼らの体はどうなっているのだろうなどと思う有様だった。

 だがテイレシアに言わせればむしろ違ったようだ。

「さすがは王師、あのカストールが攻めあぐねている。まさかカストールが一気に勝負を決められらないとは思わなかった。見事、実に見事」

 この優勢さ、いや、圧倒的優勢さを示しても、まだカストールの本来の力を考えたら物足りない結果であるらしい。むしろ王師の兵を褒める有様であった。

 とはいえテイレシアは兵を布陣し、攻撃開始の合図を行っただけ。まだ本陣旗本勢を戦場につぎ込むまでには至っていない。

 余裕の高みの見物である。


 さて戦も(たけなわ)ではあるが、ここで王師はどういう並びで牧野が原に兵を入れたのか述べておこう。何故ならそれが戦局に大きな影響をもたらすことになるのだから。

 王師は先頭からベルビオ、エレクトライ、リュケネ、ヒュベル、エテオクロス、アクトール、ザラルセン、マシニッサ、ステロベ、プロイティデスと有斗といった形の並びであった。

 牧野が原中程に進む前にベルビオ隊が交戦を開始した時に、牧野が原に入っていたのはヒュベル隊までであった。この時点では押されてはいたものの、まだ王師は全面的な敗勢というわけではなく、余裕を持って行動していた。

 その為、エテオクロス隊以下の諸隊は上越道上で大渋滞を起こし、完全なお盆の高坂SA付近の状態になっていたのだ。

 遠くから干戈の響きが聞こえ、戦況を告げる使者が王の本営へと土煙を上げて逆送してくる。しかし諸隊は街道上で手をこまねいているだけだった。

「兄貴。これじゃあ、俺らが戦場につくころには日が暮れちまいますぜ」

 そう配下から告げられたのはザラルセンだ。

「そいつは弱った! 手柄を立てようがないじゃねぇか! 前の連中は俺たちが倒す獲物を残しておいてくれるかな?」

 王師が負けること僅かばかりにも疑っていない口ぶりだった。それは仲間を信じているのではなく、俺が味方にいるからには負けることなどないという傲慢な思考から来ていた。

「なわけないでしょうが」

 兵にとって出世の種とは戦での手柄に他ならない。年功序列で上がっていく地位など自慢にもなりはしない。槍先であげた功名だけが他人に誇ることが出来るたった一つの価値あるものなのである。

 そしてこれは天下統一最後の戦なのである。その功名を立てることが出来る最後の機会だ。その大事な機会を他人に譲り渡すような、そんなお人よしなどいるはずもないと、これまた王師の敗北を毛ほども思っていない部下はザラルセンに呆れた顔を向けた。

「だが、このままではいつまで経っても戦場に辿り着く気配は無い」

「兄貴。前はアクトールの野郎だ。つまり前が開いたとしても、このままでは俺らはアクトールの野郎のケツを拝むことになっちまう」

 つまり自分たちより前にいるアクトール隊に手柄を掻っ攫われるのではないかと言いたいのだ。

 同じ河北出身で勇将という共通点のある二人ではあるが、流賊と諸侯、磊落(らいらく)と実直、蛮勇と思慮、二人は似てもいたがどこかが根本的に噛み合わなかった。

「他の誰に出し抜かれようが構うこたぁねぇが、アクトールの野郎の後塵を拝するのだけは我慢がならねぇな」

 それは現実状況や敵と味方の戦力を考えての将軍としての判断ではなく、ザラルセンの感情と面子の問題だった。

「兄貴、街道を行くんじゃなくて山道を抜けて牧野が原に出ましょうや。上州の山は低い。河北の山に比べりゃ屁でもねぇ。俺らなら越えられる」

 部下の一人が指差した先には地元の人間が使うのか獣が通るのか、下草もまばらな山の中に消えていく細い道があった。

「大丈夫か? 牧野が原に出るとはかぎらねぇぜ」

 他の部下がもっともな懸念を表明する。しばらくその道を眺めていたザラルセンだが、その間も隊列が前方に進まないことに業を煮やした。

「・・・まぁ、大丈夫だろう」

 牧野が原は広い。一箇所くらいは山から下りる道があるものである。ザラルセンはそう判断した。

「そうと決まれば善は急げ、だ」

 ザラルセンは全軍に通達する。

「輜重みたいな邪魔者は置いて行け。替え馬もな。邪魔な荷物は全部置いていくんだ」

 ザラルセンの後にいる部隊の迷惑などお構いなしの行動だった。しかもザラルセンは有斗に相談することなく部隊を山中へと向けた。

 本来ならば完全に懲罰対象ものである。だがザラルセンのこの行動こそが戦の流れを変える転換点になることになる。

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