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紅旭の虹  作者: 宗篤
第七章 一統の章
301/417

ザラサ峠口の戦い(Ⅲ)

 ガニメデの眼前で敵は横に広がりつつ近づきつつある。

 こちらのちぐはぐな布陣を見ても敵は速度を増すことなく、隊列を崩さぬよう等速で近づいてくる。

「こちらを警戒しているのか?」

 少し厄介な敵かも知れぬとガニメデは兵に命じて敵に矢を射掛けさせ、敵を挑発する。攻撃を受けた敵兵は逆上し、反撃しようと敵意を募らせ接近しようとするはずだ。

 もちろんわざと一斉射撃を行わずに手加減をさせる。一斉射撃を行って足を止めてしまっては、敵兵も却って冷静になることもある、逆効果なのだ。これ以上警戒させて、敵も陣地を作っての睨み合いから、散発戦へともっていかれてはたまらない。

 消耗戦は兵数の少ないガニメデ隊にとって不利、望むところではないのである。

「まだだ。まだ動くなよ」

 兵は動かないでいることがもっとも難しい。移動や攻撃していれば臆病な者でも恐怖も紛れるが、ただ眼前から迫りくる敵という名の恐怖に耐えて待たねばならないからだ。

 だからこそ敵の攻撃を待ち受ける状態こそがもっとも兵の錬度が分かる瞬間だといってよい。

 そうだとすると、このガニメデの指揮の下でぴくりとも動かないガニメデ隊は、元は各地に申し訳程度に設置されていた地方の諸侯対策のための城砦の兵を寄せ集めただけだったにもかかわらず、随分と精鋭になったものである。

 デウカリオに率いられた陽動の騎馬部隊は飛んでくる矢をものともせずに進み、事前の打ち合わせどおりに襲い掛かろうとしていた。

 遠目に一見すると騎馬の疾走に適した地形に見えたその大地は、細かく隆起し、あるいは陥没し、岩あり倒木あり、雪解け水で出来たぬかるみに水溜りありと思った以上に行動に制限がついた。

「厄介な地形だ。もしかしてこれが敵がこの地に陣を敷いた理由か?」

 これではカヒの兵の強みである騎馬攻撃が生かせない。まさかこれを踏まえてここに布陣したというのかと冷やりとする。

 とはいえ、それは遠目には平原に見える程度の起伏と障害でしかない。

 確かに騎馬突撃できる場所は限られるが、それ自体が不可能なわけではないし、駆けさえしなければ普通に進軍の邪魔にはならない。

 であるからには、これが目的であると考えるにはちょっとばかり動機に欠けるところがあった。

「まぁいいさ。当初の計画通り、推し進めるとしよう。変更は必要あるまい。サビニアスも山中で待ちかねていることだろうしな」

 デウカリオはまだサビニアスが命を落としたことを知らなかったのだ。

 距離を縮めた両者は遂に平原上で槍を交えた。

 陽動を行う兵たちはデウカリオから厳重に言い聞かされている。敵は容易く崩れるであろうが、それは擬態だ。まもなく来るであろう反撃に注意し隊列の間隔を保ち、あまり深入りしないように慎重に行動せよ、と。

 だから多少舐めてかかったような形になったとしても兵たちを責めるのは酷というものであろう。責められるのはどちらかというと予断を持たせたデウカリオだ。

 デウカリオ隊の初撃はいとも容易くガニメデ隊にはじき返され、逆に押し返された。

 こんなはずではないと慌てて兵を重ねて攻撃を厚くし、敵の反抗を押しとどめようとするが、だがそれももはや後の祭り。デウカリオ隊はずるずると敵に押されて後退していく。

 泡を食ったのはデウカリオの兵だけではない。ガニメデ隊も同様だった。音に聞く黒色備えの猛攻、敵から強烈な一撃を覚悟していただけに、

 あっけない手ごたえにむしろどうしていいか分からず、そのまま勢いのまま押していこうとする者より、これが敵の罠であることを恐れて二の足を踏む兵士が続出した。

 為にガニメデ隊は陣形が大きく崩れることとなる。

 強烈な反撃に面食らったデウカリオ隊だが、敵兵の乱れに戦士の勘を取り戻した。そこは腐っても黒色備えの精鋭である。僅かな隙を見逃さずに足を踏ん張り隊伍を整え、やられたことは倍返しとばかりに襲い掛かった。

「慌てるな! うろたえるな! 訓練を思い出せ! 敵がどのような動きをしようとも、我々は我々の動きだけしていれば勝てる! うちの大将は見てくれは最悪で槍を持たせても半人前の肥満体(ふとっちょ)だが、采配を持たせれば武帝もかくやという働きを見せる。そのあの禿(はげ)の指示を俺は完璧に理解できる、お前らは俺を信じて槍を預けて戦えばそれでいい!!」

 敵兵の強襲に崩れる中、王師の百人隊長は酒と戦場で潰したその胴間声(どうまごえ)で乱れる部下を叱咤し、部隊の指揮を取り戻す。

「いいぞ。少しばかり手違いはあったが、全体としてみれば順調だ」

 ガニメデは百人隊長たちが部隊の指揮を指示通りにこなしているのを冬営地に高く作られた見晴台から眺めていた。

「左翼をもう少し前に出さないと逃げられるぞ。それから左から六つ目・・・あの紋章はボッリオの隊か? 傾斜地を利用して敵の死角に入り、埋伏させろ。そろそろ攻勢に出る準備をはじめるぞ。通達急げ!」

「はっ!!」

 ガニメデの言葉を受けると側に立った副官たちが慌しく両手に持った二本の旗をめまぐるしく動かし、前線へとガニメデの意思を伝達する。

 彼ら二人がいるからこそ、ガニメデの複雑な意図が素早く前線に伝わり実行されるのである。

 なにせ当初はガニメデ自身が行っていたのだが、自分で決めた旗信号なのにちょくちょく間違える上に忘れることもしばしばで、とても実戦で使用できる精度ではなかったのだ。だからガニメデ隊の変幻自在の兵術はこの二人が担っているといっても過言ではなかった。

 ガニメデの指示に正確に従い、兵は押したり引いたりを繰り返してデウカリオ隊を左翼正面のすり鉢状の場所へと誘導していく。

 敵に思うがままあしらわれていることに苛立ったデウカリオが兵を怒鳴りつけ体勢を立て直そうとするが、ガニメデ隊の攻撃は執拗(しつよう)で、なかなか上手く行かずデウカリオのストレスは溜まる一方だった。この時点で陽動がうまく行っていないと判断したカヒ側は本来は後方で敵を挟み撃つ役目の芳野諸侯の兵もディスケス隊も前へ出て戦闘に加わった。

 さらには斜面に隠れていた兵が一斉に飛び出し、デウカリオ隊の長く伸びた側面に襲い掛かった。

 剣と剣、槍と槍がぶつかる金属音が一斉に不協和音を奏で始める。激戦の始まりである。

 だが余裕をふかしていたガニメデの目に映ったのはとんでもない光景だった。どっと崩れ立ったのはガニメデ隊の方だった。

 デウカリオ隊を目隠しに使い、ガニメデ隊が気付かぬように忍び寄っていたバアル率いる部隊が半包囲を行おうとしたガニメデ隊の左翼をデウカリオ隊と共に挟撃する形となったのだ。

 その攻撃でデウカリオ隊を半包囲して背走に移らせるというガニメデの目論見は崩れ、なおかつガニメデ隊の左翼を極度の苦戦に陥らせたのである。

 ガニメデは慌てて左翼の建て直しを命じなければならなかった。

 だがその建て直しはいつもと違いなかなか上手くいかなかった。それは相手がバアルだったからである。

 バアルが当初、主戦場から離れた最右翼、最も西に位置する場所に配置されていた。デウカリオ隊が誘き寄せた敵主力をディスケス隊と芳野諸侯が挟撃し、そこから逃れ出た敵兵を捕捉殲滅する役目と言えば聞こえはいいが、(てい)のいい予備隊という位置づけだった。

 だがそのことにも意外な利点があった。後方に配置されていたバアルは現場で目の前の戦闘に対処しなければならないデウカリオと違い、そのガニメデの動きを逐次監視できるというメリットがあった。

 それで陣営地に築かれた高台から送られる手旗信号でガニメデは部隊を機敏に動かしているという事実に気が付いたのだ。

「なるほど・・・道理で今まで私が翻弄されていたわけだ。刻一刻と変化する戦場に合わせて兵を動かし対処するとは」

「手足のごとく兵を動かすとはまさにこのことですね。敵将ながら見事です」

 そう言って同意を示すしかないほどの見事な動きにパッカスも見惚(みほ)れていた。

「もちろんどんな状況に陥ってもそれを打開する方策を考える頭脳、命令を下す主将に対する絶対の支持、命令を忠実に実行できる強固な実力が全てあればこそだが・・・だが如何に摩訶不思議な奇術とて種が分かれば案外何ということは無いものであると相場は決まっているものだ。二度も三度も同じ手は食わぬさ」

 その言葉通りに、今度翻弄されるのはガニメデ隊ということになった。

 それに騎馬対策で選んだであろうこの地形も不利になるのは芳野側だけということもないのである。

 バアルは地形の凹凸(おうとつ)を利用しガニメデの視界から兵を消して奇襲し、さらにはガニメデと同様にわざと敵兵を誘い込み、王師の視界からガニメデが消え、兵たちが己だけで判断するその一瞬をついて痛撃を食らわす。

 いかにガニメデが優れた策を考えることができても、それを伝達する手段を断ちさえすれば、何の役にも立たない。

 いや、むしろ陣頭指揮を執ってないだけに、ガニメデ隊は百人隊長単位でしか動くことが出来なくなり、むしろ不利になるのである。

 バアルの攻撃にガニメデ隊の左翼は その正面で半包囲される形になりかけていたデウカリオ隊も息を吹き返す。

「しまった! 騎馬突撃を警戒するあまりに起伏に富んだ土地を選んだのが失敗だったか!」

 とはいえ今から山を削り谷を埋めるなどといったことは神様の身ならぬガニメデには不可能なことだ。

 この起伏を最大限利用し、且つ敵に最小限であっても利用されないように戦うしかないであろう。

「これで戦いは五分と五分に戻ってしまった」

 いや五分以下だ。これでガニメデは自らの目の届く範囲内で戦うしかなくなった。当然取れる選択肢は極端に減ることになってしまう。

 しかしなんてやつだ、とガニメデは赤獅子の紋章をにらんだ。

 自ら陣頭で剣を取りながら、高台から死角になる場所を見つけておいて、敵兵を巧妙に誘い出し、それらが勢いに乗って攻撃することを防ぎ、なおかつ撃退する。それらを全て同時に行うなどはガニメデにはとてもできない芸当だった。

 ガニメデは七経無双の名が伊達ではないことをこの日、身をもって大きく思い知った。

 だがだからといってここで全てを投げ出すわけには行かない。ガニメデの後ろには無防備な河北の地が横たわっているのである。

 確かに王師本隊は数か月分の兵糧をたっぷり抱えて上州へと向かった。でもだからといって後背を塞がれても大丈夫だというわけではない。

 王師は前面のオーギューガだけでなく常に後背を気にして戦わなければならない。戦略の幅が狭まることであろう。

 それに敵に攻勢に移られたといっても、見方が総崩れとなったわけではない。むしろよく踏みとどまって戦ってくれている。

「よし、作戦を変える。バルカ隊とデウカリオ隊の正面にあたる部隊をゆっくりと退かせて陣内に引き入れるぞ。敵を味方の分厚い壁の中に閉じ込めてしまうのだ。これ以上、敵に連携されて好き勝手にさせはせんぞ」

 ガニメデは苦心に苦心を重ね、ガニメデの誘いに乗るまいとする両者をなんとか引き入れて、分断に成功し、挟撃策を封じる。ガニメデの奮闘により王師は再度部隊を立て直すことに成功したのである。

 一方の芳野側は焦りが見られた。一旦立て直した軍が再び機能不全に陥っていた。敵に押されて徐々に攻撃する局面が減っていく。

 しかも敵を背後から突くはずのサビニアス隊がいつまで経っても現れない。予定と違った戦場での動きに兵たちは焦りが募っていく。

 その兵士たちの心の焦りが歯車を芳野勢を少しずつ狂わせていった。

 それに従って、戦場は徐々に王師優位の旗色を示しだした。ガニメデの悪戦苦闘に応えるように旅長も百人隊長も犠牲を恐れず文字通りの死闘を繰り広げたからだ。

 だが再び戦場の空気は変転する。中央部で起きた混戦に巻き込まれるのを嫌い、一人ガニメデ隊の左翼相手に戦っていたディスケスが、左翼集団を芳野諸侯に任せて、デウカリオ隊の窮地を救うべく、旗下の全精鋭をもってガニメデ隊の中央戦闘集団に横から襲い掛かったのである。

 ディスケス隊はバアル隊やデウカリオ隊のように意表をついた鋭い動きや繰り引きを行わなかった。

 だが混戦になってもどこまでもどこまでも粘り強く戦い続けた。その真っ当な攻撃には却っていかなる奇策も寄せ付けない堅牢なものがあり、付け入る隙を見出せず、ガニメデを憮然とさせた。

 そこでようやくガニメデは敵にオーギューガの援兵が、それもディスケスがいることを知った。だが知ったからといって新たに打つ手を思いつけるわけも無く、事態が好転することはまったくなかったのだが。

 ガニメデの目の前でデウカリオ隊はたちまち息を吹き返し、その相手に人手を取られてバアル隊に回すつもりだった予備兵力を使い切ってしまった。自然と左翼はバアル隊の猛攻を受け崩れたつ。

 再び一転して王師は全戦線で切り回される事態となった。もはやガニメデの手には新たな布石を打つための兵力が無かった。もしどこかの戦線から兵を動かし戦局の打開を目論んだとしても、その瞬間に奇跡的に戦線を支え続けているバランスが崩れて崩壊するのは目に見えていたのだ。

 そもそもバルカだけでも手に余る相手なのに、そこにカヒの四天王デウカリオという厄介な敵もいる。

 ここまではまぁいい、織り込み済み、覚悟はしていた。勝利することはできなくとも、明確に敗北しなければいい立場のガニメデにはなんとかしてみるといった自負があった。

 だがそこにオーギューガにその人ありと知られたディスケスまでもがいるとは聞いていなかった。敵にはなんと化け物が三匹もいやがる。

「陛下もとんでもない役目を俺に押し付けたものだ」

 ガニメデは思わず天を見上げぼやいた。ふと目に力が蘇る。思ったよりも空が暗い。つまり夕闇が近いのだ。

 夜になれば戦闘は止むはず。それだけが今のガニメデの心の支えといったところだった。

 心の張りを取り戻したガニメデはその後も苦心惨憺(くしんさんたん)して戦場を支え続けた。時間と共に崩れていく戦列を修正し続け、多くの犠牲を払いながらも最後まで戦列を保ち続けた。

 周囲が暗くなるにつれ干戈(かんか)の音が静まっていき、ガニメデはようやく安堵の息を吐くことが許された。

 もしそこが敵兵からも目に付く高台の上でなければ腰を落としたかもしれない。それほどの疲労度だった。

 実はほっとしていたのはデウカリオたちも同様であった。

 丸半日の激戦にさしものカヒの兵も疲れきっていたのである。最後のほうは完全に優位に戦を進めていたのに、押し切れなかったことが更に疲労に輪をかけていた。疲れてないのはろくに戦闘に参加しなかった芳野の諸侯の兵だけだった。

「一度退いて軍を立て直さなければなるまい」

 デウカリオのその意見に反対する者は誰もいなかった。

 なにしろ呼応するはずのサビニアスの兵が現れないのである。何か手違いがあったに違いない。その原因も探らねばならない。

 バアルもその『一度』がせいぜい二、三日であろうと思っていたから反対はしなかった。

 敵もかなりの被害を受けたはずだ。敵将の手の内も分かったからには、今度こそ必ず勝ってみせると固い決意でいた。

 だが結論から言うと、彼らとガニメデとは再び芳野で野戦を行うことは無かったのである。

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