ザラサ峠口の戦い(Ⅰ)
一方、芳野では河東との交通が途絶されあらゆる荷が止められただけでなく、厳重な警戒態勢によりサビニアス自慢の草の者の活動が制限されていた。
彼らは地元の者になんら違和感なく扮装し、怪しまれること無く活動することができるが、そんな彼らでも怪しげな人物だけでなく、商人でも難民であろうとも国境誓いに近づく者は遠慮なく叩き返されるという現状では、まるで打つ手が見つからないのである。
しかも小賢しいことにツァヴタット伯を継いだ小娘は、サビニアス同様に間者を使った工作に長けているのか、雪中の高山を抜けて国境を越えたり、大河を下流へと下って上陸するといった手法を使わせたにも関わらず、その全てのサビニアスの部下を捕らえるか殺すかし、一切の工作活動を無効化した。
おかげで冬営中の王師の動静が一切伝わらない芳野側の陣営内には不安が渦巻いていた。
「王師は何を考えて河東との境をここまで厳重に警戒しているのか・・・」
「芳野では多くの生活必需品を外からの輸入に頼っている。我らに手を焼いた王師が我らを干上がらせようという作戦に打って出たということであろうよ」
芳野は色々なものを外部からの供給に頼っている。特に生活必需品である塩を止められた現状は実に厳しい。もっとも雪が融ければ越への道が開く。越から必要なものは入ってくるだろうから、直ぐにどうこうといったことは無いだろうが、この状況が長く続けば民は不安を抱くかもしれない。
芳野の施政者でもあるデウカリオにとっては頭の痛い問題であった。
「只の荷止めであるならば、ここまで厳重に情報封鎖を行う必要があるわけが無い。他に何やら魂胆があるように思えてなりません」
サビニアスがそう懸念を表すと、地図に目を落としていたデウカリオが顔を上げて訊ねる。
「どのような魂胆があると?」
「我らにいつ侵攻するか、どういう手段で攻略を行うか情報を与えぬことで、神経をすり減らそうという精神戦を強いているのでは? 例えば密かに河東にて攻城兵器を製作しており、それを我らに知られたくないとか」
それは十分に考えられることである。旗尾岳城の攻略に手間取った王師はその苦戦の過程にて、ある程度は対策を考えついたはずである。
冬の間をただ雪を避ける為だけに河東へ退いたと考えるのではなく、何かの為に退いたと考えるのならば、それが一番妥当な回答ということになりそうだった。
まさか春になるまでの数ヶ月をただぼんやりと過ごしてわけではないだろう。そこまで王師も馬鹿じゃない。
「・・・あるいは芳野を一時置いておいて、上州から越に攻め込むとか」
バアルの言葉に諸将は一斉に沈黙した。それは彼ら全員が心の中で疑ってかかっていることである。
有斗が考え、密かに進められていたその計画だったが、それを取られてはこの戦役における彼らの存在意義が全て失われる彼らにとっては実はまず、いの一番に考え付いたことだった。
良い将軍とはまず自分に取って一番取られたくない作戦を考える。そしてそれを相手がしてくると仮定した上で対策をするものだからだ。
実は真実に辿り着いていた彼らだったが、だからといって今すぐ芳野を去り、越へと向かうことは出来ない相談だった。
まず第一に越との境はまだ豪雪が降り積もり、とても軍隊を移動させられる状況ではない。
次にこれが敵の罠だという可能性も考えられるからだ。王師が上州へ行ったと見せかけ、デウカリオらを越へと移動させる。そして空になった芳野を王師は苦労することなく手に入れる。そういう作戦だってありうるのだ。それではこの芳野と言う王師を迎え撃つ絶好の場所を自ら放棄してしまうことに他ならない。
それを考えると確実な情報を手に入れるまでは迂闊に動けないというのが現状だった。
それに王はとんでもないことを考えているのではないかといった不安がバアルにはある。
「とにかくあの王は見かけによらず奇抜なことを考える。油断は禁物です」
関西を北周りという常識破りの行程で征服しようとしたように、イスティエアでカトレウスを打ち破ったように、そしてこの戦国乱世を自分の手で終わらせようと考えたように。
そもそもデウカリオらの兵力は結局のところ少ない。とにかく相手が動かないことには、こちらとしても動きようが無いというのが本音だった。
こちらから動いて隙を見せても平気な兵力差ではないのである。
デウカリオたちは焦れる思いの中で雪が融けるのをひたすら待った。
事態が動いたのは三月七日。雪深い山の中、道を切り開き、越からの使者が到着したのだ。
使者を伴ってデウカリオらカヒの将軍たちの前に現れたディスケスの顔は悲痛に彩られていた。
「王師は芳野ではなく上州へ目標を変えた模様、御館様はこれを迎え撃つために既に白鹿館を出立なされております」
デウカリオらはこれで王師の動向をはじめて掴むことになった。恐れていた事態になったことにデウカリオらの顔も青ざめ気味だ。
なにしろテイレシアが動くのが早すぎる。まだ越と芳野の間は軍隊を通せるほどには雪融けしていない。
もちろん除雪し、道を整えながら向かうことは可能といえば可能だが、芳野入り口に陣取る王師の残留部隊から妨害を受けないとも限らないし、それで間に合うかどうかといった問題が今度は出てくる。
「それで・・・我らにどうせよと? 越へと援兵を向けよとでもお言いつけか」
是非、そうあって欲しいといった願いもこめてデウカリオは使者に問い質す。
「いえ、今から出立しても決戦には間に合わないでありましょうから、芳野を堅守して欲しいとのお言伝です」
だが使者の応えはデウカリオたちを大いに失望させるものだった。それはデウカリオら抜きで王師との決戦を行うといった意味合いだったからだ。
デウカリオらには自負がある。いかにオーギューガといえども、王に勝つには自分たちカヒの精鋭が必要なはずである、と。自分たちなしではテイレシアは負けると考えているのだ。
そしてこれに敗北すればオーギューガは滅びる。そうなれば僅かばかりの兵しか持たぬデウカリオたちはもう二度とカトレウスの敵を取る機会に恵まれないであろうし、バアルも王と戦場で相見えることは夢幻と化してしまうことだろう。
だが越への道はまだ雪融けしない、またテイレシアからも芳野の援兵を待たずに出兵すると報告があったからには、越へ向かってオーギューガと兵を合わせて王と決戦するというのとは違う方策を考えなければならないということだ。
デウカリオたちは手早く会合を持つと、河東との境に留守する王師を打ち破って河東へと出て、王師の輜重を襲いつつ東山道を進み、背後から王師を追いかけることに決定した。
もっとも例え王師を打ち破って東山道を東へと王師を追いかけたとしても、決戦に間に合うとは思えないし、補給線を寸断したとしても王師が彼らを迎撃する為に慌てて戻ってくるといったことはまずありえないことであった。
それでも芳野に残された彼らにとっては、それが決戦に参加するほんの僅かに残された希望だった。
とはいえ王師を打ち破って河東へ入れるといったその前提ですらできるかどうかわからないのだが。
一方、この知らせにもっとも無念を感じていた男はディスケスであったであろう。
ディスケスは山が雪で閉ざされる前に越から芳野へと配下の兵一千と共に派遣された。
翌春の攻撃は芳野に向けられると見て、テイレシアの打った手が裏目に出てしまったのだ。
オーギューガの双璧ともあろう者が、天下分け目の決戦に参加できないことが確定してしまったのだ。
それに王師と比べて兵力に劣るオーギューガにとって一千の兵であっても惜しいに違いない。
であるからオーギューガきっての守りの人、慎重派で知られるディスケスもデウカリオ発案のその積極策に一も二も無く飛びついた。
万が一、戦線が膠着状態に陥れば背後を扼すように動くことは意味ある行動となるし、決戦に間に合う目も出てくる。
雪が融け出しても旗尾岳城に篭ったままだった兵が雪もまばらな平野部に降り、河東へ向けて行軍を開始したと聞いたガニメデは、どうやらのんびりと焚き火に当たって炙った干物で酒をちびちびやるのが唯一の日課という至福の時は終わりが来たことを悟った。
「そろそろばれたかな」
移動の報告を告げに来たウェスタにガニメデが返したのはそんな暢気な返事だった。
ガニメデに代わってここまで八面六臂の大活躍をしてき、これからは謀略よりも戦術の出番、ガニメデには自分に代わってカヒの軍隊と立ち向かってもらわねばならないと意気込んでいたウェスタは思わず眉を顰める。
正直な気持ちとしては、こんな将軍で大丈夫かと言いたくもなる。王師の将軍が数いる中、よりによってコレを残した王の気が知れなかった。
もっともウェスタにしてみれば天与の人であり、百年ぶりに誕生した巨大王朝の主催者であり、カトレウスを打ち破った戦巧者であり、側近の近衛隊長に頭が上がらない情け無い王であり、からかうと直ぐに真っ赤になって口ごもる初心な少年である有斗は捉えどころの無い人物であったが。
「まぁ任せといてくれ。この退屈の合間に策は練っておいたのだ。ツァヴタット伯には高みの見物でもしててもらおうか」
とガニメデは口を大きく開けてガハハと笑って安受けあいする。
本当に勝算はあるのか大丈夫かと心配になって問いただしたいくらいだ。なにしろ自身の命もツァヴタットの兵一千の命もかかっているウェスタにしてみれば、ガニメデが何か失敗しようものならばそのとばっちりを直に受けることになるのだから。
「それよりもツァヴタット伯殿には今までと同じく山越えをしてくる敵を防ぐのをお任せしたい」
といってガハハと下品に笑い、更にウェスタを不安に陥れた。
これから本格的な野戦、もしくは陣地戦になるというのに一千もの兵を別方面に貼り付けたままにしておくというのは正気の沙汰とは思えないからだ。
といっても曲がりなりにも王師の将軍、忍びの扱いに長けたウェスタといえども兵の扱いは素人同然、どうすべきかは具体的に思いつかず、口も挟めない。
ウェスタとしては部下の安全を考えて退路を確保しておくことに全力を注ぐくらいしかできることはなさそうだった。
もっとも提言しようにも、親子ほどもある二人の年齢差が互いの交流を妨げていた。といってもウェスタにとってガニメデはどこからどう見ても交流を持ちたいと思うほどの相手ではなかったが。
「あんな親父じゃ陛下みたいにからかいがいもないし」
まだヒュベル卿、エレクトライ卿、ザラルセン卿あたりの美男子やリュケネ卿、エテオクロス卿あたりの渋めの男性ならば好みに十分合うんだけどな、とウェスタは思った。
こんな親父、うっかりからかいでもしたら尻でも触られそうだ。
「あ、いや、待たれよツァヴタット伯殿」
そんなことを考えながら、もう用件は無いとばかりに出て行こうとしたウェスタの後ろからガニメデが声をかけた。
騎馬を中心としたカヒ四翼と芳野諸侯の兵七千が雪も疎らになった芳野の大地を疾走し、芳野国境を封鎖している王師第十軍、ガニメデ隊目掛けて南下を始めた。
ガニメデは偵騎を出して常にその位置を把握し、敵の行動を監視していた。もちろんそれをデウカリオらも知っている。知っていてあえて無視しているのだ。
それは自らの持てる力に対する自信の表れか、それともそこにまで気を回すことができないほどの余裕の無さの現われなのか。
デウカリオらが城から出たのに攻撃しようとして来ないのは、王の本体が上州へ向かい、留守部隊しか残っていないという越から得た情報が正しかったということを表している。
ならば彼らの目的は河東への侵入を防ぐことだ。さらにいえば兵力規模はそれほど大きくは無いはずである。
王師はオーギューガより大兵力を有してはいるが、二方面作戦を行うほどの兵力は保持していないのだから。
芳野の留守部隊に兵力を割り振り、上州でオーギューガに敗れたら洒落にならない。それくらい分からぬ王ならばこんな苦労はしていないのである。
だとすると芳野の兵だけでも十分野戦で勝機はあるとデウカリオは判断した。
敵は冬営のため、小さな陣営を作って、そこに今も留まっている。それは冬営という特殊な条件に合わせて作られた、戦争には不向きな陣営地だ。敵の体勢が整わぬうちに急襲すれば大きな勝利が拾えるかも知れぬと、デウカリオは馬を走らせながら考えていた。