翻弄(Ⅷ)
冬が訪れたばかりの頃はまだ良かった。
地面に振り落ちた雪も大地のぬくもりに直ぐに解けて消え、木々を燃やせば体を温める程度の暖を容易く取ることができた。
だが日々が過ぎ去るにつれて、状況は刻一刻と悪化していった。
畿内、関西、南部生まれの多い王師の兵は芳野の冬を知らなかった。
また東京で生まれ育ち、暖房器具がありふれた生活をしていた有斗には雪国の冬の厳しさを実感することなど無かった。
もちろんニュースでは見たことがあり、知識としては知ってはいたが、現実の問題として処理するとなるとそれはそれで別な問題なのである。
朝起きるとそこは一面の雪、まずそれを片付けることから一日は始まる。王師の宿営地の周りはたちまち渦高く積み上げられた雪が城壁のように取り囲み、当初はこれで敵から奇襲される心配がなくなっていいなどと軽口を叩いていた旅長たちも、やがて陣営地の雪の捨て場に困る状況になってくると事態の深刻さをようやく悟り始めた。
その頃には大地は固く凍り、鋼鉄製の農機具すら弾き返す。掘り起こすことすら難事になっていた。毎日の雪かきに人手を取られて、工事も完全に中断する。
また五万もの兵が暖を取るには一日に膨大な数の薪が必要となる。付近の野山からはあっという間に薪になりそうなものが姿を消した。それどころかせっかく確保した薪もうっかり雪に浸かってしまったりして、煮炊きに使う薪にも不自由するほどだ。
しかし寒さは日毎に募るばかり、凍傷にかかってしまう兵も続出する。
また雪のせいで敵の妨害が無いにもかかわらず補給は途絶えがち、王師の指揮は見る見る落ちていった。
「この寒さどうしたものかなぁ・・・」
有斗は日々積み上がっていく吉野の厳冬がもたらす悪影響の報告にどう対処すべきか悩んでいた。
もちろん王都のラヴィーニアに一筆書いて、補給物資に暖かい衣服と薪、酒など体を温めるのに効果がありそうなものを送る手はずを整えるように指示を出した。
ラーヴィニアは命じればほとんどのことを遂行するという有斗にとって有難い能臣だ。あれで王に向かって文句をぶつぶつ言うことがなく、もうちょっと外見が大人ならば最高なのに、などと有斗は夢想する。
だがさすがのラヴィーニアでもできることとできないことがあるだろう。特に暖を取るのに必要な薪の類は膨大な数になることが予測できる。
それを確保し、輸送するのに必要なコストを考えると、それが現実的に可能かどうかであるか有斗にも、将軍たちにも、本陣付きの参謀たちにも判断がつかなかった。
用意できないと言ってきた場合のことも考えなくてはならない。
それにこれ以上、補給路に雪が積もると輸送が完全に途絶してしまうかもしれない。このままでは戦う前に死者が大勢でかねなかった。
そういった意味からも例え補給の目処がついたとしても対策を考えておいたほうがいいかもしれないと思って、知らずに心の中の考えを口に出してしまったのだ。
と大胆にも有斗の寝台の上にごろりと肢体を寝そべらせていたウェスタが寝具をめくり上げ、有斗に提案する。
「雪の中、遭難したときには肌と肌を重ねて温め合うといいと申します。ささ、陛下、お着物を脱いでこちらにおいでください。ウェスタはいつでも準備できております」
「・・・そういった問題じゃないんだけどな」
それでは有斗の寒さ対策にはなるだろうが、軍全体の寒さ対策にはならない。まさか全軍に裸になって抱き合えとか言うわけにもいかないだろう。
・・・ほとんどが男だし。
そのおぞましい光景がいたるところで展開されたら、兵士の士気は一気にゼロになるに違いない。いや、ゼロどころかマイナスだ。敵と戦う前に我が軍は崩壊の憂き目に会うことになるだろう。
「痴女は黙ってろ。有斗が話しているのは軍全体の寒さ対策のことを言ってるんだ。あ~ヤダヤダ、頭の中までいやらしいことで詰っている下品な女はこれだから」
「やだぁ、ちょっとした冗談すらも通じないなんて! まさかそれくらいこのわたしがわかって無いと思ってるの?」
「何が冗談だ。隙あらば有斗といちゃついて、いやらしいことをしようとしているくせに。ほら、お前からもこの痴女に何とか言ってやれよ。陣内の風紀を乱すと良くないとかさ!」
「いや、僕は別に・・・」
確かにちょっと困るかなと思うときが無いわけではないけど、まぁそこは有斗自身がきっちり自省すればいいだけの話だ。ウェスタは口では散々アプローチをかけるが、最近は有斗が望まない限りは実行に移したりしないと心に決めているようだし。
それに・・・この世界で王という至尊の存在であるはずの有斗だが、何故か想像と違い女性にモテモテといったことは無いようだ。王という権力と財力を一身に集める存在という付加価値がついてこの有様なのだとしたら、もしこの娘を側から退けたら、僕はこの先一生、女の子からちやほやしてもらえることなんて無いかもしれないと思うと、無碍にするのはもったいない気がしてしまうのだ。
ものすごい卑屈な考えであるような気もするけど、しょうがないじゃないか! 日本じゃモテ期など来なかったんだから!
確かにウェスタに対する態度として誠意を持って接してるとはいえないが、セルノアの時のように考えなしに手を出そうとしているわけじゃないし、王にだってそれくらいの役得くらいあってもいいのではないかと思う。
もっとも周囲からしてみたら今でも十分もてているように見られていることを有斗は知らなかった。
「有斗ッ、甘やかさない! そんなのだから益々この女が付け上がるんだ!」
「別に甘やかしてるわけじゃないよ」
自分を甘やかしている気は多少するが。
「そもそも貴女にわたしの行動をとやかく言われる筋合いはありません。それに大体、わたしのどこが痴女なんですか?」
ウェスタが口を尖らせ抗議の意を示すと、アエネアスがその作ったような仕草が癇に障ったのか、大声で反撃を開始する。
「言っただろうが! 有斗と二人で寝台の中でいやらしいことをしようって!」
「あたしは単に寒さをしのぐために肌を重ねあおうと提案しただけです。それをまぁ・・・そんなふうに勘違いするなんて。羽林将軍様は意外と淫乱ですね。もしかして欲求不満がいろいろとたまってるんじゃありませんか? 毎夜、ひとり寂しく枕を涙で濡らしておられるとか?」
ウェスタは小馬鹿にしたかのように露骨に卑猥な言葉を並べてアエネアスを挑発する。
「な・・・なんだと!」
アエネアスはたちまち顔を真っ赤にして口ごもった。
暴力女のアエネアスもこういったことに対する反応だけは、本当にうぶな少女のようで可愛げがある。
だがそれでも一歩も退くまいと睨み付けて対抗する。負けじとウェスタも睨み返す。間に挟まれる形となった有斗は自分の天幕であるにもかかわらず、とても居心地が悪く感じ、仲裁に入ろうとした。
「ああ、もう、二人とも喧嘩しないでよ。ここは僕の顔に免じて怒りを抑えてくれないかな?」
双方の顔を立てる無難な調停だと有斗は思うのだが、そう言った瞬間、ウェスタもアエネアスもその怒った顔を有斗に向けて大きく叫んだ。
「誰のせいでこうなってると思ってる! お前がはっきりしないからだろ!」
「誰のせいでこうなってると思ってるんですか! 陛下が決心なさらないからなんですよ!」
何故か二人の怒りはベクトルだけ向きを変えて有斗に突き刺さる。
「・・・スミマセン」
有斗は二人から同時に責められ、一切悪くないはずなのに思わず謝ってしまった。
その後、二人を宥めるのにエネルギーのほとんどを費やしてしまった有斗だったが、気力を振り絞って再びこの現状をどうするか考え出した。
「そうだ・・・! 芳野の人々は毎年この厳しい冬を乗り越えている。彼らから物資を分けてもらい、この冬を乗り越える方策を教えてもらえばいいんじゃないかな!」
雪国には雪国に生きる人間としての生活の知恵があるだろう。一冬越すための物資も蓄えてあるに違いない。それを補給が届くまでの間、借り受ければいいのではないだろうか?
「無理でしょう。芳野の民は誇り高く排他的なところがありますし」
そう言われればそうかもしれない。略奪や暴行を禁止して、それが厳格に守られているというのに、住民は非協力的だ。敵の動き一つすら情報として入って来なかった。他の地域ではそんなことは無い。たとえ相手が侵略者であっても、劣勢であっても、万が一にも勝利を収めた時のことを考えて、媚を売っておくという動きが見られるのが一般的だった。
こちらが頭を下げて頼んでも協力は得られないかもしれない。かといって後々のことを考えると脅して協力させるとか、無理やりいろんなものを供出させるというのも拙い気がする。
「一旦、兵を芳野国境地帯か、河東へ退くしかないと思うぞ」
アエネアスが撤兵を具申する。山一つ隔てただけだが、南海から温かい風が吹き込んでくる河東は南部と同じで冬は過ごしやすい。
また芳野が雪で覆われることで敵襲を考えずに済むという点も魅力的だ。
「でしたらなるべく早くになさるべきです。吉野は積もる時は人の身長を超えて雪が積もるとか。脱出できなくなる前に撤兵すべきです」
めずらしくアエネアスとウェスタ、二人の意見が一致する。この二人が一致するということは他の手段はあまり現実的ではないんだろう。
「・・・やはり、そこに落ち着くことになるんだろうなぁ・・・」
いちおう邪魔になりそうな城砦は破却したから、王師が退いたからといって直ぐに元通りにできるわけではないだろう。
しかし来春戻ってくる時には、いくつかの城砦は補修されて元の姿に戻って諸侯の兵が篭り、再度攻略が必要になるかもしれないと思い、有斗は憂鬱になる。三歩進んで二歩下がるだ。これでは攻略にいったい何年かかることか。芳野攻略に妙計が無いか墓場の中のカトレウスに聞いてみたいくらいである。
「ん・・・?」
有斗はふと疑問に感じた。こちらのことばかり考えていたが、敵はこの厳冬の間、どういった対策を王師に施してくるのだろうか?
「どうした?」
アエネアスが突然考え込む有斗を見て声をかける。
「あ、いや、人の背丈を越えて雪が積もるということは、敵もその行動を制限されるんじゃないかなと思ってさ」
よく考えると破却した城は人気の無い山頂にその多くが作られている。山頂に至る道を切り開くだけで大変であろう。しかも木を切り出そうにも、これまた森も雪に覆われて大変な作業が待ち受けていることであろう。しかもこの寒さだ、作業中に命を落とす危険性だってあるだろう。そんな中でこのような労苦を果たしてするだろうか・・・?
いや、ほとんどありえない。だとすると王師は撤退しても何の支障も無いということだ。
だが有斗の心に引っかかったのはそのことではなかった。
「ん? 敵もこちらを攻撃したり、砦を補修できないってことが言いたいのか? それはまぁ・・・そうだろうな。敵は王師と違って人数も少ないし、後方に兵站を持っているわけじゃないだろうし」
有斗の考えたことはアエネアスのその指摘とも関連するが、ちょっと違う。後方に兵站を持っていても維持するためには道路の確保が必要である。有斗の考えとはその道路の確保、つまり通行の担保といった事柄であった。
朝廷はその気になれば労役で民を駆り出して雪かきをさせて、道を確保することが可能であろうが、非力な敵が多くの労力を裂いて雪の中、道を確保することなど不可能であろう。むしろ他のことに労力をまわすに違いない。武器の製造とか砦の補修とか。つまり・・・
「じゃあ越と芳野の間の交通も途絶されるってことじゃないのかな・・・?」
「そりゃあ・・・そうだろう。越のほうがより雪が深いって話しだし、平地よりも山のほうが雪が積もるというからな」
目から鱗の新発見だと思うのだが、アエネアスもウェスタも何を当たり前なことをとでもいった目で有斗を見つめるだけであった。
王師の撤退は陣営を眼下に一望できる旗尾岳城にいるデウカリオたいにはすぐに知られることとなった。
「この雪では交戦も無理、工事も続けられないと見たのか、王師は河東へひとたび退却するようだ」
サビニアス配下の者が王師に付かず離れず尾行して逐次状況報告を送ってくる。それによると王師は国境の山岳地帯についに到達したらしい。
「無難ですな。ですが王師は関西、畿内の出身者が多い。冬に不慣れなのです。このままこの地で越冬してくれれば付け入る好機がありはしないかと願っていたのですが・・・」
そう言うバアルも西国出身である。芳野の冬は去年初めて体験してその厳しさを知った。バアルは芳野の人の手助け合ってなんとか厳しい冬を乗り切れたが、王師はそうは行くまいと思って楽しみにしていたのだが当てが外れてしまったというところであろう。
「まぁ敵もそこまで愚かではないということであろうよ。これでまた前線を芳野国境近くまで押し戻せるということだ。もう一度、畿内の奴輩に目に物見せてくれようぞ」
王師の侵攻を防ぎとめたことに気を良くしたデウカリオは豪快に笑った。同席しているカヒの将軍たちの表情も明るい。
祖国を失い、敬愛する御館様を失った彼らにとっては、その元凶の王師を軽くあしらった形となった今回の一軒は久方ぶりに胸がすっとする出来事であった。
と、酒宴の最中に無粋な邪魔者が入り込んでくる。血相を変えて取次ぎを勤める武官が走りこんできたのだ。
「デウカリオ様、お客人が!」
「・・・誰だ?」
見るからに不機嫌な顔をしてデウカリオはその武官をにらみつける。酒宴に割って入るからにはよほどの人物が大事な用件で来たということではある。二、三の諸侯の顔を思い浮かべてみるが、思い当たる筋は無い。まさか王師が急遽引き返してきたとかか・・・?
「ディスケス殿です! ディスケス殿が援軍を率いて参られました!」
その声が終わるや否や、上品な白い頭髪を持った老人が笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
「やあ皆様方、お久しゅう。これは酒宴の最中でしたか、これはよいところに来たようですな。私も運が良い」
「どうしてここへ・・・?」
なんと言ってもカヒとオーギューガは数十年にわたる因縁があるのだ。今は味方と言っても、突然軍を引き連れて現れたとあっては身構えてしまうのも仕方が無いであろう。
「単純なことです。まもなく越と芳野の国境は完全に雪で塞がれてしまう。春の雪解けが来ぬ前に王師が一斉に攻撃を仕掛けてはと御館様が案じておられてな。お邪魔だとは思ったが来させてもらった。協力して王師を手酷き目に遭わせてやろうではないか」
カヒの将士の不審の目をものともせず、ディスケスはそう磊落に笑いかけた。