表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅旭の虹  作者: 宗篤
第七章 一統の章
277/417

憤怒

 アルイタイメナスは地面に血溜りを作り、よろめきながらも惑うことなく目的地、オーギューガの本営へと向かう。

 もはや自分が助からないことは充分自覚していた。だが自分の兄とはいえ、あんな男がカヒの当主として歴史に名が残ることだけはなんとしても避ければならないとだけ思った。

 カヒには誇るべき長い歴史がある。もちろん人格的に立派な当主だけではない。非情な当主もいるし、子弟を殺した当主もいる。カトレウスだってその一人と言っても良い。

 だが僅か数ヶ月の間に、親を裏切って当主の地位を得、自身の地位の保全の為とはいえ弟を躊躇(ためら)い無く殺し、兵を貸して自分を当主の地位に戻してくれた恩人の顔に泥を塗るような恥知らずは早々いるわけがない。

 あんな男がカヒの当主として名前が刻まれた日にはご先祖に申し訳がない。そう思った。

 それを防ぐには残念ながら、もはや彼自身の力では難しい。既に兵を手放してしまった、さらにはこの傷だ。長くは持たない。不本意だが他人の手を借りなければならない。そう、テイレシアの手を。

 その思いだけが彼の足を一歩一歩目的地へと動かしていた。

 本営の天幕の前で警護の兵に止められるが、アルイタイメナスはその手を邪険に振りほどき前へ前へと進む。警護の兵たちも腹部から臓物をはみ出させ、血で真っ赤に染まった体を見ると手荒に扱っていいものか思わず躊躇いが生まれる。さすがのオーギューガの精鋭もそんな状態になっても何かを為そうとするアルイタイメナスの気迫に気押されたのだ。

 アルイタイメナスは警護の兵を振りほどいて天幕の中へと倒れこんだ。

 突然巻き起こった、時ならぬ騒ぎに剣を手にして身構えたテイレシアだったが、入り口から大怪我をした血だらけの男が転がり込むのを見て、小さく悲鳴を上げた。

 と、血まみれのその人物がアルイタイメナスであることに気が付く。

「アルイタイメナス殿いかがなされた!」

 テイレシアは傍に駆け寄ろうとするが、アルイタイメナスは手でその動きを制した。

 テイレシアはその傷の深さに気付き愕然とする。手の施しようがないとはまさにこのことだった。このままでは死ぬ。

「いったい何故、こんなことに・・・!?」

「兄に・・・テュエストスに斬りかかられました・・・」

「・・・ッッツ!」

 テイレシアの顔が蒼白になる。テュエストスにアルイタイメナスと会う許可を与えたのはテイレシアだ。

 つまり間接的にアルイタイメナスの命を奪ったのはテイレシアであるとも言える。

「しっかりなされよ、アルイタメナス殿!」

 手当てを施そうと(かたわ)らに駆け寄った。だがアルイタイメナスはテイレシアの言葉に何の反応も無い。テイレシアは恐る恐るアルイタイメナスの口元に手をかざす。

「そんな・・・・・・!」

 口元からは僅かな呼気すら漏れていなかった。

 アルイタイメナスは命のともし火を既に使い果たしてしまっていたのだ。

 だが彼は満足であったであろう。目的は果たしたのだ。

 アルイタイメナスは虜囚の身の上であった。その彼に会うのには必ずテイレシアの許可が要る。

 もちろんテュエストスが神妙な態度を示しただとか、言葉巧みにテイレシアを説得したこととか、実の兄弟でもあるし、恩人であるテイレシアの面子を潰すようなことはしないとかいったことを総合的に判断して許可を出したのだろう。アルイタイメナス殺害の責務のほとんどはテュエストスにある。だがつまるところ同時にそれはテイレシアの失態であるとも言えるのだ。

 自分の目の前でアルイタイメナスの死というその失態をその目に見せ付けられて、テイレシアがそれを見なかったことにできるような人物ではないことをアルイタイメナスは知っていた。

 必ず何があろうともテイレシアはテュエストスを殺そうとするに違いない。


「御館様!」

 騒ぎを聞きつけて陣所の各所から次々と将軍たちが集まってくる。

「・・・これは!?」

 入り口近くに転がっているアルイタイメナスの壮絶な死体に将軍たちは思わず絶句する。

「アルイタイメナス・・・殿か・・・?」

 テイレシアは物言わぬ死体となったアルイタイメナスのまぶたをそっと手で塞いだ。

「・・・丁重に葬れ。よいか丁重に、だ」

 テイレシアは小姓たちに埋葬を命じる。テイレシアの肩は僅かに震えていた。

「・・・御館様?」

 恐る恐る声をかける将軍たちに振り返ったテイレシアの顔は憤怒の炎が燃え上がっていた。

「なんたる愚劣な男だろう! 降伏し兵を手放し、武器を持たない無力な弟を殺すとは! そして私はなんたる愚か者だったのだろう! このようなことを平気でする忘恩の徒に手を貸してしまうなんて!」

 自己の利益だけを優先し、和解を持って争いを収めるという大義も、手を貸してくれた相手に対する配慮や敬意も理解しないテュエストスという男にテイレシアは猛烈に怒っていた。さらにはそれを見抜けず、そのような男を諸侯の端に復す手助けをしただけでなく、親の遺命に従い勝ち目のない戦に赴いた立派な一人の男をむざむざと死なせてしまった自分の愚かさにも腹が立っていた。

 テイレシアは戦国を終わらそうとする王の理想に共感し、その一環として助けを求めてきた本来何の関わりも持たないテュエストスに助力し、カヒの内紛を終わらせる手助けをするという自身に何の利益ももたらさない行動を起こした。そして王の寛恕を持って和平を作るという考えに沿って、手打ちをすることで兄弟の争いを、カヒ内部の争いを終結させようとした。さらには七郷にいては揉め事の元になるだけだからアルイタイメナスをオーギューガに引き取ろうとしたのだ。

 それはアルイタイメナスの命の保障という観点から行われた行動というだけでなく、同時にテュエストスに対する配慮でもある。この反乱騒ぎを悲惨な結末をもたらさずにごく短い期間で終結させることで、テュエストスに対して起こされた反乱騒ぎが小規模なものであると見せかけ、為政者としてのテュエストスの面子を守ろうとしたのだ。普通ならば反乱騒ぎを起こされた諸侯は無能の烙印を押される。王が領土を取り上げることも充分ありえる事態なのだ。

 だがそれら全てを踏みにじって弟を殺した。理由はいくつかあろうが、越に行ったアルイタイメナスがテイレシアの後援で反テュエストスに動くのではないかと考えたからに違いない。

 つまりテュエストスはテイレシアをも信じていなかったということになる。

 テュエストスの為に万の軍勢を手弁当で催したテイレシアを、である。

 それはこの非情な戦国乱世にも関わらず、常に高潔で誇り高く不器用に生きてきたテイレシアに対するこのうえもない侮辱であった。その生き方全てを否定する行動だった。

「私はこの年になるまでこのような恥をかかされたことはない!」

 怒りが全身を駆け抜けていた。

 何があってもあの小僧だけは許さぬ。アルイタイメナスの敵討ちという面だけでなく、私の誇り、オーギューガの誇りの為にもそうすべきだ。

 机を拳で打ち付けると、温厚なテイレシアに常に見られぬその形相に怯えて平伏する彼女自慢の猛将たちに強い口調で命令する。

「越への帰還は取り止めとする。まだ陣所内でうろついているかもしれぬ。探すと同時に急ぎ兵に戦の準備をさせろ。どんなことをしてでもテュエストスの命を奪い、首をアルイタイメナス殿の墓前に捧げねばならぬ。よいか、それが叶うまでは決して越へは帰らぬ! 例え我らが最後の一騎になろうともそれだけは果たさねばならぬ、よいな!!」

 いくら兄が病弱であっても、女の身であるテイレシアがオーギューガという巨大諸侯を束ねるとなった時は多くの者が難色を示し、この機に乗じて越を手に入れようと内外で策謀が渦巻き、多くの裏切りと戦いがあった。

 数限りない内部抗争と外敵の侵攻、テイレシアは血反吐を吐くような壮絶な戦を生き抜き、幾人もの大事な家臣を失う多くの負け戦を経験しながら、少しずつ家内制御の方法を身をもって覚え、家内から異分子を排除し、戦に勝利するとはどういうことかを身をもって体得していった。

 その長く苦しい戦いの果てに今のオーギューガの家がある。オーギューガは強固な一枚の岩となったのだ。

 今やテイレシアの命令であればオーギューガの諸将に否やはない。テイレシアの指差す先が例え千尋の谷であって、その先に待ち受けているものが単なる死でしかなくとも、彼らは喜々として崖から飛び降りるであろう。

「応!!!」

 戦往来を重ねた、野太い将軍の声が返答を返すと、諸将はいっせいに持ち場に戻り、急ぎ軍を整え御大将の命に応えようとする。


 その頃テュエストスは自身の用は済んだとばかりに、オーギューガの陣所を離れていた。テイレシアに一切の挨拶もせずにである。

 七郷を去ろうとしているテイレシアの邪魔をしたら悪いと思った為か、弟を殺したことで、さすがにテイレシアに合わす顔がないと思った為かは分からない。悪いことが起きるかもしれないという勘が働いたのかもしれない。

 そういう危険を察知する勘と運だけは持っている男であるようだった。もっともそれは他の者からすると悪運であるかもしれなかったが。

 テイレシアに警戒を抱かせぬように僅かな供回りだけでテイレシアを訪問していたテュエストスは、帰りも当然僅かな供回りだけで帰還する。

 アルイタイメナスを始末した今、憂いは無かった。これでようやく七郷(ここ)は自分の土地である。もはや何も恐れることもない。共に同行した供回りたちと悠然と馬を歩かせていた。

 と、後方から四、五頭の馬が土煙を上げて追いかけてくることに最後尾の者が気が付いた。

「おや、騒がしいな。どこの兵だろう」

 その声に一行はそれぞれが馬上で伸び上がって後方に目線を向ける。

「殿、あれはオーギューガの兵ですぞ。厄介なことになったやも」

 テュエストスは先ほどオーギューガの陣内でとんでもないことをしでかしたばかりなのだ。こちらに駆けてくる兵がそれに無関係だとはとても思えなかった。兄弟の間にいったい何が起こって殺害を思い立ったのか側近たちには(おもんばか)るしかないが、そのような正当な理由があろうともそれがオーギューガを納得させられるとは思えなかった。不吉な思いで彼らはそう主君に告げた。

「なんだと?」

 めんどくさそうに後ろを振り返ったテュエストスの目に、鎧兜フル装備の、ご丁寧に槍までも小脇に抱えた、偵騎や伝令にしては物々しすぎる一団の騎馬兵の姿が入ってきた。

 そのオーギューガの騎兵の発する物々しい雰囲気にテュエストスはようやくどうやら自分がとんでもないことをしでかしてしまったことに気が付いた。

 どうやらテイレシアは王の威光やカヒの安定といった大義よりも己の感情を優先させることにしたようだった。もちろん、それらはテイレシアの行動に対する歯止めとなるとテュエストスが勝手に思い込んでいただけではあるが。

「待たれよテュエストス殿! 御館様が折り入って話があるのだ!」

 ようやく探し回っていたテュエストスを見つけたオーギューガの兵は声を張り上げて、こちらに注意を向けさせ足を止めさせようとする。

 苦労して見つけたせっかくの獲物だ。逃がしては(まず)いと、作り笑いを浮かべて警戒を解こうと試みる。もちろん近づいたら襲いかかれるように、馬を走らせながらもずれた体を鞍の位置に合わせ、鐙をしっかりと踏みしめ直し、馬の口にハミを掛け直す。

「そう言ってますが、いかがいたします・・・?」

 そう言って彼らの主人の方に振り向いた彼らは唖然とした。

 テュエストスは馬の腹に足を打ちつけ、一目散に馬を駈けさせ逃げ出したのだ。


「テュエストス殿! どこにいかれる! テュエストス殿!!」

「御館様! お待ちを!!」

 慌てたように再び大声を張り上げ、テュエストスの足を止めようとするオーギューガの兵や、慌てて後を追いかける供回りに一切構わず、テュエストスはただがむしゃらに馬に鞭を入れる。

 テュエストスは必死で馬を駆けさせつつも、頭の中で安全なところを探す。

 どこかにないだろうか。彼らの追跡を振り切り、安全になれる場所が。

 まずは当然、自分の館を思い浮かべる。だがそこはアルイタイメナスに焼き討ちにあってまだ再建されていない。論外だ。

 そこで次に国府台の館跡に建てられた王の仮行在所を思い浮かべる。あそこならば曲がりなりにも王の仮の館として設計されたのだ。ちょっとやそっとの攻撃でもびくともしないだろう。周囲の豪族などに急ぎ使者を発すれば一時なりとも支えきれるかもしれないと思い直す。

 だが次の瞬間、首を慌てて横に振る。

 カヒの連中はテュエストスをまだ心の底では棟梁であると認めていない。アルイタイメナスの反乱後、弟に協力した者はいても、積極的にテュエストスに味方し、弟に頑強に抵抗したものが一人としていなかったことがその何よりの証拠ではないか。危急を知らせて参集を促がしても、これ幸いと見殺しにされる危険性があった。

 駄目だ。館の備えは万全でも、人がいなければオーギューガの追求をかわしきれない。

 と、ふいに突然いい考えが頭の中に浮かんだ。

 あるではないか、彼が望むような素晴らしい場所が。

 味方してくれる人が多くいて、そしてテイレシアといえども絶対に手を突っ込めないという夢のような場所が。

 テュエストスは西へと馬首を翻すと、鞭を入れ、そこへ向かって再び全速力で馬を走らせる。


 西にある原野、王師の駐屯地へと向かって。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ