火種
芳野が例えオーギューガ経由であろうと降伏したという形になったからには、有斗が寄り道を行う必要は無くなった。一刻も早く王都へと帰ることに決める。
おりから盛りになった梅雨で降りしきる雨の中、田んぼで揺れる水稲の姿を見て有斗は思わず溜息をつく。焼けた稲、踏み荒らされた稲、周囲に雑草が生え茂ったことで十分に生育できていない稲、病気にかかった稲など満足に収穫を期待できそうな田畑は数えるほどでしかなかった。
今年は河東全域で戦があり、兵が踏み荒らした田畑、兵火で焼き払われた田畑は東山道沿いを初め数多い。戦火を恐れて逃げ出した民も多かった。その間、田畑の手入れは行き届いていない。河東の収穫量はおそらく例年を遥かに下回る。
河東に直轄領を置くか置かないかはともかくも、民を救済するプランを考えておいたほうがいい、と有斗は思った。
諸侯任せにしておけば民の不満が高まるし、諸侯の不満も高まる。主人が変わったこの時こそ新しい主人は何よりも気を払わなければならない。
昔の主人の方が良かったと思われれば反乱が起きてしまう。しかも一気に河東全土に広がりかねないからだ。
それもこれも王都に帰って官吏と相談しないとはじまらないのだが、行軍は思ったほど捗らなかった。
東山道は長年の戦争で手入れが一切されておらず、有斗の乗る馬車も何度も車輪が穴にはまり込んでは脱出に時間を食う。行軍速度は一日半舎(約7・5キロメートル)程度にまで落ち込んだ。
しかし着実に一歩一歩進めば、いつかは目的地に到着することができる。
河西諸侯と王都での再会を約しつつ別れ、一路西へと進んだ有斗はようやく大河の河岸に辿り着いた。
その間も相変わらず周囲の者は、河東に兵がいる間に芳野の攻略をするよう薦めてくる。
それも有斗が毎回却下し、だんだん芳野に近づいて、その芳野で不穏な動きが見られないとなるとその提言も少なくなっていった。
最後まで抵抗したのはマシニッサくらいのものだ。やられっぱなしでは格好がつかないということであろう。
「芳野諸侯はともかく、せめてカヒ四千の兵だけでも討伐すべきと愚考いたします。四千の武装したカトレウスに心酔したままの精鋭を放置したままでは、他の諸侯やカヒの残党と結びついて反乱を起こすかも。いずれ厄介なことになるのは目に見えて明らかです。殲滅しましょう」
言ってることは勇ましく、まるで有斗の為を思って言っている様であるが、本音は絶対に異なる。自身の面子のためと芳野攻めで手柄を立て褒章をもらおうという心がありありと見える。
そこでマシニッサに七郷攻略の間、芳野を抑えていたことを褒め、加増の話をちらつかせると、あっという間に大人しくなった。
実に・・・・・・わかり易い。ある意味、アエネアス並に単純な奴である。
河岸につくとそこには行きと同じくずらりと船がすでに並んで有斗たちを待ち受けていた。
さすがラヴィーニア、一切の粗漏がない。
有斗は早速、船に乗り込み畿内への船旅を楽しむ。大河の流れに合わせて船は大きく揺れるが、馬車と違ってお尻が痛くならないだけでもありがたい。このまま川を遡って東京龍緑府まで帰りたいとさえ思うほどだ。
何の問題も無く二日間で全軍の渡河は完了した。
有斗が王都に戻ったのは七月十二日のことである。
部屋に戻った有斗の前に戦旅の疲れを癒す間もなく、各省庁から大量の報告書や上奏書が積み上げられた。
「ちっとは手加減してやれよ。あいつだって帰ってきた日くらいはゆっくりしたいだろ」
珍しく有斗を気遣うような言葉をアエネアスがラヴィーニアに向けて言った。さすがにあの惨状に哀れを催したのかもしれない。
「羽林将軍が陛下の体を気遣うとは・・・明日も雨かもな。弱ったな。長梅雨で稲の発育に影響が出そうなんだけどな・・・」
「茶化すなよ。有斗はカヒを激闘の末、倒してきて疲れてるんだ。あのひょろモヤシは体力が無いんだぞ。だけど気がいい奴だから皆から頼られると嫌だとはなかなか言えないんだ。きっと今日も徹夜で書類整理だ。ちょっとは官吏の方が気を回さないといけない。倒れたりしたらどうするんだ」
「そんなこと言ってもねぇ・・・陛下でないと、どうにもならないことってのはあるからしょうがない。もし誰かで陛下の代替が利くとするならば、その王様はもはや飾り物でしかないってことさ」
「それはそうだけどさ・・・有斗が倒れられても、みんな困るじゃないか。な? 頼むよ!」
「ま、羽林将軍様のお頼みとあればいたしかたがない。今日は今ある書類だけで我慢する。何、ほとんどが判断を必要としない書類ばかり、二刻(四時間)あれば片がつくさ」
「それならいいけどさ・・・まだ書類あったんだ?」
有斗の執務室に積まれているだけで溜息をつきたくなるような書類の山を見たアエネアスからすると信じられない話だった。
「あるよ。ほら、そこに」
そう言ってラヴィーニアは中書省の一角を指差す。アエネアスが振り返ってその風景を見るが書類の山のようなものはそこには見出すことができなかった。
やがてアエネアスはその光景の中にある大量の書類を見て唖然として、ぽかんとだらしなく口を開けたまま固まってしまった。
一見そこには何もなかった。だが良く見るとそこには天井まで渦高く積み上げられた書類の山が壁のように見えていたのだった。何ヶ月あれば、あの山を処理できるのかアエネアスにはまったく分からない、とんでもない量の書類だった。
「官吏からの四半期の報告書が二回分、今年の収穫予測の報告書、各地に散らばる王領からの報告書、さらに秋の除目に備えて王の覚えを良くしようとする各官吏からのゴマすり・・・じゃなくて上奏書、物価上昇に対する地方からの悲鳴、按察使からの地方官の告発・・・まぁ各種取り揃っているよ」
「大変だな・・・有斗のやつ。ところでお前・・・オーギューガが芳野を勝手に裁断したってこと誰かに聞いたか?」
「聞いたよ。というより今や官吏で知らない者がいないと思う。ゴルディアスあたりが憤慨したのか誰彼構わず話しまわっていたからね」
「将軍たちの中にはオーギューガが巨大になりすぎたことに警戒を促す声もある。オーギューガはこれで最大三万の兵を擁するアメイジア一の大諸侯となった。例えば我がダルタロスは同率四位で五千、二位のキルキア公でも公称六千五百だ。その存在は諸侯の中で群を抜いて突出している。朝廷に匹敵するといってもいい。それに有斗には天与の人というはったりがあるが、テイレシアにも軍神という名で諸侯から恐れられているし、さらにはその義理堅い性格からアメイジアの全ての人から尊敬されている。しかもオーギューガは一万にも満たない軍勢で数倍のカヒの軍勢と戦って一歩も退くことがなかった無敵の軍団だ。それが今や三万に膨れ上がった。王師十軍五万といえども勝利できるかどうかはやってみないと分からないくらいだ。これでは天に二つの太陽があるようなもの、有斗にとって危険な兆候となりうる」
アエネアスが話す一言一言にラヴィーニアは頷き、最後にこう返答する。
「うん。理屈は通ってるね。さすがはプロイティデス卿、手堅い判断をする」
ラヴィーニアのその言葉にアエネアスは顔色を変えた。
「・・・どうして私の話がプロイティデスから聞いたとわかった!? まさか・・・お前・・・王師の中にまで、いや羽林の中にまで密偵を潜ませているのか!?」
確かに宮廷であれ王師であれ所詮は人間の世界の一つに過ぎない。足の引っ張り合い、蹴落とし合いなんでもありだ。だがいくら腹黒いとはいえ、常時監視の目を配置するのは、それはそれでやり過ぎである。
王朝というものは全ての人に曲がりなりにも正義があると思わせなければ成り立たない。だがこれでは陰謀の巣である。だからアエネアスは顔色を変えたのだ。
だがそれは見当違いのアエネアスの考え。ラヴィーニアは思わず噴出してしまった。
「まさか! 中書という仕事はそこまで暇じゃないし、あたしが自費で雇っている人間には限りがある。今現在問題の兆候が見られないところに入れる余分な人員なんて持ち合わせちゃいないよ」
「本当か・・・?」
アエネアスはそれでも納得しない。まだ疑いの眼でもってラヴィーニアを見ていた。
「種明かしをしたら簡単さ。羽林将軍はこの宮中で独特の立ち位置を持っている。だから比較的どの将軍とも話はするけれども、それでもそんな大事を腹を割って話せる相手は二人しかいないからだよ。プロイティデス卿とベルビオ卿。でもベルビオ卿がこんな理知的な話をするとはとても思えない。完全な脳筋だからな。残った候補はプロイティデス卿しかいない」
「・・・なるほどな」
教えてもらえば簡単な種明かしだ。確かにそれはアエネアスですらよく考えれば判断できることだった、と思い直す。
「それは納得した。でさ、話というのはそのことなんだけどさ、オーギューガは義の家、カトレウスと違って天下を手に入れたいと考えて、有斗に範囲を翻すことは無いと思うけど、この芳野の仕置き・・・このままでいいと思う?」
「あたしは陛下の決断に賛意を示す。実に素晴らしいと思うよ」
「正気か!? 三万の兵を抱える巨大諸侯が誕生するんだぞ!!」
「じゃあ聞くけどさ、越と上州を所持した状態のオーギューガという存在は、芳野をも所持した時と比べて危険な存在ではないのかい?」
「当然、危険だ。だが二万と三万では危険の度合いが違うだろ? 危険は小さいほうがいい」
「確かに。今の王師十軍と比べた場合、二万の兵では戦力として小さすぎる」
「そら見ろ。例え芳野のことをテイレシアの思いとは違う方向に持っていったとしても、二万の兵では王師に対して貧弱すぎる。テイレシアも馬鹿じゃない。不満は持っても反乱しないだろう。だが三万の兵を動員できるのではそうはいかない。何か気に入らないことがあったら朝廷に対していつでも挙兵する可能性が出てくる。つまり、これから朝廷は常にオーギューガの顔色を窺うことになるんじゃないか? それはお前も望むところではないだろ?」
「だがテイレシアの後継者がテイレシアと同じ義理堅さを持っていると保障できるか? 陛下が崩御されても、新しい王と同じような信頼関係が構築されると思うか? さらにはその関係が代々更新されていくと保障できるか?」
「その保障はできないな・・・だが王師十軍がいるなら敵わぬことを悟って挙兵しないだろう。もし万が一挙兵しても、そんな計算ができない当主ならば容易く打ち破れるはずだ。問題は無い」
「それは朝廷が万全な状態であることが前提だろ? どこかで諸侯の乱が他にも起こり、軍を分けなければいけない状態になったら、もしくは朝廷内で政変があり、王師が二つ以上に分裂したら、二万の兵でも王師を破ることは可能だ。つまり二万の諸侯の兵であっても簡単にアメイジアは分裂してしまう危険性があるってことさ」
ラヴィーニアは有斗や自分が死んだ先のことを考えていた。せっかく戦国を終わらしても、それが直ぐに元に戻ってしまうのだったら何の意味もないことを知っていたのだ。
「つまり二代三代先の将来のことを考えると、オーギューガという超巨大諸侯はなんとしてでも解体しておくことが必要なのさ。それも天与の人という権威がある陛下が王であるうちにね」
「潰すって事か?」
「潰すか潰さないかはその時の状況しだいさ。ともかくもオーギューガの勢力を削り取らなければならないということは理解できた?」
「まぁ・・・そうだな。必要なことかもしれないな」
ダルタロスだって規模は違えど巨大諸侯だ。愛するダルタロスが同じ轍を踏まないとも限らないことを考えると、アエネアスはあまり大きな声で賛同するわけにはいかなかった。
「だが二万だろうが三万だろうが今の王師十軍を見てオーギューガが兵を挙げることは無い。これではいつまで経ってもオーギューガが存続してしまう。ならばオーギューガが反乱を起こすのを待つのではなく、反乱を起こさせるように仕向けるべきだ。芳野を手に入れた代わりに彼らは四千のカヒの兵をも抱え込んでしまったことだし」
「カヒとオーギューガは犬猿の仲だ。争いが起こるってこと?」
「近い、が違う。これは火種になる」
「火種? 争いの元になるようなことがあるのか?」
「例えばわざとオーギューガに彼らの身柄引き渡しを要請して、オーギューガを怒らせるとか、七郷にテュエストスを入れることでカヒに心酔する彼らが暴発するよう仕向けるとか、あるいは反骨精神旺盛な上州諸侯がオーギューガの風下に立つことを嫌がることを利用して挙兵させて、その監督不行き届きを理由にイチャモンをつけるとか。それにオーギューガは鉄の団結を誇る無敵の軍団だったと言うが、それは領土が越だけだった時の話だ。今は上州と芳野という異分子を新たに抱え込んでいる。新旧家臣の間に軋轢が生まれ、派閥が出来、家中での勢力争いが生まれることは想像に難くない。それを御することが出来なかったら・・・・・・我々が介入する余地が生まれるとは思わないかい?」
「そうだな・・・どこでもそういった争いは起こるし、支配者にとってはいつも悩みの種だ」
今、現在ダルタロスで起きている親アエティウス派とドリスムンド派との諍いは、アエネアスの心痛の一つだ。朝廷だって南部閥、旧関東閥、旧関西閥があり表面上は穏やかだが、足元では暗闘が繰り広げられている。むしろ有斗は各派閥に配慮しながら、よくそれらを暴発しないように抑えて、統治しているほうだ。
「戦というのは案外そんな些細なことから発生するものだ。それに芳野を得ることは火種を増やすこと以外にも効果がある。オーギューガが三万の兵の時の方が朝廷に叛旗を翻す可能性が高くなる。ほぼ確実にすることになると言っていいだろう。逆に二万ならば、忍び難きを忍んで様子見し、下手をすると挙兵しないままで終わり、オーギューガの家に朝廷への恨みだけ残しただけになるという最悪の展開も考えられる」
「だけどオーギューガが挙兵した場合、他の諸侯も協調したら厄介だぞ。特にカヒの残党や旧カヒ旗下の諸侯が組んだならばアメイジアがひっくり返るぞ。四千のカヒの将士を助命して味方につけたことを深読みすれば、その目論見があったからとだって考えられる」
アエネアスのもっともだと思われるその危惧に、ラヴィーニアはにやりと笑い返すだけだった。
「夜中に虫が飛んでくるのは火の灯りに誘われるからだ。だがその灯りが小さければ目立たず、虫は寄ってこない。各地に潜む王権に反逆の意を持つ諸侯という害虫を引きつけるには、オーギューガという明かりは大きいほうがいいとは思わないか? もちろん火事にならない程度の大きさで、ということにはなるが」
それも含めて考えていたってことか、とアエネアスはラヴィーニアの謀略に舌を巻く。
だがその火が延焼して大火事になったときに消化をしなければならないのはラヴィーニアじゃなくて有斗だ。そのことにも注意するように進言するのが軍師の役割ってものなのに、ラヴィーニアはアリアボネと違って自分の考えと異なった場合の可能性を言わない。それは自分の考えたことに絶対の自信があるからなのだろうとは分かるのだが、そこがラヴィーニアの悪いところだと、アエネアスは思う。
「お前の手にかかったら、なんでも謀略の種になるんだな。本当に怖い奴だ。つくづくお前だけは敵に回したくない」
「そう思うんなら、さっさと陛下とくっついて子供を作っておくれよ。あたしの目下第一の懸案は陛下に後継者がいないことなんだからさ」
露骨な表現に思わずアエネアスは赤面した。
「な・・・! なんでそうなるんだよ! しかもそれが私だと!? 意味がわかんない!」
「あたしは陛下に早く世継ぎを作っていただきたいのさ。幸いセルウィリア様やツァヴタット卿(ウェスタ)あたりはこの話に大層乗り気だ。だけど羽林将軍は何かというとそれを邪魔するじゃないか。あたしにしてみれば何としてでも排除したい人物の一人だよ、あんたは。だけど陛下の意が無い限り排除できない。ならば彼女らの代わりにあんたが作ればいいじゃないか。これで八方丸く収まる」
「私の気持ちはまったく無視か! それに似たようなこと最近あったじゃないか! 皆を巻き込んでとんでもない騒ぎになったこと忘れちゃったのか? 有斗はセルノアさんがいるから誰とも結婚しないって!」
「羽林将軍の腕力ならば陛下を押さえつけることくらい容易いことだろう? 既成事実を作っちゃえばいいのさ。それに・・・きっと大丈夫。陛下は拒否しないよ」
「ば・・・何を馬鹿なことを・・・! ふ、不快だ! 気分が悪い、帰る!」
あまり触れられたくない話題なのか、慌てて立ち去るアエネアスの背中にラヴィーニアは呟いた。
「傍から見ていると、どう見ても友達以上の関係だとしか見えないんだけどな・・・」
どちらも不器用だってことなのかな、とラヴィーニアは思った。
それとも・・・単なる子猫のじゃれあいか。
人の心理を読むことに十分に長けたつもりのラヴィーニアだったが、何故かこの二人の間だけは読めなかった。