決戦エピダウロス(Ⅲ)
カトレウスはこの膠着状態を打開しようと、既に幾度も布陣したまま動きを見せない河東諸侯の陣に向けて使者を発していた。
だがこれまでの手紙で見せていた懇親な態度と違い、どの諸侯も言を左右にして向背を明らかにせず、曖昧な態度をとり続け、積極的に動こうとはしなかった。
戦場での寝返りは通常の寝返りとは違うのだ。周囲にそれまでの味方がいる、それを敵に回して戦わなければならないということだ。
カトレウスが多くの諸侯と内応を取り付けているから心配要らない、一人が裏切れば次々裏切ると説明しても、実際に周囲の諸侯がどう動くか分からない不安で、どの諸侯も動くに動けないというわけだ。
馬鹿が、とカトレウスは口中に不満を吐き捨てて、渋面を作る。
カヒやや優勢とはいえ、双方つま先だって組み合っているような状態なのだ。どんな些細なことであっても、ひとつの後押しがあれば崩壊する。
一人の諸侯が裏切るだけで大勢は決すると言うのに、何故それがわからないのか。
カトレウスは頭の中で曖昧な態度に終始するそれら諸侯の顔を、次から次へと首を刎ねる様を思い浮かべて、うさばらしをするくらいしか出来ることはなかった。
よって諸侯の兵がカヒに裏切るという最悪の一手だけは脱した王師だったが、カトレウスと同じく事態を大幅に改善する手がないことに変わりは無かった。
こちらも幾度か兵を動かすように矢のような催促をしたが、諸侯は諾という返事を返さない。
おかげで普段やる気を見せない、そしてこの会戦でも積極的な動きはあまり見せてはいない庸兵隊が活躍しているかのように見える有様だった。
王師が幾重にも渡って繰り返されたカヒの騎馬突撃を防ぐと、戦線には一時の小康状態が訪れた。体力を損耗した双方共に距離を取り呼吸を整え、次の機会を窺う。
カトレウスは先の突撃で消耗した部隊を下げ、代わりの部隊を前線に投入する。
王師は新たな敵に身構えた。だが敵は今度は馬で矢頃に入って、矢を二、三射すると離脱するという戦法に切り替える。
矢でもって敵を揺さぶることにしたのであろう。先ほどまで剣を交えて戦っていた王師の兵の士気は今は高い。だが一方的に矢が降り注ぐ中では士気が下がる一方だ。かといって我慢できずに一部の部隊が突出すれば簡単に敵の餌食となることだろう。
これは王師にとって痛し痒しだった。今までの激戦の連続で上がらなくなった腕や足を回復することができるが、全面を防御できるほど木盾を持って来ていなかった。正確な射撃に地味に兵力が削られていく。むろん王師も黙って指をくわえて見ていたわけではない。思い思いに矢を番え、敵に目掛けて射撃する。
カヒが馬上で使う弓は馬上で使いやすいように特化している。すなわち徒歩弓よりも小さく射程が短いのだ。だから矢戦ということならば断然王師のほうが有利となると思うのだが、戦場の様相はそう思い通りにはならなかった。
敵は馬に乗って騎射しながら戦場を円を画くように疾走する。真っ直ぐ進んでくるのなら着地点を計算も出来ようが、緩く弧を画いたと思えばこんどは逆向きにきつく弧を画く。かと思えば二つに別れ、交差すると思えば合流し一つの隊となる。変幻自在のその機動に、王師の兵といえども翻弄され、矢を当てることすら困難であった。
さすがに王師といえどもザラルセンのように、動いている百メートル先の敵に必中させるような神業の持ち主はいないのだ。
馬を走らせ、矢頃の境を出入りする敵に為す術も無かった。怒りに飛び出して敵に刃を突き立てたがる兵たちを百人隊長たちは必死に宥める。将軍たちも我慢に我慢を重ねて自重した。
カヒは矢戦で敵を引き摺り出すことは出来なかったが、これで戦の流れを取り戻すことが出来た。
同時に再び戦闘開始時の気力を取り戻し、敵陣突破に失敗した屈辱は払拭され、自信を取り戻す。
これでもう一度戦える。
カトレウスは本陣まで戻ってきていた四天王のダウニオス、マイナロス、そして軍師であるサビニアスやガイネウスらと短く会合を持ち、それぞれに指示を与えて持ち場に戻らせる。
頃合良しと見たカトレウスは再び突撃の鼓を鳴らして、全面攻勢に打って出た。
再び両軍入り乱れての死闘が始まった。
だが王師の旗色は先ほどよりも更に悪くなっていた。
リュケネ隊はダウニオス旗下の青色備えの強兵をはじめとする三翼の猛攻に、陣形を破壊させられる寸前の、ひやりとさせられる瞬間があったし、度重なる攻撃に、プロイティデス隊も最初に布陣した位置より陣全体が十一間(約二十メートル)も後退していたし、エレクトライ隊にいたっては幾度となく陣内に敵兵の侵入を許しているといった有様だった。
そしてその背面でもステロベ隊は孤独な戦いを続けていた。幸いこちらはまだまだ崩れる気配は見られない。
だがステロベ隊は正面でカトレウスと争っている三師と違って兵力不足である。攻撃を受けるたびに戦列は後退しがちで、段々と王師は押し込められて、三師とステロベ隊の距離が無くなっていく。
たしかに両方とも背後は友軍が守ってくれており、背面からの攻撃は頭に入れずに全面の敵だけを考えていればいい状況であるとはいえ、前後から挟撃されていることには変わりが無い。背後を守ってくれているはずの友軍との距離が縮まるごとに、兵士たちの心理的圧迫感は秒単位で加速し肥大していく。
もはやカヒは戦列を寸断すると言う骨身に堪える仕事をしなくてもいいかもしれない。ただ勢いで押していくだけでいいのだ。行く場をなくした兵たちは、互いで互いを圧し、干戈を交えるまでもなく死ぬことであろう。
「行けい! 敵にはもはや我らの攻撃を受け流すため逃れる寸土すら持ち合わせておらぬわ! あと一息、あと一息だぞ!!!」
もちろんここに至るまでにカヒが払った犠牲は大きなものだ。カヒだって大勢の骸を積み上げている。
だが王師は彼らよりもっと疲弊している。それは辛うじて戦列を組んではいるものの、曲がりくねり粗密の荒さが目立つ、目の前の王師の陣形を見ただけでも分かる。
だから疲労困憊な兵たちもカトレウスの檄に応えるように生気を取り戻し、再び王師目掛けて槍を向ける。
全面攻勢に打って出たカヒを見てか、なりを潜めていたはずの諸侯の陣営がざわめき始める。
それは王師がもう持たないと判断して行動を起こそうと言うことか、とプロイティデスはどきりとした。
その時、突如として戦場に風が吹いた。雲が流れ太陽を隠し、日差しを遮った。
突如暗くなった草原に、プロイティデスは何か不吉なものを予感した。
野を駆け抜けていった一陣の風が過ぎ去ると、諸侯の旗がざわめいて、その一拍後に一斉に動き始めた。
王師の陣営のそこかしこから悲痛なため息とも絶望の声とも怨嗟の念ともつかぬ音が発せられた。
「ここまでだったか」
プロイティデスは無念そうにつぶやく。これまで五分に戦って来られたとはいえ、これ以上の敵と戦う余力はもう無い。
初めから分かっていたことではあるが、河東の諸侯が裏切れば、どうあがいても戦は負けなのである。
傭兵たちは不利になったと見たら、王師など見捨てて素早く退くに違いない。それでも逃げ出すまでの間、河東諸侯と王師とを遮る緩衝材となってくれることだろう。不利になったら逃げることを優先する傭兵だって、攻撃を受けたなら逃れるために反撃をしなければならないだろう。
だからそちらの方面への心配は今はしなくてもよかった。
だが王師は前後から攻められ横長の陣形になっている。
前も後ろも敵だ。それを突破して逃れるという手段は現実的な選択としてはありえないだろう。北面は上州南部の山脈、逃げ込んでもその先が無い。
ならば唯一空いている南面へと脱出するしかないのだが・・・
一番奥に布陣するリュケネ隊は逃げ切れるだろうか。いや、逃げ出すことを良としてくれるだろうか、とプロイティデスはそう思った。
作戦を立てたのはリュケネだし、それに陣形からみて殿を行うのもリュケネ隊ということになろう。敗戦に責任を感じて、命を粗末にしなければ良いのだが・・・と、プロイティデスはそうも思った。
あの才能は惜しい。あれだけの才能の持ち主をここで死なすのは、王の天下統一をいくらか遠回りさせることに等しい。なんとか説得できる良い言葉が思いつかないか、プロイティデスはしばし考え込む。
だがプロイティデスは元来そういったことが苦手だったし、そのうえ今は戦場という特殊な状況下だ。すぐに思いつくことなどできなかった。
どうやら自分には宮中の高官のように口舌で人を動かすような真似は無理なようだと諦める。それに時間をこれ以上無駄に消費するのを避けたかった。遅くなればなる分だけ脱出の確率は低くなるのである。
「しかたがない。正面から説得してみるしかないか。リュケネ卿に伝令を送る、ここへ!」
プロイティデスの声に応えて本陣付きの兵士が応えて前に出る。
「はっ!」
兵が聞き逃さないように側に控えたのを見ると、プロイティデスは戦場に木霊する喚声に負けまいと声を張り上げて用件を伝え始める。
「我がほうは善戦するも、敵の攻勢甚だしく戦の趨勢これ見えたり。河東諸侯も裏切る気配を見せた以上、もはやあと一刻も持たぬであろう。疲れきった兵にこれ以上防戦させると、退くこともままならなくなる。今がおそらく退却する最後の好機だ。ここは捲土重来を期して一旦退くべし」
その兵士は一言一句聞き漏らすまいとプロイティデスの口元を見ていた。
「後は・・・」
と、そこまで言ったところで、突然プロイティデスは口ごもる。兵士はプロイティデスを見つめ、口から言葉が出てくるのをしばし待った。
だがいつまで経っても、その後の言葉は出てこなかった。焦れた兵は思い切ってプロイティデスにその後に続く言葉を訊ねてみることにする。
「後は・・・その先はいかがいたしましょうか?」
だがプロイティデスの耳には兵の言った言葉は入ってきていなかった。
ただ聴覚も嗅覚も味覚も触覚も用を成さず、前を向いている目だけが忙しく働いていた。
目の前で乱戦を続けている両軍の兵士を越え、さらにその奥が映っていた。
そこでは先ほどまで優勢を表すかのように秩序だって翻っていたカヒの旗が時ならぬ混乱を見せていた。兵の驚きを表すかのように旗は右に行ったり左に行ったり絶えず揺れ動いていた。
だがそこすらもプロイティデスの目には通過点でしかなかった。さらにその向こう、上州との境界にあるそれをただ見つめていた。
旗が立っていた。それも一本や二本でなく、何百、いや何千本もの旗が乱立し風に吹かれて棚引いていた。
そしてもうもうたる土煙。
間違いない、とプロイティデスは生唾を飲み込んで口の働きを取り戻す。
前方を指差すと、全ての味方に届けとばかりに大声を張り上げた。
「王の馬印だ! 陛下が駆けつけてくださったぞ!!」
一瞬の沈黙が周囲に訪れる。
次いで王師の陣営から一斉に喚声が沸きあがり、地響きとなって大地を揺るがした。