狂想曲(Ⅷ)
アリスディアは有斗の世話をグラウケネに任せて、午後になると一旦執務室を退出する。
尚侍ともなると有斗の世話ばかりしているというわけにもいかない、諸々の雑務がある。なにせ後宮の総取締役なのだから。
雑務を片付けようと後涼殿へと足を向けようとすると、紫宸殿と清涼殿の間に公卿が何人か集まって話していた。陛下へ上奏しようとする前の打ち合わせといったところであろう。
邪魔をしたら悪い、とアリスディアは優雅に頭を下げ一礼し、横をすり抜けようとした。
「尚侍殿、尚侍殿!」
アリスディアは彼らに呼び止められた。どうやら有斗ではなくアリスディアに用件があったようだ。
「なにでしょうか?」
アリスディアは彼らに問い返した。
とはいえ用件はおおよそ見当が付く。
今現在、宮廷でも後宮でも王の婚姻の話題で持ち切りだ。顔を合わせて口を開けば、その話題が出ないことはなかった。
そこここで塊となって密談する姿もよく見受けられる。
例え有斗に配偶者ができても女官たちは多少仕事が増えるだけですむだろうが、官吏はそれだけであると言うわけにはいかない。王の寵姫とその縁者は王に大きな影響を与えることができる。その一件だけで大きくが政治バランスが変わるのだ。それを見越して官吏は今のうちから慎重に行動しなければならない。
もし寵姫の一派と迂闊に敵対する行動を取れば、政治生命どころか命そのものに関わることになりかねないからだ。
だから有斗の意中の人がいるのかいないのか、いるのならば誰なのかが知りたいというところであろう。
いるのであれば急ぎそれに取り入り、いないのであれば自身の縁者を会わせるため、有斗に行幸を願い出たいとアリスディアに取次ぎを頼む気なのだ。
「陛下は既に誰かと結婚するご決断をなされたのか?」
思った通り、想像の範囲内の質問だった。
「いえ、まだそういった話は伺っておりません」
そのアリスディアの言葉に、彼らは一様にほっとした表情になって顔を見合わせた。
「それならば結構。いや実はな・・・我々は陛下のお相手として尚侍殿を推そうと思っているのだ」
「・・・は?」
先程と違って、思いもよらない言葉にアリスディアは大きく眼を見開いて驚いた。
「東西合一の象徴として関西の王女と結婚するというのは一見すると悪くないように思える。だが陛下の配偶者は当然として陛下に強い影響力を持つことになる。そうなると元は関西の王でもあったのだ。政治に口を挟まない保証は無い。となると関西で数々の失政をしたあの王女のことだ。せっかくの陛下の善政を悪政に変えてしまいかねない。避けるべきだ」
「でも関西の王女殿下も最近は真面目に陛下の執務の手助けをしておりますのよ?」
「いや、それがかえって妖しい。陛下に取り入って権力の階段を登る下ごしらえをしている危険性もありうるではないか」
「そうでしょうか・・・」
確かに関西でセルウィリアが取っていた政治はお世辞にもいいとは言えないものだった。臣下に投げっぱなしで、廷臣たちが好き勝手に切り回していたふしが見えたものだ。失政も多く褒められたものではない。
だが、今は熱心で真面目に有斗を助けようとしている。己の持つ知識を最大限使おうと日々努力しているようだった。有斗の横にいたことでいい方向に感化されたのでは、とアリスディアなどは思うのだが。
「かといって羽林中郎将もどうかと思うのだ。今でさえ陛下は南部に肩入れしすぎだ。羽林中郎将が王配になれば、今以上に南部偏重になることは疑いない。確かに陛下擁立に南部が多大な働きをしたことは紛れも無い事実だが、そのことは恩賞として既に与えられた、決着がついたはず。朝政に彼らの意見を入れすぎるのは良くない。政治はアメイジア全体のために公平に行われるべきで、アメイジアの限られた地域を優先して行うべきではないのですからな。・・・それにあの羽林中郎将は出自にとかくの噂もあることだし」
アリスディアは最後の言葉に思わずぴくりと眉を動かした。彼らもその時、一瞬見せたアリスディアの鋭い目つきで、目の前の尚侍が羽林中郎将とごく親しい関係があることを思い出したらしい。
「いやいやあくまで噂でありますが・・・」
「それで何故・・・わたくしというお話になるのでしょうか? 王配になるようなお方は多かれ少なかれ後ろにそういった人々を持つものですよ。わたくしにはそういった後ろ盾がありません」
表の世界、政治における後援者のいない皇后や妃は後宮での立場が不安定になりやすい。人間の愛情などと言う移ろいやすいものだけを頼りにして後宮と言う特殊な世界で生きていくことは難しい。
「陛下とも親しく、お人柄も良い。何よりどの派閥にも属していない。もし尚侍殿が王配になられるなら、政治は関東偏重でも、関西偏重でも、南部偏重にもならない。どこの派閥からも一切文句が出ない、一番望むべき結末ではありませぬか」
一切文句が来ないと気軽に言うが、それはどうであろうか?
その立場は、どの派閥からも望まれていないと言い換えることができる。下手をすると全てを敵に回しかねない。
それに最終的に選ぶのは陛下だ。有斗との距離感が近いと言っても、それはあくまで王と尚侍という関係の下でだ。男と女という関係ではない。
選ばれたならまだいい。だがもし候補者として押されたのに選ばれなかったら、全ての派閥から恨みを買ってしまう。今後、後宮にいられなくなることも考えられる。少なくとも居辛いことだけは確かだ。
「しかし王配が後宮勤めの女官上がりというのは、いささか軽すぎると周囲に思われませんでしょうか? 未だ政権基盤が軟弱な陛下にとって、少しでも軽んじられるような事態は避けるべきではないでしょうか?」
アリスディアは身分をだしにして、婉曲ながらも断りを入れた。
「今までに前例がなかったわけではない。それに後宮の尚侍ともなれば、なまじの公卿より官位は上、身分的には十分だと言える」
だが彼らは官位まで持ち出してアリスディアを説得しようと試みる。
それはアリスディアこそが王配に相応しいとかいった考えからとられた行動ではない。
単に他の派閥が優位な立場にならないために中立のアリスディアを押しているだけに過ぎないのだ。それが分かるだけにアリスディアとしても素直に頷くわけにはいかなかった。
「大きな波風をたたさぬためにも尚侍殿が王配となられるべきなのです」
大いに乗り気の公卿たちと違って、当の本人であるアリスディアは厄介ごとがまた増えると困惑しただけだった。
「ふぅ・・・疲れた」
昼過ぎにアエネアスがようやく執務室に戻ってくる。だがベルビオたちが一緒にいない・・・ということは・・・
「説得できたの?」
有斗は期待をこめて、そうアエネアスに訊ねてみる。
「・・・なんか納得してくれないんだ」
「・・・」
なんだ・・・とりあえず一回引き下がっただけか。有斗は大いに落胆した。
「そ、その・・・なんだ。お前も大変だな」
「その大変だという理由の中にアエネアスやベルビオらも入っているんだけど・・・」
「あははははははは、そう怒るなよ」
有斗が恨みがましい目で見ると、アエネアスは苦笑いで笑ってごまかした。
「お前がいいと思う女と結婚するが良い。私のことなど気にせずにな」
とはいえ優柔不断な有斗のことだ。誰とも決められないのだろうな、とアエネアスは思っていた。
「もう決めた」
ところが有斗から予想もしない返事が返ってくる。アエネアスは思わず有斗の横顔を見つめた。いつになく有斗の目には強い意志の光が宿っていた。
「・・・そうか」
その瞬間、アエネアスは心臓を掴まれたかのような大きな衝撃を受け、凍りついた。
だがその感情を胸奥深くに仕舞いこみ、無理矢理に顔に笑みを作って返答する。
「そうか、ならばよい」
もし選んだのが私だとするならば、そうここで言うはずだ。ということは・・・そういうことなんだろうな、とアエネアスは思った。何故か少し悲しかった。
「陛下のご出座である! 百官は立って拝礼するように!」
有斗は玉座に着くなり、発言許可を求めた公卿たちを手で制し、なんと最初に王自らが語りだした。
「皆に言いたいことがある。最近、朝廷内で良くない動きが多々見られるようだ。ずばり言おう。それは僕の結婚相手に関してのことだ。僕の相手となりそうな対象を掲げて、それぞれの派閥が争う姿勢を見せていると聞く。それは公卿の間だけの話ではなく、後宮まで巻き込んでいるらしいね。憶測が飛び交い不穏な空気が流れているとか」
その当人たちである彼らにしてみれば、その言葉は苦いものであったであろう。幾人かは床に視線を落とした。
「今はそんなことをしている場合ではない。未だ河東ではカトレウスが巨大な力を持って僕に敵対している。君臣一体となってこの難局に当たらねば、戦国の世の終結という大事は成し遂げることができない。宮廷の中で派閥争いなどしていては、きっとカヒに付け入られるだけだ。僕は諸君らにこう言おうと思う。今は派閥争いをしている場合ではない、と。そこで僕は派閥争いの元になりそうなこの問題に決着をつけようと思う。皆も心して聞いて欲しい」
「どなたをお選びになられるので・・・?」
按察使亜相が恐る恐る有斗に訊ねる。
按察使亜相にしてみれば不満であろう。自分の娘をその地位につけたかったのだから。
だが有斗と娘とはまだ顔も合わせてもいない。今、決められては自分の娘が選ばれる対象となる可能性はゼロに等しいだろう。
ところが王は既に決めたという。それは一体、どの名前なのだろうか。按察使亜相が、いや廷臣全てが固唾を呑んで見守った。
だが有斗が選んだ選択は彼らの脳裏には無かった選択肢だった。
「僕は誰とも結婚しない。そう誓った」
たちまち臣下から一斉に抗議の声が上がる。
「そんな!」
「陛下、国には世継ぎが必要です、お考え直しください!」
非難轟々の意見が一気にマグマのように噴出して有斗にぶつけられた。だが有斗はそれに真っ向から立ち向かう愚を冒さなかった。
しばらくそれをやり過ごし、廷臣たちの声が小さくなったところで、有斗は再び言葉を続ける。
「これは僕が立てた誓いだ。僕は天下一統の暁までは誰も娶らない。いや違う、その日まで誰かと結婚生活を行ったりする余裕や贅沢は僕には無いんだ」
そう、セルノアに立てた誓いを果たすまでは、有斗に休息など許されるはずも無い。
「だからこれは王命でもある。以降、この乱世が終わるまで、僕に婚姻の話をしてはならない。以上だ」
廷臣があっけにとられる中、こうしてこの騒動には決着が付けられた。それも奇妙な形で。
「よう! 聞いたぞ! 誰とも結婚しないんだって? 結局、問題の先送りで解決したのか! もちろん私は分かっていたさ! 優柔不断なお前は誰かを選ぶなんてできやしないことをな!」
その日の午後、執務室に入ってきたアエネアスはやけに上機嫌で有斗に話しかけてきた。
「・・・」
なんだろうな・・・僕が一番いい解決方法だと決めたことなのに、アエネアスが嬉しがっているという、この目の前の現実だけを見ると、なんか僕が間違った選択をした気持ちになるな・・・
「しかし残念だなぁ。結婚すれば合法的にいやらしいことをし放題だったのになぁ! だが褒めてやろう! そんな破廉恥なことに惑わされなかったことをな!」
「嬉しそうだね・・・」
しかし、何がアエネアスをこんなに楽しくさせるというのだろうか? こんなに嬉しそうに笑うアエネアスは久しぶりだ、と有斗は思った。
「あはははははは」
アエネアスはもう一度高笑いをあげると、有斗の肩をバシバシと三度叩いた。