わたくしではなく、彼女に
王は実は戦場にいる時の方がまだやることが少ない。
王が不在時は、王が決する必要がない事項、通常の業務などは各大臣、各卿、各省の責任で実務を処理する。
そして戦の途中に報告が来ることもあるが、大概は戦を終えた後で、報告がまとまった形で有斗のところに上がってくる。
それでほとんどは問題が無い。だから平常時もそれでいいのではないかと思うのだが、有斗が「問題の無い通常業務の報告は、毎日しなくてもいいんじゃないかな?」などと控えめに提案すると、「それでは臣下は王の目の届かないことをいいことに、好き放題やって私服を肥やし、民を虐げることでしょう。権力を掴んだ官吏は反乱を起こし、不満を持った民衆は蜂起することでしょう。国を乱す元であります」と、ラヴィーニアやセルウィリアあたりがその危険性を強く主張する。
というわけで官吏から上がって来る報告書を、しかも大抵自画自賛の美麗字句が並んでいるだけのどうでもいい事ばかりの報告書を読むはめになる。
問題が起きたとか予想外の事態が起きたとかの報告はめったに来ない。
正確には大事になって周囲に隠し切れなくなって、本人の手に余る事態になってから、ようやく報告が上がるというのが実情だ。
「もっと早めに報告してくれないのかな」と有斗は思うのだが、ラヴィーニアに言わせると「ある程度の問題くらい自分で処理することすらできないような無能な官吏は逆に困る」ということらしい。
下級官吏がどうにも処理できなくなった問題を中級官吏が処理し、中級官吏がどうにも処理できなくなった問題を上級官吏が処理し、上級官吏がもうどうやっても誤魔化しきれなくなった問題がようやく王に持ち上がってくる。
「一下級官吏の瑣末な問題まで王に上がって来るとしたら陛下が百人いても睡眠時間が足りませんよ」
ラヴィーニアは馬鹿にしたかのように鼻で少し笑う。
「でもそれって不祥事の隠蔽だよね? 法を官吏が恣意的に解釈して勝手に実務を行っているよね? 王にしたらそういった不正は見逃したらいけないことじゃないのかな?」
有斗のまっとうとも思える疑問だったが、ラヴィーニアは一切取り合わなかった。
「当然です。ですが世の中で起こる全てのことは天地人の三つが複雑に絡み合い織り成した結果です。それを人間の作った法で隅から隅まで完全に網羅できるなどと考えるのは人間の傲慢と申せましょう。ですが、人が生きていくには一定のしきたりが必要です。社会の公正さ、公平さの確保のためにも万民の前に法律を明示し、それにそって賞罰を行わなければ、万民全てを納得させることはできません。それに不完全であっても、実情と合わなくても、とにかく一旦は法を作り、それを社会に当て嵌めて見なければ実情は見えない。そうしなければ法律の問題点も不備も見えるわけが無いのですから」
「でも問題があるなら王は知っとくべきだと思うけどなぁ」
「それで全部が全部、陛下のところまで小さな問題が上がってきたらどうするおつもりですか? 例えば田一段の租税はサキノーフ様が平時なら八束(約三割)と決められ、新たな田が屯田されては民に支給されましたが、ですが完全に真四角な田などそうそうあるわけがない。こっちの畝では八分しかないとか、あそこは少し膨らんでいるから少し多いだとか、寒い地域では収穫量が少ないだとか、やれあそこは蝗害だ、こっちは豊作だとか数限りない案件が、法律に書いてないからというだけで、アメイジア中の田の数だけ毎年、陛下に上がってくるのですよ? それを一人で解決できますか? できないのではありませんか? 確かに官吏が本来隠すべきでないことを隠すのは問題があります。ですが官吏だって馬鹿じゃありません。これは自分の手に負えなくなりそうだと思えば上に伝わっていくものです。陛下さえ耳目を閉じていなければの話ですけどね」
租税のことだけでも、とんでもない量の書簡の山ができそうだ。確かに全てのことが王の手元に来る態勢ならば、多分一年分を処理する頃には有斗は間違いなく墓石の下にいることだろう。
「う・・・言われてみればその通りだ」
「ですからある程度は官吏の裁量で裁断することは間違いではないのです。その行為が悪でなく、隠し切れる、言い方が悪いですね・・・そう、処理しきれる、にしときましょうか、・・・ならば、それは新たな先例となり後世に引き継がれる。その行為が悪であったり、大問題が起きれば、それは王や国家に対する犯罪となり官吏の首が飛ぶ。例外ならばそれに対処する条文を作り、問題であるなら修正し、幾度もの試行回数を繰り返して、先例を作り法文を改定する。そうやって法律と言うものは生き物のように実情に合わせて適切なものになっていくのです」
「でも本来なら対策を考えなければいけないような失敗は、とんでもない状況になるまで僕のところに届かず、単なるどうでもいい経過報告とかだけ僕のところに来るというのは、なんか間違っている気がするなぁ・・・どうでもいいほうも僕に届かなくていいんじゃないかな?」
「それらは内容などは実はどうでもいいのですよ。陛下が自分の報告書を読んでくれている、自分のことを知って監視している、そういったことが官吏たちを不正に走らせない防波堤になったり、仕事に対する励みになったりしているのですよ」
「え? じゃあ、僕はこの山のような報告書を読まなくっていいってこと?」
大きく喜びを顔に表した有斗にラヴィーニアは釘を刺した。
「もし陛下が書状を手に持つだけで内容を把握できるといった優れた能力をお持ちならそれでもよろしいでしょう。確かにそれが官吏に与える影響を考えたら内容を読む必要などないのかもしれない。ですが、今、どの問題にどのくらいの官吏が注ぎ込まれて対策をしているのか、この前、似たようなあの問題を解決した優秀な官吏は誰だったかな、と知るためにもお読みになるべきです。それに注意すべき大事が書かれている書簡とそうでない書簡をどうやって見分けるのですか? そして今の言葉を官吏が聞いたらどう考えるとおもいますか? 信を持って世界を平和にしたいとおっしゃるその口でそのような不誠実な言葉を言ったと知ったら、アメイジアの民が陛下を心から信頼してくれるとお思いですか?」
「う・・・ゴメン」
「そうだそうだ。さぼるなど許されない考えだぞ」
行儀悪く蜜柑を口中に含みながらアエネアスは有斗をぎろりと睨みつけた。
おかしいな・・・羽林の仕事って王の目の前で蜜柑を暢気に食べることだったっけ・・・と、有斗はどちらがサボっているのかアメイジア中の人々に訊ねて回りたい気持ちで一杯だった。
今日はアリスディアが忙しいとかで執務室にはいなかった。代わりにセルウィリアに書簡を読んでもらう。
王女様をこんな役目に使うのは関西の旧臣が知ったら憤慨しそうだな、などと思わないでもないが、セルウィリアは別に有斗の手伝いをすることを屈辱に感じている様子は見られなかった。むしろ最近はアリスディアがいるときでさえ、積極的にこの役目をやってくれている。
「陛下、お悩みですか?」
先程の書簡を読んでから有斗がじっと考え込む様子を見て、セルウィリアは問いかける。
こういう時は関西の女王であるわたくしを頼りにして欲しい、そうセルウィリアは思う。
関西の女王になるべく産まれ、育ち、そして君臨したのだから、有斗の一助になれるのに、と思うのだ。
初めのうちは大言壮語を吐く妄言家の気弱でひ弱な少年だと見下していた。だが彼女の考えは有斗を見ていくうちに変わった。
彼女が寝ても、深夜遅くまで執務室の灯りは消えることは無い。昔の彼女のようにお肌に悪いからという理由で早く寝たりしないのだ。問題が起きれば関係する官吏を集め、すぐに対策を練る。戦争にも自身の命令で兵が死んでいくのだから、と朝臣の反対を押し切り、できうる限りは出陣する。
最近セルウィリアはその国政に対する真摯な姿勢に大いに惹かれるものを感じていた。
かつて彼女がもっと幼かった頃、父王や母后は眠れぬセルウィリアによく昔の偉大な王たちの話を聞かせてくれたものだ。それを目を輝かせて少女は聞き惚れた。いつか自分もそんな素晴らしい王になりたいと心に誓った。
それはむずがる少女を眠らせるためだけではなく、将来王位につくセルウィリアのためを思って聞かせてくれたのであろうと、今なら分かる。
だが若くして父母を亡くし王位を継いだセルウィリアが朝廷の中に見たものは、父が話していた話に出てくる美しい朝廷とは違い、醜い現実だった。
国のために命を捧げる臣下ばかりの昔話と違って、我利を貪り、他者を貶め、自我を剥き出しにした貪欲な獣の巣、それが朝廷だった。彼らは一見セルウィリアを敬うような態度を見せているが、言を左右に実務から遠ざけ、セルウィリアの名を利用することだけを考えていた。若いセルウィリアはそのあまりの汚さから自身を遠ざけようと政治に無関心になったのだ。
だがこの少年は違う、とセルウィリアは悟ったのだ。その汚さに直面しても逃げることなくあがき続ける。ある時は法令の穴を駆使し、またある時は王命で突破する。旧例ばかり持ち出し現状の変革を望まない官吏を無理やり動かす。
それは一見、みっともない行為、王が官吏に振り回されるなど恥ずべき行為であるはずだった。
だがそれを繰り返し有斗は世の中を変革していっている。そう、誰も成し遂げなかった戦国の世の終焉という夢物語の世界へと。
伝説の高祖神帝サキノーフ様とはこのような人だったのかもしれない、わたくしが取るべき王の姿とはこうでなければならなかったのでは、とセルウィリアは今になってそう思うのだった。
「うん・・・ちょっとね。各地にはその土地土地にしかない食べ物とか工業品とかあるんだ。でも他の土地の人々が知らないから、自分たちの分しか作らなかったり、採らなかったりする。でもある土地での特産品を、別の土地で売り、その別の土地の特産品を最初のある土地で売る・・・そういうふうにすれば相互に生活が豊かになる。それをアメイジア規模に広げるために、各地で特産品をつくることを奨励しようかと思うんだ。全国で売れるなら大量生産ができる。効率的に作ることができ、ますます生活は豊かになる。そうやって経済活動を活発化させたら税収も上がるっていう見積もりも出てるんだよ」
セルウィリアがその問題に対する返答を考えている間に、有斗はセルウィリアではなくアエネアスに訊ねる。
「アエネアスはどう思う?」
またアエネアスの意見を聞く、とセルウィリアは眉をぴくりと動かした。思わず感情を表してしまったのだ。
産まれてきてよりこのかた、世継ぎとしての教育を受けてきたセルウィリアにあるまじき失態だった。
国に良いことがあれば喜べばいい、部下が失敗すれば怒ればよい、だが己の本当の感情を表に出してはいけない。感情を表にしてしまえば、そこに付け込もうとする臣下が出るのだから。
だからそれは王としての初歩中の初歩の心得であるはずだった。
しかし有斗がセルウィリアでもアリスディアでもラヴィーニアでもなく、アエネアスに相談したという事実が彼女の胸を波立たせる。
よくわからない、もやもやした感情が胸の奥底から霞のように湧き上がってくる。
それは誰もが羨む高貴な存在として、産まれてからこのかた感じることの無かった感情、嫉妬だ。
嫉妬してる・・・? このわたくしが?
ありえない・・・そんなことは! この高貴たるわたくしが嫉妬しなければいけない存在など、この世にあるわけがないのだ。
セルウィリアは下唇をそっと噛み締める。
「そうだな・・・税収が上がるってのもいい。庶民の生活が豊かになるならばなおさらいい。だけどそうなれば民衆は誰も彼も金のことだけを考えるようになったりしないかな? そんな世界はぞっとするな。もしそうなれば皆、米など作らなくなり、アメイジア中で米が足らなくなって飢え死にする者が大勢出るかもしれない」
「やはり反対意見はそういったところなんだろうな・・・ならば、それに対する反論もあることだし、これはこのまま推し進めても大丈夫そうだな・・・」
そう、米が足らなくなったら、値は上がる。そうすれば米が儲かると思い、民衆は米を作り出すことになるだけのことだから。
「なんだ。結局のところ自分の意見を押し通すのなら、私に意見を聞く意味まったくないじゃないか」
アエネアスは不満げに唇を尖らせる。
「いや、ちゃんとアエネアスの意見も加味して結論を出しているよ? 得失を考えた上で決定を下したんだ」
「ほんとうかなぁ・・・」
そう弁解したにもかかわらず、なおもアエネアスは疑わしげな目で有斗を見ていた。自身の意見が採用されなくて大いに不服なのだ。
それでも、とセルウィリアは悔しく思う。それでも陛下に意見を聞かれるではないか、と。
陛下は何か迷ったことがある時、アエネアスに聞く回数が一番多いのだ。内向きのことを司る内侍司の長官であるアリスディアよりも、公のことを司る廷臣の要である中書令のラヴィーニアよりも、そして王としての教育を受けた元関西女王のセルウィリアよりも、その三者に比べるとごく平凡な存在でしかないはずのアエネアスに聞くのである。
陛下はそれだけアエネアスのことを信頼しているのだろうか・・・それとは反対に、わたくしをまだ信頼していないのだろうか、と思うとセルウィリアは悲しかった。