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紅旭の虹  作者: 宗篤
第五章 亢竜の章
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イスティエアの戦い(Ⅴ)

 王師の右翼の攻撃はカヒの猛攻に押し返され、開戦直後に得た戦場を全て放棄するはめになっていた。

 圧倒的優位に戦が進んだことで、カヒの兵は益々いきり立って攻撃を加える。王師は戦列が崩壊しないのが不思議なくらい押し込まれていた。右翼三師の後ろに位置していたベルビオの第七軍とヒュベルの第三軍は、退いてくる味方の兵に押し出され、味方の退路を確保するために慌てて中央左へと居場所を移さなければならなかった。

 同様にザラルセンの騎兵もニクティモ率いるカヒの六翼に追われ、後退を続けていた。

 河東諸侯や南部諸侯の攻撃を受けているリュケネ、プロイティデス、エテオクロスよりもこちらのほうが被害は深刻だった。

 ニクティモの指揮は水際立っており、六翼を己の手足が如くに自由に進退させ、退いたかと思うと横合いから襲い掛かり、その攻撃から逃れえたかと思うと反対側から新たな兵が現れるといった変幻自在ぶりだった。

 その間も何度か決定的なチャンスがニクティモに訪れる。

 逃げるザラルセンの軽騎兵の後備に襲い掛かったり、王師三師の騎兵を三方から包囲するとかといった風にである。だがその度に、いま少しというところで何らかの邪魔が入った。

 軽騎兵の後備に喰らいついた瞬間、どこからともなく王師の騎兵が現れて横槍を入れ、三方から包囲したと思えば軽騎兵が取って返し矢の雨を降らす、といった具合にだ。

 ここまで優勢なのだ。普通ならもう既に部隊としての姿すら保ちえず、ばらばらになって逃走を始めているはず。

 敵は想像以上にしぶとい。

「だが、いま少し、もう少し、だ」

 ニクティモは(かぶと)の下でほくそ笑んだ。

 ニクティモがこの会戦の王師の主力であろうと思われる左翼騎兵を追い散らせば、抗う手段を無くした王師は士気が衰え、崩れ去るしかない。

 勝利はその瞬間決まる。


 この時、もしニクティモに遥か遠く反対側、ダウニオスの右翼騎兵隊の状況を(のぞ)き見る眼があったなら、いったいどういった感想を持っただろうか?

 そこでも不思議なことに左翼とまったく同じ光景が繰り広げられていた。カヒの騎兵隊の攻撃に支えきれずにずるずると後退する王師騎兵隊といった状況が。

 そう、両側の外側後方に向かって王師騎兵隊は後退する。王師中央の歩兵戦列がある主戦場より離れる形で。それはつまり追撃するカヒの騎兵隊も同じように主戦場から離れるということである。

 それがほぼ左右対称に繰り広げられていたのだ。

 それを見ることができればニクティモも王の目的に気付いただろうか、それとも単なる偶然と片付けたであろうか。

 だがここは多少の起伏があるものの全貌を見渡せるほどの高所はない。広大な戦場は中央近くに布陣したカトレウスすら両翼の様子は容易に(うかが)えぬのである。

 それは神ならぬ身には不可能なことであった。


 それに対してカヒと違い、両翼が押されて全体が大きな凸型の陣形となっている王師側は本陣から目を凝らせばなんとか両翼の様子を見ることができる。

 王が本陣を置いた地点、そこは苦心して見つけた唯一無二のイスティエア平原の制高点。ほぼ全域を見渡すことができる限られた地なのだ。

 もちろん、なだらかながらも波打つような起伏が激しいイスティエア平原だ。全てを見渡せるわけではない。

 だが両翼の騎兵が見えさえすれば有斗にはそれで十分だった。

「ザラルセンはうまくやっているようだね」

 韮山ではカヒの騎兵に王師全軍があっという間に打ち崩された過去がある。特にザラルセン隊は真っ先に壊滅し戦場を離脱したという苦い記憶がある。

 だがあの時のザラルセンはそこまでの道での殿(しんがり)での兵力損耗に加えて、生まれてはじめて経験するカヒの激しい騎馬突撃にどうやって退勢を挽回するのか咄嗟(とっさ)には分からなかったのだ。

 侠気の世界、(おとこ)を売る生き方をしてきたザラルセンだけに口には出さないが、この戦いでの汚名返上を心中深く期していたことは想像に難くない。

 その意気が兵に乗り移ったかのように奮戦を続けている。

「ザラルセン隊が一番早く敵に接するんだ。ということは王師の中で一番長く敵と戦わなければならないということになる。その上、両翼包囲を狙うカトレウスは両翼に最精鋭を配置している。もっとも苛烈な攻撃が加わるのが両翼の兵だ。持ちこたえるのはなかなか至難の業だと思う。だが今のところザラルセンはよくやってくれている」

 珍しくアエネアスを相手にして積極的に多言を用いて話す有斗に、アエネアスは有斗が心中の不安を隠しているのであろうと(おもんばか)る。

「ああ、後は右翼の王師三軍が無事に後退するだけだな」

「擬態とはいえ、結局のところ敵に押されている事実にはなんら変わりは無い。敵は益々勢いづいて僕らを攻撃するだろう。王師は最後まで戦列を崩さずに持ちこたえられるかな?」

「やってみないとわからない、こればっかりはな。信じて待つのが王の仕事だ」

「うん・・・」

 いままで不利な戦が無かったわけじゃない。だが正直その時の有斗は戦のなんたるかも知らず、アエティウスやアリアボネがいるからなんとかなるだろう的な考えだった。言ってみれば人事(ひとごと)だった。

 いつもこんな胃の痛むような思いをして彼らは戦況を見守っていたのだろうか・・・それを一切表に表すことも無く。

 凄いな、アエティウスやアリアボネは。本当にそう思う。有斗は本来有斗が背負わなければならなかった色々なものを、彼らに代わって本格的に背負うことになるたびに、彼らの偉大さを痛感するばかりだった。

 僕はいつか彼らの域に辿り着くことができるだろうか、有斗はふとそう思う。

 内心が顔に出て、その表情を見でもしたのだろうか、アエネアスが珍しく励ますような言葉を口にする。

「すでに(さい)は投げられた。あとはどうにでもなれ、さ。大丈夫いざとなっても逃げ出す時間くらいはあるさ」

 そう、いざとなれば私がいる。命に代えてでも有斗を逃がすのは羽林の長である私の務めだ。

 アエネアスは鞘に入った剣の存在を確認するかのように柄を強く握り締める。


 河東諸侯を督戦(とくせん)するために本陣を前へ進めたカトレウスは、四天王筆頭のマイナロスと茶を飲む余裕すらあった。

 もはや両翼はカトレウスの位置からは完全に見えない。それだけ前へ、敵陣のほうへ押し返したということだ。

 眼前の前線も戦闘経過は順調だ。

 特に左翼の河東諸侯はよくやっている。当初攻め込まれていたのに押し返し、今や本来敵の陣地である場所にまで足を踏み入れて戦いを繰り広げていた。

 それに対して唯一カヒの旗色が悪いのが右翼正面である。柵の向こうに足を踏み入れることも無いわけでもないが、幾度と無く撃退され、なかなか柵の向こうに足がかりを手に入れることができない。

 柵を前面全てに王師が敷設する前に戦闘に入れてよかった。カトレウスは速戦を選んだ自身の目の狂いのなさに褒詞をくれてやりたい気分だった。

 後は勝利を決定づける一押しがあればいい。

「今一度(ひとたび)の攻勢を左翼の諸侯たちに命じよ! 敵はもはや腰砕けになっている! あと一息で完全に崩れ去るのだ!」

 左翼は押している、これならば敵騎兵を追撃している騎兵が戻るのを待って、両翼からの包囲するまでも無いと判断したカトレウスが、総攻撃を命じると、左翼の河北諸侯は予備兵力を全て注ぎ込んで攻撃を加え、王師を追い散らし、加速したように戦場を前へと進んだ。

 実に脆いものだ、とカトレウスは拍子抜けする。これが長年、王朝という存在を支え続け、諸侯を王の足下に這いつくばせていた絶対無敵の王師の正体だとは・・・

 王師という幻想がカトレウスの中で打ち砕かれた瞬間だった。

 強いものが勝つというのが戦国の世だというのなら、絶対的強者が戦国の勝利者、覇者になるべきなのだ。ならば哀れな弱兵に過ぎない王師を持つ王ではなく、カヒの強兵を操るカトレウスこそがその地位に相応しい。

 カトレウスの目の前では今まさに王師戦列の、柵のある左半分と河東諸侯に押される右半分が断ち切られようとするところだった。

「行けい! あと一歩だ! 戦列を断ち切れば勝利はもう揺るがないものとなる!」

 カトレウスが興奮のあまり思わずそう叫んで、周囲を驚かせた。

 戦場でのカトレウスは冷静沈着、こんなに感情を(あらわ)にしたことはマイナロスですらそう多くは知らない。

 いや、テイレシアに霧の中で本陣強襲をされた時、ただ一度だけであると言ってよい。

 そのカトレウスの(げき)が聞こえたわけでもあるまいが、その瞬間、左翼の河北諸侯は敵に致命の一撃を加えたようだった。

 遂に王師の戦列は中央で真っ二つに裂ける。

「よし!」

 それを見たカトレウスは思わず立ち上がった。周囲を固める側近たちも思わず興奮して、上擦った声を口から洩らす。もはや支えきれずと見たのか、次の瞬間、王師は後ろを向いて一斉に壊走を始めた。

 亀裂はたちまちのうちに広がって行き、それと同時にどよめきも戦場全体に広がっていった。

 それが勝敗の分かれ目になった。


 後ろを見せて壊走するリュケネ、エテオクロス、プロイティデス率いる王師右翼を追って河東諸侯で構成されたカヒの左翼は、ここが手柄の立てどころと、まるで逃げる獲物を追う獣のように我先に押し寄せた。

 全方面でカヒが押している、もはや勝ちは決まった、と戦うことよりも手柄を立てることだけに目が行ってしまって兵士たちは周囲が見えなくなる。そう、だから横に注意を向けるものなどいなかったのだ。

 この前進により、勢い込んで逃げる敵を追うカヒの左翼と、柵を前に一歩も進めないカヒの右翼の間に隙間ができた。

 王師が中央にて分裂したように、カヒの戦列も期せずして中央で分裂してしまったのである。

 それはまるで真っ二つにずれ動いて食い違いが生じた断層のような形となった。

 だが何千何万年もかけて積み上げられた断層と違うのは、戦列には厚みに限りがあるということ。

 そう、そこに王師とカヒには決定的な差が存在した。

 食い違い面を見てみると、王師左翼の後ろには先程後退する王師三師に押し出される形で移動してきたヒュベルとベルビオの王師二師が存在していたが、カヒ左翼の後方には一兵たりとも存在していなかったのである。そこは無人の空間だった。

 温存されてきたヒュベル率いる第三軍とベルビオ率いる第七軍が無防備な敵の側面へと襲い掛かると同時に、その空いた空間に突入してカヒ左翼戦列の背後に回りこんだのである。

 河東諸侯で構成されるカヒの左翼は三方向から包囲される形となった。

 そう、それまで逃げる一方だったはずの王師右翼の歩兵が突如反転して、ヒュベルとベルビオに呼応するように一斉に襲い掛かってきたのだ。

「しまった・・・これはこちらを誘い込む罠だったのか!」

 そう、右翼の王師三師の後退は偽装だったのである。

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