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トレーダー・ディアブロ

作者: 砂金 回生


   二〇一〇年 十一月 六日


 フリーライターの八田荘司(はった そうじ)は、ホルヘ・グレリアの邸宅のリビングにいた。

 ここはアメリカ、カルフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデス市。ロスサンゼルスの南西に位置するパロス・ベルデス半島にあるこの市の住民の平均年収は十万ドルを超えている。その中でも、半島の南端の太平洋を眺めるエリアは更に平均年収が一桁違う者達が集まる超が付く高級住宅街だ。

 ホルヘ・グレリアはそのエリアの小高い丘に、広大な邸宅を所有していた。

 八田の目の前にいるこの小太りの男が、曾てヘッジファンドの暴君と恐れられアメリカ金融界にその名を轟かせた男、ホルヘ・グレリアである。彼の強引な企業買収により、職を失った者は数知れず。莫大な資金源を盾に、まさに暴君として金融市場を荒し回った男である。

 しかし、白髪の頭を短く刈り込んだこの男の顔には、曾ての輝きは無かった。

 盛者必衰――。昨年まで運用収益ナンバーワンの実績のもと、アメリカのみならず世界中で出資者を獲得していた彼のファンド、ニューワールドは先月、アメリカ合衆国倒産法第十一章の適用を申請し、事実上破綻した。

 この金融不安の時代にファンドの破綻のニュースなど珍しくもない。しかし、曾て運用収益、顧客数、運用資産、その全てにおいて世界一だった彼のファンドの破綻は、世界中のメディアに大きく取り上げられた。だが、それも一時の話で、日々生まれて来る新しいニュースに掻き消されて、彼のニュースはやがて忘れられた。

 グレリアの邸宅はガランとしていた。

 彼自身も先日、自己破産を申請し、邸宅にある金目の物はほとんど差し押さえられて運び出されていたからだ。

 彼の家族も彼を捨てて出て行った。

 残されたのは、彼の以前の栄光の証であるこの邸宅のみであった。

 だが、この邸宅も既に競売にかけられており、来週中にはグレリアはここを出て行かなくてはならない。

 八田とグレリアは広いリビングに残された一組のソファーに、向かい合って座っていた。大きな窓から、昼下がりの太陽を浴びた太平洋が輝いているのが見えた。

 リビングには他の家具は何も無かった。所々、床にウィスキーやワインの空瓶が転がっているだけだ。

 その空き瓶を見れば、グレリアが破産してからの一ヶ月をどう過ごしていたか、容易に想像出来た。

 グレリアの後ろの壁には、以前大きな絵画が飾られていた跡が、壁にくっきりと残っていた。それは、曾てのヘッジファンドの暴君の没落した様子を表している様に八田には感じられた。

「あんた、酒は飲むかい?」

 グレリアは唐突に言うと、足下に置いてあったウィスキー、ジャックダニエルの瓶を手に取り、それをやはり足下に置いてあったグラスに注いだ。

「あ、いえ……。私はお酒を飲めません。それに私は今、勤務中ですので……」

「そうかい。俺は飲むけどいいよな? こいつがあった方が話し易い。あんたも商売がし易くなるだろ?」

 グレリアはクスクスと笑いながらそれを一口飲んだ。

「では、始めてもよろしいですか?」

 八田はそう言うと、グレリアの返事を待たずにボイスレコーダーのスイッチを入れた。

 フリーライターとして飯を食っている彼が、相手の返事を待って仕事を始める事はない。大概の場合、呼ばれもしないのに事件現場に出向いて、当事者のプライベートに土足で踏み込んでいく、相手がどんなに嫌がっていても――。八田にとって、フリーライターとはそういう仕事であった。

 だから今回のホルヘ・グレリアに対するインタビューも、断られたらアポイント無しで押し掛けるつもりでいた。

 しかし、意外にも八田のインタビューの申し出はグレリアにあっさり承諾されてしまった。

 彼にとってはこういう相手の方が、仕事がやりにくい。

 気を引き締めてかからねば――八田はそう思っていた。

 特に今回の本当の目的をグレリアに悟られてはならない。

 実は、彼がグレリアにインタビューを申し出たのは、彼の破綻の話が聞きたかったからではない。破綻した元ヘッジファンドの暴君の話は確かに興味深い。しかし、今の時代、大きな会社の破綻の話自体が珍しくもない。それでは、読者の興味をそそるスクープにはならない。

 彼が今回聞きたかったのは、ディアブロと呼ばれた一人の日本人テロリストの話だった。

 ディアブロは、グレリアの破綻したファンドの専属トレーダーだった。

 だが、それ以外の事は全く分かっておらず、なぜ彼がテロリストになったのか、彼の目的は何だったのか誰も知らなかった。だから八田はこの謎の日本人テロリスト、ディアブロの記事を書いてスクープを狙っていたのだ。

 その為、彼はグレリアの破綻を建前に今回インタビューを申し出たのである。

 しかし、グレリアは今まで一度たりともメディアにディアブロの話をした事が無かった。世界各国のメディアが、まだ破綻する前の彼に、ディアブロの事を聞きに来たが、彼はディアブロの事は一切話さなかった。それは、自分の部下がテロリストであったという不名誉が理由ではなく、何か別の理由がある様に八田には思われた。

「では、まず先月あなたのファンド、ニューワールドが破綻した訳ですが……、その経緯をお教え頂けますか?」

 八田は切り出した。まずはお決まりの質問からだ。

 しかし、グレリアは彼の質問を鼻で笑った。

「ふん。経緯だと? そんな物、そこらの雑誌か新聞でも見りゃ分かるだろ? 何度同じ事をあんたらメディアに話したと思っているんだ。ネークス……」

「え?」

「ネークス……!」

「あ、はい……」

 八田は一瞬戸惑った。

 二人の会話は全て英語で話されているが、グレリアはスペイン出身で英語の発音にかなりスペイン語訛がある。スペイン語では語末の子音は発音されない。その為、次(next)という単語を彼が発音すると、最後のTが発音されないので、ネークスとなる。つまり、次の質問に移れとグレリアは言っているのだ。

「あの、あなたはかってアメリカ金融界に名を轟かせた方です。これまでのあなたの運用の歴史の中でも、成績の悪い時はあったと伺っております。しかし、あなたは強引とも見える手腕で、見事に今までの危機を乗り越えて来られた。そのお陰であなたはヘッジファンドの暴君と呼ばれていた。しかし、今回の破綻は悪足掻きもせずに受け入れたそうですが……、それはどうしてですか?」

「どうしてだと? ふん。それも散々聞かれた事だな。ニューズウィークかタイムズでも見てくれ。そこに色々書いてあるだろ? ネークス……」

 二度目のネークス。

 八田は次の質問に移った。

「ニューワールドの主な投資先は商品先物市場だったそうですが、その運用の中で一番成績の良かった銘柄は何だったのしょうか? また、一番悪かった銘柄は?」

「それも俺が何度も答えた質問だ。答えは同じだ。ネークス……」

 またネークスだ。しかも間髪入れずに。

 八田はまだいくつかの質問を用意していたが、ここで一旦質問するのを止めた。

 どうやら、グレリアはまともにインタビューに答える気は無いらしい。これではまともな記事は書けそうにない。いや、グレリアにファンドの運用成績や投資先の話をさせる事によって、彼のファンドのトレーダーであったディアブロの話をさせる予定だったのだが、このままではそれが出来ない。この調子でインタビューを終わられたら、八田は何をしに日本からカルフォルニアまで来たのか分からない。

 彼は焦って用意したメモ帳に書いてある質問をペラペラとめくった。

「もう、いいだろ……?」

「え?」

「そろそろ本題に入らないか?」

 八田のメモ帳をめくる指の動きが止まった。

「本題、というのは……?」

 グレリアは八田の目を見てニヤリと笑った。

「あんたが今日ここに来たのは、俺のファンドの破綻の話が聞きたかったからではないだろう?」

 そう言うと、グレリアはジャックダニエルの入ったグラスを床に置いた。

 八田はそのグラスを見て気付いた。グレリアはウィスキーを一口も飲んでいなかったのである。

「どうして分かったのですか?」

 八田は視線をグラスに注いだまま、思わず聞いてしまった。

 彼はグレリアにディアブロの話をさせる為に、彼のファンドの話から自然に話題を振っていたつもりであった。しかし、彼の目論みは、グレリアには全てお見通しだったのだ。

「どうしてだと……? ふん、あんたは俺の破綻の話を聞きに来るには遅すぎるんだよ。メディアの連中は事が起きた時に、少しでも早く現場に行きたがる筈だ……。それを、俺が破綻してから一ヶ月も経ってから俺の話が聞きたいだと? 今の俺を見てみろ。こんな一銭も持たない男の話を、誰が聞きたがるものか!」

 グレリアは大袈裟に両手を広げて声を張り上げた。

 彼のしゃがれた声は、一組のソファー以外何も無いリビングに響いた。

 彼の言う通り、ニューワールドが破綻した時は世界中のメディアが挙って彼の邸宅に押し掛けた。だが、それも一時の事で、大衆が彼のニュースに飽きると、途端に誰も来なくなった。

 そしてその後、彼の動向が報道される事は無かった。最早誰も破綻した元ヘッジファンドの暴君に興味を示さなくなったのだ。

 そして、それは彼の友人、家族にしても同じ事が言えた。彼の周りには最早誰もいなかった。

 自虐的な笑みを浮かべてグレリアは続けた。

「大方、あんたは俺にファンドの話を聞く振りをして、ディアブロの話をさせようとしていたのだろう……。同じ日本人であるあんたになら、俺が今まで誰にも話さなかったディアブロの話をするとでも思ったのかい?」

 彼はそう言って、今度は本当にウィスキーを一口飲んだ。まるで、話はこれで終わりだと言わんばかりに。

 八田は何と言って良いか分からず、俯いてしまった。

 リビングは静まり返り、窓の外に広がる太平洋の波の音さえ聞こえてきそうな気がした。

 このままでは彼にディアブロの話を聞くどころか、ファンドの話すらまともに聞けそうになかった。グレリアの頑固さは有名である。一度彼がへそを曲げると、どんな好条件でもイエスと言わないと言われていた。ヘッジファンドの暴君の名は伊達じゃない。

 しかし、八田はこのままオメオメと帰る訳にはいかなかった。ライターとして決して成功しているとは言えない彼が、自腹を切って遥々カルフォルニアまでやって来たのだ。手ぶらで帰れる訳が無い。どうにかしてグレリアに話をさせたいと、彼は考えた。だが、どう考えてもグレリアを納得させる方法が思い浮かばない。

 遂に、八田は考えるのを止めて、ソファーから立ち上がった。

「そうです、グレリアさん。あなたの仰る通り、私はあなたを利用してディアブロの記事を書くつもりでいました。あなたにインタビューの本当の目的を伝えていなかった事は謝ります。しかしこういう方法でないと、あなたからディアブロの話は聞けないと判断致しました」

 八田は考えた末に、自分の本心を打ち明ける事に決めた。

 この状況でグレリアに小細工をしても仕方が無い。彼は一か八かに賭けて、嘘偽りの無い言葉を伝える事にしたのだ。

「ディアブロはあなたの部下であり、運用収益世界一を誇ったニューワールドのトレーダーでした。しかし、彼はロサンゼルス郡保安局の特殊部隊、SWTにテロリストとして抹殺されています。アメリカの発表によれば、彼は大量破壊兵器を所持し、世界を混乱に陥れようとしていたと……。まさに悪魔(ディアブロ)の様な存在だったと言われています。しかし、アジア、アフリカ、南米等のスラムに住む人々は、彼こそ、この世界に平和をもたらす神だったと言っています。一体、彼は何をしようとしていたのですか?」

 八田は話をしながら、いつの間にか正座をしていた。

 そして、一息つくとそのまま土下座した。

「お願いします、グレリアさん! 私にディアブロの事を教えて下さい! 確かに私はフリーのライターですが、仕事としてだけではなく、私個人の好奇心で彼の事が知りたいのです! 同じ日本人として……、なぜ彼が大量破壊兵器を所有し、アメリア、ヨーロッパでテロリストと呼ばれる様になったのか……、そしてなぜ発展途上国の人々は彼を神と崇めるのか……、それをどうしても知りたいのです!」

 彼はこの土下座という行為が、スペイン出身のアメリカ人であるグレリアに通用すると思った訳ではない。しかし、彼は夢中で頭を下げた。考えるより先に体が動いていた。

 暫く八田は頭を下げた体勢のまま動かなかった。

 そして八田が再度頭を上げた時、彼は彼を真っ直ぐ見つめていたグレリアと目が合った。八田はその瞬間目を逸らしそうになったが、ここで目を逸らしては負けだと思い、じっとグレリアの目を見つめた。

 何も無い部屋で、男二人は見つめ合った。

 グレリアは八田の目を見ていたが、遂に根負けして目を逸らしてしまった。

 また、暫くの沈黙があった。

 そして、グレリアの口から、クククと笑いが漏れた。

「ディアブロは……」

 グレリアの口が開いた。

「ディアブロはテロリストなんかじゃない」

「ミスターグレリア……!」

「勘違いするな! 俺は、あいつがただのテロリストだと思われるのが我慢ならないだけだ。確かにあいつの通り名はディアブロだが、その名は俺が付けた物だ。本当のあいつはディアブロと呼ぶにはほど遠い男だよ」

「で……では、あなたはどうして彼にディアブロという名を付けたのですか?」

「ふん。それはあいつのトレード能力が悪魔じみていたからさ。あれは人間業とは思えなかった……。あんた、フットボールは好きかい?」

「フットボール? あの……、アメリカンフットボールの事でしょうか?」

「馬鹿か! フットボールと言えば、サッカーの事に決まっているだろうが! これだからポンハは……」

 グレリアは残念そうに首を振ると、ジャックダニエルを一口ラッパ飲みした。

 スペイン語圏の国ではフットボールと言えばアメフトではなく、サッカーの事を指す。しかし、ヘッジファンドの暴君にいきなりサッカーの話をされて八田は戸惑った。

 因にポンハというのは、スペイン語での日本人に対する差別用語である。英語でジャップに相当する言葉だ。

 だが、差別用語を使われても八田は全く気にしていなかった。それどころか、彼がスラングを使い出した事に、一種の達成感を感じていた。ラテン系の男がスラングや差別用語を親しい間柄の人間に対して使う事は、八田も今までのライターとしての経験から知っていたからだ。

「いいか、フットボールにペナルティーキックってのがあるだろ?」

「あ、はい。ペナルティーキックは知っています」

「そのペナルティーキックで、ゴールが決まる確率はどのぐらいだと思う?」

「確率ですか?」

「そうだ……」

「よく知りませんが、七割から八割ぐらいではないでしょうか?」

 サッカーの事は専門外の八田であったが、ペナルティーキックは何度もテレビで見た事がある。確か、その時の解説者が、ボールの速度と人間の反応速度、そしてキーパーの瞬間的動作で手の届く範囲からキッカーが圧倒的に有利だと言っていた。

「まあ、そんな所だ。キーパーはキッカーがシュートしてから飛んだのでは間に合わないから、勘を頼りに飛ばないといけない。この際に、飛ぶおおまかな方向は、正面、上、右上、右下、左上、左下の六等分だ。そして、実際にその方向にボールが飛んで来る確率が十六・六パーセント。この数字を聞いただけでも、キーパーにとってペナルティーキックを防ぐのがどんなに難しいか分かるだろ? だが、もし、ディアブロがそのペナルティーキックのキーパーだったなら、全てのシュートを防いでみせるだろうよ。あいつはそんな事が出来る奴だったのさ……」

「え? はあ……。そうですか……?」

 八田はグレリアの言っている事が理解出来なかった。

 ディアブロは凄腕のトレーダーだった筈だ。それが、サッカーのキーパーと何の関係があるというのだろうか。

「フフフ……。あんた、俺の言っている事が理解出来ていないようだな」

「あ、いえ。そういう訳では……」

「無理も無いさ。俺自身、この目で見るまで信じられなかったからな。あいつのトレードセンスはそれぐらい完璧だったのさ。そして、あいつのトレード理論ってのはトレード以外の事、それこそ世の中の全ての出来事に応用出来たんだ。例えば、あいつは庭に植えてある木の枝が、今後どういう風に伸びていくのか……、階段を転げ落ちるボールがどこで止まるのか……、もちろん俺が指定した会社の株価が今後どういう動きをするのか……、全て完璧に言い当ててみせた」

「そ、そんな事が可能なのですか?」

「そうさ。もちろん、そんな事が出来たのはディアブロだけさ。だから、あいつはディアブロなのさ。そして、そんなとんでもない奴だったからこそ、あんたもわざわざ日本からカルフォルニアまで話を聞きに来たんだろ?」

 ここでグレリアはジャックダニエルを更にもう一口飲んだ。

 そして――。

「いいだろう、ポンハ。どうせ俺のインタビューが大きく取り上げられる事はもうない。あんたに話してやるよ……ディアブロ、西京育也(にしきょう いくや)がどういう男だったのかを……!」

 そう言って、グレリアは真っ直ぐに八田の目を睨んだ。

 八田はグレリアから目を逸らさずに、その視線を受け止め、生唾を飲んだ。

「あ……、有り難うございます!」

 そして、彼は深々と頭を下げた。

「あいつに初めて遭ったのは今から五年前……。実は、俺がその当時運営していたファンド、ニューホライズンはその時、破綻の危機にあってな……」

 グレリアは窓の外に広がる太平洋を眺めて、話し始めた。

 窓から差し込む明るい日射しが、リビングの二人をシルエットとして映し出した。


   ※

 

   二〇〇五年 七月 三十日


 アメリカ、ニュージャージー州ジャージーシティー。

 ニューヨークのウォール街が米国の金融の全てを仕切っていたのは昔の話。インターネットの発達により、金融会社は敢えて地価の高いウォール街に拠点を置く必要性が無くなり、この時までに多くの会社は本社機能をミッドタウン、ニュージャージー州やブリッジポートへと移転させていた。大手金融機関では、JPモルガン・チェースが最後までウォール街に残っていたが、二〇〇一年十一月に本社ビルを売却してしまった。この為、それ以降、最早ウォール街には純米国資本の大手金融機関の本部は存在しない。

 グレリアのファンド、ニューホライズンもゴールドマン・サックス、チェース・マンハッタン、リーマン・ブラザーズ、メリルリンチといった大手金融機関が拠点を置くこのジャージーシティーのダウンタウンに拠点を構えていた。

 彼のオフィスはハドソン川に面した四十二階建てのゴールドマン・サックス・タワーと呼ばれるオフィスビルの三十八階にある。

 グレリアはこの日、オフィスの社長室に一人籠って先月入社してきた新人トレーダー達のトレードレポートに目を通していた。

 彼は焦っていた。

 ニューホライズンは運用開始以来最大のピンチを迎えていたからだ。

 彼のファンドは二〇〇五年に入ってから一本調子に上がり続けた原油相場の天井が近いと考え、三ヶ月前からニューヨークのマーカンタイル取引所の原油先物相場を空売りしていた。つまり、原油相場が下がる方に賭けたのだ。

 取引開始当初は彼らの予想通り、史上最高値の七十ドル付近から相場は下がり、取引は順調に進んでいる様に見えた。しかし、その後原油相場はすぐに上昇に転じ、あっという間に史上最高値を更新して上がってしまったのだ。

 通常のトレードルールに則れば、その時点で取引を決済し、マイナスを最小限に抑えるものだが、この時のグレリアはマイナスで取引を決済させずに取引を継続させてしまった。ひょっとしたら、今、取引を終了しようとしているこの時点が原油相場の最高値で、明日から値段は下がるのではないか……。ひょっとしたら、今はマイナスの売りポジションも、値段が下がってプラスに転じるのではないか……。そういう思いが、彼の決済のタイミングを遅らせてしまったのである。そして、こういう根拠のない希望的観測で行うトレードが、いい結果に結びつく事はない。グレリア自身もそれは何度も経験した失敗の筈だった。

 しかし、その後も原油相場は上昇を続け、彼が取引を終了したのは、ニューホライズンが取り返しの付かないマイナスを抱えた後だった。

 グレリアは想定内のマイナスのうちに取引を終了させなかった事を悔やんだ。しかし、いくら彼が悔やもうと、過ぎ去った時間は元には戻らない。彼の抱えたマイナスの総額はニューホライズンの運用資産の約半分、十億ドルにも及んだ。日本円にして約八百五十億円になる。

 彼は抱えたマイナスの大きさに目眩を覚え、食欲が無くなり、トイレや歯磨きをする時に吐き気を覚える様になった。

 だが、それでも彼はファンドの運用を止めなかった。いや、止める事が出来なかった。

 彼は、逆に残った半分の運用資産で、何とかマイナスをとり返せないか考えた。グレリアはスペインから単身アメリカに渡り、この業界一本で二十年間生きてきたのだ。今更他の仕事で飯を食うつもりはなかった。

 しかし、一度減らしてしまった資産を取り戻すのは容易な事ではない。半分に減った資産を元に戻すには、残りの資産を倍にしないといけないからだ。

 しかも彼のファンドには、四ヶ月に一度、投資家達に運用結果をレポートで提出する義務があった。彼が原油相場を決済したのが、前回のレポートから一ヶ月後、つまり後三ヶ月で今回の取引のマイナスを穴埋めしないと、今回のマイナスが投資家達に知られてしまう事になるのだ。

 短期間にこれだけのマイナスを出したファンドにそのまま金を預けておく馬鹿はいない。当然出資者は彼のファンドから一斉に資金を引き上げ、彼のファンドは破綻の危機に晒される事だろう。しかし、彼や現在彼が抱えているトレーダー達には、残った資金を運用する自信が無かった。今回の原油相場で自分達が大きな損失を出した事も理由の一つだったが、半分になった資金を短期間で倍にするには、それ相応のリスクを背負わなければならないからだ。下手をすれば、残った資金は更に目減りし、最悪の場合資金が無くなってしまう事も考えられる。

 資金が無くなったとなれば、いくらファンドのリスクを熟知しているニューヨークの投資家達といえども黙ってはいない。中にはニューホライズンを相手に裁判を起こす者もいるだろう。

 ファンドの損失は投資家の自己責任となる。それは当然の事だが、もし万が一運用資金の全額を失ったとすれば話は別だ。そして、グレリアの抱えるトレーダーには、投資家と法廷で戦う事になるリスクを冒してまで損失を取り戻そうとする者はいなかった。

 そういう事情があり、彼は急遽トレーダーを募集せざるを得なくなったのだ。

 彼は応募してきたトレーダー達全員に、特定の証券会社のデモ口座を使って一ヶ月のバーチャルトレードをさせた。

 バーチャルトレードとは、所謂仮想の資金を使ったトレードシミュレーションだ。しかし、バーチャルと言っても資金が現実の物でない事以外は、全て実際のマーケットと何ら変わらない。彼は自分のファンドの命運を託すトレーダーをこのバーチャルトレードで見極めるつもりだった。そして、その為に彼は貴重な残り三ヶ月のうち、一ヶ月を更に使ってしまった。

 この一ヶ月、ニューホライズンの資産は横ばいで推移していた。グレリアのお抱えトレーダー達は今回の損失に完全に萎縮してしまって、通常のリスクを負った取引も出来なくなっていたのだ。

 グレリアは焦りながら一人一人のバーチャルトレードの結果レポートに目を通していた。しかし、レポートのトレード結果はどれもパッとしない物ばかりだった。

 それもその筈である。世の中に、腕の良いトレーダーがそんなに転がっているものではない。本当に腕の良いとレーダーなら、既にどこかのファンドに引き抜かれているか、自分で独立してファンドを立ち上げている筈だ。言い換えれば、自分の腕に自信が無いからこそ、サラリーマンとして組織の一員になり、将来独立する為に勉強しようとしているのが新人トレーダーなのだ。

 グレリアはレポートを読みながら半ば諦めかけていた。

 しかし、その時だった。

 彼の手が、一人のレポートを見て止まったのだ。

「何だ……? これは……?」

 彼は顔を顰めた。

 そこには、他の者と明らかに違う運用成績が書かれていた。

 グレリアが新人トレーダー達に与えた架空の資金は十万ドル。約八百五十万だ。それを各人に一ヶ月間運用させていたのだが――。

「百八十万ドルだと……!」

 そこには、なんと一ヶ月で十万ドルを百八十万ドルに増やしたという運用結果が書かれていたのである。日本円換算で約八百五十万円が一ヶ月で約一億五千三百万になった事になる。これは明らかに異常な運用成績だった。通常トレードコンテストというのは運用資金を何パーセント増やせたかを競う物である。何倍に増やせたかを競う物ではない。勿論、グレリアが見てきた他の新人のレポートは、十パーセント増とか七パーセント増とか平凡なトレード結果を書いていた。中にはトレード結果がマイナスというお話にならない者までいた。そんな中で、この新人は千八百パーセントの資産増加率を叩き出したのである。

「馬鹿な! 十八倍だと!」

 グレリアはそのトレード結果を食い入る様に眺めた。確かに一ヶ月で十万ドルが百八十万ドルになっている。間違いではない。

 そこにはそのトレーダーの取引明細が全て書かれていた。


・トレード期間 一ヶ月

・開始時資産 十万ドル

・終了時資産 百八十万ドル

・トレード回数 三百二十八回

・勝ちトレード回数 三百二十八回

・負けトレード回数 〇回

・勝率 百パーセント


「あり得るか! こんな事!」

 グレリアは我慢出来なくなり叫んだ。

 そして、自分の机に置いてあるボタンを乱暴に叩いた。

 すると、すぐに黒いスーツを着た女性が一人、彼の部屋に入ってきた。

 ブロンドのストレートヘアーがよく似合う美人だ。

「お呼びでしょうか、ボス?」

「ロミーナ! お前どう言う事だ!」

 グレリアは開口一番、秘書であるロミーナ・ベッキョを怒鳴りつけた。

「新人の中にめぼしい奴がいれば、すぐに知らせろと言っておいただろ!」

 しかし、ロミーナは表情を変える事無く言った。

「お言葉ですが、ボス、今回のレポート提出者の中に、ボスに報告するのに値する様な結果を出した者はいませんでしたよ。それでもご自分の目で確かめたいと仰っておられたので、レポートをお持ちしたのですが……」

「結果を出した者はいなかっただと? だったら何だ、こいつのレポートは!」

 グレリアはロミーナに乱暴にレポートを渡した。

 彼女は渡されたレポートに目をやる。

「ああ、西京育也ですね。すみません、彼のトレード結果はチェックしていませんでした。トレード結果以前に、彼はルール違反で失格させました」

「何…? お前、今何て言った?」

 グレリアは彼女に詰め寄った。彼女の言っている事が分からない。

 しかし、彼女は表情を変えない。

「彼のトレードはレバレッジが高過ぎます」

 彼女はそう言って、レポートを彼に返した。

 レバレッジとは、簡単に言うとトレードの倍率の事だ。

 トレーダーは取引のレバレッジを上げる事により、その利益率を上げる事が出来る。つまり少ない自己資本で大きな取引が出来るのだ。しかし、利益率を上げるという事は、当然、逆にトレードに失敗した時の損失も大きくなる。だからプロのトレーダーは無闇にレバレッジを上げたりはしない。レバレッジを上げてのトレードはギャンブルになってしまう。それはトレーダーとしての常識だ。

 グレリアはもう一度レポートを見た。

「レバレッジ百倍だと……!」

 彼は目を見開いた。

 レバレッジ百倍というのは、投資金の百倍の運用成果が出せるという事だ。分かり易く言えば、一回の取引で資金がゼロになる事もあれば、二倍になる事もありえる取引だ。これは明らかにトレーダーとしては大き過ぎるレバレッジだった。なぜなら、折角順調に資金を増やす事が出来ても、一回の失敗で全てを失ってしまっては元も子もないからだ。西京育也という男は、この一ヶ月間、トレードではなくギャンブルをしていた事になる。

 だから、ロミーナは西京のレポートの運用結果も見ずに、彼に失格を言い渡したのだ。

 しかし、グレリアは違った。

 彼はまず各トレーダーの運用成績から目を通していた。その為、西京育也のレポートが、彼の目に留まったのである。西京という男が、短期間に運用資金を十八倍に増やせたのも、高いレバレッジで運用し、成功したからだ。今の彼に過程や方法はどうでも良かった。彼が探していたのは、リスクを恐れず確実に資産を増やせるトレーダーだ。

「おい、ロミーナ、今回のバーチャルトレードでイカサマをする事は可能だと思うか?」

「それはあなたが一番ご存知の筈です。バーチャルといっても、値動きは全て本物の市場の動きをリアルタイムに反映しています。イカサマは不可能です」

 ロミーナは無表情のまま言い切った。

 バーチャルトレードと言っても、市場の内容は通常の取引と変わらない。市場に直接影響を及ぼす事をしない限りイカサマは出来ない。そして、市場に直接影響を与える様な力を持った者は新人トレーダーとして応募してきたりはしない。つまり、西京育也のレポート結果は、紛れも無く彼の実力である。

 グレリアはもう一度、西京育也のレポートを見た。

 今月の初めに一万ドルからスタートした資金は、一度も減る事は無く、毎回百倍のレバレッジに晒されながら確実に増えていく様子がそこには書かれていた。

 彼は自分自身の目でレポートを確認した事を神に感謝した。ロミーナや他の社員に任せていたら、西京を発見する事は出来なかっただろう。

「こいつは、今どこにいる?」

「あ……、はい。西京はさっきまで荷物の整理をしていましたので、もう帰ってしまったのではないでしょうか?」

「何?こいつのブースはどこだ!」

「Bブロックです。しかし、ボス……!」

 グレリアはロミーナの話を聞かずに部屋を飛び出した。そして、Bブロックまで走って行った。

 ニューホライズンの入っているゴールドマン・サックス・タワーの中は広い。その為、彼は三十八階のフロアーをAからFまでの六ブロックに区切っていた。グレリアのいる社長室はFブロックにある。Bブロックまで、彼はフロアーの端から端までを走って行かなければならなかった。

 しかし、彼がやっとの思いでBブロックに辿り着くと、西京育也のブースは既に綺麗に片付けられた後だった。ロミーナに失格を言い渡された西京は、荷物をまとめて出て行ってしまったのだ。

「シット!」

 グレリアは踵を返して走り出した。

 エレベーターホールに辿り着くと、下行きのボタンを連打する。

 エレベーターのドアの前で地団駄を踏む彼の姿は、トイレを我慢する小学生の様に見えた事だろう。グレリアはやっと来たエレベーターに飛び乗り、今度は中で一階のボタンを連打した。

 エレベーターのボタンは連打したとしても到着するスピードが変わる訳ではない。そんな事はグレリアも重々承知していたが、そうでもしないと落ち着いていられないのだ。

 彼が探し求めていた、ニューホライズンを救えるトレーダーがやっと現れたのだ。これが落ち着いていられる訳が無い。

 エレベーターが一階に着くと、彼はドアの隙間から飛び出し、エントランスホールを走った。彼が一歩走る度に、メタボな腹がブルンと揺れた。

 ようやく、彼はエントランスホールを、スーツケースを転がして歩く一人の東洋人らしき男を見つけた。

「ヘイ、西京!」

 グレリアは叫んだ。

 エントランスホールに彼のしゃがれた声が響き、その男はピタリと歩くのを止めて振り返った。

 間違いない――彼が西京育也だ。

 彼は西京の姿を見つけて、ようやく歩く事が出来た。息を整えつつ、西京の元に近づく。

「君、西京育也君だね……?」

 名前を呼ばれた西京は、目の前で息を切らせている小太りの男を見て怪訝な顔をした。

 西京はTシャツにジーパンというラフな格好をしていた。

 レポートによると彼の年齢は二十五歳という事だが、切れ長の目と綺麗な顔つきで実年齢より若く見える。TシャツとGパンという事もあり、一見すると学生のようだ。

 グレリアは大きく息を吸って深呼吸をした。

「私の名前はホルヘ・グレリア。ニューホライズンの経営者だ。つまり、さっき君が解雇された会社のね……」

 彼はニコリと笑った。

 しかし、グレリアの名前を聞いた西京は、慌てて頭を下げた。

「あの、すみませんでした! その……、バーチャルトレードってのは、お金に重みを感じなくて……。つい、緊張感を味わいたくてレバレッジを上げ過ぎてしまいました。やはり、自分にはトレーディングは向いていない様です」

 彼はあたふたとレバレッジを引き上げた理由を述べた。

 どうやら彼は、グレリアがここまで自分を追いかけて来たのは、トレードのルールを破った自分を叱りに来たのだと思っているらしい。

 勝率百パーセントの超人的なトレード結果を残した男は、意外にもオドオドとした気の弱そうな若造だった。

「いや、いいんだ、西京君……」

「でも、これでトレーダーの夢はキッパリ諦められそうです……」

「いや、いいんだ! 違うんだ、西京君、聞いてくれ……!」

 グレリアは謝り続ける西京の話を遮った。

「逆だよ! 全く逆だ。私は君にバーチャルの時と同じ手法で取引をしてほしいのだ! ただし、今度はリアルマネーで!」

 グレリアのしゃがれた声が、ゴールドマン・サックス・タワーのエントランスホールに響いた。


   ※


   八田荘司の記事からの抜粋


 ディアブロこと西京育也を手に入れたホルヘ・グレリア氏とそのファンド、ニューホライズンは見事破綻の危機を乗り越えた。いや、それどころか、西京加入後の二ヶ月で半分にまで目減りしていたファンドの運用資金が元に戻り、その後は元金に対しプラスに転じていった。つまり西京は二ヶ月で見事運用資金を倍にしてみせたのだ。

 グレリア氏のみならず、ニューホライズンのトレーダーは皆、彼のトレード技術に驚愕したという。

 通常、プロのトレーダーの勝率は六割程だ。凄腕のトレーダーになると七割程だと言う。それが彼の場合はまさに百発百中。西京が買えば、その銘柄の値段は上がり、彼が売れば、その銘柄は必ず下がったそうだ。

 氏は私に語った。

「流石にリアルマネーでバーチャルと同様にレバレッジ百倍で取引をさせる勇気が俺には無かった。だからレバレッジを十倍ぐらいまで落としてもらって、後はディアブロの好きにトレードさせた。それでも、ファンドを運用する身としては大き過ぎるリスクさ。俺は震えながら彼のトレードを見ていたよ。しかし、あいつがトレードする度に、俺のファンドの資金はどんどん増えていくんだ……。数日経ったら、俺は別の意味で震える様になったよ。こいつは本物だと……!」

 私はここで、氏に誰もが抱くであろう、ある質問をぶつけてみた。彼は一体どんなトレード手法を使っていたのですか?と――。

 すると、氏は一笑した後に言った。

「俺が四六時中ディアブロの側にいて理解出来なかったものを、素人のあんたが理解出来るのかい?」

 もちろん、グレリア氏のみならず、ニューホライズンのトレーダー達は挙ってディアブロのトレード技術を学ぼうと彼に教えを乞うた。しかし、誰一人として彼のトレード手法を理解出来なかったという。

 私は、ディアブロの人物像をよりよく知る為だと称して、彼のトレード手法を教えてくれと乞うた。

「ま、俺が言った所で分からんと思うが……」と、前置きをした後、彼はディアブロのトレード手法の触りを教えて頂いた。

 氏によれば、彼のトレード手法のメインは黄金比率という事である。

 黄金比率という言葉は、トレーダーなら一度は聞いた事がある言葉だ。

 黄金比率とは世の中で最も美しい比率と言われ、その数字は一対一・六一八である。長方形は縦と横との関係が黄金比率になる時、安定した美観を与えると言われている。その黄金比率はパルテノン神殿やピラミッドといった歴史的建造物、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザといった美術品の中に見出す事が出来る。また、自然界にも現れ、植物の葉の並び方や巻貝の中にも見つける事が出来る。

 グレリア氏曰く、黄金比率は株価を始め、あらゆる相場の値動きにも現れる。

「例えばだ……」氏は言った。

「相場が成長段階にある時は、値段は真っ直ぐに上がらず、上がったり下がったりを繰り返しながら成長していくのだが……。前回の上げ幅が一だとすると、その上げが一旦収束した後、次に値段が上がる時にその上げ幅は前回の一・六一八倍になる。逆に相場が終焉に向かっている時、つまり、値段が下がっている時はその逆に値段が動く」

 氏によると、相場は基本的に上げ相場と下げ相場に大別され、そのどちらの時も値段は上がったり下がったりの波を形成する。

 その波が一と一・六一八の対比の連続になるというのだ。

 つまり、ある銘柄の前回の上げ幅が一だとすると、それが上げ相場にある場合、今回の上げ幅は前回の一・六一八倍になる筈だから、まだその値段が安いうちに買って、その値段が一・六一八倍まで上がった時に売ればいいと言う訳である。

 ディアブロのトレード手法というのはたったそれだけだった。

 私はそのシンプルさに驚いた。

 ディアブロと呼ばれる程の凄腕のトレーダーは、もっと複雑なロジックを元にトレードしていると思い込んでいたからである。

 私はその事を氏に告げた。

 すると、彼はジャックダニエルのボトルを一口飲んで「ふん」と鼻で笑った。

「腕の良いトレーダーのトレード手法っていうのは、シンプルなものさ。しかし、シンプルという事は、イコール簡単という事ではない。ディアブロのトレードで難しいのは、その相場が上げ相場なのか下げ相場なのか、そして今回の値動きが一の値動きなのか、既に一・六一八の値動きに入っているのかを見極める事なのさ。ディアブロはそれを百パーセント実行出来た」

 私は試しに彼がやっていたバーチャルトレードをやってみた。黄金比率をイメージしながらトレードしたのだが、その結果は散々たるものだった。

 株価のチャートを見れば、それが上げ相場だったのか、下げ相場だったのかは分かる。しかし、それがこれから先、上げ相場になるか、下げ相場になるかという未来の話になると、途端に分からなくなるのだ。

 一対一・六一八の比率にしても、過去の値動きを見れば、なるほど、驚く程ピッタリと黄金比率になって動いている。しかし、現在が一の値動きなのか、それとも一・一六八の値動きなのかを見極めるのは非常に難しいのである。

 ヘッジファンドの暴君と言われたグレリア氏ですら習得する事の出来なかったトレード手法が、素人の私に出来る訳もないが、兎に角ディアブロこと西京育也はこの黄金比率を使ってトレードしていたのである。

 グレリア氏は、トレード手法の話と同時に、西京育也がディアブロと呼ばれる様になった経緯も話してくれた。

 それによると、グレリア氏は西京のトレード手法を何とか身に付けようと、四六時中彼にくっ付いて生活していたという。そして氏は西京に、何とか彼のトレード手法を身に付ける練習法はないものかと相談した。

 すると、西京は自分の部屋に置いてあったピンポン球を掴むと、それを無造作に階段の上に放り投げたという。

 当然、そのピンポン球は階段を跳ねて落ちて来る。

 その時、彼はグレリア氏に側に置いてあったゴミ箱を渡し、これで落ちて来るピンポン球をキャッチしろと言ったそうだ。

 氏は言われた通りに、ゴミ箱を抱えて、落ちて来るピンポン球を見事キャッチした。幼い頃からサッカーをやっていたグレリア氏にとっては、そんなに難しいゲームではなかったという。

 しかし、西京は首を横に振った。

「そうじゃない。ゴミ箱を持っていては駄目だ」

 そう言って彼は、もう一度ピンポン球を階段に向けて放り投げ、今度はグレリア氏からゴミ箱を取り上げると、暫くピンポン球が落ちて来る様子を見たそうだ。

 そして、ゴミ箱を床に置いた。

 すると、どうだろう。なんと、見事にピンポン球は床を跳ねて、そのゴミ箱に入ってしまったというのだ。

 西京はグレリアの前で、何度か同じ事を繰り返してやって見せたという。何度やっても、西京はゴミ箱の位置を変えるだけで、置いたゴミ箱の中にピンポン球が入るのだ。

 彼はピンポン球が階段を跳ねる様子を見て、それが今後どういう軌道を描いて落ちて来るのか完璧に把握していたというのだ。

 西京曰くこれも黄金比率の応用らしい。

 しかし、知識として黄金比率を知っていても、普通の人間が瞬時に未来のピンポン球の軌道を予測する事は不可能だ。西京にはピンポン球が跳ねて階段を落ちて来る軌道が、チャートとして見えていたのだろう。才能ある音楽家が持つ音階の感覚を絶対音感という。彼にはそれと似た絶対相場観とも言える感覚が備わっていたのかも知れない。

 何度投げてもゴミ箱に入るピンポン玉を見て、グレリア氏は呟いた。

「お前は……、悪魔(ディアブロ)だ……!」

 それが、西京育也が初めて悪魔(ディアブロ)と呼ばれた日であった。


   ※


   二〇〇六年 七月 二十三日


 フリピン、マニラ市ベイウォーク。

 西京育也とホルヘ・グレリアはマニラ湾沿いを歩いていた。

 曾てはマニラ湾沿いのロハス通りは、屋台が立ち並び大変な賑わいを見せていたが、市長が交代してから都市の景観を損なうという理由で、ほとんどの屋台が強制撤去され、今では静かな遊歩道となっている。今やベイウォークは、フリピンの富裕層と観光客で賑わう高級ブティック等が建ち並ぶ地域である。

 マニラ湾に都会のネオンが反射してキラキラと輝いていた。

 西京がニューホライズンのトレーダーとなって一年、ファンドの運用はこの上なく順調だった。この一年でニューホライズンの総資産は三百億ドルを超えて、彼らはファンド業界でも一目置かれる存在となっていた。

 当然、その最高経営責任者であるグレリアも、世界中のメディアの注目を集める存在となっていた。

 彼は西京のトレードで得た利益でファンドの多角経営に乗り出し、世界中の倒産寸前の会社を安く購入しては経営を立て直し高く売る、所謂M&Aを行っていた。グレリアはどうやらこちらのセンスはある様で、彼のぶっきらぼうな話し方と強引な手法は周囲の反感を買いながらも、経営自体は非常に順調だった。

 彼はいつの間にかヘッジファンドの暴君と世界中のメディアに呼ばれる様になっていた。

 この一年、グレリアは可能な限り西京と過ごした。

 彼は西京がニューホライズンのトレーダーとしてトレードをスタートさせた当初は、何とか彼の技術を学ぼうとしていた。

 しかし、西京のトレードは技術ではなくセンスによるものが大きいと理解した彼は、今度は別の理由により西京と一緒にいようとした。

 ディアブロを手放す事が出来ない――。

 それが、グレリアが彼と一緒にいる最大の理由だった。

 通常、ファンドのトレーダーがサラリーマンとして長年同じファンドに所属し続ける事は少ない。トレーダーはプロの世界だ。注目を集めたトレーダーはどこかの金融機関にヘッドハンティングされて出て行くか、独立して出て行く事が多い。特に西京程のトレード技術があれば、世界中の金融機関の引っ張りダコになるのは目に見えている。

 だから、グレリアは可能な限り西京の存在をメディアから隠し、矢面には常に自分が立った。

 この行動は彼のヘッジファンドの暴君というイメージを更に大きくする事となったが、目立つのを嫌う西京にとっては好都合だった。

 グレリアは自由な時間を見つけては西京を連れ出し、コミュニケーションを取った。彼は西京をディアブロと呼び、自分の事をファーストネームのホルヘと呼ばせた。

 彼らはいつの間にか上司部下の関係を超えて、友人として付き合う様になっていた。人見知りの激しい西京には、独立して自分のファンドを立ち上げる野心は無く、外交的な仕事は全てグレリアに任せ、自分はトレードに専念した。むしろその方が西京にとっては心地良かったのである。しかも、西京の労働時間は基本的に自由。彼は気分の乗る時にトレードをすればそれで良かった。それでも誰一人として西京の運用成績を上回る事が出来なかったから、当然と言えば当然の結果である。

 そして、こういうギブアンドテイクの関係が彼らの関係を強く結び付けていた。

 しかし、この日、ニュージャージーから遥か遠いこの東南アジアの地で、二人の関係に大きな変化が訪れようとしていた。

「ディアブロ、お前にも見せてやりたかったぜ! こちらがあいつらの土地を買い占めようとしていると知った時のあいつらの顔をよ……!」

 グレリアは上機嫌で西京の肩を組んだ。

 彼の吐く息はウィスキー、ジャックダニエルの臭いがした。

 彼らがフィリピンに来たのは、東南アジアのゴム農園を買い漁る為である。

 原油相場の高騰により石油製品の価格は軒並み上昇していたが、それは石油から作られている合成ゴムにも同じ事が言えた。そこで、グレリアはまだ価格が上昇していない天然ゴムに目を付けて、安いうちに農園ごと買い付け、合成ゴムの値段の上昇に釣られて値段が上がった時に売却しようと考えたのだ。

 いつもの様に、今回の交渉もグレリア一人で行い、西京は彼が交渉を終えるまで近くのバーで待っていた。

 西京はグレリアの様子を見て、交渉は上手くいったのだと確信した。

 暫く歩くと、ほろ酔い気分のグレリアは組んでいた手を離し、フラフラとホテルの方に向かった。

「じゃあ、俺はこのままホテルに帰るぜ。ディアブロ、お前はどうするんだ?」

「俺は、少し星を見て帰るよ」

「またか? 好きだな、お前も。でも、気をつけろよ。お前は世界を変える力を持っているんだ。あまり羽目を外しすぎるなよ」

 グレリアはクククと笑い、左手を少し挙げてサヨナラの合図をした。そして、彼は遊歩道から横断歩道を渡ってホテルの方に向かった。

 西京も同じく左手を少し挙げて、暫くグレリアの背中を見ていた。

 彼はグレリアが振り返らないのを確認して、マニラ湾を北に歩き出した。

「フ……、世界を変える力を持っている……か……」

 西京は先程のグレリアの言葉を反芻し、もう一度飲み込んだ。

 彼は自分のトレード技術が完成された物だと自覚していたが、そのトレード技術を使って有名になりたいとか、何かを手に入れたいという野心は無かった。だから、世界を変える力を持っていると言われてもピンとこない。

 欲しい物は何でも手に入るだけの報酬は既に貰っている。しかも、今の彼は自分の好きな時にトレードすれば良かったので、時間的な束縛も無かった。それでも、ニューホライズンのトレーダーは誰も西京に勝てなかったので、グレリアを含め誰も彼に文句を言えなかった。

 そういう事もあり、今のグレリアとの関係に彼は満足していた。

 マニラ湾から涼しい風が吹き付ける。

 酒で火照った頬に夜風が当たって気持ちが良かった。

 彼はピンクと黄色のネオンが輝く通りに入り、物色する様に歩いた。特定の女性との付き合いの無い西京にとって、夜の街は自分の欲求を満たしてくれる格好の遊び場だった。

 しかし、その時だった。

 彼がネオンの中を歩いていると、突然、一人の幼い少女が彼に声をかけてきた。

「ミスター、鉛筆を買ってくれませんか?」

 見た所、十歳前後の女の子だ。長い髪を後ろに束ねて、ワンピースにサンダルという格好だった。そのサンダルのバンドに大きな黄色い花が咲いていた。

 彼女の手には、手作りの鉛筆が十本程握られていた。

 東南アジアでは、こういう小さな子供が通りで物を売っている姿は珍しくはない。そういう子供達の殆どは親に命令されて、手作りの文房具や絵はがきを売っている。

 この子の場合、鉛筆を売っている訳だが、西京は驚いた。いくら子供の物売りが珍しくないとは言え、今の時間は既に午後十時を回っていた。この通りにも飲み屋や風俗店の客引きの姿はあったが、流石に十歳前後の子供はいない。一体、親は何をしているのだろうか……?

「君、親はどうしたんだ?」

 西京は中腰になり、女の子と目線の高さを合わせると聞いた。

 すると、彼女は少し困った様な顔をして答えた。

「お母さんはお仕事している」

「お父さんは?」

「いません」

 女の子は首を振った。

「私、鉛筆が全部売れるまで帰れない……」

 彼女は涙目でそう言って、握っていた鉛筆を前に出した。

 西京は胸が熱くなった。

 彼女は恐らく、母親に鉛筆が全部売れるまで帰ってくるなと言われているのだろう。そして、この小さな子は親の命令を律義に聞いて、こんな時間まで街を彷徨い歩いているのだ。彼女のいじらしさに西京の胸は打たれた。まさに現代版のマッチ売りの少女ではないか……。

「その鉛筆はいくらだ?」

「五十ペソです」

「分かった……」

 西京はそう言って財布を取り出し、千ペソ札を彼女に渡した。

 五十ペソは日本円で約九十五円である。鉛筆一本の値段にしては破格に高い値段で、明らかに観光客用のぼったくりの値段だが、彼は気にしなかった。

「その鉛筆を全部くれ」

 お金を渡された少女の顔がパッと明るくなった。

「本当ですか! 有り難うございます!」

 彼女は握りしめた鉛筆を西京に渡した。

 しかし、すぐに彼女は困った顔をする。

「あ、でも私、お釣りを持ってない」

「いいんだよ。お釣りなんて」

 西京はもう一度中腰になり、彼女と目線の高さを合わせてその目を見つめた。

「君、名前は?」

「アイリン……、アイリン・モレノ」

「そうか。アイリン、お釣りは必要ないよ。その代わり、お釣りのお金でノートを一冊買ってくれないか?」

「ノート?」

「そう。そして、これを君に」

 彼はアイリンから買ったばかりの鉛筆の束から、鉛筆を一本取り出し、彼女に差し出した。

「これは君の分だ」

「私の?」

「そうだ。この鉛筆とノートを使って勉強するんだ。そして、将来は自分の夢を自分で叶えられる大人になるんだ、いいね?」

「夢……?」

「そうだよ、アイリン。君の夢は何だ?」

「夢……? 分からない……」

 彼女は困った顔をして、下を向いて考え込んでしまった。

 幼い頃から仕事という現実的な行為をしてしまうと、漠然とした夢を見られなくなる子が多い。そういう子供達は、サッカー選手になりたいとか、歌手になりたいという根拠の無い夢を語らない。思考が大人の様に現実的になってしまうのだ。

 彼女は暫く考えていたが、何かを思いついた様に顔を上げた。

「あ……でも、私が一生懸命勉強したら、学校に行って、友達出来るかな?」

「友達? ああ。一生懸命勉強すれば、きっと出来るさ……」

 彼女は万遍の笑みを西京に見せた。

 西京に彼女が学校に行ける確証などもちろんなかったが、彼はこの小さな女の子に生きる希望を持っていて欲しかった。

「有り難う、ミスター!」

 彼女はお礼を言うと、直ぐに百八十度回転して家に向かって歩き出した。

 やっと帰れるのが嬉しいのか、早足で彼女は歩いていく。

 西京は左手を少し挙げて彼女が歩いて行くのを暫く見ていた。

 そして、彼女が夜の闇に消えて行くのを見届けると、自分もホテルの方へ歩き出した。

 もう、今夜は夜遊びする気にはなれなかった。

 しかし、西京は何歩か歩いただけで、直ぐに立ち止まってしまった。

 不意に、先程別れたばかりの少女の事が心配になったのだ。

 いくら地元の子供とは言え、こんな夜遅くに、あんな小さな子供を一人で歩かせる訳にはいかない――。

 彼は振り返り、先程彼女が消えた暗闇の方へ早足で向かった。

 せめて彼女が無事に家に辿り着くまで見届けてやろうと考えたのだ。

 それは、ファンドのトレーダーとして成功し、自分の欲しい物は何でも手に入る様になった彼が、道端で鉛筆を売る貧しい少女にした、ちょっとした親切のつもりだった。

 しかし、彼のこの行動が、後の彼の人生を大きく変えてしまう事になる。

 勿論、彼はそんな事を知る由も無かった。

 西京が暫く歩いて行くと、直ぐに彼女の後ろ姿が見えた。

 彼は声をかけようか迷ったが、結局彼女の後ろ姿を見守りながら気付かれない様に後を付いて行く事にした。

 フリピンの街は都心と郊外の落差が激しい。国道を暫く歩くと、直ぐに明かりが無くなり、暗い田舎道になる。

 彼女は道路の両脇にコンクリートで出来た仮設住宅の様な家が並ぶエリアに入った。

 西京はこの辺りが彼女の家かと思ったが、彼女はそのエリアを無視して真っ直ぐに歩いて行く。ここはマニラの工場等で働く労働者達が住むエリアだ。日本人の西京にしてみれば仮設住宅の様に見える家も、彼らにしてみれば夢のマイホームである。しかし、彼女はどうやらここの住人では無い様だ。

 そして、彼女が更に暫く歩くと、今度は道の両脇にバラックが建ち並ぶエリアに入った。

 マニラ市のトンド地区、所謂スラム街に入ったのだ。

 道路に街頭が無くなり、辺りが更に暗くなる。

 西京は彼女がこんなバラックに住んでいるのかと可哀想に思った。トンド地区には電気が通っていない家も多く、すぐ前を歩いている彼女の後ろ姿すら見失ってしまいそうな程に道路は暗かった。しかし、この辺りも彼女の家は無い様だ。

 彼女はこの夜道に慣れているのか、テクテクと歩いて行く。後ろを付けている西京には気付く様子も無い。

 西京は彼女に気付かれない様に、しかしその姿を見失わない様に細心の注意を払って歩いた。

 辺りが暗くなったせいか、見上げると星がよく見えた。

 満天の星空の下、二人の奇妙な散歩は続いた。

 暫く歩くと、今度はバラックすら道路の両脇から消えた。

 そして、彼女は不意に道路から脇道に入り、広い土地に入って行った。

 もちろん、西京もそれに続いたが、彼は一歩そこに入ると、立ち止まってしまった。

「これは……!」

 そこに広がっていたのは、住宅街でも、スラム街でも、バラックの家ですらなかった。

 そこにあったのは、地平線まで続く広大なゴミの山だった。

 暗くて良く見えないが、ゴミの山の中に獣道の様な微かな道がある。

 彼女はその獣道を器用に歩いて行く。

「なんだ……、これは……?」

 西京は息を飲んだ。

 そこはマニラ市北部のトンド地区にあるゴミ処理場だったのだ。

 西京がこわごわ処理場に入ると、所々に粗大ゴミを集めて作った粗末な小屋が見えてきた。

 それは先程見てきたバラックよりも更に小さく、見窄らしかった。

 しかし、その小屋の周りには洗濯物が干されていたり、火を焚いた跡があったりと、確かに人間が暮らしている痕跡があった。

 なんと、こんな場所に人間が住んでいるのだ。

 西京は目の前に広がる光景が信じられず、その場に立ち尽くしてしまった。

「う……!」

 そして、彼はそこら中に漂うゴミの異臭を嗅いで咳き込んだ。

 このゴミ処理場にはマニラ中の可燃ゴミ、不燃ゴミが集められて来る。当然その中には生ゴミもあれば、産業廃棄物もある。それら様々なゴミの臭いが一体となり、辺り一面に漂っていたのだ。

 彼は気分が悪くなり、口を手で押さえた。もちろん、彼は今までこんな大量のゴミに囲まれた事は無い。その異臭は彼が耐えられるレベルでは無かった。

 彼はこれ以上進む事は出来なかった。

 西京はショックを受けた。

 アイリンを最後まで送ってやれなかった事もそうだが、それ以上に、こんな劣悪な環境の中で暮らしている人間がいる事を知らなかったのだ。こんな、衛生観念の欠片も無い環境の中で、あの小さな女の子は生きているのだ。

 彼は口を手で押さえたまま、ヨロヨロと数歩後ろに下がった。

 すると、彼の足に何か柔らかい物を踏んだ感触が伝わってきた。

「ひっ!」

 彼は驚いて飛び退いた。

 地面の方を見てみるが、暗くて自分が何を踏んだのかも見当がつかない。暗闇の中、地面を見つめた彼の心拍数がドンドン上昇した。

 気が付くと、彼は踵を返して一目散にその場から逃げ出していた。

 西京は一度も振り返る事無く、ゴミ処理場を出て、バラックの通りを抜け、仮設住宅の通りを抜け、ピンクと黄色のネオンの通りを抜け、またベイウォークに戻って来た。

 そして、ベイウォークの遊歩道の街灯に手を付いて、彼は息を整えた。

 まだ、先程の異臭が服にまとわりついている様な気がした。

 彼はその街灯にもたれて大きく息を吸った。

 その時、彼の目にマニラ湾に輝く高層ビルのネオンの輝きが映った。

「ここには光が溢れている。こんなに近くにあるのに、この光はあの子には届かないのだな……」

 彼は一人呟いて笑ってしまった。

 ベイウォークの夜景は、先程のゴミの山が嘘だったかの様に、きらびやかに輝いていた。

 持つ者と持たざる者、その縮図がこの街にあった。


   ※


 次の日、西京は七時のモーニングコールで目を覚ますと、身支度を整えて部屋を出た。

 彼がエレベーターホールの前で待っていると、丁度ホルヘ・グレリアが部屋から出てきた。

「ヘイ、ディアブロ!こんな時間からお出かけか? お前、今日のゴルフはどうするつもりだ?」

 彼は既に着替えてしまっている西京の方に寄って来る。

 彼は西京を朝食に誘おうとしていた様だ。ポロシャツに短パンというラフな格好に財布だけ手に持っていた。

 だが、西京は今日、彼とゴルフに行く約束だった事をすっかり忘れていた。一瞬ハッとした顔をした彼は、一歩グレリアに近づいて切り出した。

「ホルヘ、悪い。ゴルフはキャンセルだ。すまない」

「おいおい。お前どこに行くつもりだ? まさか、女が出来たんじゃないだろうな?」

「まあ、そんな所だ……」

 グレリアはニヤリと笑った。しかし、西京は適当に相槌を打って、ドアが開いたエレベーターに乗り込んだ。そして、まだ何か言いたそうなグレリアを置いてエレベーターのドアを閉めた。

 ホテルを出ると、彼はタクシーに乗り込み、まずドラッグストアーに寄り、一番分厚いマスクを購入した。

 そして、運転手にトンド地区のゴミ処理場に行く様に指示した。

 運転手は驚いた表情を見せたが、西京が本気だと分かるとため息をついた。

「あんたも物好きだね。パシフィックホテルからスモーキーバレーに行ってくれと言われたのは初めてだよ」

 運転手が言うには、あの辺りはマニラ中から集められたゴミが自然発火し、あちこちで煙が上がっている為、スモーキーバレーと言われているという事だった。以前は、そこにスモーキーマウンテンという大きなゴミ処理場があったが、スカベンジャーと呼ばれる人々が大量に住み着いたので、一度政府の政策により強制的に解体させられたという。

「スカベンジャー?」

「そう。ゴミを漁って生きている寄生虫どもですよ。やつらはあそこに毎日運び込まれて来る大量のゴミを漁って、その中のアルミやプラスチックをジャンク屋に売って生きているのですよ。衛生面で問題があるし、マニラのイメージが悪くなるので、時々政府が強制的に撤去させるのですがね……。しかし、やつら撤去させられても直ぐにどこからか湧いてきやがる。今じゃ、政府とスカベンジャーどものイタチごっこですよ。まあ、そうしないと生きていけないのでしょうが……。私達フィリピン人の恥ですよ。着きましたよ、旦那、あそこがスモーキーバレーです」

 タクシーはゴミ処理場の百メートル程手前で止まった。

「すみませんが、ここから先は普通の車じゃ行けません。釘や何やらが落ちていて、いつタイヤがパンクするか分からないですから」

「そうか……」

 西京は仕方無く料金を支払い、タクシーから降りて、スモーキーバレーに向かった。

 歩きながら、先程購入したマスクと、シャツのポケットに挟んであったグッチのサングラスを装着する。

 彼はなぜまたここに来たのか、自分でも分からなかった。ただ、彼には昨晩アイリンを家まで送ってやれなかった後悔の念があった。もう一度彼女に逢った所で、何をしていいかも分からなかったが、このまま二度と彼女に逢わない事は彼には我慢出来なかった。

 彼のリュックの中には一万ドルの現金が入っており、彼女に会う事が出来たら、それを渡してやりたいと彼は思っていた。

 これだけの金があれば、彼女が学校に行ける様になるかもしれない――。

 スモーキーバレーに入ると、運転手の言った通り、あちこちでゴミが自然発火した煙が上がり、まるで蜃気楼の様に揺らめいていた。

 なるほど、スモーキーバレーの名は伊達じゃないという訳だ――。

 マスクをしているお陰で何とか息は出来るが、酷い砂埃のせいで視界がかなり悪い。

 昨日は夜だったので良く見えなかったが、今は瓦礫の様に積み上げられているゴミが良く見えた。そこには、生ゴミ、不燃ゴミ、粗大ゴミ、そして産業廃棄物といったあらゆるゴミが折り重なって積もっており、壮大な地層を形成していた。ゴミ、ゴミ、ゴミ、何処を見てもゴミの山だ。そのゴミの地層に隠れる様に、所々に兎小屋程度のバラックが見える。

 西京はそのバラック一つ一つに目をやりながら歩いた。

「どこだ?彼女の家はどこにある?」

 西京は暫くスモーキーバレーを彷徨い歩いた。

 その時、一台の大型トラックが砂埃を巻き上げながら彼の横を通り過ぎ、百メートル程進んで止まった。

 そして、そのトラックは何の前置きも無しに、荷台を持ち上げ、その中身を道路にぶちまけた。

 トラックはマニラ市のゴミ収集車だった。当然、中身は今集めてきたばかりのゴミだ。

 すると、そこに、まるで餌を撒かれた家畜の様にスカベンジャーがわらわらと集まって来る。彼らは新たに運び込まれたゴミを我先にと漁る。皆、少しでも金目の物を見付けようと必死なのだ。

 スカベンジャーは何処に隠れていたのか、次々と現れ、直ぐに新しいゴミは大方漁られてしまった。

 その後も出遅れた者達が何かないかとゴミを漁る。

 西京は必死にゴミを漁るスカベンジャーの一人に声をかけた。

「あの、すみません。あの……」

 しかし、声をかけられた男は、ゴミを漁るのに必死で気が付かない。

「あの……! すみません!」

「あ……、俺か?」

「すみません! アイリン・モレノという女の子を捜しているのですが……?」

「アイリン? ああ、アイリンね。あんたも彼女に別れを言いに来たのかい? 可哀想にな、あの若さで……」

「何? あの若さで……だと ?どういう事だ?」

「アイリンなら、ここを真っ直ぐ行って、三つ目の小屋だ……」

 男はそう言って煙の上がっている方を指差した。そして、またゴミを必死で漁り始めた。最早西京と話をするつもりは無いらしい。

 西京は仕方無く、男の指差した方に向かった。

 だが、男が示した場所に近づくにつれ、人集りが出来ているのが見えた。

 何かあったのだろうか……?

 西京はそこに着くと、人集りの間から顔を出して様子を伺った。

 しかし、そこにある光景を見て、彼の目が大きく見開かれた。

 そこには、一人の子供が地面に横たわっていたのだ。

 その子の横で母親らしき女が泣き崩れていた。

 横たわった子供の上から青いビニールシートが掛けられ、表情は見えない。しかし、その子の横たわっている地面が薄らと血で濡れているのが分かる。ビニールシートの下の子供が生きていないのは一目瞭然だった。

「そんな! まさか……!」

 西京は心臓が握り潰されそうな息苦しさを感じた。息が出来ない。額から脂汗が吹き出る。彼は自分の胸を押さえて、その子の足下を見た。

 ビニールシートから足だけが出ていた。そして、その足はサンダルを履いていた。バンドに大きな黄色い花が咲いているサンダルだった。

「馬鹿な! どうして!」

 彼はそのサンダルを見て、人集りから飛び出し、彼女の前に出てきた。

 そして、彼女の横に座り込んでしまった。

 本当はビニールシートを剥がして中身を確認したかったが、他人の彼にそんな事が許される筈も無い。しかし、あのサンダルは紛れも無くアイリンの物だった。

「アイリン……!」

 西京は思わず彼女の名前を口にした。

 すると、横で泣いていた母親が彼を睨んだ。

「あんた、誰だい?」

「あ、いえ……。私は……」

 西京は何と言って良いか分からなかった。実際、彼はアイリンとは一度会っただけで、友達と呼べる存在でも無かった。ただ一度鉛筆を買っただけの客だ。それを、娘を亡くした母親に説明出来る筈も無かった。

 しかし、彼女の母は西京の顔を見ると言った。

「あんた、もしかして、昨日鉛筆を買った日本人かい?」

「え……?」

 西京は一瞬戸惑った。

 彼女にどうやって説明しようかと悩んでいた彼は、まさか彼女の方から答えを言ってくれるとは思っていなかったのだ。

「……はい。そうです」

 彼は少し照れて答えた。アイリンが自分の事を母親に話してくれていたのだと思い、彼は嬉しかったのだ。彼がアイリンにもう一度会いたいと思っていた様に、アイリンもまた自分の事を思ってくれていたのだと、西京は感じた。

 しかし、その答えを聞いた瞬間、母親は鬼の形相となり西京の胸ぐらを掴んだ。

 彼女は胸ぐらを掴んだ勢いのまま西京を押し倒した。そして、彼に馬乗りになり叫んだ。

「あんたが! あんたのせいで娘は死んだんだ!」

 西京はいきなりの事で事態が理解出来ず、放心状態になってしまった。鬼の顔をした母親は今にも彼に殴りかかりそうだった。

 それを見ていたスカベンジャー達が慌てて母親を西京から引っぱがす。それでも母親は抵抗して叫び続けた。

「あんたが娘に、勉強すれば学校に行けるって言ったんだろ! 行ける訳無いじゃないか! あたいらはこの国の厄介者なんだよ! それなのに、あの子は勉強するからノートを買ってくれって言うんだよ! だから、あたいは断ったんだ! そしたら、そしたらあの子、一人でゴミの山にノートを捜しに行って、そして、そのゴミの山が崩れて下敷きに……!」

 母親はそこまで言うと、抵抗する力がなくなった様に項垂れて泣き出した。

 彼女が泣き崩れたのを見て、彼女を押さえていた人達がやっと手を離す。

 彼女は地面をドンドンと叩きながら話し続けた。

「瓦礫から引きずり出されたあの子は、ボロボロのノートを持っていたよ。勉強なんてしても学校なんて行けやしないのに……。あんた、優しさのつもりで言ったのなら、余計なお世話なんだよ! 仮に学校に行けたとしても、その費用は誰が出すんだい? あたいらにそんなお金がある訳無いだろ……! あたいらはゴミを漁って生きていくしか無いんだよ! 中途半端に希望を持たせる様な事をしないでくれ! やるなら……、やれるものなら、私達の様な貧しい者がいない世の中にしておくれよ!」

 彼女は泣きながら地面をドンドンと叩き続けた。

 彼女が一度地面を叩く度に、西京は自分の頭が叩かれている様な気がした。彼の真っ白になった頭の中を、ドンドンと地面を叩く音が響いた。そして、その音と共に幾つかの台詞が彼の頭を過っていった。

「お前は世界を変える力を持っているんだ……」

「やれるものなら、私達の様な貧しい者がいない世の中にしておくれよ!」

 西京の目に涙が浮かんだ。

 母親はそのうち地面を叩くのを止めて、その場で泣き続けた。それでも、西京の頭にはドンドンと地面を叩く音が響き続けた。

 西京の頭に昨夜のアイリンの笑顔が浮かんだ。

 その小さな女の子は、学校に行って友達を作るという本当に小さな夢を語って笑った。

 しかし、そんな小さな夢も叶えられずに彼女は死んだ。

 いや、彼女だけではない。ここに暮らす人々は、皆そんな夢を叶えられずに一生ゴミを漁って生きるのだ。

「俺は……、俺は……どうすれば……?」

 西京の頬を涙が流れた。

 スモーキーバレーに大きな風が吹いて、揺らめいていた煙を一つ吹き消していった。しかし、すぐに別の場所で集められたゴミが自然発火して、新たな煙が上がる。

 遠くで新たにゴミ収集車がゴミを運んで来て、スカベンジャーが歓声を上げるのが聞こえた。


   ※


   二〇〇七年 一月 二十四日


 アメリカ、ニュージャージー州、ジャージーシティー。

 ホルヘ・グレリアはニューホライズンの自社ビルの社長室で、西京育也が来るのを今か今かと待っていた。

 半年前のあの日、フィリピンのマニラで、西京は突然グレリアに半年の休職を願い出た。

 驚いた彼は理由を尋ねたが、いくら聞いても西京は教えてくれなかった。

 通常のサラリーマンなら解雇を言い渡されても仕方の無い申し出だったが、グレリアが彼を首に出来る筈も無く、ただ西京のご機嫌を伺うだけだった。

 グレリアは何度か西京を説得しようと試みたが、彼の決意は固く、こちらの意見を聞く耳を持っていなかった。

「大丈夫だ、ホルヘ。半年後には俺は必ず帰って来る……! それに、俺はトレーダーとして、俺を拾ってくれたあんたに感謝しているんだ。あんたの悪い様には絶対にしない! 信じてくれ!」

 西京に面と向かって言われ、グレリアは彼の要望を受けざるを得なかった。

 そして、今日がその約束の半年という訳だ。

 グレリアが窓の外に流れるハドソン川を眺めて半年前の事を思い出していると、社長室を誰かがノックした。

「カムイン」

 グレリアが入室を促すと、秘書のロミーナが入って来る。

「ボス、西京が来ました」

「おお!そうか! 通してくれ……!」

 ロミーナが社長室から出て行くと、入れ替わりで西京が入って来た。

「ホルヘ、久しぶりだな……」

「おお、ディアブロ! 待っていたぞ……!」

 グレリアは彼に近づいて、固い握手を交わした。

 西京の顔は浅黒く日焼けして、多少痩せて見えた。半年前の西京の顔にあった幼さが消え、目が鋭く輝いていた。最早、彼にオドオドとした若造の印象は無かった。

 一体、半年の間に彼に何があったのだろうか――。

 彼は営業マンが持ち歩く様なサムソナイトの鞄を持っていた。

 グレリアは彼をソファーに座らせると、暫く最近の出来事や、ニューホライズンの運用結果等を話していた。しかし、一つ咳をすると、グレリアは前のめりになり本題を始めた。

「で、どうだった半年の休暇は? この半年、何をしていたんだ?」

「ああ。まず世界中を見て回った。俺はこの世界の事を何も知らなかったと思い知らされたよ。そして、旅をしながら、新しいファンドを作る準備をしていた」

「ファンド? 新しいファンドだって?」

「そうだ。ホルヘ、俺はあんたと新しいファンドを作りたいんだ。俺はこの半年、その準備をしていたんだ」

 西京は話ながら鞄を開けた。

 彼の話を聞いたグレリアは、喜びの余り言葉を失ってしまった。

 実は、彼は今日、西京から仕事の引退を宣言されるのではないかと、内心ハラハラしていたのだ。それが、まさか彼から仕事の話を持ちかけてくれるとは思ってもいなかったのだ。

「これが、そのファンドの計画書だ……」

 西京はグレリアにA四サイズの書類を渡した。

 グレリアは嬉しそうに、その計画書に目を通す。

 いきなり半年間の休暇を取ると言い出した時はどうなる事かと思ったが、彼はこの半年、ちゃんと仕事の事を考えてくれていたのだ――。元々トレードにしか興味の無い、面白くない男だったが、やっと真面目に仕事の事を考えてくれる様になったのだ――。そう思って、グレリアはその計画書に目を通していく……。

 しかし、ページを捲るにつれ、彼の顔は引きつり、ページを捲る手が震えた。

 そして、遂に読むのを止めてしまった。

「お前! 正気かこれは?」

 彼は持っていた書類をパンと叩いた。

「何だこのファンドは?最低利益率、毎月三パーセントだと? お前、毎月三パーセントの意味が分かっているのか!」

「ああ、分かっている。年率で三十六パーセントだ。その計画書にも書いてあるだろう?」

 西京は平然という。

「そんなファンドがあるか!」

「ない、だろうな……。だから、俺が作りたいのは、全く新しいファンドなんだ」

 西京は表情一つ変えない。

 最低利益率毎月三パーセントという事は、そのファンドに百万円預けておくと、その三パーセント、つまり毎月三万円の利息が必ず付くという事だ。もちろん、この世界にそんな高利回りを謳っているファンドは存在しない。単純計算しても一年で三十六パーセント、三年で百八パーセントだ。このファンドに資金を三年預けておけば、百万円に対し百八万円の利息がつく事になる。しかも、これが最低の利益率だと言うのだ。

「しかも、このファンド、よりによって元本保証だと! 気が狂っているのか、お前?」

「いや、俺はいたって正常だよ、ホルヘ。そして、このファンドはその元本保証って事が大事なんだ。今までも、年率三十パーセントの利息を瞬間的に出したファンドはいくつもあった。しかし、そういうファンドはどれもハイリスク・ハイリターンなファンドばかりだ。だから投資家は自分の資金を全てファンドに預けたりはしない。マイナスになった場合の保証がないからな。だが、俺のファンドは元本保証、つまり預けた元金は保証されている。だから投資家は全ての資金を俺に預ける事も出来る……!」

「だが、元本保証ってことは、万が一お前が運用に失敗した場合は、俺達が身銭を切って損失の穴埋めをしないといけなくなるんだぞ!」

「それは、もちろんそうだな」

 西京はまた平然と答える。

 彼はこのファンドに対する迷いは全く無かった。

「駄目だ、ディアブロ。いくらお前のトレード能力が優れているからといって、運用者にリスクを負わせる様なファンドを、俺は運営する事は出来ない。これは俺でなくても同じ意見だと思うぞ? お前のそのファンドは、どこに持って行っても、誰も扱ってくれない」

 グレリアは残念そうに首を振った。

 しかし、西京はそのグレリアの反応も予想していたかの様にクスリと笑った。

「そうだな。あんたは正しい。そして、それで良いんだ」

「何?」

「このファンドは俺一人で運用する。あんたには、このファンドの販売と管理だけを任せたい。もちろん、運用で失敗した時のリスクは、運用者である俺が一人で負う。あんたに迷惑はかけないさ」

「馬鹿な! そんな事、出来る訳ないだろうが!」

「いや。出来る! やってもらわなくちゃ困るんだ。こんな事を頼めるのは、あんたしかいない」

「しかし……」

「もちろん、タダとは言わない。あんたには運用資金の最低五パーセントを毎月提供する。そこから、投資家に最低三パーセントを配当として払わないといけないから、実質は毎月最低二パーセントになるがな……。あんたは、毎月ノーリスクでその金を得る。あんたが、販売と管理をしてくれれば、俺はトレードに専念出来る」

「お前、本気なのか?」

「ああ、俺は本気さ。いや、やっと本気になったと言うべきか」

「本気になった……だと?」

「ああ、半年前のあの日からな」

「お前、あの時いったい何が?」

「さあ! どうするホルヘ? これはあんたにとっても、悪い話ではないと思うが?」

 西京はソファーの前のテーブルに両肘を付いた。

 グレリアは考えた。

 確かにこれは悪い話ではない。ホルヘがこのファンドを販売すれば、その運用資金の二パーセントが毎月彼の懐に飛び込んで来る。十億円に対し、毎月二千万円がノーリスクで入って来るのだ。現在のホルヘのファンド、ニューホライズンの総資産三百億ドルを全て新しいファンドに移行するだけで、毎月六億ドルのマージンが発生する。日本円で約四百八十億円だ。

「し、しかし良いのか、ディアブロ? これではお前だけがリスクを背負い、投資家も販売元もノーリスクで利益を得る事になるぞ! 確かにお前のトレード技術はとんでもないが、万が一失敗した時は、生きてはいられないぞ?」

「大丈夫さ。俺がトレードで失敗する事は有り得ない。もし、俺に生きていられない事が起きるのであれば、それは別の理由だと思うぜ……」

「何?」

「いや、何でも無い、ホルヘ。あんたの答えを聞きたい」

「フ……」

 グレリアは鼻で笑うと、その手を西京に向けて差し出した。

「お前は本当にとんでもない奴だな……。分かった。俺はニューホライズンを解散させて、その全ての資金をお前に預ける。投資家の奴はさっきの運用利率を聞いたら、二つ返事でオーケーするだろうさ……。後は世界中を飛び回って、集められるだけ金を集めてやる!」

 西京は差し出された手を固く握った。

「有り難う、ホルヘ!」

「ところで、俺達の新しいファンドの名前は……?」

 西京はニヤリと笑う。

「ニューワールド」

「ニューワールドか……。確かにこの運用利率で、しかも元本保証だ、世界中から資金が集まるぜ。お前、本当に世界を変えるつもりなんじゃないか?」

 グレリアは冗談で言って、ハハハと笑い飛ばした。

 しかし、彼は西京と目が合うと笑うのを止めた。

 西京の顔はニヤリと笑ったまま、目だけは笑っていなかった。その能面の様な顔を見て、グレリアは寒気を感じた。

「ま、まさか、お前、本当に……?」

「有り難う、ホルヘ。恩に着るよ……。俺は早速、家に帰って仕事の準備に入る」

 西京はそう言うと立ち上がり、出口へ向かった。

「お、おい……、待てよ、ディアブロ……!家って、お前今は何処に住んでいるんだ?」

「パロス・ベルデス……。俺は海が好きでね。夕日の見える丘に、家を買ったんだ。今度、遊びに来てくれよ」

 そう言い残して、西京は出て行った。

 彼が社長室から出ると、グレリアはため息を付いた。

 ニューワールド――、毎月三パーセントで元本保証のファンド。そんな物が世の中に出回ってしまったら、一体何が起こるのだろうか……。

 暫くすると、ロミーナが部屋に入って来た。

「どうでしたか、ボス?」

「ああ、そうだな。取り敢えず役員会の準備をしてくれ。ニューホライズンの資金を全てディアブロに預ける」

「本気ですか?」

「ああ」

「分かりました」

 ロミーナは一礼して、社長室を出ようとする。

 しかし、グレリアは意を決した様に秘書を呼び止めた。

「あ、それとロミーナ、不動産屋に連絡を取ってくれ。俺は引っ越しするよ、パロス・ベルデスに!」


   ※


   八田荘司の記事からの抜粋、其の二


 西京はグレリア氏に、あの日マニラで何があったのかを遂に語らなかった。

 西京が殺害された今となっては、私には知る由もない。

 しかし、西京が休暇を取った半年の足取りは、取材で明らかになった。

 彼は、休暇を取った後、アメリカ、カルフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデス市に土地を購入し、建設会社に自分がデザインした家の建設を任せた。そして、自宅が完成するまでの間、彼は世界中を旅して回った。

 興味深いのは、彼が旅したのは世界でも貧困層が多いとされる地域ばかりだという事だ。

 彼の足取りを追うと、インドネシア、ジャカルタのスラムから始まり、南アフリカ共和国のソウェト、中国のハルビン、ブラジルのリオデジャネイロと移動しながら、各地のスラムの住民と交流を図っていた様である。

 私はこの中から、ブラジル、リオデジャネイロのスラム、ファヴェーラに行き、そこに住む男性に話を聞く事が出来た。

 彼の名はグスターボ・ガルシア。現在は近くの繊維工場に勤務する中年である。

 私が彼に西京育也の話を聞きたいと伝えると、彼は喜んで話してくれた。

 彼の話によれば、西京は突然スラムに現れ、住民に何か困った事は無いか聞いて回ったという。

「兎に角、変わった奴だった。突然、俺達の前に現れたかと思うと、俺達と友達になりたいと言うんだ。そして、暫く立ったある日、俺達に何が欲しいか、一人一人聞き込みをしたかと思うと、翌日欲しかった物を一人一人に届けてくれたんだ。だから、あいつがいなくなって、暫くして大量の札束を積んだトラックが道路に金をばらまいて行った時は、皆声を揃えて言ったものさ、あれは、育也の仕業に違いないってね……」

 彼はここではファーストネームの育也と呼ばれていた。

 ガルシアさんは日焼けした顔をタオルで拭きながら、嬉しそうに語ってくれた。

 札束が道路にバラまかれた事件については後述するが、西京が渡り歩いた地域と事件が起きた地域がピッタリと一致する事から、この事件の犯人は西京、若しくは西京の息のかかった者と見て間違いないだろう。

「ここに電気が通る事になったのさ。今までどんなに俺達が叫んでも、市の職員は知らん顔だったが……、俺達が金を払うと言った途端、手の平を返しやがって……。育也が俺達に金を送ってくれたお陰さ。あいつには本当に感謝している」

 西京の話をする時、ガルシア氏は常に笑顔だった。

 私は西京育也がアメリカではディアブロと呼ばれ、テロリストとして殺された事を伝えた。すると、先程まで温和だった彼は、顔を真っ赤にして怒りを露にした。

「テメー、何言ってやがる! 育也がテロリストな訳ねえだろーが!」

 私は彼に謝罪したが彼の怒りは収まらず、それ以上彼の取材は出来なくなってしまった。

 私はファヴェーラの他の住人にも話を伺ったが、反応は概ねガルシア氏のものと同じだった。ファヴェーラの住人は皆、西京を褒め讃え、尊敬し、中には彼を神と崇める人までいた。そして、彼がテロリストとして殺害された事実を伝えると、皆怒りを露にし、彼はテロリストではないと声を荒げた。

 これまでの取材で分かった事は、彼はテロリストとはほど遠い人間だったという事だ。グレリア氏にしてもファヴェーラの住人にしても、彼の事を良く知る人間は皆口を揃えって彼はテロリストではないと言い張った。

 では、なぜ彼は殺されなければならなかったのか?一体彼に何が起こったのか?

 その謎を解く鍵こそが、ファンド、ニューワールドだったのである。

 では、前置きが長くなったが、今回は運用資産、運用収益、口座数、その全てにおいて世界一だったモンスターファンド、ニューワールドについて書きたいと思う。

 ファンドのスタートはこの上なく順調だった。何せ毎月三パーセントの最低運用利益と元本保証である、ニューホライズンの口座は、特に何の問題もなく全てニューワールドに移され、更に元ニューホライズンの顧客から倍の資金が入金された。

 この時点でニューワールドの運用資金は六百億ドル、日本円で約五兆一千億円である。つまり、ニューワールドは運用開始以前に既にモンスターファンドだったのである。

 しかし、ここからが彼らの伝説の始まりだった。

 グレリア氏は持ち前の人脈と行動力を活かし、世界中を飛び回り資金を集めた。彼の営業力もあり、ニューワールドの運用資金は運用開始から三ヶ月で、更に倍に膨れた。

 総額千二百億ドル。日本円にして約十兆二千億円である。最早、彼らのファンドと肩を並べられるファンドは存在しなくなった。

 ニューワールドの特筆すべき点は、ヘッジファンドでありながら大口顧客だけを対象にしている訳ではないという点だ。ファンドの最低入金額は千ドル。約八万五千円だ。つまり、それ以上入金出来る者なら、基本的に誰でもニューワールドの投資家になれたのである。そういう事もあり、ファンド初心者や富裕層の一つ下の中間層の人が挙ってニューワールドの口座を作った。それに西京のトレード技術が加わり、ニューワールドは運用開始から僅か半年で運用資産、運用収益、口座数の全てにおいてナンバーワンの最強のファンドとなったのである。

 ニューワールドは契約通り、毎月最低三パーセントの利息を全投資家に支払い、時にはボーナス金利まで付けていた。

 グレリア氏によれば、彼の会社は配当金と顧客の管理を全て任され、その見返りとして運用資金の二パーセントを毎月受け取っていた。つまりニューワールドは最低でも毎月五パーセントの運用利益を上げなければ即破綻する、運用者に取って極めてハイリスクなファンドだった

 しかも、氏の話によれば、このファンドの運用をしていたのは、信じられない事に西京育也ただ一人である。なんと、彼はこの世界一の運用資金を誇るファンドのリスクをたった一人で抱えてトレードしていたのである。

 一体、このファンドは毎月どれ程の利益を出していたのだろうか?毎月の配当は滞り無く支払われていた事から、最低でも五パーセント以上の利益を出していた事は推測出来るが、これも今となっては分からない。西京は自分一人で運用のリスクを負う代わりに、ファンドの運用内容は誰にも見せなかったからだ。つまり、彼がどれほどの利益を出していて、その資金が何処に行ったのか、誰も知らないという訳だ。

 だが、私はニューワールドの利益がどこに行ったのか、容易に想像出来た。

 その答えが、先程述べた世界各地のスラム街で起こった、大量の札束がバラまかれた事件、通称アメリカドル紙幣遺棄事件である。

 その事件が初めて起こったのが、奇しくも西京がグレリア氏に半年間の休暇を申し出たフィリピンのマニラ市である。

 マニラ市の北部にトンド地区というスラム街があるが、その中にスモーキーバレーと呼ばれるゴミ処理場がある。

 目撃者の証言によれば、事件が起きたのは二〇〇七年の三月二日。西京がニューワールドの運用を始めてから約一ヶ月が経った日の事である。大きなトラックが一台、堂々とゴミ処理場の入り口から入って来て、スモーキーバレーの奥まで進み、付近の住民の見ている前でその中身をぶちまけた。

 住民はその中身を見て驚愕した。そのトラックにはゴミではなく、大量のドル紙幣が積まれていたからだ。当然、住民は驚喜し、その紙幣を奪い合った。だが、その紙幣の量が余りに多く、スモーキーバレーの住民で処理出来る範囲を越えていた為、奪い合いはすぐに収まり、住民同士の話し合いが行われた。

 その結果、なんとスモーキーバレーに住む子供達の為に、処理場の近くに学校が建てられる事になったのだ。

 この日、スモーキーバレーにバラまかれたドル紙幣は、推定で三億ドル、日本円で約二百五十五億円だ。それ程の金があれば、学校どころか、街を運営する事も可能だ。

 彼らはその資金を使って、学校とは別にゴミ処理工場を建設した。そのゴミ処理場状を運営する事により、周辺の住民に雇用まで生まれたのだ。

 もちろん、これは紙幣の遺棄事件としては過去最高額だったが、これはこの日から世界中で続く連続紙幣遺棄事件の始まりにしか過ぎなかったのである。

 この日から二週間後にジャカルタ、ソウェトでも同様の事件が起き、更にその二週間後にハルビン、リオデジャネイロと事件は続く――。この一連の事件の犯人、その目的は全て不明である。

 紙幣の遺棄という被害者がいない事件だけに、各国の警察当局も捜査していないのがその理由であるが、私は、犯人は西京で間違いないと思う。理由は分からないが、彼はニューワールドの運用で得た利益を、世界中の貧しい地域にバラまいていたのである。別の言い方をすれば、彼はその為にニューワールドを作ったと言えるだろう。まさに、ニューワールドの名の通り、彼は貧しい人間のいない新しい世界を創りたかったのではないだろうか……。

 しかし、彼の行動は貧困層の人間を豊かにする反面、豊かに生活する人間を貧しくする一面も持っていた。

 当然ながら、彼がトレードで得た資金は、誰かが市場で失った資金である。投資の市場は常にゼロサムゲームだ。食うか食われるかの世界である。その世界で勝ち続ける西京は、負け続ける誰かを生み出している事になる。しかも、彼が扱っていた金額は莫大だ。その相手は個人に留まらず、企業、そして国レベルになっていた。彼はそういう相手から、常に莫大な金を吸い取っていた事になる。そして、その額はニューワールドの資金が膨らむにつれて増えていき、遂に市場の許容範囲を超えてしまったのである。

 彼がニューワールドの運用を始めてから僅か半年後の二〇〇七年七月、市場から奪われ世界中でバラまかれたドルはその信用を無くし、下落を始めたのだ。

 前月に百二十四円を記録したドル円相場は、八月には百十四円と、二ヶ月で十円も値を下げた。

 そして、これは今なお続く世界的金融危機の始まりであった。

 私はこの記事を書きながら、震える手を押さえるのに必死である。なんと、この世界的金融危機の発端は、たった一人の日本人だったのである。

 グレリア氏によると、西京はニューワールドの運用開始から半年を過ぎた辺りから、アメリカ当局の人間に何度も接触されたという。アメリカドル相場の下落を生んでいる彼のトレードに対し、注意を呼びかけていたという事らしい。

 しかし、西京の行為はただのトレードであり、違法性は全く無い事から、当局も手出しが出来なかった様である。そして、アメリカが手をこまねいている間にも、西京は市場で勝ち続け、その金を世界中の貧困地域にバラまいてしまう。

 彼がニューワールドの運用を開始した二〇〇七年二月に百二十円台だったドル円相場は、僅か一年で百円台、二十円も値を下げた。

 ドル円相場の下落は、株価の下落を誘発した。更に、市場から資金を直接吸い上げられた金融機関は経営の悪化と株価の下落のダブルパンチを食らい、挙って赤字に転落してしまった。

 そして、西京がトレードを開始してから一年半後の二〇〇八年九月十五日、遂に全米第四位の規模を持つ巨大証券会社のリーマン・ブラザーズが倒産したのである。

 アメリカは、一人の日本人によって自国の経済が危機に晒されている事実を隠す為に、リーマン・ブラザーズの倒産の理由をサブプライムローンだと発表した。しかし、同社の最終的な負債総額は日本円にして約六十四兆円だが、このうちサブプライムローンによる負債は多く見積もっても十兆円である。確かにサブプライムローン問題はリーマン・ブラザーズに大きなダメージを与えたが、同社の負債総額を考えると、倒産の理由は別にあるのだ。それに、何より世界中に広がっていたサブプライムローン問題が、ドルが日本円に対して下落する理由にはならない。

 この時点でアメリカは西京を敵対視するようになった。

 そして、リーマン・ブラザーズ破綻から半年後の二〇〇九年三月二十日、遂にアメリカは彼が大量破壊兵器を所持しているという理由から、ロサンゼルス郡保安局の特殊部隊、SWTに出動を要請する。

 なぜ彼は殺されたのか?大量破壊兵器はどこにあったのか?

 私は取材を進めていくうちに、自分なりの結論に達した。


   ※


   二〇〇九年 三月 十六日


 アメリカ、カルフォルニア州ランチョ・パロス・ベルデス市。

 ホルヘ・グレリアは西京育也の自宅のインターホンを押した。

 西京の自宅はパロス・ベルデス半島の南端に位置する断崖絶壁にあった。周辺の土地も彼が買い占めてしまったので、この断崖絶壁にあるのは彼の自宅のみである。彼の話では、夕日を見るのが好きだという理由で、彼はこの場所に自宅を建てたのだが、周囲から隔離されたこの場所は、まるで西京が他人との接触を避けている様にも見えた。

 暫くすると、ドアが開き、ロミーナがグレリアを迎えた。

「ボス、如何なされましたか?」

 彼女は表情を変えずに聞いて来る。

 まだ平日の昼間なので、西京はトレーディングルームで仕事をしている筈だ。

 実は、グレリアは秘書のロミーナに彼がトレードしている間の身の回りの世話をする様に命じていた。それは、彼がニューワールドの運用を始めた頃からなので、もう二年になる。今では彼女はグレリアの秘書というより、西京家の家政婦の様な存在になっていた。

「ロミーナ、すまない、ディアブロはいるか?」

「育也様は、ただ今トレード中です」

「育也様? あ、ああ……、それは分かっている。急用なんだ……!」

「分かりました。暫くお待ち下さい……」

 彼女はそう言うと、奥に消えた。

 多分、西京の趣味だろう。彼女はスーツではなくスカート丈の短い黒のメイド服を着ていた。グレリアは彼女の後ろ姿を見て、気難しいロミーナがよくあんな格好をしてくれたものだと感心した。

 暫くすると彼女は戻って来た。

「育也様がお会いになるそうです。ただし、育也様はただ今トレーディング中ですので、お話はトレーディングルームでお願い致します」

「ああ、構わんよ」

 グレリアは頷いた。

 彼はロミーナの後ろについて西京の自宅を奥へと進んだ。

 その家は一人で住むには余りに広かったが、ロミーナがいるお陰で綺麗に片付いていた。

 彼女はダイニングを横切り、リビングの一番奥に備え付けてある暖炉の前に立った。

 実は、グレリアは西京のトレーディングルームを訪れた事は無い。グレリア自身が資金集めで忙しかった事もあるが、彼が西京に会うのは、西京がトレードを終えた後の夜か週末、外で食事をしながら、と決まっていたからだ。

「……で、トレーディングルームはどこだ?」

 グレリアは暖炉の前から動かないロミーナに聞いた。

「ここです」

 聞かれたロミーナは、表情を変えずに暖炉の上にあるボタンを押す。

 すると、なんと暖炉がゆっくりと右にスライドした。そして、元々暖炉があった場所に鉄の扉が現れたのである。

「おいおい、マジかよ……!」

 グレリアは暖炉の後ろから現れた扉に、驚きを隠せなかった。

「まるで、スパイ映画だな……」

 彼は感心して呟いたが、ロミーナが既に扉の方へ歩いていたので、慌てて後に続いた。グレリアの反応は、ロミーナにはどうでもいいようである。

 彼女が扉のインターホンを押すと、そこから西京の声がした。

「カムイン」

 その声を確認して、ロミーナは扉の取手を掴み、グレリアの方を伺った。

「どうぞ」

 彼女はグレリアに一言声をかけると、扉を開けた。重厚な鉄の扉が音を立てて開いた。

「どうも……」

 グレリアは、一度ロミーナの方に目をやって、トレーディングルームの中に入った。

「なんだ、これは?」

 彼はその部屋に入った瞬間に声を上げてしまった。今度は先程よりも、更に驚きを隠せない。いや、信じられないといった表情だった。

 そこにあったのは、普通のトレーディングルームではなかった。

 通常、トレーディングルームというと、モニター画面が二つか三つ付いたパソコンが二台程置かれたスペースの事だ。パソコンの画面が多いという他は、普通のオフィスの机と何ら変わりは無い。グレリアは、ディアブロの事だからモニター画面は通常よりも多いかもしれない、という程度に考えていた。しかしグレリアが足を踏み入れたトレーディングルームは、彼の想像を遥かに超えた場所だった。

 そのトレーディングルームはドーム状になっており、壁が全てモニターで敷き詰められていた。モニターの画面は黒色で統一されており、その中に白色で株価や為替、商品の銘柄の値段のチャートが表示されていた。一体、いくつのモニターが設置されているのか、一見しただけでは分からない程多い。黒い画面に白色のチャートがいくつも、三百六十度何処を見回しても見られた。その部屋が丁度ドーム状になっているので、まるでプラネタリウムにいる様な錯覚に陥る。その部屋の大きさも丁度プラネタリウム程だ。

 まるで、暗い夜空に幾つも輝いている星の様に、チャートが辺り一面に散りばめられていた。

 グレリアはそのプラネタリウムの中で言葉を失い、立ち尽くしてしまった。

 すると、彼の耳にキーボードを叩く音が聞こえてきた。

 彼が音のした方に目を向けると、そこに西京育也がいた。彼は丁度プラネタリウムの中心にいたのだ。

 そこには、本物のプラネタリウムの様に、大きな球体が置かれていた。本物のプラネタリウムとの違いは、本来ここには星空をスクリーンに映す為のプロジェクターが設置されている筈だが、ここに西京の机があるという所だ。

 西京は透明の大きなガラスの球体の中で、一心不乱にキーボードを叩いていた。そして、彼がキーボードを叩くのに反応して、彼の机の画面に注文の結果が表示されていた。

 その画面は凄まじいスピードで成立したトレード結果を伝えていた。

 バイ……、ダン。セル……ダン。セル……ダン。

 暗い部屋の中でにキーボードを叩く彼は、まるでチャートの星々の中に浮かんでいる様に見えた。彼は三百六十度、チャートの星座に囲まれた宇宙の中でトレードをしていたのだ。そして、その宇宙の中心に西京が座っている球体があった。球体は人間一人がやっと入れる様なスペースだった。その中には、トレード用の机がすっぽりと入っている。彼の座っている椅子にはレバーやボタンが付いていて、まるでロボットアニメのコクピットの様にも見えた。

 ふと、西京が右手で椅子のレバーを触った。

 すると、ガラスの球体を支えていた支柱が動き、球体を上に持ち上げた。

 どうやら椅子のレバーを操作する事によって、自分が乗っているガラスの球体をドームの好きな場所に移動出来る様だ。

「どうした、ホルヘ。何か問題でもあったのか?」

 西京はコクピットの中で、キーボードを叩きながらグレリアに聞いた。

 グレリアは暫く唖然として、西京の様子を見ていたが、彼に話しかけられた事に数秒遅れで気付き、我に返った。

「あ、ああ。すまん……。実は今日うちにアメリカ合衆国社会保障局の人間が来た」

「社会保障局?」

 西京のキーボードを叩く指が止まった。

「ああ。何でもアメリカの年金を運用する新しいプロジェクトチームにニューワールドのトレーダーも参加して欲しいそうだ。合衆国の未来の為に、是非力を貸してくれとそいつは言っていたよ」

「あいつら……、トレード勝負では勝てないものだから、今度は俺達を抱き込もうって魂胆か……」

「そう言う事だな。しかし、良いのか、ディアブロ?いつもの様に俺はファンドの販売をしているだけで、運用にはノータッチで分からないと答えたが……。あの勢いだと、やつらお前の所にも間違いなく来るぞ?」

「ああ。それで良い。あんたにはニューワールドの運用と無関係でいてもらわないと困る」

 西京はそう言って、ポンとエンターキーを叩いた。

 すると、プラネタリウム中のチャート画面が消えて、ウインドウズのシャットダウン画面があちこちに現れた。そして、暗かったドームに電気が付いた。

 グレリアがその様子をキョロキョロして見ていると、ガラスの球体の上半分が自動的に開いた。

 そして、その中から西京が出てきた。何度見てもロボットのコクピットに見える。

 西京はふうと大きく息を吐いて言った。

「今日の分の利益はもう稼いだ。飯にしようぜ、ホルヘ!」

 どうやら今日も西京のトレードは上手くいったようだ。

 この日、彼らは昼間からロサンゼルスのダウンタウンに繰り出し、酒を飲んで騒いだ。

 西京はこの日、珍しくよく笑い、よく喋った。

 そしてこれが、グレリアが西京の姿を見た最後の日となった。


   ※


   二〇〇九年 三月 十八日


 西京育也は、パロス・ベルデス市にある会員制スポーツクラブから出て、駐車場を歩いていた。

 彼はトレードをした日は、このスポーツクラブに行って、プールで一キロ程泳ぐのが日課になっていた。

 西京は別に泳ぐのが好きという訳ではなかったが、日々プールに通っては一人で黙々と泳いでいた。彼が余りにも真剣に泳いでいるので、他の会員も彼が泳いでいる間は声をかける事が出来なかった程だ。

 彼はプラダスポーツの黒のリュックを片方の肩に掛けて、夜空の下を歩いた。

 シャワーを浴びたばかりの髪が、夜風でサラサラと靡いた。

 すると、不意に車のクラクションの音がして、彼はヘッドライトに照らされた。

 いきなりヘッドライトを浴びた彼は、迷惑そうな顔をして、車の方を伺った。

 そこには黒塗りのキャデラック・ドゥビルがエンジンを付けたまま停まっていた。窓はフルスモークで、一目見ればそれが一般車でない事が分かる。この国でフルスモークのセダンに乗っているのは、マフィアか政府関係者だけだ。

 彼がその車両に近づくと、後部座席のウィンドウが開き、初老の男が声をかけてきた。

「西京育也君だね?」

「ああ、そうだが……」

 西京が返事をすると、後部座席のドアが開いた。

「乗りたまえ」

 西京は一瞬躊躇ったが、結局車に乗り込んだ。

 ここは高級スポーツクラブの駐車場だ。万が一彼が拉致される様な事になっても、駐車場に残っている彼の車と、駐車場の監視カメラの映像から、すぐに犯人は分かるだろう。相手が誰であれ、こんな所で変な真似をするとは思えなかった。

 彼が革張りの白いシートに腰を下ろすと、初老の男はニッコリと笑って握手を求めてきた。

「私の名はエリック・ジョイナー。アメリカ合衆国社会保障局の資産運用部部長だ」

「西京育也だ……」

 西京は握手には応えたが、ジョイナーという男の笑顔には応えなかった。先日のグレリアの話で、彼が何をしに来たのかは、察しがついている。

「こんな所で済まないね。どうしても君と二人きりで話がしたかったのでね」

 ジョイナーは済まないと口で言ってはいるが、謝っている素振りは微塵も見せない。

 彼は白髪をオールバックにセットして、彼の体にピッタリと合うスーツを着ていた。一点物のオーダーメイドスーツだろう。

 彼は政府関係の高官が持つ独特の風格を持っていた。

「実は、今日は君に頼み事があって来たのだ」

 ジョイナーは足を組んで切り出した。

「頼み事?」

「そうだ。聞く所によると、ニューワールドのトレードは、信じられない事に、君一人でやっているそうじゃないか。それは本当かね?」

「あんたがここに来たという事は、全て調べがついているんじゃないか?」

「フ……、そうだな。ニューワールドの市場への注文はたった一つの口座からされている。つまり、君の口座だ。しかし、それが君一人の手で行われているという確証は無い。我々も全てを知り得る訳ではないのだよ」

「あれは俺一人がやっている事だ。他の者には一切関与させていない」

「そうか。君はあのグレリアに悪魔(ディアブロ)と呼ばれているそうだが、なるほどね……、あのトレードを一人でやっているとは、驚きだよ。君のその力を見込んで頼みがある。君に我らがアメリカ合衆国の年金の運用をやって頂きたい。知っての通り、我が国は大きな財政赤字を抱えている。まあ、今のご時世、何処の国も似た様なものだが……。このままの状態が続けば、近い将来、我が国は財政危機が起こり、今まで我が国を支えてくれた国民に年金を支給する事がままならなくなる。そこでだ……、君に我が国の年金の運用をやってもらいたい。これは、非常に名誉な事だよ。そう思わんかね……? 君一人の手に、アメリカ合衆国の未来を委ねようと言うのだから。君は、アメリカ合衆国を救うヒーローとなる資格を得たのだ……!」

 ジョイナーはゆっくりと低い声で話した。

 西京は黙って彼の話を聞いていたが、ヒーローという言葉を聞いて鼻で笑った。

「フン。如何にもアメリカ人が喜びそうな発想だな。残念だが、ミスタージョイナー、俺はアメリカ一国のヒーローになるつもりは無い」

 西京はきっぱりと言った。

 その答えを聞いて、今度はジョイナーが鼻で笑った。

「フン。アメリカ一国のヒーローだと?よく考えるんだ、この国でヒーローになるという事は、即ちそれは世界のヒーローになるという事だ……!」

「それはアメリカ人の考え方だ。俺は違う」

 西京は首を振る。

 ジョイナーは大きなため息を付いた。

「では、仕方が無い。頼み事はここまでとしよう」

 ジョイナーは残念そうな顔をしたので、西京は一瞬ほっとした。これで、彼の話は終わりだと思ったのだ。

 しかし、ジョイナーは傍らに置いてあった封筒から写真を数枚取り出し、それを西京に渡して続けた。

「これからの話は忠告だと思って聞いてくれたまえ」

 西京は渡された写真に目を通した。

 一枚目は中国のハルビンを上空から写した物だ。それが、二枚目、三枚目となるに従いズームアップされていく。三枚目の写真から、一台のトラックが写っていた。そのトラックはスラム街の広場でアメリカドルをバラまいていた。

「どうだい。よく写っているだろ?それらの写真は全て合衆国の偵察衛星から撮影された物だ」

 西京は写真をまじまじと見た。

 そこには周辺住民がトラックに走り寄って来る様子が写っているが、その写真では住民一人一人の表情まで確認出来た。アメリカの偵察衛星の精度が高いという話は聞いた事はあったが、その性能は西京の想像以上であった。

「それは一年程前に中国を偵察中の我々の衛星ラクロスが撮影した物だ。我々の調べた所では、そのトラックは現地で借りられた物で、中国人の運転手二人も自分達が何を運んでいるのか知らなかった……。彼らはただ金を貰って広場まで荷物を運んだだけだ。実は、こういう事件は中国以外でも起きていてね。我々が確認出来ただけでも世界中で百件以上の同一の事件が発生している。世間ではアメリカドル紙幣遺棄事件、なんて呼ばれているらしいがね」

 ここでジョイナーは一つ咳をした。

「その資金の出所はニューワールド、つまり君だ。君はトレードで得た資金を世界中の貧しい地域の住民に分け与えている。実に素晴らしい事じゃないか。先程君はアメリカのヒーローにはならないと言ったが、その辺の地域では既に君はヒーローになっている」

「……で、何が言いたい?」

「君にその行為を止めてもらいたい。君が世界中でバラまいている紙幣は、我がアメリカ合衆国のドルだ。それが市場から奪われ、世界中にバラまかれている事により、ドルの下落が生じている。君だって、金融危機のニュースは見ているだろ? 君のヒーロー気取りの行為のお陰で、世界に混乱が起きているのだよ」

 ジョイナーが前のめりになる。

 西京は見ていた写真を革のシートに放り投げた。

「混乱ね……。悪いが、俺は自分がやっている事を止めるつもりは無い。例え、俺の行為が原因で混乱が起きていたとしても……。俺はこの世界の構造を変えたいと思っている。むしろ、今起きている混乱は、世界が変わる為の、生みの苦しみだと考えている」

「世界の、構造を変えるだと?」

「そうだ。今の世界の構造は間違っている。資産は俺やあんたの様な一握りの人間に集中させるべきではない……。資産は世界中を循環すべきだ」

「馬鹿な! そんな事をしたら、今の資本主義社会が崩壊してしまうぞ! 大体、お前の言っている事は理想論に過ぎない。人間は古代から貧富の差の存在を認めてきたのだ! 今更それが変わる事は無い!」

「やってみなければ分からないさ」

 ジョイナーは狭い車内で西京を睨みつけたが、西京は全く動じなかった。

 ジョイナーはまた、ため息を付いた。

「では仕方無い。私の忠告は終わりだ。そして、ここからは、警告だ。君に警告しないといけない事が二つある。一つ目は、君がバラまいた紙幣についてだが……。君は自分の財産を他人に分け与えているが、我が合衆国は君のその行為に対する税金を頂いていない」

「税金?」

「そうだ。この国には贈与税という税金があってね……。自分の財産を他人に分け与えた場合、贈与税の支払い義務が発生するのだよ。税率は与えた金額によって変動するが、君程の金額になると、間違いなく最高税率が適応されるな。君が今までバラまいた金額はおよそ六百億ドル。その半額を税金として支払ってもらう」

「フフフフ……」

「何が可笑しい?」

「いや、済まない。予想外の事を言われたものだから。だが、ミスタージョイナー、その件は問題ないよ。俺は誰かに資産を分け与えている訳ではない」

「何?」

「俺はゴミを捨てているだけだよ」

「ゴミ? ゴミだと!」

「そうだ。俺は要らない物を捨てているだけだ。アメリカでは要らない物を捨てるのに税金がかかるのかい? あんたもこの事件が世間で何て言われているのか知っているだろう? アメリカドル紙幣遺棄事件……。世間も俺の行為が遺棄だと認識しているみたいだぜ」

 西京はそう言って車から出ようとした。もう、ここにいる必要はない。

 しかし、ジョイナーは出て行こうとする西京の肩を掴んだ。

「待て、西京。税金の話はそれで構わん。しかし、私はもう一つ君に話しておかなければならない事がある。これを見ろ……」

 ジョイナーは傍らに置いてあった封筒から、今度はA四サイズの紙の束を取り出し、西京に渡した。

 西京は面倒臭そうにそれを受け取り、パラパラと捲った。

「これは、俺の家の見取り図のようだが?」

「そうだ。それは、ロサンゼルス郡保安局の特殊部隊、通称SWTの作戦会議で配られた物だ。そこには君の家への侵入経路が、鮮明に書かれている。お前の家への突入作戦の打ち合わせ用だ。実は、先日ロサンゼルス郡保安局に匿名の電話があってね……。君が家の中で、何やら怪しい実験を行っていると。もしかしたら、大量破壊兵器の製造工場ではないか……とね。我々の方でも一応調べてみたが、どうも君の家には、実験室とも兵器製造工場とも見える部屋があるね」

「あれは、ただのトレーディングルームだ」

「それを判断するのは我々だよ」

「チッ!あんたらの判断で、俺のトレーディングルームが大量破壊兵器だと言われ、俺は逮捕されるのかい? 一体誰がそんな電話をしたっていうんだ?」

「ハハッ……! 情報提供者の名前は、プライバシーと本人の安全性を確保する為に公開する訳にはいかないな」

 ジョイナーはニヤリと笑った。

 今度は西京がため息を付いた。もちろん、情報提供者などいない。全て彼らのでっち上げである。しかし、西京がどんなに反論しようとも、情報提供者の安全確保という理由を盾にシラを切り通すつもりなのだ。

 この匿名の情報提供者という手段はアメリカの常套手段である。

 例えば、二〇〇三年三月にイラクが大量破壊兵器を所有しているとの理由でアメリカ軍の攻撃により開始されたイラク戦争だが、イラクは当初大量破壊兵器の破棄に協力的であったし、新たな兵器製造の証拠も発見されなかったが、アメリカは確固たる証拠を得たとしてイラク攻撃に踏み切った。この時も情報提供元は、提供者の安全確保の為、公表されなかった。この戦争について、今でもその正当性を疑問視する専門家が多い。

 西京は今度こそドアを開けて車を降りた。これ以上、彼らの茶番に付き合っていられない――。彼はそのままスタスタと歩き出した。

 ジョイナーは慌てて車の窓から顔を出した。

「お、おい! いいのか西京! 我々は本気だぞ! 悪い事は言わない……。我々に力を貸すのだ!」

 自分の車の方に歩いていた西京だったが、彼の声を聞いてピタリと足を止めた。そして、彼はジョイナーに背を向けたまま言った。

「実は、俺の方にも匿名の電話があってね。そいつは、アメリカは嘘つきのクソッタレだと言っていたぜ!」

「何! 誰がそんな事を?」

「ハハッ……! 情報提供者の名前は、プライバシーと本人の安全性を保護する為に公開する訳にはいかないな」

 西京はニヤリと笑った。

 そして、彼は右手を少し上げてさよならの合図をすると、そのまま自分の車の方へ歩いて行ってしまった。

 一人残されたジョイナーは、惚けた顔をして、暫くキャデラックから顔を出していた。まさかアメリカ政府の高官である自分の話を途中で切り上げ、しかも小馬鹿にされるとは予想外の出来事だったのである。

 ジョイナーの西京を勧誘する作戦は完全に失敗だった。彼は歯軋りをして、シートにもたれ掛かった。

「馬鹿目が!」

 すると、その時だった。

 ジョイナーがスーツの内ポケットに入れてあった携帯が震えた。彼は自分の携帯に表示された番号を見て、ハッとして電話に出た。

「はい……、ジョイナーです。はい、はい、すみません……。彼の意志は予想以上に固く……。はい……、はい……」

 ジョイナーの額に汗が浮かんだ。

 先程まで風格を漂わせていた男は、今は小さくなって両手で携帯電を握っていた。彼は電話の相手の一言一言に脅え、頷いていた。ジョイナーの電話は西京が車を降りた直後に鳴った。つまり、先程の西京との交渉は全て監視されていたのである。

「はい。警告は致しました。これで、彼がトレードを止めない場合は……。はい……、必ず……!」

 相手は電話を切った。ツーツーという音がジョイナーの頭に響く。

 西京が大人しくトレードを止めれば、それで良し――。

 もし、彼がこれでもトレードを止めない場合、彼は我が国の恐ろしさを知る事になる。

 勝負のボールはルーレットに投げ入れられた。

 最早、誰にも止める事は出来ないのだ……。


   ※


   二〇〇九年 三月 二十日


 西京はあの駐車場での警告の翌日も、自宅で普通にトレードをした。いや、それどころか、彼はあれからニューワールドの取引のレバレッジを更に上げた。

 市場から彼が吸い上げる資金は、昨日一日で百億ドルを超え、更なるドル安を生む結果となった。しかも、彼はニューヨークが終わると東京、東京が終わるとロンドンと取引所をハシゴして休み無くトレードを行った。彼は自宅のプラネタリウムの中で、何かに取り憑かれた様にトレードしていた。

「もうすぐだ……。もうすぐ世界は変わるんだ……」

 彼はプラネタリウムの中、無数のチャートの星々を見渡し呟いた。

 そのうち、西京は自分が本当に宇宙にいる様な錯覚に陥った。

 彼は宇宙空間に浮かんで、遠くにある地球を見下ろしていた。

「宇宙はこんなに広い。人間はもっと自由に生活出来る筈だ。だが、金という概念が人間から自由を奪っている。今の人間は、金に縛られ、支配されている。そんな世界、俺は嫌だね……」

 彼は呟いた。

 そして、彼は自分の机のモニターに映った地球に手を伸ばした。

 すると、その時、不意にモニター画面が変わり、地球の代わりにWARNINGの赤い文字が浮かんだ。

 西京は我に返ってキーボードを操作する。

 彼がエンターキーを押すと、モニターに三台の車が道路を走っている様子が映し出される。車種は三台ともハマーのワゴン、そして側部にSWTのペイントが施してある。

「来たか!」

 西京はトレードを中断し、ガラスの球体のコクピットを出た。

 西京の自宅は岬の先端の断崖絶壁に立っている。そして、そこに向かう道路は一つである。

 彼は岬の入り口付近に監視カメラを仕掛けているのだ。

 ハマーの側面にプリントされたSWTの文字はロサンゼルス郡保安局の特殊部隊の物だ。彼らはSWATと自分達を区別させる為に、Aを除いたSWTと自分達を名乗っている。ご丁寧に組織名を車体にペイントしてくれるアメリカの風習が有り難い。お陰で彼らの到着を事前に察知する事が出来るのだから。

「ロミーナ……! ロミーナ!」

 彼はトレーディングルームを出ると、家政婦の名を叫び彼女を探した。

 彼女はキッチンで本日のランチを作っていた。今日も彼女は短いスカートのメイド服姿である。

「ロミーナ……」

 西京は彼女の姿を見つけると、ツカツカと彼女に寄って行く。

「あら、育也様?まだランチは出来ていませんが……。本日は育也様のお好きなスープカレーでございます」

「すまない、ロミーナ。今日で君のここでの仕事は終わりだ。今すぐホルヘの元へ返ってくれ」

 彼はそう言うと、彼女の腕を掴み、彼女を玄関へと引っ張って行く。

「あ……、でも、まだスープカレーが出来ていません」

 彼女は作りかけのランチの事を心配したが、西京は強引に彼女を玄関から出した。

「今まで有り難う、ロミーナ」

 それだけ言うと、彼はドアを閉めた。

「育也様!」

 彼女はその瞬間になって、やっと自分が追い出されようとしている事に気が付いた。しかし、何も出来ないまま、彼女は家から追い出されてしまった。

 彼女は暫くどうしたら良いか分からず、その場に立ち尽くしていた。しかし、やがて諦めて西京の家の敷地を出て、トボトボと道路を歩き始めた。

 彼女はメイド服姿のままだったが、西京の家に着替えを取りに行く気にはなれなかった。一体何がいけなかったのか――。彼女は考えたが答えは出なかった。

 彼女が悩みながら坂を下りていると、三台のハマーが彼女とすれ違った。

 彼女は呆然とその三台のハマーを見送った。一目で分かる、特殊部隊の車両だ。

 その車両を見て、彼女の頭に先程の西京の様子が蘇った。彼は珍しく慌てていた。

 次の瞬間、ロミーナの目は見開かれた。

 この坂の上には、西京の自宅しかない。

 彼女の頭の中で、先程の西京の台詞がリピートされた。

「今すぐホルヘの元へ帰ってくれ」

 彼女はハッとしてその場に立ち止まり、頷いた。

「分かりました、育也様!」

 彼女はメイド服姿のまま、猛ダッシュでグレリアの家を目指した。

 西京の身に何かが起ころうとしているのだ。


   ※


 マイク・サンダーソン隊長率いるロサンゼルス郡保安局特殊部隊は西京の自宅の敷地の前に到着した。

 通常、特殊部隊の突入作戦では、ターゲットの逃亡を防ぐ為、車両を家の三方向に配置する。しかし、西京の自宅は岬の先端の崖に建てられており、事実上、正面の門を押さえてしまえば脱出は不可能だったので、全ての車両が正門に停められた。

 サンダーソンを含む隊の全員は車両から降りて、車の陰に隠れた。全員黒のボディーアーマーにヘッドセットを装着している。そして、全員の手にアサルトライフルが抱えられていた。

 今回の作戦に参加する隊員は七名。全員が実戦経験者である。

 特にマイク・サンダーソンは、湾岸戦争時にイラクの首都バクダッドを、多国籍軍の空爆の中突き進み、敵基地を奇襲した男で、SWT隊員達から砂嵐(サンドストーム)と呼ばれ恐れられていた。

 サンダーソンは全員が配置に就いた事を確認して、ヘッドセットのインカムに告げた。

「こちらサンダーソン。目的地に到着しました。これより突入を開始します」

「分かった。出来るだけ生かして西京を確保しろ! だが、抵抗する様であれば殺しても構わん。相手は悪魔(ディアブロ)と呼ばれるテロリストだ」

「イエッサー! 砂嵐が悪魔を鎮めてみせますよ」

 彼は本作戦の指揮官に返事をした。

 通信相手は社会保障局のエリック・ジョイナーである。

 本来であれば、SWTはロサンゼルス郡保安局の管轄なので、今回の作戦は保安局が指揮を執るべきである。しかし、今回はアメリカ経済の問題という点と、ジョイナーが政府関係者で唯一の西京との接触者という点を考慮して、エリック・ジョイナーが本作戦の指揮官に任命されたのだ。

 しかし、裏を返せば、今回の作戦が失敗に終わった場合、その責任は全て社会保障局のジョイナーが負うという事になる。つまり、ジョイナーより上位の政府高官達が、西京の件についての責任を負う事を嫌ったが為に、彼に白羽の矢が立ったという訳である。先日の警告後にトレードを行った事により、西京育也は追いつめられていたが、同様にそのトレードによりエリック・ジョイナーも追いつめられていたのだ。

 ジョイナーが今回の作戦で受けた命令は一つだけだ。

「西京のトレードを本日中に終わらせる様に……」

 なぜ、本日中なのかジョイナーには分からなかったが、彼が本日トレードを完遂してしまうと困る人間がいるのだろう……。

 ジョイナーはモニタールームに映し出された西京の自宅をじっと見つめた。

 失敗は許されない――。

 サンダーソン率いるSWTのチームは西京の自宅の門を開けて彼の家に近づいて行った。


 ピンポーン。


 サンダーソンは玄関に着くなりインターホンを鳴らした。

「西京! ロサンゼルス郡保安局だ! ドアを開けろ!」

 彼は西京の家に向かって叫ぶと、続けざまにチャイムを鳴らした。その間に、他の隊員達が家の周囲を囲む。

 返事は無い。

 しかし、偵察衛星ラクロスからの映像により、西京が昨夜から家にいる事は確認済みである。

「西京! 保安局だ! 家から出て来るんだ!」

 サンダーソンはもう一度叫んだ。しかし、やはり返事は無い。

 彼は周囲を確認して、ドアノブを回した。

 鍵がかかっている。

 しかし、SWTの砂嵐にかかれば、これしきのドアは問題にならない。何の変哲も無い木製のドアだ。これならプラスチック爆薬を使うまでも無い。

 彼は抱えていたアサルトライフルの銃底でドアノブをぶっ叩いた。

 ガツンとドアに衝撃が走り、ドアノブが斜めに傾いた。

 玄関のドアは、ドアノブと鍵が一体となっているタイプの物が多い。そういうタイプのドアは、ドアノブが外れれば鍵も外れてしまう。

 サンダーソンは一歩下がると、そのドアに前蹴りを食らわせた。

 すると、大きな音を立てて家のドアが開いた。

 彼は咄嗟に入り口付近に目をやる。

 入り口周辺に人の気配は無い。

「こちら、サンダーソン。潜入口を確保。これより潜入します!」

 彼はヘッドセットに告げると、アサルトライフルを構え、西京宅に侵入した。

 彼のすぐ後ろを部下二名が付いて来る。

 彼らは出来る限り壁に背を付け、死角を作らない様に家の中を進む。

 暫くすると、サンダーソンの無線に部下の声が聞こえた。

「こちらスミス。勝手口から潜入完了。ターゲットの姿無し……」

「こちらユング。ベッドルームに潜入完了。ターゲットの姿無し……」

「オーケー。予定通り、ターゲットを捜索しつつ奥へ向かうぞ!」

「イエッサー!」

 正面入り口から三人、勝手口から二人、そしてベッドルームの窓から二人、計七名のSWTのチームは難なく西京宅に侵入した。

 部隊を三つに分けて侵入したのは、西京の退路を断つ為である。

 サンダーソンが玄関から奥に進んで行くと、キッチンからスミス、そしてその後ベッドルームからユングが現れた。

 まだ西京の姿は見つからない。

 やはり、彼は家の一番奥にあるトレーディングルームにいる様だ。

 チーム全員が合流し、彼らは西京宅の一番奥の部屋に入った。

 そして、彼らは家の奥にある暖炉の部屋に着いた。

 ここにも西京の姿は無い。

「行き止まり?」

「早合点するな、ユング! この家の見取り図を思い出せ! この部屋の奥にもう一つ部屋がある筈だ……!」

 サンダーソンは部下に告げると、顎でユングに先に行く様に命じた。

 ユングは暖炉の方に進み、他の隊員がその部屋を見回す。

「どこかに、奥の部屋への入り口がある筈だ! 探せ!」

 隊長の号令より、SWTの精鋭達が一斉に部屋を漁り始めた。隊員達は皆ソファーを引っくり返し、絨毯を剥ぎ取り、掛けてあった絵画を叩き落とした。

 しかし、それらしい入り口は見つからない。

 暫く全員で部屋中を探したが、入り口は見つからなかった。このままでは、ターゲットを発見出来なかった、という最悪の結果で任務が終了してしまう。サンダーソンは歯軋りをした。そんな恥ずかしい結果で任務を終わらせられるか……!

「隊長! これは……?」

 その時、暖炉を調べていたユングがサンダーソンに声をかけた。

 サンダーソンはすぐにユングの元へと行き、彼の指差す床を見た。

 暖炉の下から、部屋を横切る様に凹みがあるのだ。

 サンダーソンには、それがレールの様に見えた。

「なるほど。そういう事か……」

 彼はニヤリと笑うと、暖炉に向かう。

 そして、すぐに暖炉の上にある不自然なボタンを見つけた。

「これは……?」

 彼のすぐ後ろを付いて来たユングは首を傾げた。

「押してみれば分かる…」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 ユングは頼んだが、サンダーソンはお構い無しにボタンを押した。

 ユングは反射的に顔を伏せた。ユングだけではない、サンダーソン以外の全員が顔を顰めた。スミスは反射的にその場に伏せてしまった。明らかに不自然なボタンは、彼らの職業上、何かのトラップに見えたのだ。

 しかし、隊員達の予感は外れ、暖炉は爆発せず、横にスライドした。

 予想通りだったのは、サンダーソンだけである。

 そして、元々暖炉があった所には鉄の扉が現れた。

「よし!」

 サンダーソンはビビっている部下達を放って、ドアに寄って行き、ドアノブを掴んだ。

 すると、意外にもドアに鍵は掛かっていなかった。重量感のあるドアを少しだけ開く。

 彼は開けたドアの隙間から中を伺う。しかし、中は暗くて良く見えなかった。

 彼はその場にしゃがんで、手を振って部下達にこっちに来る様に指示した。

 隊員七名全員が少し開いた鉄のドアの前に集まる。

「いいな? スリー……、ツー……、ワン……、ゴー!」

 サンダーソンのかけ声で、全員が西京のトレーディングルームに雪崩れ込む。

「フリーズ!」

「フリーズ!」

 各人動くなと叫びながら西京の姿を探す。

 しかし、中に入った隊員達は、トレーディングルームの様子に圧倒され、皆足を止めてしまった。

「なんだ、これは……?」

 彼らが目にしたのは、プラネタリウム。夜空に浮かぶチャートの星々だった。

「なんて……こった」

 流石のサンダーソンも声を出してその場に立ち尽くした。

 これが、西京育也のトレーディングルームなのだ。

「フリーズ!」

 その時、スミスの声がプラネタリウムに響き、サンダーソンは我に返った。

 彼はプラネタリウムの中央にある球体に、人影を見つけたのだ。

 他の隊員達は遅れてその球体に銃を向けた。

 西京育也は、その透明なガラスの球体の中にいた。

 彼は部屋の中に侵入してきた特殊部隊を気にする様子も無く、トレードを続けていた。

 隊員達は彼の入っている球体の正体が分からないので、抜き足差し足で球体に近づいて行く。

「西京育也、だな……?」

 サンダーソンは彼に標準を合わせながら聞いた。

 西京はサンダーソンの方を見もしない。

 だが、西京の顔は作戦会議の時に何回も確認した。彼が西京育也で間違いない。

「こちらサンダーソン、西京育也を発見しました。これより彼を捕獲します」

 サンダーソンはインカムに告げた。

「彼は何をしている?」

「トレードをしている模様です」

「すぐにそれを辞めさせろ!」

「イエッサー……」

 インカムにジョイナーの命令が返ってきた。

 しかし、この命令はすぐに達成出来るであろう。

 何せこのプラネタリウムの中、彼は特殊部隊の精鋭七名に囲まれている。最早彼は袋の鼠である。

「西京、今すぐトレードを辞めて、そこから出て来るんだ」

 サンダーソンが一歩彼に近づき話した。

 しかし、西京はアサルトライフルを持った男達に囲まれているにも関わらず、黙々とトレードを続けている。

 彼の前のモニターに次々と注文受付の画面が現れては消えて行く。

「ヘイ! 西京! 聞こえているのか? 今すぐトレードを辞めて出て来るんだ!」

 サンダーソンは更に西京に近づき、アサルトライフルを見せつける様に構えた。

 しかし、西京はトレードを辞める様子を見せない。

「チッ!」

 サンダーソンは舌打ちをすると、右腕を上げて合図した。

 それを見た隊員達は、一斉に回り込み西京を包囲した。もちろん、アサルトライフルの標準は西京に向けたままだ。

 隊員が西京を取り囲んだのを確認して、サンダーソンはスミスに顎で命令する。

 スミスは小さく頷き、西京が入っている球体に近づいた。

 現在球体はドーム状の部屋の丁度中央、地面から一メートル程の高さにあった。

 その球体は鉄の支柱に真っ直ぐ支えられている。

 スミスは鉄の支柱に足を掛け、一段上がると球体に手を掛けた。そして彼はその球体に取手等が無いか調べた。

 しかし、その球体には取手になりそうな物も、スイッチも無かった。

 それは、支柱に支えられている所以外は完全な球体であった。

 スミスはここからこの球体をどうやって開けたら良いか分からなかった。

 その中では、西京がスミスの姿を気にせずトレードしている。

 スミスは仕方無く手の平でバンバンと球体のガラス面を叩いた。

 流石に西京もスミスの方をチラリと見たが、それでも彼はトレードを続けている。

「ヘイ! 西京! ここを開けろ!」

 スミスは叫びながらバンバンと球体を叩いた。

 すると、西京がスミスの方を見て、ニッコリ笑った。

「そこ、危ないよ」

 次の瞬間、西京の乗っている球体がいきなり上に上がり、更に横に移動した。

 球体に上半身を預けていたスミスは、振り落とされ地面に尻餅を衝いた。

「ぐわっ!」

 スミスが落とされたのを見て、隊員の一人が慌てて引き金を引いた。

「ぎゃっ!」

 その瞬間、乾いた銃声と同時に別の隊員の悲鳴が上がった。

 その悲鳴を聞いて、別の隊員が引き金を球体に向かって引く。

 続く銃声。

「うわっ!」

 しかし、またもや別の隊員が悲鳴を上げる。ユングだ。

 隊員達は一体何が起こっているのか分からず、一瞬にしてパニックが広がる。

 残る隊員は全員球体に向かって引き金を引こうとした。

「待て! 撃つな!」

 しかし、それを寸での所でサンダーソンが叫んで止めた。

「皆、パニックになるな! あの球体のガラスは防弾ガラスだ! 球体を撃っても弾が跳ねてこっちが危ない! 同士討ちになるぞ!」

 彼は瞬間的に何が起こったのか悟り、それを隊員達に伝えた。

 そして、彼は皆が落ち着いたのを見て、ユングの方に走って行く。

「大丈夫か?」

「は、はい。大丈夫です……」

 隊員の一人が撃った弾は、球体の防弾ガラスに弾かれてユングの防弾チョッキに着弾したのだ。

 弾は防弾チョッキの肩の部分に食い込んでいた。防弾チョッキが無ければ下手すれば致命傷の位置である。しかし、これなら打撲程度の怪我で済むだろう。

「そっちは?」

 サンダーソンが撃たれたもう一人の方を見る。

「大丈夫です……!」

 撃たれた隊員は自力で立ち上がっていた。こっちも大した怪我では無さそうだ。

 しかし、もし先程全員で引き金を引いていたら、どうなっていたか分からない。

 彼らは危うく同士討ちをする所だったのである。

 すると、西京が乗った球体が元の位置に戻って来た。

 相変わらず、彼はトレードをしている。

 どうやら、先程彼が動いたのは、プラネタリウム側面のチャートを近くで確認する為だった様だ。

 この時点でやっとサンダーソンは、この装置がトレードの為にあると気付いた。

 報告されていた大量破壊兵器はこの部屋のどこにも見当たらなかった。

「どうした、サンダーソン?」

 銃声を聞いたジョイナーがサンダーソンに聞いてくる。

「いえ、特に問題はありません……。西京は防弾ガラスに囲まれた球体の中でトレードしています。銃を使うと、弾が跳ねて危険です」

「球体? フン、銃が使えなくてもプラスチック爆薬があるだろう? さっさと片付けてしまうのだ!」

「プラスチック爆薬ですか? お言葉ですが、彼は丸腰です。それに彼は我々に包囲されています。最早、彼は袋の鼠です」

「君の意見は聞いていない。早く任務を遂行したまえ!」

 ジョイナーはそれだけ言うと無線を切った。

 サンダーソンは首を振った。

 SWTの隊員は全員、プラスチック爆薬を所持している。それは主に鍵がかかったドア等を破壊する為にある。ジョイナーはそれを西京の球体に使用しろと命令してきたのだ。

 だが、プラスチック爆薬はドアを吹き飛ばす程の威力を持っている。それを小さな球体に使用すれば、中の西京の命は無い。

 サンダーソンは迷った。

 上官の命令は絶対である。しかし、彼が見る限り、西京は丸腰で、我々に危害を与えるつもりも無い様だ。それに、彼は既に隊員達に包囲されていて、逃げる事が出来ない。いくら相手がディアブロと呼ばれる男だとしても、食事も取らずにずっとトレードが出来るものではない。いつまで彼があの中でトレード出来るか分からないが、いつかあの中から出て来ざるを得ない。彼らはその時西京を捕らえれば良いだけの話である。

 当初彼らが受けた命令は、出来るだけ生かして彼を確保する事である。

「フン!」

 サンダーソンは鼻で笑い、ヘッドセットのインカムのスイッチを切った。やはり、丸腰の民間人を爆死させる事は出来ない。

 彼はその場に座り込むと隊員に命令した。

「よーし! 西京があの球体から出てきた所を捕らえる! それまで全員その場で待機だ!」

「イエッサー!」

 隊員達の声がプラネタリウムに響いた。


   ※


 グレリアは自宅の庭で愛車のレクサスLXを洗車していた。

 カルフォルニアの春の日射しは、彼の愛車をピカピカと輝かせてくれた。

 彼は思わず歌ってしまっていた。

 しかし、ふと彼の視界に見た事のあるメイド服の女性が映って、彼は歌うのを止めた。

「ロミーナ!」

 彼はその女性がロミーナだと分かると、水を止めて彼女の元へ駆け寄った。

 彼女はゼーゼーと息を切らせていた。

 ロミーナはグレリアの姿を見つけると、両手を膝につけて中腰になった。

「ボ……ボス……、大変です……! い……、育也様が……!」

「ディアブロがどうした?」

「エ……S……WTが……、育也様の……、自宅の方へ……!」

「SWTだって?」

 グレリアの眉間に皺がよった。

「保安局の特殊部隊が一体何の……?」

「わ……、分かりません……。でも……、嫌な予感が……します」

 ロミーナは息を整えながら何とかグレリアに伝えた。

「よし、分かった!」

 グレリアはそう言うと、今洗車したばかりのレクサスLXに乗り込み、助手席のドアを開けた。

「乗りな、ロミーナ!ディアブロの家に向かうぞ!」

 ロミーナはコクリと頷くとレクサスに乗り込む。

 二人を乗せたレクサスは、タイヤの音を軋ませながらグレリアの自宅を出て行った。


   ※


 エリック・ジョイナーはロサンゼルス市郊外にあるロサンゼルス郡保安局の事務所にいた。

 彼は貸し切りになった局長室の中で、額に汗を浮かばせていた。

 本日、本来この部屋の主である保安局局長は、会議で留守である。だがジョイナーには分かっていた。会議なんてここを出る言い訳で、どこかでこの作戦の様子を伺っている筈だ。

 西京宅に侵入した特殊部隊からは、あれから全く連絡がない。彼らがプラスチック爆薬を使って西京を抹殺したのであれば、すぐに連絡がある筈だ。

 特殊車両に設置されたカメラからの映像を見ても、爆発物が使われた痕跡は見当たらない。

 カメラの映像は代わり映えのないものだった。

 彼は何度か通信を試みたが、現場との通信は途絶えてしまった。恐らくサンダーソン隊長が通信を切ってしまったのだろう。

 このサンダーソンの行動は、ジョイナーには全く予想外だった。サンド・ストームと呼ばれる隊長は、もっと冷血な人間だと思っていたが、プラスチック爆薬の使用を拒否するとは……。

 彼は隊長に本日中に彼を確保しろと伝えなかった事を後悔した。ジョイナーは特殊部隊が突入すれば、一時間もあれば作戦は終了すると思い込んでいたのだ。

 恐らく隊長は人的被害を最小に抑える為に、西京が力尽きるまで見守り、出てきた所を捕らえるつもりだろう。

 確かにこの作戦なら、誰も死なずに西京を確保出来る。

 だが、西京が市場から奪っている資金は一日に百億ドルを超えている。サンダーソンは分かっていないのだ。百億ドルという金は今現場にいる人間全員の命より重いという事を……。西京がトレードをする事により我がアメリカ合衆国が受けている被害は、現場で特殊部隊の人間が死亡するよりも大きいのだ。

 このまま今日の取引が終わってしまえば、ジョイナーが何らかの責任を取らされる事は明らかだった。

 ふと、局長室の電話が鳴った。

 ジョイナーの心臓が大きく跳ねた。ここに局長がいない事は、保安局の全員が知っている。つまり、この電話はジョイナー宛にかかってきたのだ。

 彼は胃が痛むのを抑えて電話に出た。

「ハロー。あ、はい。そうです」

 ジョイナー一人だけの局長室に静寂が訪れた。

 電話の相手はジョイナーの予想通り、この作戦の指揮を彼に任命した男である。

 彼はジョイナーに、アメリカ合衆国が受ける被害を最小限に抑える様、ある命令を下した。

 そして、その命令の内容もジョイナーの予想通りであった。

 彼の額の汗は遂に流れ落ちた。

「ですが、現場にはまだ隊員達が……。いえ、分かっております……。はい、

はい……、分かりました」

 電話の相手は命令内容を告げると電話を切った。

 ジョイナーに選択肢は無い。与えられた命令を遂行するだけだ。

 彼は震える手で自分の胸ポケットを探る。

 彼は自分の携帯電話を取り出し、番号をプッシュした。

 三コール目で相手が出る。

「はい……」

「私だ。プランBを発動する」

「分かりました……」

 ジョイナーは最低限の用件だけ伝え、電話を切った。

 これで西京育也は一巻の終わりだ。

 しかし、同時にSWTの隊員七名を犠牲にする事になる。

 彼は局長室の椅子に深々と腰を下ろし、天井を仰いだ。


   ※


 パロス・ベルデス半島の海沿いの崖に一台のジープ・ラングラーが停まっていた。

 国道から大分離れた位置に停車しているので、人目に付く事は無いが、万が一誰かに見られても、傍らに置いてあるテントとバーベキューのセットを見てキャンプをしていると思うだろう。

 実際、バーベキューのセットには火が付けられ、男二人が肉を焼いていた。

 二人供、ティーシャツにジーパン姿である。そして、二人供野球帽を深く被っているので、彼らの表情は伺う事が出来ない。

 ふと、一人の男の携帯が鳴った。

 二人の顔に緊張が走る。

 肉を引っくり返していた男が電話に出る。

「はい……」

「分かりました……」

 男はすぐに電話を切ると、別の男に告げた。

「仕事だ」

 男二人は焼いていた肉を放ってジープ・ラングラーに向かい、一人が後部ドアを開けた。

 そこには、キャンプ用品と一緒に、キャンプにはそぐわない物が積まれていた。

 歩兵携行式多目的ミサイル、通称ジャベリンである。

 それは発射筒と、ミサイルのセットでジープの荷台に置かれていた。両方とも一メートル程の大きさである。

 一人が発射筒を、もう一人がミサイルを荷台から取り出す。

 発射筒を持った男が慣れた手つきで発射筒を点検し、その場に座り込み発射筒を海に向かって構える。

 そして、もう一人がミサイルを発射筒にセットする。

 総重量二十二キロの筒を一人の男が担いでいる。

 ミサイルをセットした男は、発射筒を抱えた男を支える様に座り、カウントダウンを開始する。

「スリー……、ツー……、ワン……、ファイアー!」

 発射筒を抱えた男がトリガーを引く。

 その瞬間、発射筒内に炎が広がりミサイルが発射された。

 発射されたミサイルは数メートル飛翔した後に安定翼が開き、それと同時に内蔵されたロケットモーターが点火される。ミサイルは高度五十メートルを維持して飛行し、内蔵コンピューターによって事前にインプットされた目標に向かって自律誘導される。

 今回の目標は、ここから二キロメートル先の西京のトレーディングルームである。

 ミサイルが発射さえされれば、後は彼らがやらなければならない事は無い。ミサイルは自律飛行し、九十九パーセントの確率で目標に到達する。

 ジャベリンのミサイルの大きさは僅か一メートル程だが、その弾頭には八・四キロのタンデム成型炸薬が備えられている。その破壊力は、イラク戦争で分厚い装甲に覆われた戦車を、何台も一撃で破壊した事で証明されている。

 彼のトレーディングルームは瓦礫の山と化す事だろう。

 男達の仕事は終わったのである。

「さて……と……」

 発射筒を抱えていた男は立ち上がり、少し焦げ臭くなった発射筒をジープの荷台に仕舞った。

「しまった!」

 すると、ミサイルをセットした男がいきなり叫んだ。

「どうした?」

 発射筒を抱えていた男は慌ててそちらに向かう。何か問題が発生したのであろうか。

 彼が近づくと、ミサイルをセットした男は悔しそうに言った。

「肉が焦げてしまったぜ」


   ※


 西京は相変わらずプラネタリウムでトレードしていた。

 暗い部屋に彼がキーボードを叩く音だけが響いていた。

 サンダーソン率いるSWTのメンバーは、この一時間、プラネタリウムの中で西京のトレードを見ていた。

 この様子だと、西京が力尽きるまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。隊員の中には、欠伸をする者や雑談をする者が出てきた。

 サンダーソンは床に座り込んで、じっと西京の様子を伺っていた。

 やはり、この家に大量破壊兵器に該当する様な物は無い。そして西京が行っているのは、市場でのトレードという真っ当な経済行為である。

 サンダーソンは一心不乱にトレードを行う西京の姿を見て、ある疑問が生じていた。

 西京は本当にテロリストなのだろうか――。

 しかし、サンダーソンは裁判所の人間ではない。彼が何者かを判断するのは司法に任せねばならない。彼は自分の与えられた任務を全うし、現場の被害を最小限に抑えて西京を逮捕するだけだ。

 西京の机のモニターには、次々と注文画面が現れては消えて行く。

 すると、その時だった。

 西京のモニターに、突然このパロス・ベルデス半島周辺の地図が表示されたのだ。そして、その地図の画面に、赤い小さな点が表示され、その点が点滅しながら西京の自宅に近づいて来るのが見えた。

 それを見た西京の目は大きく見開かれ、彼のキーボードを叩いていた指はピタリと止まった。

 実は、このプラネタリウムの天井には半径二キロメートルをカバーする熱源探知機が設置されている。それが作動したのだ。

 その熱源は、パロス・ベルデス半島の入り組んだ地形の陸上から出現し、太平洋を一直線にこちらに向かっている。

「この動きは……、ミサイルか!」

 西京は慌ててキーボードを叩いた。

 熱源のこちらへの到着予定時間が表示される。

「二十秒後だと!」

 西京の顔から血の気が引いた。

「皆、逃げろ!」

 彼はコクピットの中から隊員全員に向かって叫んだ。

「早くここから逃げるんだ!」

 しかし、急に叫び出した西京を見て、隊員達は呆然とした。皆、西京が何を言っているのか分からないという表情だ。

 それもその筈である。この家にミサイルが撃ち込まれるなど、誰が想像出来るだろうか。

「どうした、西京……?」

 隊長のサンダーソンが立ち上がって西京に伺う。

 西京は状況を彼に説明しようと思ったが、モニター画面を見て思い留まった。

 既にミサイルの到着予定時間が十五秒後に迫っている。今から彼らに状況を説明して脱出してもらう時間は無い。

「すまない、皆!」

 西京は咄嗟に叫んでキーボードを叩き、現れた青い画面にパスワードを入力した。

 すると、その瞬間、プラネタリウムの天井が開き出し、出入口にシャッターが下りた。

「何だ?」

「どうした?」

 いきなり動き出したプラネタリウムを見て、隊員達に動揺が広がる。

「西京、一体……?」

 サンダーソンがもう一度西京に何が起こっているのかを尋ねようとした。

 そして、丁度その時だった。

 なんと隊員達が立っている床が割れたのだ。それは、まさに落とし穴の様に真ん中からバカッと割れた。

 もちろん、その上にいた隊員達は全員下に落ちて行く。

 このトレーディングルームは、崖の上から突き出た形で建てられている。

 つまり、この下は海になっているのだ。

 急に床が無くなったSWT七名は、遥か三十メートル下の太平洋に落下して行った。

「うわああああ……!」

「ああああああああ……!」

 彼らは何が起こったのか理解出来ずに、叫び声と供に落ちて行った。

 プラネタリウムは天井と床を開けて、側面以外は空洞になった。そして、中央には骨組みに支えられたガラスの球体が浮かんでいた。

 西京は隊員全員が海に落ちたのを見て、安堵の息を吐いた。

 それから、彼はまた大急ぎでキーボードを叩いた。

 もう時間が無い――。

 ミサイル到着まであと五秒。

 西京は素早くキーボードを叩きエンターボタンを押した。

 そして、自分の座っている椅子の下に付いているレバーに手を掛けた。

 しかし、その瞬間、西京の目にミサイルが飛び込んで来た。

 彼は轟音を立てて近づいて来るミサイルを睨んだ。

 次の瞬間、プラネタリウムは爆炎に包まれた。

 チャートを表示していた壁のディスプレイも、中央で球体を支えていた支柱も全て爆風に吹き飛ばされた。

 その爆風はプラネタリウムのみならず、隣の暖炉の部屋も吹き飛ばし、それでも勢いを失わず、西京の家の屋根を剥いで窓ガラスを叩き割った。

 爆炎は上空に消え去り、爆発の勢いで巻き上げられた砂埃が渦を巻いて西京宅を覆った。

 そして、黒煙が晴れて来るにつれ、少しずつ西京の家の様子が明らかになった。

 プラネタリウムは跡形も無く消え去り、西京の自宅は玄関部分だけを残して瓦礫の山と化していた。

 そして、この瓦礫の中で生きている者は誰もいなかった。


   ※


 サンダーソンは三十メートルの高さから海に飛び込んだ。

 彼の体はその勢いで海中十メートルは沈んだ。

 ここは、海だ――。

 彼はそう判断して、海面を目指して泳いだ。

 ボディーアーマーを装着しての水泳はきつい。海面が実際よりも遠く感じられた。

「ぷはーっ!」

 サンダーソンは勢いよく海面に顔を出すと、大きく息を吸った。そのまま辺りを見回す。

 すると、彼のすぐ隣でユングが同じ様に顔を出した。

「ぷはーっ!」

「ユング!皆、大丈夫か?」

 サンダーソンが波間から顔を出して辺りを見回す。

 すると、近くの海面で仲間達が次々と顔を出すのが見えた。

 どうやら全員無事の様だ。

「一体、何が起きたんだ?」

「分かりません。突然、床が抜けた様に感じましたが……」

 やはり、誰も事態が飲み込めていない。

「西京の奴……一体、何をしたんだ?」

 サンダーソンは海面から三十メートル上のトレーディングルームを見上げた。

 まさにその時だった。

 上空のトレーディングルームが突然光った。

 そして、その直後、凄まじい轟音を立ててトレーディングルームは爆発したのだ。

 その爆風はサンダーソン達の所まで届き、彼らをもう一度海に沈めた。

「ぐわっ……!」

「ごぼごぼ……!」

 不意を衝かれた彼らの鼻に口に海水が流れ込む。

 海中でもがく彼らの近くで、崖から落ちてきた鉄の塊がいくつも海の底に消えて行った。

 暫くの後、彼らは再び海面から顔を出した。

「ぷはーっ!」

 サンダーソンは海面で大きく息を吸う。

 彼はもう一度隊員の無事を確認しなければならなかった。

 全員ゴホゴホと咽せているが、大した怪我は無い。

「何だったんだ、今のは……?」

 隊員達が顔を見合わせて尋ねた。しかし、誰にも分からなかった。

 SWTの隊員は全員で恐る恐る頭上を見上げた。

 トレーディングルームは黒煙に包まれていた。この時点でサンダーソンは何かが爆発したのだと悟った。

 そして、その黒煙が少しずつ晴れていく。

 その黒煙が晴れた時、彼らが見上げた場所には、先程まであったトレーディングルームは無かった。

 そこにあったのは、剥き出しの曲がった鉄パイプが何本か刺さっているだけの、ただの崖だった。


   ※


 グレリアとロミーナを乗せたレクサスLXは、ドライブ・サウスと呼ばれる国道を飛ばしていた。

 次の交差点を右に曲がれば、西京の自宅に続く岬の道だ。

 グレリアは西京に何が起こっているのか分からなかった。

 先日、社会保障局の人間が現れはしたが、まさか保安局の特殊部隊が出て来るとは想像もしていなかった。

「デムッ!」

 彼は勢いよくハンドルを切り、交差点を右折した。

 タイヤが悲鳴をあげて、彼らの体に横方向にGがかかる。

「ロミーナ! もうすぐディアブロの家だ!」

 グレリアがハンドルを立て直しつつロミーナに告げた。

 彼女は自分の体を支える為ドアを押さえながらコクリと頷く。

 二人供、何を話したら良いか分からず、それ以外は無言だった。車内にはただレクサスのエンジン音だけが響いていた。

 彼らはフロントガラスに現れた西京の家を、ただじっと見ていた。もうすぐ彼の家だ。

 育也様、待っていて下さい――。ロミーナは助手席の手すりをギュッと握った。

 しかし、その時だった。

 突然、彼の家から爆炎が上がったのだ。

 その瞬間、地面を揺るがす様な轟音が響き、グレリアは思わずブレーキを踏んだ。

「きゃああああ……!」

 急ブレーキを掛けたせいで、ロミーナの体は前に飛ばされそうになり、シートベルトが彼女の肩に食い込んだ。シートベルトをしていなければ、彼女は頭からフロントガラスに突っ込んでいただろう。

 そのフロントガラスに砂が叩き付けられてビシビシと音を立てた。砂煙に覆われて前が全く見えない。

 グレリアは恐怖のあまり頭をハンドルに押し付けて伏せた。

 ロミーナは手すりを握りしめたまま、歯を食いしばって目を閉じた。

 しかし、暫くすると車内に静寂が戻って来た。

 グレリアが恐る恐る顔を上げると、霧がかかった様に視界が悪くなっていた。だが、彼の車にさほどダメージがある訳ではなさそうだった。

「大丈夫か、ロミーナ?」

「え……ええ、大丈夫です。一体、何が……?」

 彼女は頭を振って、前を見た。

 彼女の目に映ったのは、黒煙を上げる西京の家だった。

「そ、そんな!」

 彼女は自分の口を手で押さえた。ロミーナの顔から血の気が引いて行く。

「馬鹿な! 何だ……あれは……?」

 グレリアは目の前で起こっている事が信じられず、レクサスから降りて西京の家の方を見た。

 煙が晴れるにつれ、次第に西京の家があった場所が露になる。

 しかし、そこには最早家と呼べる様な物は無かった。

 そこにあるのは、ただの瓦礫の山である。

 辛うじて、玄関が残っており、元々そこに家があった事を認識させてくれる。

 彼は夢遊病者の様にフラフラと西京の家に向かった。

「そんな……、そんな……、ディアブロ……、ディアブロオオオオオオ!」

 先程まで西京の家だった瓦礫の山に、グレリアの叫び声が響いた。


   ※


   二〇一〇年 十一月 六日


「それでは、あなたも、なぜ西京が特殊部隊に襲撃されたか知らないのですか?」

 八田荘司はホルヘ・グレリアに聞いた。

 既に太陽が太平洋に向かって傾いており、パロス・ベルデスの夕日がグレリアのリビングをオレンジ色に染めていた。

「そうだ。だから俺はメディアの連中に西京の事を話せなかったのだ。情けない話さ。俺はあいつの一番近くにいながら、あいつが無実だという証拠を何も持っちゃいなかった……。それどころか、俺はあいつの事を何も知らなかった事を思い知らされたのさ。だから、俺も唯一の情報源であるアメリカ合衆国社会保障局の発表を信じるしか無かった」

「その発表によれば、大量破壊兵器を保持しているとの情報を得たロサンゼルス郡の特殊部隊は、西京宅に強制捜査を行った。そして、彼らは西京が隠していた大量破壊兵器を発見した。しかし、西京が抵抗した為、彼は射殺され、彼が抵抗した際に大量破壊兵器が誤作動を起こし爆発した」

「ああ。悔しい事に、あの時の状況は社会保障局の発表の内容と一致している。しかし、俺は信じている、あいつはテロリストなんかじゃない」

「だからあなたは、西京がいなくなった後も、ご自身でニューワールドの運用を引き継がれたのですね?」

 八田のこの質問に、グレリアは答えなかった。しかし、グレリアの話を聞いていた八田には理解が出来た。

 グレリアは西京が殺害された後、たった一人でニューワールドの運用を引き継ぎ、トレードした。だが、毎月総資産の五パーセントの支払いが生じるファンドである。普通の人間が運用出来る物では無かった。当然、そのファンドは破綻する事になる。しかし、彼は西京の死後一年半もそのファンドを存続させ、自分の財産を切り売りする事で投資家の損失が無い様にファンドを終了させた。

 恐らくグレリアは、西京を金融の世界に誘った自分に責任を感じていたのだろう。

「だが、俺は自分の財産を手放した事で、女房子供にも逃げられた。今でもその決断が正しかったのかどうかは分からない。でも、俺はこの一年半、俺のやれるべき全ての事をやったよ。そう、全てな……。今の俺には、何も残っちゃいねえ」

 グレリアはクククと力無く笑った。

 彼の持っているジャックダニエルの瓶は既に空になっていた。

 八田はグレリアが酔っている事もあり、これ以上取材が出来ないと判断した。

 彼はグレリアにお礼を述べて彼の家を出る事にした。

 八田の去り際にグレリアは言った。

「頑張れよ、ポンハ……!」

 八田は深々と頭を下げて彼の家を後にした。

 彼の胸は熱く燃えていた。

 やはり、西京育也はただのテロリストではなかったのだ。

 彼は西京が起こした一連の事件のスケールの大きさに震えた。西京と同じ日本人である事が、八田には誇らしく思えた。

 彼はグレリアの自宅の前に停めてあったレンタカー、フォード・マスタングに乗り込んだ。

 しかし、彼がフォードのエンジンを掛けた所で、ふと、彼はグレリアの自宅の方を振り返った。なぜ、彼は今まで誰にも話さなかった西京の話を自分にしてくれたのだろうか……。

 彼は力無く笑っていたグレリアの表情を思い出した。

「まさか……な……」

 八田は首を振ると、ハンドルを切ってグレリアの家の敷地から出た。

 グレリアの様子は気になったが、彼にはやらねばならない事が出来た。まずは西京が資金を捨てたスラム街の調査だ。そして、それが終われば、西京を襲撃した特殊部隊の人間にインタビューを申し込む……。時間はいくらあっても足りない。

「待っていろよ、西京! 俺が無実を証明してやる!」

 八田の乗ったフォード・マスタングは夕日に向かって消えて行った。


   ※


 八田が帰った後、グレリアは一人家具のないリビングの窓から太平洋に沈む夕日を見ていた。

「ディアブロ、お前の目指したニューワールドとは、一体何だったんだ?」

 グレリアは夕日に尋ねた。

 夕日は何も答えてはくれない。それは静かに水平線に沈んで行く。

 彼はソファーのクッションを捲ると、そこに置いてあった物を拾った。

 それは、M三十六、小型の回転式拳銃である。

 彼はそれを右手で握ると、自分のこめかみに当てて撃鉄を親指で引き起こした。

「今の俺には何も残っちゃいねえ」

 彼はボソリと呟いた。

 グレリアはこの一年半のトレードで、身も心も疲れ果てていた。今日、八田にこれまでの経緯を話した事で、最早彼に思い残す事は無かった。

 彼は夕日を背に、震える指をトリガーに掛けた。

 そして、彼がトリガーを引こうとした、まさにその時だった。

 彼の携帯電話が鳴ったのだ。

 それは、彼のシャツのポケットに入っていた。自己破産の申請が終わって、来週で契約が切れる携帯電話である。この携帯電話があったから、彼は八田のインタビューの申し出を受ける事が出来たのだ。

 彼は一旦、拳銃をこめかみから離して、左手で電話を取った。

「はい……」

「久しぶりだな、ホルヘ……」

 電話の相手の声を聞いた瞬間、グレリアの目が大きく見開かれた。彼の携帯電話を持つ手に力が入る。

「な……、お前、どうして?」

「実は、俺のトレード用のコクピットには、射出座席が装備されていてね。ほら、戦闘機のパイロットが脱出する時に使うやつさ。それを使って、なんとか脱出出来たって訳だ。特殊部隊の連中に見つからずに岸まで泳ぐのは大変だったが……。まあ、水泳の練習をしていて正解ってとこかな」

 電話の相手は事も無げに話した。

 グレリアは生唾を飲み込んだ。

「それよりホルヘ、すまなかったな。あんたにニューワールドの尻拭いをさせちまった。そろそろメデイアの連中もあんたの周りからいなくなった頃だと思ってな」

 グレリアの目から涙が溢れた。

「お前……、な、何を言ってやがる。連絡をよこすのが遅過ぎだ……! 俺がどれだけお前の事を心配したか……」

 グレリアの声は涙声となり、上手く話せなかった。

「すまない、ホルヘ。どうしても、俺が生きている事を知られたくなかったのだ。でも、あんたのお陰で準備が出来たよ。それより、覚えているかい? 俺があんたに行った言葉を……。俺はあんたの悪い様には絶対しない。どうだい? 俺と一緒に世界を変えてみる勇気はあるか?」

 電話の相手は、また事も無げに言った。

 しかし、グレリアは分かっていた。この男は本気で世界を変えようとしているのだ。

「フン……。こうなったら、とことんお前に付き合ってやるぜ、このディアブロが!」

 グレリアは電話の相手に叫んだ。

 そして、その電話が終わった時、彼は右手に持っていた拳銃を、窓から眼下に広がる太平洋に向かって放り投げたのだった。


   ※


   二〇一一年 二月 十八日


 アメリカ、カルフォルニア州ロサンゼルス。

 八田荘司はロサンゼルス国際空港の近くの国道四百五号線沿いにある人気の無いモーテルで、人と待ち合わせをしていた。

 窓の外から、時々行き交う車のヘッドライトだけが見える、何もない場所である。

 彼は部屋の中で自分のノートパソコンにこれまでの記事をまとめていた。

 彼のこれまでの調査により、彼の記事はほぼ出来上がりつつあった。しかし、彼は最も肝心な西京が無実だったという証拠だけは、未だに掴めずにいた。

 そこで、八田は昨日、当時西京の捕獲作戦に参加した特殊部隊隊員の一人と連絡を取り、一か八か鎌をかけてみたのだ。

 西京が無実である決定的な証拠を入手した――と。

 すると、なんとその隊員は、八田に会いたいと申し出たのだ。

 八田は驚喜した。

 西京が無実である証拠を入手した人間と会いたいという事は、彼は西京の無実を認めたのも同然だからだ。

 その隊員の名はマウリシオ・ユング。

 彼とは本日このモーテルで落ち合う約束になっている。

 八田は彼とのインタビューが待ちきれず、これまでの記事を全てチェックしては記事を継ぎ足していった。彼のキーボードを叩く指が汗で濡れているのは、暖房が効きすぎているせいではなかった。

 この記事が公表されれば、凄いスクープになる。なにせ、世界を変えようとした日本人と、それを抹殺したアメリカ政府の陰謀の記録なのだ。彼は自分の記事が世の中に出た時を想像して、込み上げて来る笑いを抑えられずにいた。

 八田は自分の記事のファイルに名前を付けて保存していた。

 トレーダー・ディアブロ、と。


 コンコン。


 その時、部屋のドアを誰かがノックした。

 八田は反射的に腕時計を見た。

 時刻は午後九時五十分。ユング隊員との約束の時間まで後十分あった。

 ひょっとしたら、彼が少し早く来たのかもしれない――。

 八田はそう思って立ち上がり、返事をした。

「はい。今行きます!」

 彼は自分の記事の最後のピースを埋められるという期待で、胸が熱くなっていた。


   ※


 翌日、ロサンゼルスのローカルテレビのニュース番組で一つのニュースが放映された。

『……次のニュースです。今日未明、国道四百五号線沿いのモーテル、ラ・カスティージャで旅行者と見られる男性の遺体が発見されました。遺体は所持品から日本人旅行者の八田荘司さんと見られています。第一発見者のこのモーテルの経営者、リカルド・ロペスさんによりますと、チェックアウトの時刻を過ぎても部屋から出て来ない八田さんを不審に思ったロペスさんがマスターキーを使って部屋に入った所、浴室のバスタブに沈んでいる八田さんを発見したとの事です……。ロサンゼルス警察の調べによりますと、部屋にはモーテルの経営者のロペスさん以外に誰も侵入した形跡はなく、浴室に日本酒の空き瓶が落ちていた事と、遺体から大量のアルコール反応が検出された事から、泥酔した八田さんが入浴中に寝てしまった為に起きた事故死として調べを進めています。次のニュースです……』

 エリック・ジョイナーはそこまで見るとリモコンでテレビのスイッチを切った。

 ここはメリーランド州ウッドローン。

 アメリカ社会保障局の本部、通称セントラル・オフィスである。

 ジョイナーは革の椅子の背もたれに背中を預け、安堵の息を吐いた。

 あの西京捕獲作戦の日から一年半、まさか今になってあの事件を嗅ぎ回る者が出て来るとは……。

 しかし、もう心配はいらない。これであの事件は完全に闇に葬り去られたのだ。

 だが、西京が世界経済に与えた傷は深い。

 あの作戦の日から三ヶ月後の二〇〇九年六月一日、アメリカ経済の象徴と言われたゼネラルモーターズは連邦倒産法第十一章の適用を申請し、事実上倒産した。そして、その破綻の直後、ジョイナーに指令を出していた上司は自宅の高層マンションから身を投げ自殺した。彼はゼネラルモーターズの役員出身の議員で、彼の政治資金は全て同社から出されていたのだ。

 ジョイナーは、あの日なぜ上司があせって西京を殺害しようとしていたのかやっと理解する事が出来た。虫の息だったゼネラルモーターズにとって、あの日の取引が引導となってしまってのだろう。

 上司が死亡した事により空いたポジションに部下が繰り上げとなり、ジョイナーも社会保障局の本部に栄転となった。そして、今や彼は社会保障局局長補佐という役職を得ていた。

「フ……、悪魔(ディアブロ)か……」

 ジョイナーは一年半前の作戦を思い出し失笑した。

 無実の男に大量破壊兵器の保有をでっち上げ、逆にこちらが大量破壊兵器を使用して彼を抹殺した――。

悪魔(ディアブロ)という名は、私にこそ相応しいのかもな」

 彼は呟き、天井を見上げた。

 しかし、彼は罪の意識を感じてはいない。この国の未来を守る為、敢えて泥を被って仕事をしているというプライドを、彼は持っていた。


 コンコン。


 その時、局長補佐室のドアを部下がノックした。

「局長補佐、局長がお呼びです」

「分かった」

 ジョイナーは部下に答えると、自分の部屋を出て行った。

 彼に過去の行いを悔いている様な時間は無い。

 この国の財政は、財政赤字と西京によって起こされた金融不安により危機的状態にある。彼のこの国の社会保障を守る戦いは、まさにこれからが本番なのだ。

                                                        了


私の作品を読んで頂き、有り難うございます!

今の不景気の原因は何か? と考えて出来た作品です。

楽しんで頂ければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言]  はじめましてです。つい先ほど読了しました。  経済的な知識はあまり持っていないのですが、とても興味深く読ませていただきました。  資本主義を壊した先にディアブロが想定していたものは、社会…
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