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欲深い聖女と呼ばれた私、追放されたので八年分の皆様の欲をお返しします

作者: 野塩いぜ
掲載日:2026/04/03

 朝食だけで、テーブルが三つ要る。

 ——それでも、足りない。


 焼きたてのブリオッシュが籠から溢れ、蜂蜜漬けの果実が陽光を受けて琥珀色に光っている。燻製の鹿肉、川魚のムニエル、季節の茸を詰めたパイ。チーズだけで七種、ジャムに至っては数えるのをやめた。銀の食器がぶつかり合う小さな音が、広すぎる食堂に響くたび、壁際に控える侍女たちの肩が揺れる。


 私は手袋をしたまま、フォークを取った。


「あら、このパイ。昨日と同じ茸ね」


 侍女の一人が、弾かれたように顔を上げる。


「も、申し訳ございません、エリシア様。すぐに厨房へ——」

「いいの。代わりに、午後の分も追加して。三皿。いえ、五皿。それと、南方の香辛料を使ったものも試してみたいわ。料理長に伝えて」


 侍女の目に、一瞬だけ怯えが走る。すぐに「かしこまりました」と頭を下げて駆けていくその背中を見ながら、私はパイを一切れ、口に運んだ。


 ——美味しいのだと思う。たぶん。


 バターの香りが鼻を抜け、茸の旨味が舌に広がる。けれどそれは「美味しい」ではなく、「もっと」だった。もっと濃い味を。もっと珍しいものを。もっと、もっと、もっと。味わうという行為が、いつの間にか貪ることに変わる。


 わかっているのに手が止まらない。これは、私の欲じゃない。


「エリシア様」


 食後の紅茶を待つ間もなく、次の来客が告げられる。


「宝飾商のダリオが、ご注文の品をお持ちです」

「通して」


 赤毛の商人が恭しく差し出した箱の中には、青玉を散りばめた髪飾りが収まっていた。先週、街で似た色の石を見かけて、気づけば特注していた。私の指は手袋越しにそれを摘み上げ、光に翳す。


 美しい。


 美しい、はずなのに、心に灯るのは「もうひとつ」。


「ダリオ、赤い石でも同じものを作れる?」

「もちろんでございます。ルビーとガーネット、どちらがお好みで?」

「両方」


 商人の笑みが深くなる。侍女の顔はさらに強張る。きっと今頃、城のどこかで帳簿を預かる文官がため息をついているのだろう。


 ——ああ、また。


 私は心の中で、誰にも聞こえない悲鳴を上げている。


 これは私の「欲しい」じゃない。いや、今となっては私の「欲しい」でもある。境界線がわからない。どこまでが自分で、どこからが他人の欲なのか。かつては確かに区別がついていた。痩身に取り憑かれた令嬢の手を握り、その過剰な「痩せたい」という欲を引き受けたとき、自分の中で異物感があった。これは私のものじゃない、と。


 今はもう、何も感じない。全部が自分の欲みたいに、内側にべったりと張りついている。


「エリシア様、午後は王立図書館の学者をお呼びしておりますが——」

「予定通りで。それと、先日お願いした古代語の文献は?」

「七冊ほど見つかったと」

「全部持ってきてもらって。ああ、でも足りないかも。関連書も含めて、棚ごと——」


 さすがに言い過ぎた、と思った。侍女の目が丸くなっている。


「……冗談よ。関連書を、十冊ほど追加で」


 冗談ではなかった。本気で棚ごと欲しかった。古代語の響きが好きだから? 知識に飢えているから? そんな上品な理由じゃない。ただ「もっと」が止まらないだけ。食も、装飾も、知識も、全部同じひとつの濁流に飲み込まれている。


 食堂を出ると、廊下で二人の貴族とすれ違った。


 彼らは私に気づくと、慇懃に頭を下げる。その目には薄い軽蔑が滲んでいた。


「……あれが聖女とは。欲の塊だな」

「国費を湯水のように使い、恥じる様子もない。聖女の名が泣くというものだ」

「民のためにも、節度を覚えてほしいものだ」


 背中に刺さる囁きを、私は黙って受ける。


 彼らがそうやって国を憂い、清廉な顔で正論を語れるのは誰のおかげか——言いたい喉を、飲み込んだ。


 言えない。言ったところで何も変わらない。むしろ状況は悪くなる。


 自室に戻り、扉を閉めた瞬間、膝が折れた。ドレスの裾が冷たい床に広がる。手袋を外し、自分の手を見つめた。この手で触れれば、人の欲は静かになる。代わりに行き場を失った欲が、私の中に流れ込む。


 ——返したい。

 これは、私のものじゃない。


 けれど返せば、きっとあの人たちは元に戻る。野心にまみれた貴族、保身に走る騎士、不満を溜め込んだ民。国が、回らなくなる。


 そして何より。


 全部返したら、私には何が残るのだろう。


 この欲を取り除いた「私」が、まだどこかにいるのだろうか。それとも、器だけが残って、中身は空っぽになるのだろうか。


 ——怖い。


 手袋を嵌め直す。深呼吸をして、鏡の前に立った。映るのは、宝石をまとい、頬にまだ朝食の余韻を残した欲深い聖女だ。


 微笑んでみる。聖女らしく、穏やかに。


「……午後の予定、こなしましょうか」


 誰に言うでもなく呟いて、私は再び、扉を開けた。


***


晩餐会の支度をする侍女が、いつもより丁寧に手袋の皺を伸ばしながら言った。


「本日はどうか、お慎みくださいませ」


 分かっている。王から直々に最後の機会を与えられた。今夜の晩餐会で身の振り方を示せ、と。つまり、大人しくしていれば許される。欲を、抑えればいい。


 ——今日だけは、抑えなければ。


 足を踏み入れた会場は、眩いばかりの光に満ちていた。


 磨かれた大理石の床。天井を埋め尽くす壁画。百本を超える蝋燭が灯されたシャンデリアの下、着飾った貴族たちが談笑し、銀の盆に載った料理が次々と運ばれていく。


 私はグラスを手に取り、微笑んだ。聖女の微笑み。何百回と練習した、穏やかで控えめな表情。


 最初のうちは、うまくいった。


 給仕が差し出した子羊の香草焼きに手をつけず、一皿だけ選んだスープを静かに口に運ぶ。隣席の令嬢が身につけた翡翠の耳飾りに目がいったが、視線を逸らした。向かいの貴族が広げた希少な地図の話題にも、相槌だけで踏み込まなかった。


 ——大丈夫。今日は、大丈夫。


 二皿目が運ばれてきた。鴨の胸肉を蜜柑の果汁で煮たもの。甘い香りが鼻をかすめた瞬間、腹の底がきゅっと鳴る。


 大丈夫。これくらい、誰だってお腹は空く。


 三皿目。川魚のパイ包み。バターの匂い。向かいの貴族の皿の上で、パイ生地がさくりと割れた。


 ——食べたい。


 違う。今のは私の食欲。ただの食欲。大丈夫。


 給仕が次の皿を運んでいく。私の前は素通りする。今日は一皿だけ、と伝えてあるからだ。正しい判断。正しい我慢。けれど素通りする銀の盆の残像が、視界の端にいつまでもちらついている。


 会話に集中しようとした。隣の令嬢が最近読んだ詩集の話をしている。


「——古代語で書かれた恋愛詩で、最近再発見されたものなの。とても美しくて」

「まあ、素敵ね」


 読みたい。


 読みたい。全ページ。原本で。できれば手元に置いて、何度も——


 微笑みを保ったまま、グラスに口をつけた。葡萄酒が喉を滑り落ちる。美味しい。美味しい、と感じた途端に「もっと」が来る。もっと深い味を。もっと高い酒を。もっと、もっと。


 グラスを置く指先が微かに震えていた。手袋の下に隠して、膝の上で拳を握る。


 まだ大丈夫。あと少し耐えれば、晩餐会は終わる。


 宴が進み、空気がほどけてきた頃。


 国王が立ち上がり、今夜の慶事を祝す挨拶を始めた。その隣に、一つの首飾りが飾られていた。深い青の大粒の宝石が、銀細工の台座に収まっている。先王妃——国王の亡き母の形見で、国家の慶事にのみ公開される至宝。


 蝋燭の光を受けて、宝石が脈打つように輝いた。


 体の奥底で、何かが弾けた。


 食欲とも物欲とも違う。もっと根源的な渇き。何百人分もの欲が堆積した地層の底から、熱い塊がせり上がってくる。今まで必死に蓋をしていた場所の、蓋そのものが吹き飛んだ。


 ——だめ。


 だめだ。分かっている。分かっていたのに……止まらない。


「——それ、欲しいわ」


 自分の声が聞こえた瞬間、場が静まり返った。


 百本の蝋燭の炎が揺れるかすかな音まで聞こえるほどの沈黙が、広間を満たした。


 ――ああ、やってしまった。


 唇を両手で覆ったが、言葉はもう空気の中にある。取り消せない。


「……エリシア」


 国王の声は、怒りではなかった。


 静かだった。疲れと、深い失望が滲んでいる。亡き母の形見に手を伸ばされた男の、個人的な痛み。王としてではなく、息子として傷ついた目が、私を見ていた。


「そなたは……」


 言葉が続かなかった。続けられなかったのだろう。王は一度目を閉じ、それから静かに着席した。


 それが合図だったかのように、周囲が動き出した。


 罵声も、怒号もない。貴族たちは、悲しんでいた。本当に、心の底から。ある者は目を伏せ、ある者は首を静かに横に振り、ある者は隣の者と目を見合わせて、小さくため息をついた。軽蔑ではない。嘲りでもない。そこにあるのはあまりにも純粋な――失望だ。


「やはり」と誰かが呟いた。


「救えない」


 まるで病人の回復を信じていた見舞い客が、再発の知らせを聞いたときのような顔。自分たちの利害など微塵もなく、ただ「聖女を救いたかった」という透明な善意だけが、広間を満たしている。


 おかしい、と思う。この人たちは、おかしい。


 人間は、こんなに清くない。政の場に立つ人間が、打算も保身もなく、ただ他者のために悲しむなんてことは、ありえないのだ。けれどその理由を知っているのは、この場で私だけ。


「……もうよい。エリシア、下がれ」


 王の一言が、決定打だった。


 その後の手続きは淡々としていた。部屋に下げられ、翌朝には王の署名も、聖女の称号を剥奪する決定も揃っていた。誰も声を荒げず、誰も涙を流さない。粛々と、正しい手順で、正しい人々が、正しい決断を下す。


 自室で荷を詰めている時、手袋に触れた。


 替えの手袋。予備の予備。何枚も持っている。絹で、革で、様々な素材で作られた手袋たち。決して素手で人に触れないための、防壁。触れれば、その人の欲が私の中に流れ込んでくるから。


 ——最初は、たった一人の手を握っただけだった。


 十二の頃だ。友人が、食事の時間が近づくたびに泣いていた。


「食べたくないのに食べちゃうの、気持ち悪くなっても止められないの!エリシア、助けて!」

「……うん」


 頷いて彼女の手を握ると、熱くてざらついた異物が握った手から私の腕を伝って胸の奥に落ちた。


 その瞬間から、私の腹は彼女の代わりに空腹を叫び始めた。何を食べても食べ足りない。苦しいだけの三日間。でも異物は異物のまま私の中で溶けずに残って、やがて静かになった。彼女は私が手を取った翌日から穏やかに食事ができるようになっていた。


 あの頃は、他人の欲と自分の欲の境目がはっきりとしていた。


 いつから分からなくなったのだろう。十人目。五十人目。百人目。手を重ねるたびに、流れ込んでくるものの量が増え、異物感が薄れていった。貴族の手を握れば、指の奥から黒い野心がじわりと滲んできた。騎士の手を握れば、鉄錆のような虚栄が流れ込んだ。商人、民、聖職者——それぞれの欲に、それぞれの手触りがあった。最初のうちは。 


 百人を超えた辺りで、全部が同じになった。誰の欲も、同じ「もっと」になって、私の底に沈んでいった。


 ……一度だけ、欲を返したことがある。


 ある若い騎士が訪ねてきたのだ。私の前に立ち、手袋を外したのはロアンと名乗った彼の方だった。差し出された素手。他の者たちは皆、私に触れてもらう側だったのに。


「返してくれ」と彼は言った。


「恐怖を返してほしい。戦場で何も怖くない自分が、怖い。恐れを知らない剣に、意味はない」

「……あなた、変わってるのね」


 正直驚いた。誰もが欲を手放したがるこの城で、自分の欲を取り戻したいと言ったのは、彼だけだったから。


 私は手袋を外し、彼の手を取った。そうすればすぐに、彼の恐怖が私の指先から彼の指先へと温度を持って戻っていく。生きたいという欲。死にたくないという渇望。途端に彼の手が震え、顔から血の気が引いた。なくした心が丸ごと戻るのだから、当然だ。


「ありがとう……ございました」

「いえ……」


 礼を言った苦しそうな顔を、私は今でも覚えている。ロアンはその後大きく荒れたと聞いた。夜中に叫び声を上げ、剣を握れなくなり、騎士団を辞め……やがて王都から姿を消したという。


 罪悪感は、あった。けれど同時に、小さな羨望もあった。彼は、自分の欲と向き合うことを選んだのだ。


 選ぶ余地もなく城を追い出される私とは違って。


 荷は、少ない。数日分の服と、路銀の足しになりそうなものくらいだ。どれが本当に私の好みかわからないものを持っていく意味がない。


 城門へ続く長い廊下を、一人で歩いた。


 朝日が石畳に斜めの光を落としている。侍女たちは朝の支度に追われ、騎士たちは訓練場に集まり、貴族たちは朝食の席で政を論じている頃だ。城はいつも通りに回っている。聖女が一人消えることなど、小石が水底に沈むほどの波紋も立てない。


 廊下には誰もいなかった。


 階段にも。渡り廊下にも。城門の前にも。


 かつて欲を奪い、心穏やかに暮らせるようになった人々の誰一人として――私を見送りには来ない。

 彼らにとって私の力は『過度な欲を鎮め、心を安らかにする祝福』でしかない。王も教会も皆を救って満足していた。欲を奪う代わりに私が溺れていくことなど、誰も知らない。知らないのだから、このまま消えていく元聖女に後ろめたさを感じる理由もない。


 清い人は振り返らないから。正しいと思ったことに、迷わないから。


 私が作った世界に、私の居場所はなかった。


 振り返るのをやめ、城門をくぐる。重い鉄の扉が背後で閉まる音が、この城でもらった最後の言葉だった。


 しばらく歩くと、王都を出るための門が見えてきた。街の外へ続く石造りの門。衛兵が二人立っていたが、追放の書状を見せると何も言わずに道を開けた。


 街道が一本、まっすぐに伸びている。左右には麦畑が広がり、遠くに低い丘陵が青く霞んでいた。背後では王都の喧騒がかすかに聞こえていたが、十歩も歩けばそれも消える。


 風が吹いた。


 ただそれだけのことなのに、足が止まる。


 振り返って、王都の門を見やる。石壁の向こうに塔の先端がいくつか覗いていた。あの中に、私が作った世界がある。欲のない貴族、恐れのない騎士、怒りのない民。清潔で、正しくて、私を必要としない世界。


 ——ああ。


 笑ってしまった。


「あはは……」


 気が付けば声が出ていた。自分の笑い声を聞くのは、いつぶりだろう。聖女は穏やかに微笑むもので、声を上げて笑うものではなかった。八年間、ずっとそうしてきた。なのに今、誰もいない街道の真ん中で、こらえようもなく笑っている。涙は出なかった。ただ、胸の底から空気が抜けていくような、奇妙な笑いだった。


 もう、必要とされていない。


 もう、抱えている理由がない。


 返したら空っぽになるかもしれない。ずっとそれが怖かった。他人の欲を取り除いた「私」がまだ存在するのか、確かめるのが怖かった。でも。


 今の私だって、私じゃない。


 何百人分もの欲に埋もれて、自分がどこにいるのかわからない。好きなものがわからない。嫌いなものがわからない。お腹が空いているのか、本当は何も食べたくないのか、それすらわからない。これを自分と呼ぶくらいなら。


 ——手放してしまおう。


 街道の真ん中で、私は手袋を外した。


 右手。左手。薄い革が地面に落ちる。久しぶりに外気に触れた指先が、風に冷たかった。


 目を閉じる。


 体の奥に意識を向ける。そこには、巨大な塊があった。何百人分もの欲望が絡み合い、圧縮され、どろどろに溶け合ったもの。野心。虚栄。強欲。恐怖。嫉妬。支配欲。独占欲。承認欲。自己保身。怠惰。暴食。知識欲。名誉欲。それらが区別もつかないまま、ひとつの熱い渦になって私の内側を満たしている。


 八年間、溜め続けたものを……全部、手放す。


 私はその渦に両手を突っ込むように意識を沈めた。そして——開けた。ありったけの扉を。


 体の中心から、何かが噴き出していく。


 それは濁流だった。真っ黒な、熱い、粘り気のある奔流が、体の芯を突き破って四方に広がっていく。目には見えないけれど、確かに感じる。波紋のように、嵐のように。私を中心にして広がっていく欲望の奔流が、王都の門をくぐり、街路を駆け抜け、屋敷の壁を通り抜け、一人一人のもとへ還っていく。


 それぞれに、見覚えがある。かつて、救いを求めて手を取った人たちのものだ。


 清廉潔白な宰相のもとへ——野心が帰る。


 正しさだけで私を裁いた者たちのもとへ——虚栄が、打算が、嫉妬が帰る。


 門を無言で開けた衛兵のもとへ——恐怖が帰る。


 城の奥、玉座に座る王のもとへ——何かが帰る。


 何百人分の欲が、何百本の濁った川になって、私から流れ出ていく。


 体からすべてが抜けていく。中身が。骨の隙間から、血管の中から、内臓の奥から、欲望が引き剥がされるたびに、そこに空洞ができる。痛みとも違う。ただ、あまりにも急激に何かが失われていく感覚に、体がついていけない。


 立っていられなくなって、膝を折った。街道の土の上に、崩れるように座り込む。素手の指が、乾いた土に触れた。


 その直後だった。背後にある王都の方角から、空気がひび割れるような、低く重いどよめきが鼓膜を打った。

 歓声か、悲鳴か、あるいは怒号か。

 私にはもう分からない。ただ、あの清潔で正しい世界が砕け散る、最初の音が聞こえた気がした。


 しかし、私の中からはまだ流れていく。まだ出ていく。体の隅々から、こびりついた欲が少しずつ剥がれる。最後のひとしずくまで。


 長かったのか、短かったのか。


 気づいたとき、体の中は静かだった。私を飲み込むような、「もっと」がない。何もなかった。


 ——ああ、やっぱり、空っぽだ。


 そう思った次の瞬間、風が吹いた。


 さっきと同じ風だ。街道を抜ける、ただの風。けれど——匂いがした。草の匂い。湿った土の匂い。どこか遠くで焼いているパンの、かすかな匂い。


 さっきまで、風に匂いなんてなかったのに。


 目を開ける。


 空が、青い。高くて、広くて、雲がひとつ浮かんでいて、その縁が陽光に白く光っていた。当たり前の空だ。毎日見ていたはずの空だ。けれど、こんなに青かっただろうか。


 視線を落とす。街道の脇に、小さな花が咲いていた。名前は知らない。白い花弁に薄紫の筋が入った、地味な花。城にいた頃なら目にも留めなかった。もっと華やかな花を、もっとたくさん、もっと——


 ——「もっと」が、来ない。


 白い花が、そこに咲いている。それだけのことが、ただ綺麗だった。


 手のひらを見た。素手の、何も持っていない手。宝石もない。手袋もない。指が少し震えている。さっきまでこの手で何百人分もの欲を抱えていたのに、今はもう何も持っていない。


 空っぽだと思った。けれど違った。


 風を冷たいと感じている。花を綺麗だと思っている。土の匂いを嗅いで、懐かしいと思っている。パンの匂いに、ほんの少しだけお腹が空いている。ほんの少しだけ。「もっと」ではない、ささやかな感覚。


 いた。ここにいた。


 何百人分の欲の下に埋もれて、ずっと息もできなかった私が、ちゃんとここにいた。空っぽじゃなかった。余計なものがなくなっただけだった。


 派手な衣装が、急に重たい。肩を飾る金糸の刺繍も、縫い込まれた宝石も、誰かの虚栄心で選んだもの。こんなもの、私は着たくなかった。


 じんわりと視界が滲む。いつ泣き始めたのかはわからなかった。膝をついたまま、土の上に座り込んだまま、声も上げずに泣き続ける。


 自分がまだいたことが、嬉しい。空っぽじゃなかったことに、安堵する。


 そして、ほんの少しだけ寂しかった。八年分の重さが消えたあとの体が、風に吹かれて揺れるくらい、軽かったから。


***


 それからはただひたすら歩いた。派手な衣装は最初の村で質に入れ、代わりに麻の上着と丈夫な靴を手に入れた。豪奢な服に村人は目を丸くし、釣り銭と一緒にパンと干し肉まで持たせてくれた。


 そのパンが、美味しかった。


 城で食べたどんな美食よりもだ。固くて、素朴で、噛むたびに麦の味がする。ただそれだけのものが、こんなに美味しい。食べ終わったあとに「もっと」が来なかった。お腹がいっぱいになって、それで満足だ。満足、という感覚を、私はほとんど忘れていたことに気が付いた。


 三日ほど歩くと、小さな町に辿り着いた。


 城壁もない、教会の尖塔が一つあるだけの、のどかな町。広場では朝市が開かれていて、農夫が野菜を並べ、女たちが布を値切り、子供が犬を追いかけている。騒がしくて、雑然としていて、誰もが自分の欲で動いている。あれが食べたい、これが欲しい、もっと安くしろ、もっと良いものをよこせ。


 それが、ひどく生き生きとして見えた。


 宿を探して広場を横切ったとき、荷馬車の傍らに立つ男が目に入る。


 大きな木箱を軽々と肩に担ぎ、荷台に積み上げている。日に焼けた腕。額の汗を雑に拭う仕草。荷を下ろすたびに馬の鼻面を撫でる、ぞんざいだが優しい手つき。


 その横顔に、見覚えがあった。


「——あなた」


 男が顔を上げた。荷を積む手が止まる。汗を拭い、私を見て、一瞬だけ目を細めた。


「……ああ。聖女様か」

「もう聖女じゃないの」

「そうか」


 それだけだった。


 驚かない。問い詰めもしない。哀れみもしない。かつて王都の城で私に生きたいという欲を返させた男――ロアンは、この町で荷運びや力仕事を引き受けながら暮らしていた。時々、商人の護衛や用心棒も請け負うらしい。ただし危険な依頼は断る。命が一番大事だから、と。


 恐怖を取り戻した元騎士の、それが答えだった。恐れがあるから、無茶をしない。退くべきときに退ける。蛮勇ではなく、判断で人を守る。


「飯は食ったか」

「……朝に、パンを少し」

「広場の角に安くてうまい店がある。行くなら付き合うが」


 断る理由がなかった。


 広場の角の食堂は、木のテーブルが四つだけの小さな店だ。豆と野菜の煮込みに、硬いパンを浸して食べる。それだけの昼食。城にいた頃なら物足りないと思うような食事が、体を確かに満たしていく。


「……美味しい」

「だろう。ここのばあさんの煮込みは町で一番だ」


 ロアンは食べ方も話し方も飾らなかった。私に対して構えない。元聖女だからといって遠慮もしないし、追放されたからといって同情もしない。ただ、同じテーブルで同じものを食べる、それだけの相手として私を扱った。


 それが、どれほど得難いことか。


 城では、誰もが私に欲を渡しに来た。あるいは、私の欲深さを遠巻きに眺めていた。奪う側か、奪われる側か。その関係しか、知らなかった。


 ロアンとは違う。奪うでも奪われるでもない。同じ店で昼飯を食べて、時々広場ですれ違って、何でもない話をするだけの関係。


 私は町の安い下宿に身を寄せた。何か仕事を探さなければと思っていたら、下宿の主人が「読み書きのできる人を探している家がある」と教えてくれた。この町には学校がなく、文字を読める大人も少ないのだ。


 読み書きと計算なら、できる。古代語の文献を棚ごと欲しがったあの日々は、少なくとも知識を本物として残していた。


 教会の隅を借りて、子どもたちに文字と数を教え始めた。最初は三人。すぐに七人になった。小さな手が石板の上で文字をなぞるのを、私の指で導く。かつて欲を奪うためだけにあった手が、今は文字の形を教えている。その変化が、少しだけ嬉しい。


 子どもたちと広場にいると、ロアンとは自然と顔を合わせる回数が増えた。荷運びの合間に通りかかれば子どもたちが「あ、おじちゃん」と手を振るし、私が昼に食堂へ行けば、先客で彼がいることもあった。


 約束して会うのではない。町が小さいから、自然とそうなる。その気安さが心地よかった。


 二週間ほど経った頃、町に噂が届いた。


 王都が荒れているそうだ。貴族たちが急に権力争いを始め、騎士団から脱走者が相次ぎ、民が税に不満を爆発させて暴動が起きかけている、と。賢王と呼ばれた陛下もすでに仕事を放り出し、昼間から酒と色に溺れているらしい。政務は進まず、誰もそれを止められない。

 ――玉座で笑いながら杯を投げた、とも。

 行商人が広場でそう話しているのを、子どもたちを送り出したあとの教会の前で聞いた。


 還ったのだ、全部。そう思うと少しだけ胸が軽くなった。……きっと、それでいいのだ。


 野心も、虚栄も、恐怖も、怒りも。私が抱えていたものが持ち主に還って、あの清い世界が崩れ始めている。透明な善意で私を追い出した人々が、今度は自分自身の欲に振り回されている。


 足が止まった。


 戻るべきだろうか。また欲を引き受ければ、国は安定する。私にはその力がある。いや、もうないかもしれない。手袋をしなくなった素手でまだあの力が使えるのかどうか、試してもいない。


 でも、そうじゃない。私は、戻りたくない。それが答えだった。誰かの欲の器に戻るのではなく、自分の足で、自分の欲で、ここに立っていたい。


 昼に食堂で顔を合わせたときには、ロアンも噂を知っていた。


「王都が騒がしいらしいな」

「聞いたわ」

「戻るか」

「戻らない」


 彼は一つうなずいて、煮込みの皿に視線を戻した。それだけで十分だった。


 翌朝。


 朝の教室を終えて一息ついた頃、彼が広場にやってきた。今日は荷運びの仕事が午後からだという。


「少し付き合ってくれ。良い場所があるんだ」


 たどり着いたのは、町の外れの丘だった。別に何があるわけでもない場所だ。草が生えていて、風が吹いていて、遠くに町の屋根が見える。


「重いもの運んだあと、ここに来ると頭が静かになる」

「……わかる気がする」


 どちらともなくら並んで座った。近くも遠くもない距離。肩は触れないが、声は届く。


 風が草を揺らす。雲がゆっくりと動き、どこかで鳥が鳴いていた。


 丘を下りる道で、足元に小さな花が咲いているのが見えた。白い花弁に、薄紫の筋。街道で見たものと同じ花だ。あのとき、泣きながら見た花。


 しゃがんで、指先で花弁に触れた。素手の指で。奪いもしない、奪われもしない、ただ触れるだけの手で。


「そういうのが好きなのか」

「……うん。こういうの、好き」

「そうか、覚えておく」


 自分の声が、自分の言葉が、自分の「好き」が、ちゃんとここにあった。


 隣でロアンが少しだけ笑う。近くも、遠くもない距離で。不思議とそれ以上近づきたいとも、離れたいとも思わなかった。

 ただ、この距離が良いと――そう思う。


 暖かな春の風が、二人の間を吹き抜けていった。

異世界ファンタジーに初めて挑戦してみました。感想などいただけるととても嬉しいです。

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