ほとばしる小水の声の啓示
鈴木克己は卒然と悟るものを感じるのだった。彼は映画プロデュースをしているのであるが、彼のやっていることもまた二項対立的世界観に対して喧嘩を売るための商売ではなかったろうか。それに対して、革命というこれもまた二項対立的思想、より離れたもっと別な考え方でやってゆかないといけない。小水の声は続く。
「チョボチョボ……男と女というのも二項対立ではありますが、日本文化というのは、男の中の男、男の中の女、女の中の男、女の中の女との対話なわけなんですよ。これは、日本の昔からの文学作品に顕著に出ていることでありまして、つまりは、源氏物語ということになりますなあ。これは、自然風物と、男と女がアンサンブルしていることになりますね。で、根底を支えているのが、仏教的無常感ということになります。光源氏は、先ほどの男と女の四要素を全部持っている一つのモンスターなわけでありまして、ジェンダーの集合体、でありまして、それをつまり、藤原道長が持っていた。これは、そのまんま天皇というものの、日本の根底を規定するエロティックにも通じるのですが、日本のエロスというのは、十分にフェティッシュでもあったということでありましょうか。今のルッキズムも、突き詰めれば、花鳥風月の自然論に到達して、天地自然の中に雲散霧消してしまうものであり、究極のフェティッシュは、草花石木化ということになりましょうか。主体を捨てるというのが、フェティッシュなわけでありまして、その究極はつまり涅槃ということにはなりえますね。つまり、フェチな人は、あるいはMな人はその特性をギリギリまで拡張してゆくと、最終的に「動かぬ人」になりまして、それはほとんど悟りの境地ということになりませんか。日本の電車の痴漢行為というのは、盆栽に手を出す人の感覚と同じなのかも知れない。フェチズムの人たちが、触感に目覚めようとしているわけです。それは、そういう系の風俗、つまり、イメクラで満足させていただくとしまして、あれ?僕、何について話をしていたんだっけ。あ、そうそう。脱構築なわけで。そこで、筒井康隆さんなわけでしょ。精神分析と脱構築の知識を既に彼は実践していて、日本人の無意識を描き続けていた。それがドタバタギャグと重なっていた幸福な時期もありました、が、今はどうでしょうか。難しい時期に差し掛かってます。チョボチョボ」