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今年の漢字と流行語大賞とあと何か

苦いとか甘いとかぐちゃぐちゃとか

作者: 黒田皐月

 空っ風の吹き抜ける構内の通りで、ねえねえと笑みを浮かべながら亜子が肩が触れそうなくらいなところまで寄ってきた。こんな時はいつも、突然に何かたった今思いついたようなことを言い出す。

 今日は13日の金曜日、有名な映画を一緒に見たいとでも言いだすのだろう。そうやって亜子が言い出しそうなことの予測の精度は、確実に上がっている自信がある。

「今度の金曜日、予定を開けておいてほしいの」

 いや、それは自惚れだった。

 思いついたことを今すぐと言い出す割合はいつの間にか下がっていて、振り返ってみるとそれに比例するように俺の予測の精度も下がっているのだった。

 子供のようにえくぼを浮かべて笑う亜子。だけど思いつきではなくて予定を立てて行動するようになってきたのは、いつからだっただろうか。

 まだ暑かったころのことを思い返す。

 今年の夏は、それまでよりも二人で遊び歩くことは少なかった。俺がバイトをしていたことは変わらなかったが、二人とも就職活動が始まっていたのだ。

 そうしてどこかに行ってくるたびに、亜子からキスをせがまれた。キスしてくれると安心できるからと縋るような目をする亜子に、俺は母親かと毎度のように思い、何度かに一度は実際に口にもしていた。そのたびに亜子はむくれて、何のかんのと甘えたようなことを言っていた。

 だけど。本当はそれで俺の方もささくれ立ちそうな気分を鎮められていた。

 亜子が俺の予定を伺うようになってきたのも、その頃からだったような気がする。いつの間にか亜子も少しは大人になってきたのかもしれない。いや、確実に大人になっているのだろう。俺はこれでいいのだろうかと、こんな時に思う。


 翌週の金曜日、呼ばれたのは亜子のアパートだった。

 まだクリスマスには早いし、通された部屋にもそんな気配はない。いったい何の趣向なのか、ここへ来てまだ予想がつかない。

 いつもどおり機嫌のよさそうな亜子が、いつもどおり甘そうなお菓子と何か青い缶を持ってくる。

 いや、それはいつもどおりではなかった。青い缶にはお酒と書かれている。

「今日、大人になろうと思って」

 ぎょっとして亜子の顔を凝視してしまった俺に、さらに驚かされるような言葉が追い打ちをかけてくる。

 俺は狼狽を隠せず、多分小さくなかっただろう声さえ上げてしまう。自分の声にぎょっとして硬直してしまった俺に、亜子は意図したようにじわりと、にやけ顔を作って見せつけてくる。

「ふてほどー」

 その顔はなんだと思う程度には思考が戻っていたからだろう、それが今年の流行語だったことは認識できた。

 しかしそれが何を意味して言っているのかはわからなくて、ここでひとつ間違えばとんでもないことになってしまいそうな恐怖感があって、うかつに反応を返せない。

 ひきつったままの俺の顔とは対照的に、亜子の表情はまた変わる。

「大人になるって、こっちのこと」

 いつもどおりの子供っぽい笑顔で、亜子は持ってきた青い缶を指差した。

「お酒は二十歳になってから……?」

「そ。でもなんだか怖くて、ちょっと手が出せなかったんだよね。だから今日、義雄くんがいてくれるところでチャレンジしようと思って」

 言われてみれば、亜子の誕生日にも俺の誕生日にも、酒というものは言葉にさえ出てこなかった。酒を飲んでみたいという願望は俺にはなくて、だから二十歳の誕生日になったら酒という発想が、今の今まで俺にはなかった。

 しかし亜子にとっては、酒を飲むということが大人になるための特別なことなのかもしれない。それを証明するかのように、今度は亜子の顔の方が強張っている。

「で、なんでビールなんだよ。今どき酒イコールビールってわけでもないし、お前が好きそうなカクテルとかでもよかったんじゃないの?」

 そんなことも受け止めてやれない自分はまだまだ子供なんだと内心で反省して、だからとにかく口を動かさせてその顔をほぐそうと試みる。

「せっかく今の時期だから、今年の漢字の金があるのがいいかなって思って」

 なるほど確かにその銘柄には金という文字がある。

「いやでもお酒にチャレンジすることと今年の漢字って、何の関係もないだろ」

「だってこの前テレビを見ながら思いついたんだもん。その時に見てたのが、今年の漢字だったの」

 今年の漢字が発表されたのは、先週の木曜日だったような気がする。つまり亜子のこの行動は、まあまあ思いつきだったわけだ。

 亜子も亜子でまだ子供なところはあるのだと、自分と同じくらいのところにいてくれていることに何となく安心してしまう。

「で、最初は金箔入りの日本酒とかって思ったんだけど、瓶一本飲みきれなかったらどうしようって思ってやめて、散々考えてこれにしたの。一週間開けといてよかったよー」

 そんな不埒なことを考えている俺をよそに、亜子はこのビールが選びに選んだ特別なものだということをまくしたてる。かなり早口なのははしゃいでいるのか、それともまだ緊張が残っているのか。

 それを確かめるためにも何か声をかけなければいけないかと思っていたところに、今度は亜子がひと声上げてしゃべるのを止めた。

「あんまりしゃべってる場合じゃないよね。せっかくのビールがぬるくなっちゃう」

 そうやって気を遣うようなことを見せるようになったのも、就職活動が始まったころからだったと思う。亜子も亜子で、就職活動の中で揉まれて苦労してきているのだろう。

 俺が缶を手に取ると、亜子も同じように缶を持った。目を見合わせて二人とも何となく小さく笑って、プルトップを開ける。炭酸飲料にありがちな空気の抜ける音が響くくらいに大きく聞こえた。

「大人になる私たちに、乾杯」

 何か言ってやった方がいいか迷った一瞬の差で、亜子が缶を軽く当てた。下から当てるのは相手を立てることを意味している。いつの間にそんなことまで勉強していたのかと軽く驚いて手元から目を上げると、その亜子は俺にはお構いなくもう缶に口をつけていた。

「乾杯」

 ここまでがんばった亜子に報いるため、俺も後を追って泡混じりの最初の一口を含む。

「にがーい」

 顔の全部をくしゃくしゃに真ん中に集めるようにして、亜子が正直なことを言う。それは写真に残しておきたいくらい変な顔だったが、しかしそれを笑うよりも、ここまで亜子ががんばったことへの感心の方が勝った。だからそれは、記憶だけにとどめる。

「無理して先に飲み干そうとするな。食いながらでいいんだ」

 それでも再び缶を持ち上げようとする亜子に、たまらず声をかける。亜子も相当無理をしていたようで、素直に聞いてくれた。

 だが、缶を空けた時には立場は逆転していた。

「義雄くん真っ赤っかー」

 自分でも耳まで赤くなっているのがわかるほどの俺とは対照的に、亜子は平然としている。ビールの味は好みではなかったのだろうが、酒は受けつける体質なのかもしれない。

「もしかして、義雄くんもお酒初めてだった?」

 思考も多少鈍くなっているのだろう、恥ずかしいとも思わず、俺は素直にうなずいていた。代わりに、二年ほど前に二人で蕎麦屋に行った時に冗談で酒を飲んでみようかと言ったことを思い出して、あの時は断ってくれてよかったなどと亜子に感謝していた。

「ねえ。キス……しよ」

 その言葉に心臓が跳ねたのは、亜子がさっきまでのように笑いながらでもいつものように甘えてでもなかったからだと思う。

 俺が答えるよりも先に亜子の手が俺の頬を包み、そして唇が柔らかく触れた。

 その温かみを一心に感じるように、俺のまぶたは閉じていた。

 ふわふわしたものに抱かれて、眠っている間のように時間を感じない。

 夢から覚めたような感覚でまだ目が焦点を結んでいないような俺に亜子が語りかけてくるのが、耳に入ってくる。

「私、がんばったよ」

 何を言われているのか理解する以前に、ただうなずく。

「義雄くんがキスしてくれたから、好きっていつも言ってくれたから、だから私はがんばれたの」

 亜子の顔は息が届くほど近くにあって、目の焦点は合わせられない。

 亜子はいつもと言ったが、俺が好きという言葉を亜子に向かって言ったことは、多分ほとんどない。しかし亜子が言っているのは、そういうことではないだろう。

「周りに合わせなきゃってするの、できそうもなくて辛い時もあった。でも全部はできなくてもいいって、そんな私でもいいって義雄くんが言ってくれて、それで私、すごく安心できたの」

 亜子の言っていることが、染みこむように入ってくる。それは理解というよりも、甘く溶けるものを味わうような感覚だ。

「キスって、いいね……」

 何がいい、なぜいい、どういい、そんなことは何も言わないし、俺にもわからない。

 ただ、万感が込められたような吐息に、自然とうなずいていた。

 まだ思考は焦点を結ばず、何かふわふわした感じがする。

「キス、してくれないんだ」

 いたずらっぽい笑みと声音でようやく、俺の思考は戻った。

「大事なものだからな。無暗にはしない」

 目を見て言うことは、できなかった。


 街灯を頼りにしなければならないほど暗くなっているのに女の子に送らせることなどできなくて、亜子の好意を無視して一人でアパートを出た。

 酒のせいなのか気分のせいなのかわからない酔いはだいぶ醒めていて、その余韻もあっという間に冷たい風に吹き散らされた。残るのは恥ずかしさばかりで、逃げるように足が早まる。

 歩きながらいろいろと考える。ぐちゃぐちゃといろいろ考えたが、それでもあのふわふわした感覚は嘘でも幻でもなかったと認めるしかなかった。

 あの時亜子が言っていたことは、理解以前に、あるいは理解よりも深く、そういうものなのだろう。それを真っ向から認められない俺の方が、子供なのかもしれない。

 白く煙ったため息を追って空を見上げると、点々と光がいくつか見えた。緑色の光は一直線に動いていてそれは飛行機なのだろうが、それ以外の白い光は星のはずだ。星なんて見えるものだったのだと、そんなものさえ見えていなかったのかと、自嘲がこぼれる。

 もっと広く周りを見れて、それをちゃんと受け止められるような大人になりたい。それはただ願望のままにしておいてはいけないもので、だから、誰に聞かせるでもなく、しかし自分一人に閉じこめないように、そう呟いた。その声もまた、白く煙る。

 まずは真っすぐ亜子に好きと言えるようになること。だけどそれは、さっきの呟きで口の中が冷たくて、声に出すことはできなかった。

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