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9.別れと旅立ち

 長期休みから明けた職場ほど、だらりとした雰囲気が流れるものもない。


紫恩(しおん)、年末間に合わせてくれてありがとうな」

「あ、千堂(せんどう)さん。あけましておめでとうございます」


 コタツから引っ張り出した犬か猫みたいにしょねしょねしたわたしとは違い、赤也は年明け早々からスーツをピシッときめた姿だった。さすがは営業マンというべきか、初日からよくもというべきか。そんな寝ぼけまじりの感想を抱くわたしに、赤也(あかや)はおめでたそうな柄の紙袋を差し出してくる。


「おう、あけおめ。これ、もらいもん」

「いいんですか?」

「六社分あいさつ回ったからな。もう営業じゃさばききれんのよ」


 そういう赤也の左腕には、たしかにまだまだたくさんの紙袋がぶら下がっている。


「じゃあ遠慮なく」

「おう。コピー喜んでたぞ」

「あ、どうも……」


 彼の言うコピーとは、映画のキービジュアルとアイキャッチ案をいくつかあわせたデータのことだ。映画自体は夏に向けたよくあるホラー作品で『記憶を消してまで忘れたい話』などいくつかを添えていた。


 ――どっちかと言えば、年末の出来事を忘れたかったよ……


 そんなことを思い浮かべている間に赤也は、もう他の制作担当の席で肩に手を回していた。


「ちょっと外の空気でも吸うか……」


 どうにもアクセルがかからないわたしは、外の風にでも当たろうと隔壁――もといオフィスから外へ出る扉を開ける。この先は、普段のわたしなら赤也に誘われない限り足を踏み入れない場所だ。


 ――けれど、先輩ともよく出会う場所でもある。


 期待がなかったかと言えばウソになる。けれども、心の半分くらいは、先輩とどう向き合うかで曇っていた。


 脳裏には昨年末の、琉美(るみ)がしたハサミのような左手が浮かんでくる。

 ――先生と先輩の関係は……。


 わたしは、まるで沼の中に踏み込むように、そして蜘蛛の巣の奥を見つめるような視線で、植栽の囲いを覗き込んだ。


 そこには、80年代に輝かしい実績を残したミステリー映画よろしく、刈られ造られた動物がいるなんてことはなく。


 先輩がいつものような丁寧さで、灰皿を磨いていた。


 -


 これまで気づかなかったが、先輩がことさら丁寧に灰皿を磨いている様に見えたのは、その視力のせいだろう。よく見えないからこそ、顔が近づく。顔を近づけて何かを磨く仕草が、丁寧に作業しているように見せていたのだ。


 同じ理由で、捨てられていった紙からわたしの名を見つけている可能性も限りなく低い。これも当然だろう。大小様々にある文字から正確に誰かの名前を見つけ出すのは、視力が充分でも難しいからだ。


 先輩が仕事にひたむきであることまで疑うとは言わない。けれど、わたしが抱いていた『境遇変われどひたむきな先輩を推す』という図式は、砂上の楼閣(ろうかく)かのように、心許ない拠り所に思えてしまう。


「紫恩、お前いくなら俺を呼……うおっ」


 そんな、追い討ちされているような状況の中で起こったガシャンという音に、わたしは振り返った。


 それはまるで、いつぞやの三石(みついし)をわたしに思い起こさせた。目の前の事件的事象とあわせ、既視感がスローモーションのように頭をよぎる。

 三石は高校時代、己に課せられた不幸から『デスティニー』を冠するにいたった存在だ。


 そしていま、突発のトラブルに襲われた赤也は、清掃用のバケツにでもけつまづいたか、それとも足でもすべらせたのか、ともかく、大胆に手と足をクロスさせながら身体を傾けている。


 彼の、わたしから見れば一張羅(いっちょうら)のスーツがひらりと広がってふわりと舞う。ぐるん。まるで赤也は着地に失敗したフィギュアスケーターだ。ぎりぎり転ばない強靭(きょうじん)な体幹で、何とか姿勢を立て直そうと灰皿に手を付いた。


 けれども、わたしが手を差し伸べる間もなく、灰皿は支柱の役目を果たさずに倒れていく。ガララン、と床を叩いた鉄柱のすぐそばには、ようやく気付いたらしい先輩の視線が、緩慢に赤也の姿を追いかけていく。


「あっ……」


 ――危ないです、先輩。そう声をかける間もなく、踊っていた赤也は手で宙を泳ぎ植栽を抱き寄せる。そうしてそのまま、木に飛び込んだ。


「す、すいません! 大丈夫ですか?」


 コメディ映画のワンシーンさながらの光景に慌てて、老いた清掃員が赤也に声をかける。


「ま、まぁ……。なんとか、な」

「千堂さん、よく耐えましたね。まるで高校生の動きでした」

「それ、ほめことばか? バカにしてないか?」


 赤也は葉っぱを払いながら植栽から立ち上がった。すぐあと、先輩がぽかんとした表情を一変させ、口を開いた。


「デスティニー……。いや、あの、すいません。汚れませんでしたか?」


 わたしはその、先輩が小さく呟く言葉にはっとした。


「あー、大丈夫。大丈夫です。正月ボケだから、気にしないでください」

「すいませんでした」


 破顔する赤也へ丁寧に一礼して、先輩と老いた清掃員は植栽の檻を抜けていく。息を飲み先輩を目で追っていたわたしの背中に、軽い衝撃があった。


「危なかった。おれだってコレ行きたかったんだから、声かけてくれよ」


 赤也は煙草を吸うための仕草に、左手を二本立てている。その瞬間、バカみたいな話だが、わたしには全てが繋がった。


 ――先生がしていたのは。


「ちょいすいません」

「ん?」


 火をつけている赤也を置いて、わたしは先輩の後を追う。足を動かしながら、わたしは厳しかった先生と、チームを引っ張る先輩のことを思い出していた。


 先生は、決して足を止めることを許さない人だった。ましてやそれが、苦しい状況であればなおさらだ。


 北風と太陽であれば、間違いなく北風サイドだろう。けれど、その風はむりやり衣をはがそうとするのではなく、乗り越えることを期待する、麦ふみのような優しい試練だった。


 ――そんな先生を義父としようとした(かえで)先輩が。


 過去に囚われ足を止める『先輩』になんて、なるはずがない。それに、過去を斬り捨てる『推し』だなんて、解釈違いも甚だしい。


 わたしは、ようやく辿り着いた答えを胸に、植栽の迷路を早足で抜けた。


「年かなぁ。水バケツが重くて」

「どんまいです。次、取り取り返しましょう」


 ――あぁ、そうか。

 わたしは楓先輩の声を耳にして確信した。やはり違ったのだ。先輩は不幸な事故に遭い身体を痛め、大事な人と恩師から別れを突きつけられてしまった存在ではない。


『ドンマイ、紫恩。次、取り返すぞ』


 社会の片隅にある小さな清掃用具置き場が、大切な思い出の詰まった、あのコートと重なっていくのをわたしは感じた。


 試合中にわたしがヘマをし肩を落としたとき、どれほど楓先輩に、ああして励まされたことだろうか。


「先輩! か、楓先輩!」


 わたしは会社では出したことのない声量で呼びかけた。


「? ど、どなたですか?」

「し、紫恩。柚木(ゆずき)紫恩です。覚えて……いますか?」


 先生は『桜城も俺の誇り』こう言っていた。だが、それに矛盾するようなふたりの『縁切り』疑惑。それは、琉美の目撃談で、先生がしていたハサミと背中を叩くような仕草が発端になっている。


 ――しかし、だ。

 そこに、琉美にはわからない、いや、わからなくて当然の意図が含まれていたとしたら。


「その声……もしかして」


 先輩の視線が、自身に向かってくるのを感じながら、わたしは先生からコートに送り出されるときのことを思い出していた。


 それは、バスケットボールで数字をあらわすときの、左手でハサミ、つまり背番号『7』、もしくは『12』を表すサインだ。


 そして背番号『7』それは、エースを表し、他でもない楓先輩が背負っていたもの。それに――。


「そうです。先輩から背番号『7』をもらった、柚木紫恩です」


 同じ『7』をつけたからわかる、先生からのサインだった。なぜ忘れていたのを恥じるくらいには、コートに送り出されるときいつもやられていた仕草だ。


 背中を叩かれ、それから背番号『7』を――左手の二本指で表して――


『行ってこい』


 そう、背中を押されるのだ。


 -


「それでその後、桜城(さくらぎ)楓さんとは?」

「先輩は四月頃に退職して、地元に戻りましたよ。あとで聞いた話だと、先生の定年まではこっちで頑張るって決めていたみたいで」


 その人との五度目の面会は、桜が若葉への衣替えを済ませ、時おり日差しに目を伏せたくなるような空の下だった。


 それはちょうど、開けたばかりのサイダーが香るような風が、白いガーデンテーブルで向き合う二人の間をさらさらと通り抜けるようで、バルコニーを漂う週末の金木犀(きんもくせい)だけがぼんやり輪郭を残していた。


「あらら、それはつまり」

「『推し活』はおしまいです。ただの、先輩と後輩に戻りました」


 憶測した通り、先輩と先生の仲違いは行き違いゆえの仮説だった。あとから先輩に聞いたところでは、年末の会に同輩がいなかったのは、彩芽(あやめ)さん――先生の娘さんの元へ、みなで定年の報告をしに行っていたから、らしい。


「ふふ」

「おかしいですか?」

「いいえ。実に残念そうだなって」


 控えめに笑う彼女の言葉は、きっと目の前にいる男の現状を的確に表していることだろう。


 彼女にしてみれば、会うたびしてくる、接点のない人物との近況話がようやく終わるというのだから、それは待ち望んだ次クールドラマの予告が始まったのに等しいかもしれない。


「そうかもしれませんね。すっかり先輩を『推す』のが、ルーティンになってましたから」


 もしかすると、家庭菜園のようなものと勘違いをしていたかもしれない。水や世話を与えればトマトがなるのと同じように、イチゴも実を返してくれるというのは誤りだ。


 統計によると、初恋が実るのは約15%だという。では、『推し』と結ばれようものなら、その確率はいくらだろうか。


 ――少なくとも、先輩とは0%だったように思う。


 まるで、天に唾するのか、鏡を罵倒するかようで、遅かれ早かれ、この決着になるのはわかっていたのだ。


「ふうん。それじゃあ、どうします?」

「どうする、とは?」

「あらら、そこから言わないといけませんか?」


 五回目の会合。さすがに、決着をつけねばならないことは、双方理解していることだろう。


「……そうでしたね。では僕と、両推しに――、」


 それでも少し気恥ずかしく『推し』で濁そうとした口先を、先ほどよぎった確率論が堰き止めた。


 ――16歳から等距離。確率0%のわたし、ではいられないか。


 男らしく、などはひどくあいまいで、それでも先輩が彩芽さんを選んだように、僕も選ばなくてはいけない。

『推し』であった先輩は『先輩』に戻ったけれども、僕がわたし、に戻ることはもうないのだ。


 男は、少しだけ間をあけて口を開く。


「いえ、こんな僕で良ければお付き合いしませんか」

「ありがとう紫恩さん。こんな女でよければ、喜んで」

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