8.夢と現実
その掲げられた手はまっすぐ天をつき、踏み込んだ足が生み出す飛翔のベクトルは、Y軸を龍が如く一直線に上る。遠く見据えられた瞳には一切の迷いがなかった。
楓先輩が立つのは、タイムボードがブザービートを告げる瞬間の、広さ420m^2からなる四方形に引かれた楕円線の間近だった。
――試合終了の音が鳴り響く。
それと同時に放たれたボールの放物線は、まるで当然の終着点かのようにゴールへ吸い込まれる。
割れるような大きくて黄色い歓声と、三つカウントアップされ逆転するスコア。
遠く離れて見つめるわたしは、12番と書かれたユニフォームを身につけてほうけていた。いや、目を奪われていたと言ってもいい。美しくも端正なフォームでゴールを決めた楓先輩の姿。
もう一度、見ることができて、わたしは幸せだった。例えそれが、新年の初夢だったとしてもだ。
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年越しから初日の出を済ませた四日間の里帰りから、都会の自室へ戻ること二日。
何通かの年賀状が届いたほか、1LDKの住居に変化もなく、わたしはぼちぼち開き始めたスーパーで当面の食事やら飲み物をやらを揃え、ささやかな正月生活を送っていた。
あえてあげるような唯一の出来事と言えば――。
『あけましておめでとうございます。年末年始はどう過ごしましたか?』
初夢期間も過ぎたころに来た、四度会ったあの人からの、どこかのんびりとしたメッセージだった。
もちろん、新年のあいさつがてら、お決まりの返事をすることもできたことだろう。
けれどもわたしは、年末の帰省で起きたこと――。推しの沼に踏み込んで闇の一端を覗き込んでしまったなんて、どう迂回した表現をしたとて言えるわけのないことから抜け出せず、失礼にもただただ返事を保留していた。
――嫌になっちゃうよ。
見たいと言うよりは、仕事のクセでつけているテレビ画面の中では、きらきらとした金箔や晴れやかな紅白の和装に身を包んだタレントが一芸を披露している。
乗っかっちゃえばいいじゃん 飛んでいく龍に
ほっぽっちゃっていいじゃん 他人の流儀
友達も 親子も 婚約者さえも 積んでく理由に 放る法螺 懐かしい
辰年にあわせた流暢なラップのあと、今年は元気にしたいだとか、海外ロケや映画に挑戦したいだとか、芽の出始めた才能たちは語っていく。
彼らの市場価値は、今年一年でどこまで昇るだろうか。龍のようになるか、それともかっぱのように流されるのだろうか。
芸能の世界へ足を踏み入れる者は、そのほとんどが夢や希望をいだいて乗り込んで来る。魅力と才能を原動力にする彼らは、多くの目で値踏みされ、数値化される。
結果として彼らは、ときに現実に揺らぎ、ときには幸運を掴み、その運命を流転させていく。
わたしは、彼らに企画と言う名でチャンスを提供することもあれば、数値化された結果でそれを奪うこともある。
そこに、わたし個人の思い入れや、彼らの夢への共感や現実的な問題は入り込まない。
――バーターだろ。キミたちは。
わたしは皮肉めいた気持ちでそう呟いてテレビを消した。心の隙間に、休みという空白が容赦なく流れ込んでくるのを感じた。
本来、この空白を埋めるべき、揺らいでしまう気持ちを癒すべき相手がいまのわたしにはいない。
長くやり取りをした四度目に会うあの人も、淀みなくゴールを決めた夢の中にいた憧れの先輩も、どちらもいないのだ。
――職場で楓先輩に会うとき、どんな顔をすれば良いだろうか。
ひたむきに仕事をする、過去から切り離され再会した『推し』を、私はそのままで見つめることができるのだろうか。
それとも、過去からの延長線上にいる、事故と別れを経験して偶然邂逅した『楓先輩』として認識するのだろうか。
『推し』とは彼らが夢や希望に向かって、障害を乗り越えていく姿を見つめる、成長や進化の投影だ。
わたしが先輩に見ていたのは、変わってしまった互いの境遇の逆転。言わば、社会生活でもわたしの遥か先を飛翔してほしいという願望に他ならない。
わたしに、正月からマスメディアで夢を語れるほどに、芽が出て花開いた才能はなかった。だからこそ、先輩が『推し』でいてくれるのであれば幸せだったし、擦り切れるほど当たり前と言われる安寧を目指して、五度目の約束が取り付けられているのだ。
――16歳と192ヶ月か。
わたしは考えるのが嫌になって、翌日から仕事になる最後の休日を、何もしないで過ごした。