7.先生(後)
「先生! おつかれさまでした」
「おぉ、来てくれていたのか」
いくにんかの見知らぬ男たちが竹宮先生を囲んで談笑を始め、わたしたちはそれと入れ替わるように壁際へ向かっていく。
「琉美さ……。知りたいんだけど、楓先輩とその……先生の娘さんとのこと」
「わかってる。私はさ、先輩と彩芽さんの……搬送時にいたんだ。病院に」
「うん」
琉美は看護師で、先生もたまに訪れると言っていた。ゆえに、そういうこともある、それは想定――いや、心構えができていた。
「10年くらい前かな。私にとっても初めてのことだったよ。知り合いがあんな姿で搬送されてくるなんて。だから、すごく覚えてる。『桜城楓』って書かれたカルテも、持っていけって言われた輸血パックも」
わたしは琉美の回想を前に、ただ息を吸って、吐くしかできなかった。
「ていうか、どこまで聞きたいの? けっこう重たいけど」
「……詳しくは言えないけど、先輩にはすこし、心当たりがある」
琉美は天井を仰いだ。やがて正面に向き直り、わたしに目で合図をする。
――外で話そう。彼女はグラスを持ったまま、速足で会場の出口へ向かって歩き出していく。
わたしはその後ろに続く。会場からすこし外れた通路の奥、押し扉に閉ざされた踊り場で、琉美は壁へ背を付けた。
「話すけど、内緒だよ」
「わかってる」
気づけば、琉美の目つきは同級生のそれから、看護師の色を帯びていた。
「搬送されてすぐに手術が始まったの。何度も見ていたはずの、手術を待つ人たちの気持ちを理解できたのはそのときからだった。5時間くらいかかって先輩の手術は成功。ただ、一緒に搬送されてきた先生の娘さんは違った」
「それって……」
「うん。良くなかった。でも、当時は先生の娘さんだって気づかなくてさ。私は先輩のことに引きずられないよう、必死で役目を果たしていただけだったよ。だから翌朝……急に竹宮先生が面会にきて、顔色も真っ青でさ。何が起こったのかわからなかった」
「……そうだったんだ」
それは、必死に言葉を探して、ようやく一言だけ絞り出せた言葉だった。
「こっちは仕事っつーか、一応看護師だったし。ちゃんとできてたのかわかんないけど。泣きそうなのを抑えて先生……あ、医師の方ね。同僚が竹宮先生に、ふたりの容態を伝える横で立ってた」
そこで琉美はふー、と大きく息を吐いてグラスをあおった。
「先輩は足に軽い運動障害と、視力がほとんどなくなった。琉美さんは意識が戻らなかった」
「……」
「楓先輩が退院するまでは1カ月くらい。ほとんど話す機会はなかった。わたしが避けてたのかも。娘さんは、その二ヶ月くらいしてから亡くなった」
「じゃあ、楓先輩と彩芽さんは……」
――死に目にも会わず、先輩は行方知らずとなった?
楓先輩にかぎって、そんなことをするのかわたしには信じられなかった。一体、二人にどのような不幸が訪れたとすれば、それほど事態はねじれてしまうのだろうか。
「正直言うね。そのあとはわからないの。でも、先輩と先生が彩芽さんの病室にいるのを、一度だけ見たことがある。先生が先輩の背中を何度か叩いて、こうやって……ドアに向かって押し出していた。だからきっと……」
琉美はまるでハサミを表すようにした左手をわたしに見せた。その仕草にはっとして、わたしは憶測をそのまま口にする。
「縁を切る。娘とは……会うなってこと?」
「……かもね」
「何かさ、それって……」
わたしが気色ばんだとき、琉美がさえぎった。
「事故って、そういうもんなんだよ」
「……」
「だから、紫恩のお母さんも話さなかったんじゃないかな」
琉美は看護師で、母は葬儀社。どちらも事故のあとに、何が起こるのかをわたしなんかより詳しく知っている。
不幸な現実。突然訪れる日常の破壊は、その当事者に大きな爪痕を残してしまう。
ーー聞けなくて、当然だ。
さすがに、ここまでのことは想像していなかった。当時のわたしが先輩に抱いていた気持ちを知っていた者は、たしかにいない。
けれど、知っていたとして、この一連を伝える人が果たしていたのだろうか。
――学生時代の優劣幸不幸なんて、体感ほど大きくないのかもしれない。
そう考えてしまうほどの出来事だった。わたしと楓先輩の関係は、先輩の卒業を機に途切れてしまっている。その後、そう時間が経たない間にこれほどまでに先輩の人生が変わってしまったとあれば、いま職場で、偶然にも再会したことは、むしろ奇跡にも思える。
わたしがわざわざ里帰りしてまで手に入れた先輩の過去はただ重苦しく、やはり安易に覗き込むべきではなかったのだ。
たしかに、推しの沼から黄金や銀が出てくることなんて、そもそもが希少だ。けれど、今回に限って言えば、想像するよりも辛く救いのない荒野が広がっていた。
「仕事、行きたくないなあ」
わたしの年末年始は、陰鬱に終わってしまった。
心の癒しにしていた推しの過去、そんなものはやはり、追いかけるべきではなかったのだ。