6.先生(前)
わたしと琉美は空白の16年を埋めるように、言葉を交わした。同学年の人らは、不思議とほかに見当たらなかったし、あおったグラス半分のビールと場の雰囲気が、思いのほか会話に花を咲かせてくれた。
「ごりごりは工場でしょ。あと紫恩が知ってそうな人だとー……」
わたしは、何度も怪我に泣かされた不運な男子のひとりを思い起こした。
「みっつーは?」
たしか彼は、高校三年間で何度も足やら腕やらをギプスで包んでいた。自転車の事故に始まり、部活中の転倒、他にも階段を踏み外したなんてのもあった。
中でも彼が不運の称号を贈られることを決定づけたのは、遠征中に遭遇した交通事故だろう。
ニ列縦隊で最後尾を歩いていた彼は、部員が手遊びをしていたバスケボールが転がったのを拾おうとして、電柱に頭をぶつけ、そのままボールに足を取られた。
見事な失敗玉乗りを決めた彼は道路に飛び出し、ぐるんと側転……買い物帰りの自転車主婦に轢かれたのだ。
あのときのルーブ・ゴールドバーグ・マシンのような、ドミノを崩したような一連の動きは、目撃者の間では卒業までの語り草になった。
以来、彼には大げさなあだ名があったはずだ。たしか……。
「みっつー? あ、えーっと、ほら。デスティニー三石!! あれマジウケたよね。あいつは確か……、不動産屋? だったかなぁ。実家継いだって」
「逆転してんじゃん!」
実家が不動産屋を営み、それを継げるなんて、どれだけ幸せな人生だろうか。不運の称号『デスティニー』が急にうらやましく思えるから不思議だ。
「ね。でも、女運は悪いらしいよ」
「草生えるわ」
それから、信用金庫、飲食、農業、公務員――。つらつらと出てくる懐かしい名前とその進路。琉美をはじめ、旧友は地元に根を張り、各々の生活を送っていることがわかった。
もちろん、所在のわからない者やいなくなってしまった者、SNSで一発当てただのと言った、眉唾な者もいる。
「みんながんばってるんだね」
わたしがそんな、月並みな感想を呟いたとき、入り口の方から拍手と歓声が起こった。
花束を手渡され、ゆっくり傾きながら歩いてくるのは、白髪の増え少しやせた先生だった。
――なんだか先生、ずいぶん変わったな。
定年を迎える、それの意味するところは、わたしより三十年先を生きているということだ。
十代から三十代は『成長』と言えるかもしれない。しかし、三、四十代から六十代は多くのひとが『老い』と呼ぶことだろう。
「やっぱり先生、急に老けたわ」
「そうなの?」
「うん。先生、うちの病院にもたまに来るんだ……」
「そうなんだ……」
言いつつわたしは、母の言葉を思い出していた。
『先生の奥さん、亡くなられたんやで。娘さんも早くに……やろ?』
竹宮先生の家族構成をわたしは知らない。けれど、娘のほかにお子さんがいたという話は聞かない。
この国の平均寿命は80歳を超える。それを考えれば亡くなられた二人は若い。
だが平均は平均で、いなくなった者たちと同様、若くして人生を終える者も多く存在するのだ。
「みんなが来ないのは、たぶん楓先輩とのこともあると思うし」
「……楓先輩と先生、なにかあったの?」
楓先輩と先生の娘さんの間に起こった何か。もともとわたしは、その確信に迫るためこの場へ来ている。琉美との再会は嬉しい副産物だが、本懐を忘れてはいけない。
「あー、紫恩は知らないか……」
琉美は少し目を細めて、先生が壇上へ進んでいくのを見つめている。
やがて先生は、マイクの前に立つと話始めた。
「えー、今日は、こんな私のためにみんな集まってくれてありがとうございます」
「たけせんせー!」
深々と頭を下げる先生に、呼びかける声が続いた。
「妻がね、この間いなくなって。私もずいぶん弱くなったと思ったんですけど、こうして、皆さんたちが色々準備してくれたおかげで、私も嬉しいです」
正直、わたしは驚いていた。声や姿からは、あの頃の厳しい先生の姿が失われていたからだ。
少しでも走るのを緩めたり、足を止めようとしたときの怒気をはらんだ激励。そんな覇気が消え去っていた。
「紫恩、先生のところいこ」
「う、うん」
わたしは琉美とともに、先生のところへ赴くものの、何て声をかけて良いか分からなかった。
「先生、おひさしぶりです」
「先生が定年だからって、紫恩は久しぶりにこっちに帰ってきたんだって」
その発言はわたしの胸に刺さる。先生のためだけじゃない。わたしは、楓先輩の動向を知りたくて来たのだ。
その過程でまさか、これほど変わってしまった先生を目にするとは思っていなかった。
「紫恩か、ひさしぶりだな。元気でよかった」
「先生こそ、ぜんぜん変わっていませんね」
見えすいたおべんちゃらだ。ここまで変わってしまった姿を見た以上、たしょう見え透いていたとて、励まされる言葉をかけずにはいられなかった。
「それならいいんだがな。君のお母さんには色々してもらった」
「母も先生によろしくと言っていました」
「そうだな……彩芽のときも世話になった」
わたしは聞き慣れないその名前を反芻する。
「先生……楓先輩は……」
琉美が、先生に訊ねる。先生は首を横に振って答えた。
「竹宮先生、母から聞きそびれて事情もわからず来てしまいましたが……」
「いや、ありがとう。嬉しいよ」
先生は赤い背もたれのチェアへ大きく背を預けた。
「柚木の代からは電報や手紙をもらってる。ただ桜城はな。仕方ないんだ」
「楓先輩……ですか?」
「あぁ、ありがとう」
わたしは癖で先生のグラスにビールを注いでいた。
「桜城と彩芽……娘は将来を約束していたみたいだった」
わたしは静かに息を呑み、うなずく。先生はすこしだけ手を震わせて、グラスに口を運ぶ。
「でも、事故でな。二人とも……。それで……。俺は養父とも教師ともつかないことをしてしまった」
「そうだったんですか」
そこで先生は琉美へ視線向ける。琉美がゆっくりと頷いた。
「まあ、俺はこの通り心配いらんよ。晴れて無職の身だが、ここに来てくれた奴らや君らが……もちろん、桜城のやつも、俺の誇りだ」
わたしは、なんの言葉も紡ぐことができなかった。
知っています。楓先輩がどこにいるのか、何をしているのかを。なんだか変わってしまっているけれど、わたしは今の先輩推しています。
なんて、そんなことを言い出すことはできなかった。
「桜城は、わかってくれただろうか」
先生のポツリとした呟き。
けれどやはり、わたしにはあまりにも知らないことが多すぎて、何も言えなかった。