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4.推しとの距離

 日本で人口密度がもっとも高い都市から、地方の人口三十万都市へ。新幹線でおよそ二時間かかる道のりの間、車窓の景色は次々に移ろっていく。


 目的地へ進むほど、高低さまざまなビル街は緩やかな丘陵や田園、そして機械が集まる工業地域へと表情を変えていった。


 ――変わらないな。


 駅からバスで県道を下ると、やがて馴染みのある店や見覚えある家屋が視界を占めていく。停留所から信号を渡り、住宅街を歩けば実家までは数分だ。


「ただいま」

「おかえり」


 母に迎えられて入る実家のリビングは、相変わらず日差しが優しく、片付けられたテーブルには菓子鉢が置かれている。やや踏みしめられたカーペットに荷物を降ろすと、父が声をかけてきた。


「どうだ、向こうは?」


 父はひと通り仕事のことやら、生活はどうかだの聞いて「元気ならいい」と早々にリビングで寝転び始めていた。

 母はといえば、出迎えと歓談のティータイムのためにキッチンへ出向いている。


 ――白髪が増えたかな。


 久しぶりの里帰りと言っても、母も父もわたしもそうそう変わるものでなかった。

 もちろん、気づかないだけで目に見えない血圧やコレステロール、酒を飲む父にいたっては肝機能やらが変化しているかもしれない。


 わたしも自身の肌や髪質に気遣いの必要を感じるだけに、父や母の健康は気にかかってしまう。考えたくないが、年に一度の帰郷とすれば、あと三十回程度しか会う機会はないのだ。


「そういや、あの怖い先生もう定年なんだら(だよね)?」

「せやな」


 わたしはホットミルクティーに小さじ一杯の砂糖を加え、お供のバターとナッツの香るクッキーを摘む。母は出涸らしになりかけたティーパックをスプーンでカップに押し付け、砂糖を小さじで三杯入れた。


 苦みと甘みがごたまぜになったであろうそのストレートティは、いつか母が語ったダイエット宣言とは無縁に見える。


「だもんで、えらく集まるんよ」

「あぁ、そうなんや。かあちゃんの勤め先、あそこでしょ。だから、奥さんのことも聞いてて。先生によくよく言っといて」

「別にええけど、なんの話?」


 わたしは首をひねる。母の勤め先は葬儀屋で、誰それが病気だの、遺産がどうだのといった、後ろ暗い噂もよく拾ってくる。


「あんた知らんかったんか。先生の奥さん、亡くなられたんやで。娘さんも早くに……やろ? だで」

「え、そうなん。知らんでそれ……」


 先生の家族。高校生だったときのわたしは、そこに思いをはせることはほとんどなかった。

 当時のわたしにとってあの先生は、厳しい部活の顧問であり、サングラスをかけながら体育教師と談笑する、数学担当の教師だったのだ。


 十六歳から等距離。遠くまで来たからこそ、あの頃の光景もずいぶん俯瞰(ふかん)できる。当たり前のことだが、先生にも家族がいて生活があった。それにも関わらず、情熱を持って接してくれていたのだ。


「娘さんと(かえで)くん、ええ仲だったのになあ。あれはきつかったわ」

「ちょっと待って」


 どうしてここで、(かえで)先輩の名前が出てきたのか。母の何気ない言葉に、わたしは強く反応していた。

 母はしまったという顔をして、突然、わざとらしく立ち上がった。


「父ちゃん、寝るなら布団敷きい。せっかくなのに、何してん」

「母ちゃん! 待って、まってや」


 わたしは母が何を知っているのか問いただしたかった。


「いーや、父ちゃんが先や。風邪ひかれたらたまらんき」


 そんなわたしの思惑を察しているだろう母は、これで終わりだと言わんばかりに、ふがふが寝言を続ける父を揺すり立ち上がらせる。


 ――先生の娘さんと楓先輩の間に、何があった?


 男女のあれこれから、単なる日常に訪れた事故や事件まで、いくつもの想像が泡のように浮かんでは消えていく。けれど、それらは何の裏付けや確証もなく、妄想の域を出ない。


 それでも、わたしは確信していた。ほとんど直観、いや、決めつけと言って良かった。


 ――楓先輩が変わってしまった理由、それは先生の娘さんとの間で起こった、何かのせいだ。


 もちろん、先生の娘――その存在をわたしは忘れていた。そもそも、自分から連なる人間関係の一部に、彼女が存在しうることを想像だにしていなかったのだ。


 遠く薄れた記憶中にだけいる彼女とは、数度顔を合わせたことしかない。

 たしか、わたしとそう年の離れていない女性で、部活での合宿や遠征のとき、何度か先生に同行していたはずだ。


「しお、あんたが知らされてへんちゅうことは、知らんほうがええってことや。わかんな?」


 父と部屋を出ようとする母は振り返ってそう言った。


「そんなん言うけど」

「わかんな?」


 これで終わりだと母は背中を向けた。見送るしかなかったわたしが呆然としていたのは、ごくわずかだった。


 ミルクティーはまだ半分ほど残っている。淹れたての湯気はすでにおさまり、淡香(うすこう)の水面には揺れひとつない。


「ちょっと早く出るから!」


 母が言うこともわかる。本当に耳に入るべきことであれば、それは望まずとも聞こえてしまうのだ。


 けれど、人間はそう合理的にできているものではない。見たいものを見て、聞きたいことを聞く。ましてわたしは、もう沼に踏み込んでいるのだ。


 楓先輩はどうしてあの――『ノーマライゼイション』として働く境遇になったのか。知らずにいられなかった。


 わたしは再びコートを羽織り、持ってきていたよそ行きのショルダーバッグに腕を通す。そのとき、スマートフォンに通知が来ているのに気づいた。


『先日はありがとうございました。電話も楽しかったです。話に出た桜は見にいきたいですね』


 そのメッセージこそが、わたしと楓先輩を隔てる大きな峡谷だった。


 楓先輩とわたしの人生が、この先交わる未来はありえない。だからこそわたしは、安心して楓先輩を推すことができているのだ。


 ――楓先輩を推すのは、過去の話だから許されている。


 何があって変わってしまったのか。32才のわたしには、16才のとき抱いていた憧れの続きは必要ない。けれど、推しているわたしにとっては、知らない期間のアーカイブ視聴が必要だった。


 わたしは日の落ちてきた寒空の風を感じながら、集合にはまだ早い、送る会へと向かい始めた。


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