3.解釈違い
わたしの記憶では、楓先輩は文武両道で輝かしい未来を約束されていたように思う。
定期考査の結果を廊下に貼り出す文化は、わたしが高校生のときにはすでに過去の物だったけれど、噂で耳にした楓先輩の成績――学年順位は、秀才の上澄みをすくった高みで、崇めても不思議でない位置だったと記憶している。
「あーさみぃ。揺れて火がつけらんね」
赤也はいつものように文句を言いながら、かじかむ様子でライターの火打石をカチカチ回している。
いつものように連れ出されたわたしは、仕事の話が途切れたのを見計らい、植栽の片隅にある自動販売機の中からホットのミルクティーを選びスマートフォンを押し当てた。ガコンという音とともに転がり落ちた缶を掴むと、手のひらにすべすべした感覚と暖かな温度が伝わってくる。
赤也もようやく火をつけることに成功したのか、吐息とも煙ともつかない、ぼんやりした白いもやを立ち上らせながら、話し始めた。
「年末年始、何すんの?」
「三日ほど帰省しますよ。地元の忘年会があるので」
この忘年会は、高校時代の部活OBOGで定期的に催される飲み会だ。今年は当時の顧問が定年を迎えるとのことで、少々盛大に行われると聞いている。
「ならあんまりこっちにはいないか。たまには飲みにでも誘おうかと思ったんだがな」
赤也は落ちた灰を踏みつけながら、次の一本に火をつけた。
「最近は独身が減って誘うにも気を使う」
「意外と気にされるんですね、そういうの」
「そりゃな」
オフィスに戻るさなか、少しずつ日が短くなっていくのを感じた。時計の針はまるで滑り台のような形をしている。まだ帰宅を促すチャイムにも早く、ちょうど、短針からのぼって長針を滑り降りるような時刻だ。
わたしは陽が陰ってくるのと同時に、授業が終わり部活へ向かう前の、身が入らない授業を思い出していた。たしかこの、冬近い頃には、地球の自転がおよそ23.4°傾いていると地学の教師に習っていたはずだった。
滑り台の鋭角と近いこの地軸の傾きは、昼夜の内訳を変え、夏と冬を行き来させる。言い換えれば、地球が居住い正しく太陽の周りを公転していれば、四季など生まれることはなかったのだ。
――楓先輩は来るだろうか。
どこにかと言えば、もちろんOBOG会のことだ。
わたしが事前に聞いた話によると、楓先輩は卒業後しばらくを除いて、この集まりに参加していないばかりか、音信不通らしい。
参加したくないのか? したくてもできないのか? 理由は誰にもわからない。
たしかに、足を止めることを決して許さない厳しさで知られたあの先生を、卒業後も疎ましく思った部員もいることだろう。けれども、チームを率いるエースでキャプテンだったことを踏まえれば、恩師とも呼べる教師の門出に参加しない楓先輩というのは、正直不自然に思える。
――解釈違い、ですかね。
だが、ひとの人生もあずかり知らぬところで傾いてしまうのもまた事実なのだ。地球がよたよた傾きながら十六周も太陽の周囲を回る間、転ぶこともなく無事に勤め上げた先生と、大きく方角を変えてしまった楓先輩。
同じ星の上で揺られたにも関わらず、先生にはハンモックの心地で、楓先輩には地震の訪れだったとでも言うのだろうか。
――だとすれば、一体、どうして?
わたしは知りたかった。卒業してからこれまでに、楓先輩の足元を揺るがすような出来事があったのか。それとも、あの頃が楓先輩にとっての山頂だったのかを。
――推しの過去を知りたい。
わたしは愚かにも、沼に向かって伸びる、その一歩を踏み出してしまっていた。