2.推し移ろう
『いつもお疲れ様です』
そうして、わたしがひそかに楓先輩を『推し』はじめてから、ずいぶんと経った。その間、職場に飾られる花々は紫色のアジサイから真っ白のゴデチア、そして、鮮やかな桃色のクレオメへと姿を変えていく。
――楓先輩を見ていること、誰かに気づかれているかな?
そういう、過敏な自意識を持ってしまうほど、わたしの気持ちは花の移ろいとリンクしていた。つまり、わたしは再会した楓先輩の姿に目を奪われて以来、ひそかに推し慕う、変わらない日々を続けていたことになる。
そんな中、たったひとつの変化といえば。
『今度、お会いしませんか? 良いカフェを見つけました』
それは、振動したスマートフォンに映し出されている、メッセージの通知だった。わたしもあいにく、ひと昔前ならうしろ指をさされかねない年齢に達している。
黒髪の眼鏡から焦茶のコンタクト。濃紺のブレザーに四角いスクールカバンから淡いオフィカジと平たいビジネスバッグへ。そうして装備をグレードアップしても、異性との交流戦では役立たなかった。
二年前に里帰りしたとき、母親にぶつけられた言葉が頭に浮かぶ。
そのときはたしか、夕食前のリビングで、父が風呂へ入っていたときだったように思う。
「紫恩……あんた、ええ人おらんの?」
十年来、実家のランドマークになっているソファに寝転んでいたわたしは、記憶より少し背の低くなった母からの方言にこう答えた。
「いまは仕事がえらいんよ。はだてるのめんどい」
「ぼっこやなあ」
その場ではそれきり、母はダイニングテーブルを拭く作業に戻ったものの、その後も何度かメールで似たような追撃を送ってきていた。
そんな母からの追及を逃れるべく、それから、ひとり部屋の静けさを薄めるべく、遅まきながらマッチングサイトに登録したのは、昨年の誕生日深夜のこと。
いくつものメッセージをかきわけたのち、何人かと会うにいたって、三回目の会合に到達したただひとりが、このメッセージ主だった。
「入ります」
誰に言うわけでもない挨拶をしながら、数名がオフィスに入室してくる。
滑りの悪そうな台車は、楓先輩が一歩踏み出すたび、ぐらぐらと揺れて見えた。
彼らは数日おきに、廃棄された紙を回収にきているのだ。
棄てられているのは、オフィスの印刷機付近に置かれた、人ひとりは入りそうな大きな金属製のボックスだった。そこには、印刷の失敗物やら望まぬダイレクトメッセージやらが納められている。
それらにはもちろん、住所や氏名といったプライバシーが書かれており、安易にくずかごへ送ることがままならない。聞くところによれば、回収するにとどまらず、わざわざホチキスを取ったり、紙質に合わせて分別したりと、多くの手間がかかっているらしい。
「がんばってください。楓先輩」
わたしは、心の中でそうつぶやき、デスクに積まれた紙からホチキスの芯をはずしていった。
もしかすると、楓先輩はわたしの名前を見つけているかもしれない。
けれど、取り立ててめずらしくもない名前のわたしと、たくさんいたであろう後輩のひとりを結びつけることはありえるだろうか。
上京した都会は、人にあふれている。
『人波に飲まれる』というのが、比喩ではなく事実なのだと、わたしはこの地で学んだ。
そんな都会のひとりでは、きっと楓先輩はわたしを見つけられない。
これだけすれ違っていても、すれ違っているからこそ、彼はわたしに気づかないのだ。
削除ボックスに送られていった、何通ものメッセージ。
ホチキスを外されることも、回収されることもなかったメッセージたち。
『はい。ご都合よいときはありますか?』
性別、年齢、容姿、仕事に趣味。
くもの巣のように、ゆっくりと張られていったいくつもの条件。それらをくぐり抜けた相手と、張られる前から中心にいた楓先輩。
三度目のあの人は、どんな表情でわたしと会うのだろうか。
それを想像してしまうたび、わたしは丁寧にホチキスを外さずにはいられないのだ。
「お前、わざわざ外してんのか。あいつらの仕事なくなるだろ」
「そうなんですけど、つい癖で」
「あっ、そう」
赤也が興味もなさそうに書類の束を持ち、清掃員へと渡していく。受け取ったその誰かは、ホチキスなんて気にする様子もない。
ただドサっと、山になった紙の一画へなげられるだけだ。
――それでもわたしは。
ホチキスを外す。スクリーンに映されて使われなかった資料から。
そうすることは、削除ボックスに送られていったメッセージへの供養と、楓先輩を推し慕う気持ちを手の中に残す、そのために必要なことなのだから。