1.先輩との再会
わたしは思い出した。16歳のとき、ずっと追いかけていた楓先輩のことを。同じ部活のふたつ先輩で背番号7、エースだった彼を。
ひまわりのような黄色い歓声と、紅のバラみたいな声援。彼を取り巻くすべてが、わたしの視界と心を離さなかった。
再会は、アジサイに散りばめられた水滴に虹のさす季節。いつものように通う、職場でのこと。
彼の姿を見つけて以来、透明だった職場に色が差し、わたしの密やかな『推し活』が幕を開けた。
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「でさ、クライアントが言うわけよ。こっちが散々調整してだよ? 最後の最後に、あとすこし下がらない? って。やってらんねぇよなあ」
わたしが連れ出されていたのは、職場の片隅にある喫煙所だった。植栽でぐるりと囲われているそこは、小休止や陰口に花咲く場所だ。
営業先から戻ったばかりの同僚――千堂赤也は、クライアントへの愚痴と合わせて、曇り空へ煙を吐く。勢いよく霧散していく紫煙は、きっと製造主の性根を受け継いでいたのだろう。
「それでも決めてくれるだけ嬉しいですよ。コンペに勝ったんですから」
「当たり前っしょ。インセンかかってたし」
地元の大学を卒業して上京。わたしはそれなりに大手と言えるくらいの広告会社に勤めている。
目の前でぎらぎらしている赤也は営業で、わたし――柚木紫恩は制作。もちろん、二人とも正社員で本社勤めだ。ありていに言えば、地元では到底見込めない待遇で働いている。
「失礼します」
背の高いツナギ姿の男が、乾いたあいさつの後に灰皿にひざまずいた。大きな体を縮こまらせて雑巾で円柱形の鉄塊を拭き取っていく。その仕草は、まるで灰皿が銀で形作られているかのように、目を近づけては状態を確認する、丁寧なものだ。
けれど、灰皿に収められているのは、嫌な色をした水と毒を含んだ灰もある。続けてそれを片付けなければいけないその心境は、マスクをつけた横顔からでは読み取れなかった。
「ノーマ……」
わたしは赤也の、先に続くであろう無神経な言葉をやんわり目で遮った。そうして、もう悪口は十分だろうと喫煙所の外へ足を向ける。
先ほどの男――若い清掃員は変わらず丁寧に、何度も床を拭いていた。
わたしは彼とすれ違うとき、何度目かになるその言葉をささやく。
「いつもお疲れさまです」
わたしは正社員でその男は清掃員だ。けれど、彼はどこにでもいる男ではない。物語におけるモブではなく、主役なのだ。
たしかに、かつて見上げるようだった背中を、わたしはいま見下ろす立場にいる。くわえて、彼のまとう作業着はくすんだクレイのように色彩を欠いたものだ。
――それでも。
毛皮が泥にまみれていたとて、レトリバーはレトリバーだ。それと同じく、輝きを失い床を撫でる清掃員だとして、先輩は先輩なのだ。
わたしの記憶中で楓先輩は、いまでも勇敢なブレイバーで土壇場の試合をひっくり返すヒーローだ。
『初めて慕った人。わたしはいまでも楓先輩を応援していますから』
16歳のわたしは想像していまい。あの年齢から等距離、32歳となったわたしの目の前で、憧れだったヒーローは夢のカケラとは遠い物をすくっているのだった。
わたしは感じる息苦しさを殺して、変わってしまった二人の境遇へ視線をはせる。
「? どうした柚木?」
「いえ、何でも」
「ふうん」
赤也は怪訝そうに目を細めると、オフィスに繋がる扉を開けて中へ戻っていく。
あの扉は、楓先輩とわたしを阻む隔壁のように思う。もちろん、楓先輩だって通ることはできるし、オフィス内ですれ違うこともある。
けれど、そんな時ほどかえって互いの境遇を感じずにはいられないのだ。
わたしの中にかつてあった、無垢な憧れや熱情には現実という影がさしている。16歳からの等距離。その場所は合わせ鏡のように正反対になったわたしの姿を映しているのだ。
楓先輩――つまりは初恋との再会。でもそれは、薪木をそそり立たせるように燃え上がることもない。
わたしは、ひそやかでささやかに楓先輩を応援するだけ。そう『推し』ていくのだ。