カインの帰還
いずれ、カインが我が公爵家の使用人となった時のために用意された、子爵の館の横に建つ小さな離れ。そのリビングに彼女は座っていた。
水色のドレスを来て一人がけの椅子に座り、ミルクティー色の長い髪の毛は緩く三つ編みにされて左に流されている。
膝の上には長く目を落とすことがない本が一冊、開いたままページが風でめくれる。
シルヴィはぼんやりと長椅子の端に座り、背もたれに背中を預け外を眺めていた。
「シルヴィ」
「フィリルさま、マリアベルさま、いらっしゃいませ」
シルヴィは体を起こし、微笑みながら立ち上がった。忘れ去られていた本が膝からぱさりと音を立てて落ちた。
「あ、すみません」
「いや……」
「シルヴィさん、座ってらしていいのよ」
マリアベルはそう言って、シルヴィの隣に座った。
私は、この離れに来る時にはマリアベルを伴うようにしている。周囲の勘ぐりを抑えるためでもあるが、一番の理由は僕の気持ちの問題だ。マリアベルを不安な気持ちにさせたくはない。
それでも、シルヴィの哀しげな笑顔を見ると胸の奥がつきりとする。
「なにか不便はないか?」
「そうですね、ここに来て二か月ですが……今まで仕事をしていたので時間を持て余しています」
「そうか、でもまだ家に戻るのはやめておいた方がいいだろう」
「はい」
あれから実行犯の特定から始まってシスラー商会と闇の組織の繋がりを暴いた。結局、彼らの企みは未遂に終わったこともあり、シスラー商会と組織の関係をネタに交渉をした。
シスラー商会は王都でも有数の規模を誇っているので、戦後の混乱を抜けたばかりの今潰してしまうと大きな影響が出てしまう。そのためバディストの監視下に置くことにしたのだ。
しかし、小麦の種蒔きは始まったが予想通り作付面積はまだ増やせないため、まだまだ気は抜けない。シスラー商会以外にも小麦を欲しがる者はたくさんいるからだ。鉄鉱石もそうだ。鉄鉱石に関してロバン商会は絡んでいないが、我が公爵家との太い繋がりを狙って、工作してくるかもしれない。
シルヴィはまた視線を窓の外に戻す。
テラスに面した窓の外には紅葉した葉を揺らす木々が見える。
離れのメイドによると、彼女は日がな一日ずっと、誰かを待つように外を見ているらしい。
僕はシルヴィに声をかけることもできず、さりとて彼女の顔を見ていることもできず視線を落とした。
さわさわと風で木々が揺れる音が聞こえるだけの静かな午後。
どのぐらいの時間が経った頃か、遠くから馬車が近づく音が聞こえてきた。この離れに続く細い道に馬車が曲がってきた瞬間、シルヴィが弾かれたように立ち上がった。
それにつられるように僕たちも外へ視線を移す。
馬車が止まり、その扉が開いて一人の男がシモンに肩を借りて降りてきた。こつりこつりと音をたてながら慎重に降りてくるその男は、地面にたどり着くとシモンから離れてこちらを見た。松葉杖をついた男のハニーブラウンの髪の毛は太陽の光で輝いている。
シルヴィはガラス扉を大きく開けてテラスから走り出し、両手を広げて妖精のようにふわりとその男カインに抱きついた。カインは松葉杖を持っていない方の手でシルヴィを強く抱きしめた。
「カイン、カイン、カイン……!」
「ごめん、ただいま。シルヴィ……」
僕はテラスの窓についた手に頭を預けてその光景を見ていた。
ぽろぽろと涙を流す彼と彼女の後ろには、紅葉した植栽の下に咲く白い花と抜けるような秋の青空が広がっている。
あまりにも美しすぎる光景の中、僕の心の中は表現できない感情が渦巻いていた。
「フィリルさま」
「……あ、ああ。ベル」
「よかったですわね」
「……」
もう一度前を向き、大きく息を吐く。想いを逃すためなのか、それとも安堵なのか。
「うん、そうだね。ベル」
眉を下げ微笑みながら僕の腕に置かれたベルの手の上に僕の手を重ねた。
*
カインは右足に大怪我をしたのち、戦地に一番近い集落に張られた陣営で治療を受けていたが、薬の不足による傷口の化膿で膝から下を失ってしまった。
その後、陣営は移動したがカインは高熱が続いて同行することが出来ず、集落に留まることになったらしい。陣営の度重なる移動の末、カインの消息が失われ行方不明だと王都の軍本部に届けられた。
その顛末を聞いた父は激怒し、混乱していたのだから無理はないですよとシード子爵が言っても軍部に苦情を申し入れると息巻いている。
あまり見ない父の様子を見た子爵とシモンは苦笑して、かえって冷静になったようだ。
「右足を失い、最後まで軍に帯同することは出来ませんでしたが、なんとか戻ってくることが出来ました。ご心配をおかけして申し訳ありません」
深く頭を下げるカインに、目に涙を滲ませたシルヴィが寄り添う。
「いや、生きていてよかった」
「しかし、もう軍人を続けることはできません。この先のことは今から考えなければなりませんが……」
シルヴィがカインの腕をぎゅっと握る。父が笑いながら言った。
「足がなくてもできる仕事はある。子爵と共に書類仕事をしてもいいし、商会にも仕事はあるんじゃないのか?」
シルヴィが大きく頷いた。
「シルヴィ、まだ一言も話してないね」
シモンがそう揶揄うと、シルヴィは口をへの字に結んで眉間に皺を寄せ首を振った。
「話すと泣きそう?」
シルヴィが再び大きく頷き、室内は穏やかな空気に包まれた。