22
歩く。
歩く。
歩く。
木々がなくなり平野と化した森の中、一雷精達は小さく生い茂っている雑草を踏みながら、気が遠くなるほど先にある目的地へと向かって歩いていた。
「う……疲れたよ……」
最後尾で腰を折る一雷精。かれこれ歩いてから二時間は立っているが、見えるのは後も先も緑に染まった平素な道と、うじゃうじゃと群れているクロツブだけで、とても進んだ気がしない。気の紛れとして小鳥の囀りや、虫の鳴き声があれば多少はましな気にもなるのだが、この場所にはそのどちらも存在しなかった。
「精様はやはり体力に自信がない方なのですね」
八メートルほど先にいるフィアルが振り返って言う。やはりってなんだよ。と思いながら疲れと暑さで汗だくになった顔を上げて叫んだ。
「ねえ……いつになったら着くの? もう駄目だ……」
「……あと、五分位よ」
フィアルからさらに二メートルほど先で、ウェルは囁く。ウェルにしてはかなり声を振り絞ったと思われるが、 一雷精にはその声は届かなかった。
「あと五分で着くらしいです」
フィアルが代弁すると、づかづかといて座りこむ一雷精の腕を掴んだ。突然のフィアルの行動に、一雷精は我が目を疑う。
「何で……手なんか握るんだ」
「こうしてれば、精様が立ち止まっても、私が引っ 張れば進むことがます」
少し頬を赤めてフィアルが囁く。フィアルの手はとても温かく、それだけで一雷精の五指はたちまち疲労をなくしていく
「主を支えるのが私の役目ですから!」
フィアルは上品な笑いを浮かべた。その笑顔は悔しいほど様になっていた。
「ねえ……先に進んでいいかしら?」
遠くからウェルの声が聞こえてくる。フィアルは一雷精の手をいっそう強く握り、大きな声で返事を返す。
「行きましょう」
一雷精は何も言えず、フィアルと一緒に歩き、ウェルとの距離を縮めていく。
不思議と疲れはなくなり、それは目的地に辿り着くまで変わらなかった。
細い一本道を抜けると、そこには緑で染められた円形の広大な空間があった。この空間には風もなく、先程まで常に聴覚に行き届いていた葉擦れの音もない。遥か上空の太陽が陽射を放ち、円形を築いている雑草を眩しく照らすだけという完璧な静寂が、存在していた。
「うおお……」
時が止まったかとうしてしまうほどの静寂ぶりに、一雷精は心を奪われる。フィアルも、数分前まで歩いていた一本道とは別次元なここの神秘的な空間に、意識を集中させているようだった。ここはエリアリ―ではなく、時と時の挟間。そう思わせるくらいの神秘的な情調が、この空間には途方もなく漂っていた。
「最初は私も驚いたわ。ここは異世界なんじゃないかってね。でも、そんなことはどうでもいいの。私の目的とは全く関係ないわ」
無音な空間の中、ウェルは躊躇なく進み 、小さな音を立てる。大した足音じゃないが、なぜかとても大きく聞こえた。
「これよ」
ウェルは緑で広がる地面を指差した。一雷精とフィアルは感傷に浸るのを強引に止め、ウェルが指し示す方にだけ集中する。
「これは……」
苗だった。まだ幼いがとても凛々しく立っている芯の強い幹に、そこで幾本も分かれている細々とした枝。枝の先には広がる葉が太陽の光を受け、見事な色彩を放っている。少し衝撃与えるだけでつぶれてしまうような儚い存在だが、その苗木はとても屈強で、ふてぶてしかった。
「君の目的って、木を植えることなの?」
ウェルは無表情で頷くと、辺りを数回見渡した。そして、最初に指をさした苗木に首ごと向ける。
「私は、ここに失った森を蘇らせたいの」
「凄い大きく見えますね。この苗木」
感心しながら苗を見るフィアル。ウェルは苗木を指していた指を、今度はフィアルの手前に移動させた。
「ここにも、二つくらいありますね」
先程の苗木と負けずとも劣らない凛々しさがフィアルの足元にあった。一雷精とフィアルは小さく光る二つの苗木に視線を固定させる。
「他にも様々な場所に植えてあるわ。全部で十はあるわ」
「十もですか。全てウェルさんが一人で」
「ええ。ウルヅスが来て以来、私は友達との関わりを切ったから」
「そんな……どうしてですか……」
沈黙しているウェルの変わりに、一雷精が答えた。
「簡単さ。罪悪感にあまりかられないで友人を見捨てられるためだろ? その友人がウェルの前で危機に陥っていても、友達同士じゃなかったら守ろうだなんて考えには至らない。その結果、友人だった子は死んでも国は助かるんだ。ある意味得策かもしれないね」
ウェルは無言で一雷精を見つめる。しかし、その表情は普段の無感動な無表情ではなくどこか自分に対する葛藤が込められているように感じた。
「そうよ。私はもう絶望したくないの。目の前で大切な人を失うくらいなら、最初から誰にも関わらない方がいいじゃない……友達と離れるのはさびしい、でも、永遠に別れる瞬間に助けられないのはもっと胸が痛むの……傷付くくらいなら、私はずっと一人でも構わない。何も間違えていないわ」
ウェルが初めて見せた悲痛の叫びに、一雷精とフィアルは驚愕する。全てを無に帰し、感情を失ったと思っていた彼女にもまだ誰かと遊びたいという年相応の気持ちがあったのだ。
「嘘だねー。一人でも平気だなんてただの強がりさ。俺含めてクラスで一人ぼっちの人間は必ずどこか心苦しそうにしていたし、地球で孤高の象徴として例えられている狼って動物も好みの雌がいたら結婚をして子供も産む。一人が平気な生物なんていないんだよ」
黙ったままウェルは一雷精を睨んでいた。間違いなく好感度は急降下しているだろうが、媚を売り続けることが愛情というわけではない。
ただ単に、ウルヅスを倒すだけではこの国は救われない。
最初に誓った通り、ウェルを、そして国の皆を幸せにするなら、まずは彼女達が抱える心の毒を追求し、癒やしてからウルヅスに対峙する必要があるのだ。
「そう思っているからこそ、君はここに森を作り出そうとしたんだろ?」
「……ええ。あなたの言う通りかもしれない……。私が今でも『あれ』を探しているのも、きっとまだ兄と繋がっていたいからなのかもしれない」
しばし間が空いたウェルの答え。ウェルはゆっくりと顔を上げると、微妙に表情を変えていた。いつもの無表情ではなく、目元が緩んでいて、今にも泣きそうな顔をしている。そんな顔をしてまで、自分になにを頼もうとしているのか、一雷精には分からない。
「『あれ』ってなに?」
一雷精の瞳を真っ直ぐ見て、言った。
「私の感情と、お兄ちゃんの許しの言葉」
「……ン?」
ウェルの言わんとしていることがわからず、顔をしかめる。兄の許し、ウェルの感情。この二つの単語を繋げるものを推理するが、見つからない。
「どういうことですか?」
フィアルが訊ねる。すると、ウェルはスカートのポケットから白い輝きを放つ物体を取りだした。
「なにそれ?」
ウェルはしばし俯いてから、口を開く。
「兄が最後にくれた、私へのプレゼントよ」
ウェルは淡々と答えると、その物体を肩の高さにまで上げて、一雷精の方へと向けた。ビー玉サイズの丸い石だったその物体はどこまでも透けていて、水晶のように鮮明にウェルの顔を映している。
「これは、兄が死ぬ間際に、ここで私にくれたの」
ウェルは石を自分の胸元へくっつけさせ、その姿を自身の右手で隠した。その時に浮かべた表情も、なにやら曇りがあった。
「ということは、オルツさんは」
言い難そうに声を詰まらせるフィアル。フィアルが言おうとした続きを、ウェルが自ら代弁した。
「ええ。私の兄はここで死んでしまったの。私
をかばって。わけが分からないいまま気絶して、数日後に目が覚めたら、既に兄は死体場に運ばれた後だった。それ以来、私は笑顔を捨てたの」
胸元で石を握っている手に僅かの力を入れ、ウェルは続きを話した。
「私の運命魔法は、己を偽れる魔法なの。己を騙し続けてでも目的を達成する運命。この運命は素晴らしいわ。どんなに辛い時でも、辛い感情を持っている自分を騙して、明るい時分、冷静な自分を演じられるの。そうすれば、嫌な思い出も忘れられて、とても落ち着けるの。この魔法のお陰で、私は無駄に感情に振り回されることなく生きてきたわ……それが私の運命だしね」
微塵も表情を変えず、ウェルは続く。
「でも代償として、私は一度自分を騙すと簡単に元には戻れない。一度悲しむ自分を騙して笑う自分を演じたりすると、よほど悲しい事が起こらない限り、私は常に笑い続けないといけないの。大きな悲しみで思い切り泣くより、些細な不幸の連続でも笑っていないといけない方が辛いわ。私は、そんな人生だった」
苦しむように言っているが、ウェルの表情はあくまでも無表情だった。今も、彼女は感情を押し殺して冷静を演じているのだろうか。そう考えると、胸何とも言えない気持ちになる。
「私は、兄が死んでとても泣いたわ。そして考えたの。目の前で死んだ兄を助けられなかった私には、これからの人生で笑う資格はない。だから、私は自分を騙した。決して笑わない自分を……でも」
ウェルは服ごと胸元を握り、聞いたこともない大きな声で言った。
「私は、もう辛いの! お兄ちゃんの謝罪として、笑うことを止めたけど、本当は笑いたいの。みんなと、笑顔で料理を食べたいし、お母さんと楽しいことを話しながら料理を作りたいの。そしてなにより、みんなと一緒に守り合って生きたい……」
切願するようなウェルの声。その悲鳴にも取れる大声は、音が介在しないこの空間によく響いた。彼女に笑顔を取り戻させてあげたい。一雷精はそう思った。
「でも、私はお兄ちゃんを見殺した。それは変わらないの。私は笑うことを許されない人間なの」
勢いが止まらないというように尚も声を大きくするウェル。しかし、表情は変わらず、いつもの無表情だった。
「お兄さんはウェルさんが無事で良かったと思っていますよ。ウェルさんに笑ってほしいって思っていますよ」
「そんな確証はどこにもないわ。だって、私が兄の大工の夢を壊したことには変わりはないんだもの」
狂ったように叫ぶウェルの迫力に、フィアルは圧倒され、なにも言えなかった。
「死んだところすら、私は見てあげられなかった。記憶が曖昧で、どういう風に死んだのか、覚えていないの。あの時、お兄ちゃんは何か言っていた気がするわ。でも、それを思い出すことすらできない……この苗だって、兄が愛していたこの国を綺麗にするために作ったもの……でも、苗が成長すればするほど、兄との思い出を思い出して、辛い……」
一気に力をなくしたように崩れ落ちるウェル。なにかを存分に吐き出したい。そんな願いが込められた叫びだったが、それでもウェルの表情は同じだった。変えられない表情。それがどんなにつらいことか、一雷精にはわからない。汲み取ることすらできない。
「あなた達に会うまで、母さんは一切笑ってなかった。でも、あなた達に会ってから本当に楽しそうに笑っているの。まるで、兄がいた時みたいに。そんな母さんを見ていると嬉しい。こんな日が続けばって思う。そう思う一方で、私もみんなと一緒に笑いたいなって思ってきちゃうの。でも、自分の運命がそれをさせない」
「私は以前に、あなたに余計なことはするなといったわよね?」
「うん……それを希望に変えてあげると俺は答えたんだ」
ギュット胸を押さえ、沈痛な声でウェルは頼んだ。
「もう、意地なんて張らない。だから、お母さんをずっと笑顔でいさせてあげて ウルヅスから助けてあげて……私を……助けて」
ふらふらに顔を上げ、一雷精を見上げる。彼女が持つ心の刺は、十分すぎる程理解できた。
ウェルを蝕み続ける兄への罪悪感。
それを誰にも吐露することの出来ないまま、彼女はいつしか自分を取り戻すことを病めていた。
そんな彼女が今、嫌っていた自分を頼りにしてまで変わろうとしているのだ。
力にならないわけがない
守る。
と言う準備は勿論出来ていた。そう言って、自分は人を守れないという固定概念も払拭するき満々だった。
「守……」
そう宣言しようとしていたのに、一雷精の口はそこで止まった。一回咳払いをし、もう一度宣言しようと言葉を発しても、同じところで詰まってしまう。
「まも……。まも……」
言えない。どうしても先が言えない。守る。この二文字で、全てが報われるのに、自分も、ウェルも、アグスも、この国の人達も、そしてラリアを始めとする地球帰還計画の人間もみんながみんな救われるのに、一雷精の口は、その先の言葉を発させてくれなかった。どうして、どうしてだ。
「……」
その理由は、わかっていた。一雷精の口が宣言を拒絶する、その原因は、自分に哀願する、ウェルの瞳だった。
なんだ、なんだその眼は……。
黒色の瞳は虚ろに揺れ、眼尻に貯まる涙で埋もれている。溜まった涙はゆっくりと頬を伝って真下の雑草へと落ち、光を弾けさせて飛散した。
ウェルは、とても悲しそうに泣いていた。そして、そのぐちゃぐちゃになった瞳は、まさに四年前の自分の眼だった。
不意に、あの鋭い眼が脳裏に過る。四年前に見せた人間味のなく、とても鋭利な、淀んだ眼。
「うわあ……」
耳が麻痺するほどの高音が聴覚に響き、視界が黒紫色に揺らぐ。胃がキュッと締まり、途端に激しい嘔吐感が襲ってくる。
赤色を背景に、白い花、砕けた花瓶、その花瓶を投げた茶色い髪の女性と、投げられた花瓶で頭を傷付き、涙を流している少年が徐々に鮮烈に映ってきた。今までぼかしの入っていた両者の顔が、徐々にに見えていく。
――その二人の顔とは、ウェルと同じように涙を流し、頭を押さえている四年前の自分と、涙を流し、冷酷な顔を浮かべ、鋭利な瞳で一雷精という存在を否定する、母親の姿だった。
「う――」
眠っていた真実が次々に脳に溢れていく。その記憶の中には伊賀と、小学生の頃仲良くしていたクラスの友人の笑顔と、自分に対する失望の顔だった。
ようやくわかったのだ。自分がなぜ周りから嫌われていて、どうしてこんな性格になったのか。その真実は、あまりにも残酷なものだった。
「うわあああああああああ」
大きな悲鳴をあげながら、一雷精は足を絡めさせながらも、我知れずと疾走する。途中で何度も転んだが、痛みも、何も感じない。
消えろ、消えてくれ。
首をちぎれんばかりに振り、尚も脳内に浮かぶ映像を中断させようとする。しかし、なにも変わらない。あの時の涙が、母親の眼が、光景が浮かび、最後にウェルの潤んだ瞳が鮮明に焼きつく。
「うわああ……うわあああああ」
悲鳴が、木々を失ったかつての森に広がる。反響することのない悲鳴は、誰も受け止めてはくれない。
自分には何も守れない。その変わらなかった事実よりも苦しいものを脳に抱えながら、一雷精は休むことのなく走り続けた。