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時計の針が丁度三時を過ぎたのと同時に、ホームルーム終了のチャイムが校舎中に鳴り響い
た。
これで今日の学校は終了だ。
これから部活で汗を流しに行くもの、図書室で自主勉に励みにいくもの、適当に教室でダベっているもの。各々が自由に行動している中、特にすることのない一雷精は素早く帰り支度を済ませ、靴箱へと向かう。
「あっ。どうもでーす」
「大変そうですね。頑張って下さい」
階段を下っていると、運動部の連中と出くわした。
別に仲良くもなければ不穏な確執があるわけでもなく、互いに顔くらいは知っている仲でしかないが彼等とは殆どの確率で遭遇するせいか、下校時の会釈は半ば習慣と化していた。
適当に会釈を済ませると、運動部の面々は活力溢れる掛け声を発声しながら階段を駆け上っていった。
自分とは違うその筋骨隆々な肉体を見ていると、男としての自信を無くしてしまう。
あんな逞しい図体を持ちながら、まだ彼等は伸びしろのある中等部の生徒なのだ。
高校一年生にもなったまだ垢抜けない一雷精が非常に不甲斐なく見えた。
この高校は中高一貫なため、生徒の人数は他校よりもだいぶ多い。
そのせいか、体育祭や文化祭などの行事はとにかく盛り上がる。
去年はその両方とも開催することができなかったため、恐らく今年の行事は凄い活気で溢れ返るのだろうなと一雷背は早くも胸を躍らせる。
階段を下り終えると、今度は一階のフロアでチア部が掛け声とともに華麗なダンスを披露していた。
優雅に舞う彼女達は溜息が出るほど美しく、できることならそのままずっと鑑賞していたかったが、一雷精は欲求を押し殺し、どうにか踏みとどまることに成功する。
「帰ろう……あんな思いは沢山だ」
以前、一雷精はチア部の人間に入部希望者と勘違いされ、入部を催促されたことがあるのだ。
そのため、チア部の人達とはあまり顔を合わせたくない。
高校一年生の男子にしては小柄で、顔は粒のように小さい。赤みがかった茶色のショートは根本だけくるりと可愛らしく曲っていて、瞳は夏の夕焼け空を思わせる濃厚な紺色。唇は桜色という女々しい顔立ちのせいで、一雷精はよく性別を誤解される。
以前、普通に道を歩いていたら、興奮気味に息を荒げた大きなおっさんに追いかけられたことがある。あれは凄く怖かった。危うく失禁するところだった。
「ハハ……」
意識的に脳の隅に寝かせていた記憶を思い出してしまい、苦笑を浮かべる。
このまま苦い過去に悶えているのはごめんだ。とっとと帰ろうと一雷精はチア部の集団を横
切り、自身の靴箱へと進んだ。
「え?」
放課後の靴箱の中に、手紙が入っていた。丸っこい字で一雷精様へと自分の名前が記されているその手紙を訝しく思いながら取り出してみる。
差出人は不明だったが、ハートマークのシールで封をされていた。
ハートマークのシールがついている手紙で、宛名が自分の名前。これって……もしかして。
「もしかしてラ、ラブ……レター?」
その五文字の単語を自分で呟くだけで、気持が高ぶってしまった。
情けなく顔がほころび、胸を弾ませてしまう。
苦節16年。中学時代に交流の深かった友達も他行へ進学し、自由気ままな高校ソロ生活をしていた自分にまさかこんな大きなイベントが到来するとは思わなかった。
しかし、内容を確認するまでは安心できない。期待するほど違ったときの落胆は大きいと実を持って経験しているのだ。
半年前、『愛をこめて』と書かれた小箱の中に、呪いの藁人形が入っていたことを決して忘れない。
甘い言葉が書かれているものほど信用しない方がいいのだ。
「でも、開けちゃおうかな そーれ」
アハハと高笑いをしながら豪快に封筒を破り、文面に目を通す。黒色の怪しげな紙に記されていた文字は無駄に達筆だった。
『召喚者達の手紙のご案内
夢を叶えたいという貴方。駅前付近の喫茶店へ集え。BYオーナー』
「う……うわあ」
ラブレターじゃなく、不幸の手紙だった。
ハートマークのシールで封をされている、怪しい漆黒の手紙。通称【召喚者の手紙】が全国各地に撒布されているというニュースを見たのは三年前のことだった。
【召喚者の手紙】を手に入れた人間は異世界に連れていかれ、そこで己の願いを成就するために奮闘するとニュースでは伝えられていたのだ。
願望の種類や制限はなく、全知全能や不老不死などの常軌を逸した願いから恋愛成就、受験祈願などの凡庸な願いまで思いのままに実現可能だという。
当然、そんな夢物語を鵜呑みにする人間がいるはずもなく、最初にメディアで報道された時はただの悪質な作り話だと誰もが笑っていた。
一雷精を含んだ視聴者は勿論、その記事を読んでいたニュースキャスターまでもが荒唐無稽な話だと言い捨て、失笑していたくらいだ。
少し考えれば理解できる事柄だ。文明の理を活用した機会もなく、他の世界に転移なんてできるはずがない。
そもそも異世界でどうやって自分の願を叶えるつもりなのだろうか。
そう、これはただの胡散臭い作り話だ。現実では起こりえない架空の創作でしかない。
「何深刻な顔してるのよ?」
思索にふけている一雷精の意識を現実世界に戻したのは、少し苛立ちが込められた声だった。
「伊賀ちゃん……?」
声が聞こえた方向へ視線を向けると、そこには見慣れた一人の少女がたっていた。
艶のある黒髪で結ばれたポニーテールに、気の強そうな印象を与える鋭い瞳。小ぶりの鼻は可愛らしく、唇も桜色と健康そのもの。
文句の付けどころがないその端正な顔立ちと、陸上部で鍛錬した引き締まった肉体が相まって、伊賀は入学して一か月もたたないうちに学校一番の美少女としての位置を確固たるものにし、クラスの男子から羨望のまなざしを浴びている。
しかし、伊賀と昔からの付き合いである一雷精はその扱いにどうしても疑問を覚えてしまう。
自分の都合のいいように勝手に伊賀を美化し、憧れている男子生徒とは違って自分は小学生のころから彼女のことを知っているのだ。
口より先に手が出る癖は今でも変わらず、無駄に勝ち気な性格なのもどうかと個人的に首を傾げてしまう。
一雷精に対しては母親のようにおせっかいを焼き、それに反抗しようものなら意地でも対抗してくるのも伊賀の昔からの癖だ。
喧嘩に対しても容赦しない人間で、半年前に一雷精の靴箱の中に呪いのわら人形を入れたのも伊賀だ。あれは本当にやめてほしい。流石に泣いた。
「何か凄く思い詰めていた顔をしてたけど、その手紙は何?」
右手で握っている【召喚者の手紙】を指さした。全国ネットで放送されたくらいだ。伊賀も【召喚者の手紙】のことは詳しくはなくとも、噂くらいは聞いたことがあるはずだ。」
「ラブレターかと思ったら、【召喚者の手紙】とかいうふざけた手紙だったんだよ。ぬか喜びもいい所さ」
黒い手紙を見せるや否や、伊賀は頓狂な声を上げながら顔を寄せてきた。
「え!?あなたの所にも来てたの?」
「伊賀ちゃんのところにも来てたの?」
「え、ええ。今朝靴箱に入っていたわ」
そう告げると、学生鞄から一雷精と全く同じの封筒を取り出した。
ハートマークのついた、黒い生地の便箋だ。見た目だけなら、どこの市販でも売っているありふれた代物だ。
「あなたこれがラブレターだなんて本気で言ってるの? いい加減その単純な性格を直したら?」
嘲笑めいた視線が一雷精に向けられる。
女の子の免疫がないせいなのか、それとも生まれ持った純粋な性格のせいなのかは知れないが、一雷精は非常に惚れっぽい。
面識のない女の子でも笑顔で話しかけられたらそれだけで好きになってしまうし、もしかしたら向こうも自分に好意を向けているのではないかと勘繰ってしまう。
そして、その度に暴走して振られてしまうのだ。
「いや、流石にあんな内容でラブレターだとは思わないさ。ジョークだよ」
「どうだか……そもそもジョークを言う意味も分からないし」
やれやれと肩を竦む伊賀に色々と異議を唱えたかったがここで喧嘩をしてしまっては無駄な浪費がかかるだけだ。
不満を腹の中に貯め、吐き出すように深呼吸をして心を落ち着けさる。
「まさか! あなたこの手紙の噂を真に受けてるんじゃないでしょうね!?」
ないないと力なくかぶりを振る。
「落ち着いて。そんなバカなことをするはずがないだろ」
苦笑を浮かべながら、一雷精は目を吊り上げてこちらを睨んでくる伊賀を慰撫する。
小さなころから伊賀はよく言えば面倒見がよく、悪く言えば面倒くさいほどに過保護だ。
小学生の頃よく苛められていた一雷精の代わりに、クラスのガキ大将と乱闘を何度もしたほどだ。
いいや、一雷精のために立ち上がってくれた朋友は伊賀だけではなかった。
一雷精には男友達が二人、そして姉がいた。
中学を卒業したのと同時に友達の二人は他の高校へ進学した。
そして姉の方は――
「……希望さんが亡くなってから、もう二年ね」
一雷精の胸中をトレースしたかのように、もう一人の方の名前を、伊賀が口にした。
先程までの強張っていた顔はそこにはなく、今度は鬱々とした表情で俯いている。
「どうだろう……今の俺達が会おうとすれば、ひょっとしたら会えるかもね」
そう言って、俺達は黒一色に染められている手紙に視線を移動させた。
【召喚者の手紙】。その手紙を手にした人間は、異世界へ行ってどんな願いでも叶える権利が貰えると噂されている。
悪質ないたずら。理想が詰め込まれた作り話。
そんなでたらめな事に本気で縋る気は毛頭ないが、それでも可能性がゼロじゃないのなら、その一縷の望みに駆けてみたいという気持ちも僅かにあった。
もしその噂が現実なのなら、二年前に自分たちを襲った原因不明の部分的な地震から、姉を救えかもしれないから。
「……。復興は終わってないのよね」
小声で呟いてから、伊賀はスライド式の扉の向こうにある中庭に視線を向けた。
中央に設置されている噴水は赤いタイルが敷き詰められている立派なものだが、そこから水はでていない。
噴水を囲うように樹木や草花が植えられていたが、今では樹木の方は綺麗に伐採され、見る影もなかった。
ほんの二年前までは立派な桜の木々が聳え立っていたのだ。
満開に咲きほこった花は新入生を暖かく迎えてくれていた。夏になると虫たちが集い、季節
を感じさせてくれたものだ。
秋になると風が吹き荒れるたびに音が鳴り、緑と花が盛大に舞う。
落ちていく葉を回収するのは骨が折れるが、そうした苦労を経て再びあの桃色の花々に出会うことができるのだ。
まだ完璧とはいえないが、それでもよくここまで本来の形状を取り戻したものだと感心してしまう。
当時の状態を知っている分余計にそう思ってしまうのかもしれない。
建物は次々と倒壊していき、その残骸がまた他の建物や人間を巻き込む凄惨な情景は、一雷精の胸を酷く抉った。
どこからか点火し、とてつもない炎が煙を立ち込めながら、また次の被害を生んでいたのも鮮明に覚えている。
二次災害も並大抵の規模ではなかった。
事態は悪い方向に進むばかりだった。
何人が傷を負い、いったいどれ程の人間が姿を消し、そしてどれだけの人間が死んでしまったのだろうか。
揺れる校舎全体に悲鳴が染まっている中、一雷精はふとそんなことを考えていた。
何せ学校が半壊するほどの地震だ。この街は勿論のこと、日本全体にも被害が及んでいるはずだ。
しかし、蓋を開けてみれば地震の被害にあった人数は、在校生と教員を含んだ1680人と、決して少なくはないが、規模にしては少なすぎる数字だった。
それだけではない。あれほどの大地震だったというのにも関わらず、外は普段の日常風景そのものだったのだ。
苦しみ、嗚咽を漏らし、徐々に崩れていく建物を見つめる度に恐怖に怯えていた人間、瓦礫にあたって大怪我をした人間、死んでしまった人間は、一雷精達の学校にいる生徒と教員だけだったのだ。
部分的大地震としてこの出来事は大ニュースとなり、永らくメディアの話題を独占していた。
地震の原因がなんなのかは未だにわかっていない。
本当に不明なのか、それとも意図的に公表してないのかは知らないが、少なくとも一雷精に情報は入ってくることはなかった。
普段通りの生活をしていたら、突然大地が揺れ始め、足場を失い、破片の塊が全身に殺到し、1680人の人間が犠牲となった。
一雷精が語れる事実はそれしかない。
それ以外の真相があるのなら公表すべきだ。でないと犠牲にあった生徒の遺族に質f例ではないか。
「そうだね。でも寂しくなったのは中庭だけじゃないさ」
後半の部分だけ、自然と声量を抑えてしまった。意図的にではない。最後まで言い終えることを無意識に拒絶してしまったのだ。
地震で失って一番辛かったのは、桜の木でも噴水の泉でもなければ校舎でもない。
目の前に落ちてきた瓦礫から自分を守り、一雷精の代わりに息を引き取ってしまった姉を
救えなかったことだ。
ニュースでは、部分的地震の犠牲者1680人の内、怪我人は1500人。行方不明者0。そして、死亡者が180人と報道されていた。
液晶画面上で羅列されている死亡者一覧という枠の中に、自分の姉も含まれていた。
一雷希望。既知の事実だったが、いざ自分の姉の名前が映し出されていると、煮え切れない思いが沸いてくる。
どこか遠くで親切な人に匿ってもらっているのではないか。そうではなくとも他の施設で保護されているのかもしれない。
二度と会えなくとも、楽しく暮らしていれば何も望むことなどない。
姉の名前が出てくるでは、そんな都合のいい解釈をして現実逃避をしていた。現に、今でも心の中で姉の生存を期待している自分がいる。
ある日いきなり笑顔で玄関の前に現れてくれるかもしれない。
そのあと伊賀を含めた三人の友人と共に姉の帰還を喜び、分かち合うのだ。
非常に哀れな話だが、人とはそういう生き物なのだ。心の奥底では、理想を追い求めている
だからこそ、【召喚者の手紙】などという物も生まれるのだろう。嘘だとわかっていても、それを頼りにしてしまう人間もいるのだ。
「この手紙を手にした人間は異世界で願いを叶えられるらしいわ。聞くだけで嘘くさい話。あなたは真に受けちゃだめよ」
「だから、そのつもりはないって」
しつこいなと心の中で毒を吐く。瞬間、伊賀がとんでもないことを言い出した。
「信じるのは私だけでいいから」
「え?」
冗談かとわが耳を疑ったが、伊賀の表情は真剣そのものだった。【召喚者の手紙】を口元におき、一雷精の両目をじっと見つめる。
「私は異世界へ行くわ。そして希望さんと地震の被害にあったみんなを生き返らせて見せる」
「本気かい伊賀ちゃん? やめとくんだ。異世界がどこだかもわからないし、もし本当にただの嘘っぱちだったら、君のショックも大きい」
慌てふためきながらも必死に説得しようとする一雷精を、伊賀は右手で制した。
「嘘だったら嘘で構わない。私は、可能性が少しでもあるのならやりたいの」
迷いのない屈託の笑顔を向けられる。顔はあくまでも笑っているが、ふと視線を足元に向けてみると、小刻みに震えていた。
既存の知識が全く通用しない世界へ向おうとしているのだ。不安だって山ほどあるだろう。この世界で思い残している事も星の数ほどあるはずだ。
家族や友人と当分さよならするのも本当は避けたいことだし、再び会えるという保証もないのだ。
もし本当に異世界へ行けたとしても、デメリットの方が圧倒的に多い。
それでも、彼女は希望を生き変えさせることを選んだ。自分の未来を捧げるつもりでいる。
「場所は駅前の喫茶店。今から行ってくるわ。もし私が返ってこなかったら、その時は後処理しておいて」
「おいちょっと――」
引き留めようと手を伸ばすが、その時は既に遅く、伊賀は一雷精の手が届かない範囲にまで駆けていった。
「おーい!」
急いで猛追するが、差は縮まることなく伊賀は自分からどんどん離れていく。
それはそうだ。彼女は同い年で、しかも女性だが陸上部のエースだ。
そんな伊賀に対して、自分は同年代の平均男性よりも貧弱な一生徒でしかない。
情けない話だが、これがまごうことなき現実なのだ。
自分は二年前となにも変わっていない。
走行をやめ、一雷精はその場で立ち崩れる。一気に溜まった疲労が全身に廻り、息を荒げてしまう。
持久力が乏しい自分の体を恨みながら、一雷精はゆっくりと肺に酸素を戻すために大きく息を吸った。
「……」
空気を味わいながら、一雷精はふとある可能性について考えてみる。
もし、まだ希望が生きていたら自分達三人グループはまだ仲良く笑い合えていたのだろうか。
あの地震から自分を救済してくれた希望には、当然感謝の気持ちで一杯だ。
彼女が身を挺して一雷精を守ってくれたからこそ、今の自分がいるのだから。
姉の死を胸に、それでも乗り越えて四人と共に前へ進もう。
一雷精はそう決心して邁進していたが、それがどれだけ難治なことだったか当時の自分は漠然としか把握していなかったのだ。
希望が死んでから、前まで仲良くしていたグループはどこかぎこちなくなってしまった。
最初は悲しみを吹き飛ばそうと全員が無理をして空気を和らげようとしていたのだ。
作られた談笑ムードがこんなにも奇妙なものだったのかとこの時初めて知った
欠けた部分を埋めるために誰かが奮闘するが、その穴は一向に塞がらない。
歪な空気に自然と気付いたのか、会話の数も次第に減っていき、気付けば卒業するまで一言も話さなくなっていた。
失ったもの同士で前に進むことは困難なことだとようやく悟ったのだろう。
姉の死を忘却の彼方へ捨てるために逆に繋がりを断とうとしていた。
伊賀とはそれなりに付き合いがあったが、もう二人の友達は中学を卒業後に引っ越してしまい、連絡をする手段もなくなった。
誰かがいなくなってしまえば、それだけで強固な絆は呆気なくほどかれてしまう。
そして、たった今、最後のつながりも消滅しようとしていた。
二年前、一雷精は命を救われ生き残った。
しかし、その代償に命以外の全てが手元から離れようしているのかもしれない。