15
陽が傾き、空が夜の景色へと変貌する。色々あったせいか、今日という日が随分と長く感じた。だがこの景色の変わりようを見るとそんなことはなくて、自分はあくまでも同じ時間を生きているのだなと一雷精は実感した。
「夕飯までもう少しらしい。アグスさんと、娘のウェルさんが作ってくれるそうだ……」
ラリアはそれだけを一雷精、フィアル、フクレイに告げる。三人は
何も言ってあげられなかった自分を、フィアル、ラリア、フクレイは終始悔いていた
「私達が泊まる部屋はここでいいんだね?」
「いや、ここと隣の部屋だ。隣は俺と一雷精が使う」
そう言い、二つ持っていた部屋の鍵の一つをフクレイに渡す。
「わかった。確かに預かったよ」
フクレイはそれを受け取り、ポケットにしまうと、部屋中に視線を廻した。
一階に二部屋、二階に三部屋と全部で八部屋あるアグス家だが、客用のこの部屋に置いてある寝具は質素な布団に固い枕、そして薄い毛布だけという最悪な組み合わせだった。これで一泊一万ヲルなのが腑に落ちないが、先刻アグスが赤裸々に語ったこの国の現状を聞いてしまっては、とても文句は言えなかった。
「このお布団も、二人で寝れば暖まりますよ」
苦笑をまじえてフィアルが言う。全員が同時に頷いた。
「じゃあ、俺は娘さんとこいって手伝いをしてくる。わかってると思うが、お前らも手伝えよ」
そう言い残し、ラリアは部屋から出て行った。キイイと今でも取れそうな扉の軋む音が部屋中に響く。
「私はアグスさんの様子をみてくる。お風呂を貸してくれるらしいから先に入っておくといい」
フクレイも出て行った。再び扉の高く、軋む音が響く。
「……」
「……」
残された一雷精とフィアルは互いに沈黙を貫いていた。無機質な静寂が部屋中に漂う。
「お風呂入ってきますね」
フィアルがボソリと呟き、沈黙を破る。
「うん。わかった」
念のため訪ねると、フィアルが
「覗いたりしませんよね……まあ、口ではあれだけいっときながらもやっぱり女の子の裸には興味あるのですね」
「君の裸なんかいらない。俺はBカップ以上をおっぱいとして認めていない」
「普通その台詞はBカップ以下なんじゃないんですか」
心底驚くようにフィアルは指摘する。だが、そこにはいつもの勢いはなかった
「……無理にいつもの調子を保とうとしなくてもいいよ。あんな話を聞いたあとじゃ、いつも通りでいられ
る方がおかしいってもんだ」
「……思っていたよりも、状況は深刻ですね。ただ犯人より先に石像を奪って、地震を起こす前に倒せばいいと考えていました。まさかもう既に地震が起きていて、しかもあんな残酷なルールを作られているなんて思ってもいませんでした」
涙グムフィアルに、一雷精も頷く。もし自分の大切な人間が目の前で危険な目に遭っていたとしても、それを助けてしまえば今度は国全体が犯人の手によって滅ぼされてしまう。それは何としても避けたいことだし、かといって最愛の人間を見殺しになんて出来ない。一人助けるとみんなが死に、みんなを助けると一人が死んでしまうのだ。
大切な人間なんていない一雷精は仮想として両親を思い浮かべる。自分の前で両親が事故にあっていて、死にかけている。
ここですう救急車を呼べば二人の命は救われる。しかし、それを代償に国の人間が死んでしまうのだ。伊賀も、あの西條ですらも死んでしまったら悲しい。かといって両親を見捨てることはできない。自分の名前を呼んで助けこう母親、父親をいったい誰が見降ろしにできようか。
自分にはとてもじゃないがこんな究極の二択を選ぶことはできない。
「私達が何とかしませんと」
決意の色で染められたフィアルの瞳。その双眸からは芯の強い色を見せていた。彼女は本気なのだ。初対
面の、赤の他人のために己を犠牲にしてでも救う気なのだ。
「……そうだね」
堪らず目を逸らす一雷精。アグス達の苦しみは理解しているつもりだし、犯人のことは許せない。だが、彼女達を救えるのか、自分には自信がなかった。
夕食は、国に怒っている壮絶な状況を忘れ去るくらい豪勢なものだった。これまで見たこともないエリアリ―製の珍品の山が木製のテーブルに並ばれ、一雷精の食欲をそそる。
「うわー! 凄い凄い」
エリアリ―に飛ばされてからまともな食事を取っていなかったのもあり、舌なめずりして素早く席に腰をおろす。
「はは。全部で五〇〇Eもかからない料理を褒めるなよ 嬉しいじゃないかこの女男」
「あはは。俺はれっきとした男だぞアグっちゃん」
アグスと軽口を言い合い、机上に彩られてある未知なる食材の山に視線を注いでいる途中で、一雷精はあることに気付いた。
「あれ? 箸がない」
キョロキョロとテーブルを見回し、箸を探す。もしかしたらエリアリ―は箸を使わない文化で、代わりに
自身の手を活用するのかななどと思っていると、突然、耳元から小さな声が聞こえた。
「箸……持って来た」
「ああ、ありが……誰?」
後ろを振り返る。そこには、テーブルを囲っている五人分の箸を持った少女がいた。
「おお、すまんなウェル」
アグスはポンポンと背中を叩き、箸を受け取る。
「そちらの方は?」
フィアルが訊ねると、アグスの代わりにラリアが答えた。
「アグスさんの娘さ。この豪華な料理は、彼女が作ってくれたんだぞ」
アグスから自分用の箸を受け取ったラリアはそう述べると、隣の空席を指差した。
「ありがとうございますウェルさん。ここ、空いてますよ」
親しみやすい柔和な笑みを浮かべる。しかしウェルはラリアのことなど見向きもせず、無表情で空いた席へと向かった。
「え……」
戸惑う素振りを見せるラリア。よく見たらラリアだけじゃない。フィアルも、フクレイも怪訝な表情を浮べながら、無音で腰を降ろしたウェルの虚ろな瞳を見つめていた。
一雷精も一同に倣って見つめる。当のウェルは四人の視線など気にもせず、手前の料理を興味なさそうに眺めている。
「ごはん……」
ウェルは視線を料理からアグスに移し、声を漏らす。感情がこもっていない、とても機械じみた声だった。
「そうだな、食べよう」
アグスは両手を合わせて首を下げる。ピースメインの面々は終始ウェルが纏う雰囲気に途惑いながらも、それに倣った。
全員が一斉に羅列された品の山を頬張り、様々な反応を見せた。
「素晴らしいですね。この舌触り、思わず頬が落ちてしまいそうです」
一同の代表としてフィアルが顔を綻ばせながら饒舌に褒めたたえた。
「そうか。どんどん食べてくれよ」
アグスは笑う。食卓は歓喜の声で染められ、陽気な雰囲気に包まれていた。誰もが笑顔を見せ、箸を進めていた。
ウェル一人を除いて。
「……」
談笑ムードの中で一雷精は笑顔を消し、正面のウェルを見つめた。無言で、そして無表情で箸を進める彼女は明らかに異彩を放っていた。周りは食べることに夢中で彼女を見もしていなかったが、席を相対している形となっている一雷精にはウェルは嫌でも視界に入ってしまう。
――話してみようかな。
ふとそう思い、なんとなく一雷精は声をかけてみた。
「……ねえ、君」
返事はなかった。ウェルは自分の食器に緑色の揚げ物らしき食べ物を載せる。
「……ねえ、君」
無視。ウェルは乗せた揚げ物らしき物を口に運ぶ。その完全な無視具合に、一雷精は呆然としてしまった。あれれれ? もしかして照れてる? ひょっとして俺のことが好きなのかな。
あっはっはモテる男は辛いなあ。普通に生活をしているだけなのに。と内心でおどけてみせるが、彼女の冷徹な態度を見てすぐその考えが誤りだと気付く。また勘違いかよと戒めた。
そうだった。アグスさんだけが陽気に振舞っているだけで。この国人達はみんな笑うことも忘れるくらい、精神的にまいっているんだった。
「なら、笑うことを思い出させてあげよう」
箸を鼻の穴に突っ込み、手で顔を引っ張って口を限界まで広げる。一寸の狂いもない絶妙な顔の角度、計算し尽くされた間抜けな顔。これは、一雷精が中学時代に発案した腹筋がよじれること間違いなしの面白い顔だ。中学一年生のころだった、クラスのみんなに好かれようと一芸を身につけるためにネットで調べて、必死にこの面白い顔を練習したものだ。結果はおめえ気持ち悪いんだよの嵐で散々な評価だったが。……牛乳飲んでる時にその顔をしたのが間違いだったんだろうね。
さあ、笑うんだ。この冷酷な環境の中で、現段階で俺ができることは子の子を笑顔にしてあげることだけだ。
顔をぐるぐる回してウェルに近付く。しかし、ウェルは一向に一雷精の方を見る気配はない。もうだめかと諦めたところで、ふと額に激痛が走った
その痛みの正体が、先程まで料理を載せていた食器によるものだと理解するのはそう遅くなかった。
「え? 精様」
談笑に勤しんでいたフィアル達が声を止め、椅子から派手に転げ落ちた一雷精を心配そうに見る。
「う……ん?」
ウェルも含め五人の視線を受けたまま一雷精はジンジンと痺れる額を押さえて、痛みの根源でもある少女を見た。
「……止めて。気持ち悪いは」
微塵も表情を変えず。氷のように冷たい声を一雷精に振りかける。
「……なんだ。ちゃんと喋れるんじゃないか。安心したぶへえええええ」
「喋れないなんて言っていない」
無感動に述べるウェル。その機械的な言葉からは、とても感情を汲み取れない。
「じゃあ、どうして無視してたのさ。笑いもしなじゃないか」
「……あなた達が、嫌いだからよ。あなたに、私のなにがわかるの」
止めるフィアルとラリアに耳も傾けず、一雷精は大声で叫んだ。
「嫌いっていったいどういうことなん――」
「あなた達よそ者が、何もこの国のことを知らないで助けてやるなんて言っているのが気に食わないのよ」
「……あなた達が余計なことをしてウルヅスに見つかったらこの国は終わり……私達の生活をこれ以上狂わせないでどうせ、この国は救われないのだから」
キツク一雷精を睨んで言い終えると、ウェルは逃げるように走り出し、リビングから出て行く。ドスンと重々しい音がアグス家に響く。
「おい、どこ行くんだよ」
「追ってはだめだ」
追おうとする一雷精を、フクレイは右手で制した。普段とは違い、少し表情が鋭い。
「どうして? もしウルヅスの部下に襲われでもしたら大変だじゃんか」
「例え彼女が襲われていたとしてもここは人を守ってはいけない国だ。君は彼女を守れないし、守ったらそれこそウェルちゃんが一番嫌がっていた国の崩壊が待っている」
「……くっ」
悔しそうに肩を落とす。
「それはそうだ。だがな、後を追うくらいなら大丈夫だろう。守らなくてはいけない状況を防ぐためにも、今すぐ追いかける必要があるんじゃないのか」
割って入ってきたラリアの抗議に、フクレイは悲しそうに首を振った。
「あの子をそっとしておいてあげよう。私達じゃ、今のあの子の傷は癒せない。そうですよね、アグスさん」
アグスの方に視線を向ける。先程まで黙っていたアグスは、ゆっくりと首肯し、目を伏せた。
「その通りだ……。あの地震以来、あの子は殻に塞ぎこんでしまっている。何回も、何回も破ろうとした
が、無理だった。私には、あの子を地震という名の呪縛からは解放させられないのかもしれない」
悔しそうに唇を噛みしめ、声を震わせる。
「夕食前に、アグスさんの部屋へ行った時に、ウェルちゃんの話を聞いたんだ。余りにも辛い話で黙っていたけど、そういうことにはいかなくなっちゃったね。皆にも、彼女の痛みを知ってもらう必要がある……特に、一雷精にはね」
一雷精を見つめると、アグスに声をかける。
「話してもらえませんか。ウェルちゃんの事を」
しばらく黙っていたが、震わせながらも次第に口を動かしていき、擦れた声で話した。
「地震が起きた日に、あの子は兄のオウクに命を助けられた。あの子は……ウェルは、とてもオウクに懐いていた。とっても、仲の良かった兄妹だった」
ピースメインの面々は、息を呑んでアグスの話を聞いていた。
「でも、そんな好きな兄は、自分を守って死んだ。それからよ。あの子が笑わなくなったのは……。兄は自分のせいで死んだと捕らえたウェルは……自らの意思で笑うことを止めたの。自分は笑うことが許されない人間だって。どんなことがあっても、例えウルヅスの支配が終わっても、自分は笑ってはいけないって、そう私に言ったの……。あの子が笑わなかったのは、そういう理由があったからなのよ」
後半の言葉は、一雷精の方を向いて言ったものだ。本当なら怒りたいところなのだろうが、ウェルの事情を知らない一雷精を怒るのは理不尽だと判断したのか、アグスの表情は、とても優しかった。
「……そうか」
今更ながら、自分が言った言葉の重さに気付く。この国を救えば自分達も、ウェルを始めとする国民も救えるとばかり思っていた。だが、それは違った。
既に彼女達は苦しんでいたんだ。癒えようのない傷を負っていたのだ。その傷を治すことを放棄し、これ以上深手を負わない生き方をすることに決めたのだ。そんな人間に、何も事情を存じない奴等が傷を治してやろうなんて言っても快く思うはずがなかった。
「ウェル達を、守らないと――う」
突如、視界が揺らぎ、激しい吐き気に襲われる。
脳内に浮かんだのは、割れた花瓶でもなく、白い花でもなければあの鋭い眼でもなかった。
泣いている、夢に出てきた少年と、その少年を泣きながら見つめる茶色の髪の女性。
浮かんだ映像が鮮明化するほど、胸がきつく締め付けられる。ウェル達のような傷を負ったうえで生きていく痛みとは違う、全てを諦めさせるような、一撃の重い痛みだった。
この痛みの実態をつかめない限り、自分の忘れた記憶は戻らないし、人を守れないという楔からは逃れられない気がした。このままでは、自分とも、この国の人とも向き合えない。
変わるためにここへ来た癖に、何をしてるんだよ俺は……。
愕然と肩を落とす。泣いていた少年と女性は、その姿を最後まで移すことなく一雷精の頭から消えた。