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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
ラティアという女
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1.混乱と過ち(2)

今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。

 呻き声ひとつ上がらなかったが、ギルウィルドが流血していた。それもかなり激しく。彼の手には片刃の短剣があった。彼自身の持ち物ではない。繊細で華奢な造りから、明らかに女物の守り刀だと知れた。

 額に血を滲ませたイッディマが茫然とした様子で立ち尽くしていた。彼女のからだを、その主が抱えて押さえつけている。さすがに驚いた様子だった。


「――何やってんだ、下手くそ! 素人相手に!」


 苛々とルキシスは怒鳴った。

 大方、イッディマが刃物を抜いたのだろう。何を考えているのか知らないが。そしてそれを、ギルウィルドが咄嗟に取り上げようとした。ところが素人の女相手に遠慮があったのか、あるいは何か動揺でもしたのか、いずれにせよ目算を誤って腕を切り裂かれた。悪いことに利き腕である。この男らしくもない馬鹿馬鹿しい失敗だった。情けない。こんなことで、よく今まで戦場で生き残ってこられたものだ。

 イッディマは両目を見開き、涙を流しながらまだルキシスを見つめていた。


「わたくしの……命でお詫びを……」

「痴れ者が」


 今歩んだばかりの道のりを戻る。腰に下げている物入れから布を取り出し、細く左右に引っ張って紐状にする。遠目にも傷は浅くはなかった。噴き出した血が肘を伝って地面に落ち、赤黒く辺りを汚している。止血してやらねば。まさか永遠に剣が握れなくなるような怪我とは思わないが、元のように動くまでには少し時間がかかるかもしれない。

 ギルウィルドは緊張した面持ちで口を引き結んだまま何も言わない。腕を出せとルキシスが言うと、ただ無言でこちらを見下ろしてきた。


「ギルウィルド」


 彼は負傷した側の手で短剣を持ち、もう一方の手で傷口を押さえ込んでいる。だが今も、抑え込んだ隙間から噴水のように血が溢れ続けている。


「何やってるんだよ。止血しないと」

「――リリ」


 彼は深刻な顔をしていた。布を両手に持って扱きながら、ルキシスは彼の顔を見つめ返した。


「彼と、彼女と、きみは話をするべきだ」

「おまえに関係ない」

「関係ないからこそ言うんだ」


 そこまで言ってからようやくギルウィルドは腕を出した。傷口は肘より下だ。傷口の上部にきつく布を巻き付け、締め上げようとする。


「ラティア」


 そう声を掛けられて、渋々そちらに顔を向けた。

 それは生まれた時の名前だが、そんな名前の女はもういない。だが今は、男手があるに越したことはない。


「布のそちら側を引っ張っていただけませんか」


 ルキシスの言葉に、彼は――、アールシュウィンは、かつての夫は、小さく頷いた。イッディマは束の間の狂乱から抜け出し、今はただ茫然と脱力している。だがアールシュウィンがそのからだから手を放すと、俄然勢いづいて、彼女はルキシスの足元に縋りついた。


『御方様、どうか島にお戻りください』

「よしなさい!」


 優しいひとではあったがさすがに怒気を含ませて、彼は侍女を叱りつけた。


「あー、その女邪魔なんで、押さえてていただけますか」


 その言葉に応じて、彼は侍女をルキシスの足元から引き剥がしてくれた。

 まったく余計な邪魔が入った。この間にも血は失われ続けているのに。


「自分で引けるよ」


 ギルウィルドがそう言うので布の一端を彼に任せた。もう一方の端を掴み、渾身の力を込めて引き絞る。かたく結び目を作って固定し、それからまた別の清潔な布で傷口を強く押さえる。そうやってふたりがかりで何とか止血を試みたが、それでもすぐに流血がおさまるというものでもない。辺りには濃厚な血の匂いが広がっている。足元は血だまりと表現しても差し支えないありさまだった。


 出血が多すぎる。いくらか焦りが滲んだ。商売柄、簡単な手当てくらいならば自分でもできる。だが医薬について専門的な知識があるわけではない。もし大事な神経を傷つけていたら? ただ止血して、傷口を縫えばよいというものではなかったら? やっぱり、万が一、この男が二度と剣を握れなくなったら? この男にはこの男で何やら金を稼ぎたい事情があるようだが、傭兵稼業以外で大きな金を稼ぐ術など持ってはいないだろう。だがさすがに自分だってそこまでこの男の面倒など見きれない。その義理もない。ただ、良心というものがあるとしたらそこが疼くような気はする。


「どのようにお詫び申し上げればよいか、言葉もないことです」


 イッディマのからだを押さえ込んだまま、かつての夫はそう言ってギルウィルドの前に頭を下げた。いささか妙な気分だった。夫は――平民を殺傷したところで咎められるような身分ではなかったからだ。だがもちろん、彼は理由があろうとなかろうと、誰かを殺したり傷つけたりするような人間ではない。ただ、流れ者の傭兵ごときに頭を下げるような必要のない身分であるのも間違いない。むしろこの程度のことで平民ごときに詫びを述べることは彼の身分にふさわしい振る舞いとは言えなかった。

 でも、こういうひとだった。いつも誰にでも優しく、思いやり深かった。ラティアにも。


「屋敷にお越しいただきたい。医師がおりますので」


 医師という言葉は魅力的だった。


「おまえ、行ってこいよ。わたしは宿で待ってる。エルとクラーリパと……」


 仕事を探すどころの話ではなくなってしまった。ある程度傷が癒えるまでここに足止めされることになるかもしれない。でも直近の仕事でだいぶ懐もあたたかいので、それができないというわけでもない。


「リリ」

「ラティア」


 ふたり分の声が重なった。

 思えばどちらも、自分の名前ではないのだが。


「――どうぞ」


 あっさりとギルウィルドが譲った。

 かつての夫は頷き、ルキシスに向き直った。イッディマはもう暴れたりせず、彼が手を放しても今はただ静かにそこに佇んでいる。


「おまえも来なさい」

「わたくしは参りません」


 正面から向き合うと抗えないような気がした。声は尻すぼみに小さくなり、しかもまたいつのまにか彼に引っ張られて宮廷風の発音と言い回しになっていた。


「何故」

「馬たちが……、待っておりますし、それに」

「それに?」


 こんな都合の良い夢なんて見たくない。

 失ったものは失ったままでいたい。


「……お許しください」

「馬は迎えに行こう。屋敷にも厩舎がある」

「若様、わたくしは」

「わたしももう若様ではない」


 その言葉に一瞬息が詰まった。


「ではお義父様は」

「七年前に」


 思わず絶句する。

 舅は、もういないのか。つまりラティアという女のかつての夫が、今はクロフィルダイの島主か。

 そう言えばイッディマはさっき、彼のことを『御所様』と呼んでいたか。それは島の主だけに許された呼び名だ。

 舅は島の貴族たちや屋敷の者たちには威厳を持って接していたが、嫁のラティアには穏やかで優しいひとだった。良くしてくれた。息子夫婦のために楽団や劇団を招いて、家族だけの楽しい催しをよく考えてくれたひとだった。子に恵まれない嫁を責めることもなかった。島の貴族や屋敷の使用人たちのほうがラティアには厳しかった。


「それは……、わたくしのせいで、ご心痛を……」


 頑健なひとだった。まだ若かったはずだ。それがこんなに早く亡くなるなんて。

 頭の奥ががんがんと痛みだす。視界がぐるぐると不安定に揺れる。


「ラティア、それは違う。父は父の運命によって生きただけだ」


 でも、あんなことがなければ舅はもっと長く生きたはずではなかったか。


「――ご登位のほど、おめでとうございます。アールシュウィン殿下、万歳」


 島主という至尊の地位への登祚にあたっての、決まりきった祝福の言葉だった。それを口早に述べるだけでせいいっぱいだった。本当はスカートを捌いて礼をする。でも、スカートを穿いていないからそれができない。


「ありがとう」


 アールシュウィンは少し目を細め、柔らかな眼差しでルキシスを見つめた。


「だがその時におまえが傍らにいないことは悲しいことだった」


 そんなことは言わないでほしい。これ以上は聞きたくない。とても、聞いていられない。


「おまえを責めたつもりではない」


 彼が一歩、歩み寄ってくる。

 来ないでほしい。でも願い空しく、彼はラティアの手を取った。


(――ラティア)


 それは自分の名前ではない。少なくとも今はもう。そう思うのに。


(わたしの手)


 ――ラティアの手。


「先のことは屋敷で話そう。それよりも早く彼の手当てをした方がよいと思わないか」


 それはそうだ。でも、自分の身柄は必要ないではないか。

 優しくあたたかい手が自分の手を包み込んでいる。懐かしい体温。ミモザの香り。春を告げる花。またいつか、あの島で花の盛りの季節を迎えることができるのではないか。そんな夢を、幻を、心が勝手に思い描いてしまう。

 そんなことはありえない。

 失ったものなのだから。


「エ・ク・リダハ」


 リーズ語に無理矢理訳すならば、わたしの旦那様、とでも言ったところだろうか。

 もう二度と口にすることのなかったはずの故郷の言葉。


「マ・ディ・ファダン」


 穏やかに目を伏せて、彼はそう応じた。

 夫が妻を呼ぶ時の、島の言葉だった。これも無理にリーズ語に訳すなら、わたしの奥方と言ったところか。


(――これだって)


 もう二度と呼ばれることもないと思っていたのに。


「来てくれるね」


 優しい、同じ色の瞳が真摯に自分を見つめている。


「それはできないことですわ」


 そう言いながらもこれ以上抗いきれなかった。いや、実際、言葉になっていたのか。それさえも定かでなかった。

 自分はなんて愚かで無力で、何もできない女なのだろう。

 ラティアはうすらぼんやりとした小娘だった。これといった意見など何もなく、少し思うことがあったところで自分の気持ちも上手く表現できない小娘だった。せいぜいが黙り込んで、困ったように微笑むのが関の山だった。

 何も変わっていない。

 そのことが痛いほどに身に染みた。

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