1.混乱と過ち(1)
まあまあメンタル強そうな感じの女傭兵がメンタル弱そうな傭兵の兄ちゃんと関係を深めていく恋愛ものですがまだ恋愛してません。もう3章なのに…。
3章はそのメンタルのキマっているリリちゃんが前の旦那さんと再会するメンタル大揺れ乙女モード全開編です。間男の疑いをかけられたギルウィルドは無事逃げ延びることができるのか。
世界中から色が消えた。
音も失われて、時間が止まったようだった。
「必ずおまえを探しに行く」
誰がそんなことを言ったの?
まるで夢物語のように。
そんな日は来ない。
夢なんて見ない。
ひとりで勝手に生きていく。
自分にはそうするだけの力がある。
――世界で一番美しいあの島に戻ることなんてありえない。
「ラティア」
幻聴か。
そうでなければせめて何かの聞き間違いか。
生まれた時の名前。
今自分を覗き込む、同じ、茶色がかった紫の瞳。
島の外ではついぞお目にかかったことのない色彩だった。
止まった時間の中でただ彼だけが色を持ち、音を持って動いていた。
昔の続きのように。
ミモザの香りを纏って。
「――きみの知り合い?」
そう声を掛けられて、世界が急激に動き出した。はっとして声の主を振り返る。腐れ縁の傭兵仲間がぎこちなく顔をしかめてこちらを見ていた。
何か言おうとして、声が出なかった。
忙しなく呼吸をする。耳元がどくどくと脈打っている。
「し……、らない、知らない」
ルキシスの腕を、彼が掴んでいる。かつての夫が。その彼の腕をギルウィルドが押さえ込んでいる。
「――兄さん、人違いだってさ」
そう言いながらもギルウィルドの声にはどこか捉えどころのない繊弱さがあった。この男にしては珍しいことだった。彼はルキシスの昔の名前を知っている。その名を口に出され、状況が分からないながらに不穏なものをひしひしと感じて、どうふるまうべきかはかりかねているからだろう。
「もういいから」
掴む腕を、ルキシスは振り払った。懐かしい手を。衣服越しの体温を。
「行こう」
自分が今、どういう顔をしているかまるで想像がつかなかった。
ギルウィルドは何か言いたげな顔をしていたが、結局は黙ったまま押さえていた腕を解放した。ギルウィルドの隣に立ち、かつての夫に背を向けて一歩を踏み出そうとしたその時だ。
『わたしのことを忘れたか』
リーズ語ではない。ヒルシュタット語でも、ソヴィーノ語でもない。
紛れもない、クロフィルダイの島の言葉だった。
その言葉を聞いた途端、打ちのめされたように呼吸ができなくなった。喉を喘がせてむりやり空気を吸い込んで、それでやっと息を繋いだ。
「リリ」
ギルウィルドが顔を強張らせてこちらを見ている。
『約束したはずだ』
これはどういう夢なのだろう。
彼がこんな場所にいるはずがない。
島からも遠く離れた、南方の、ずっと東の半島になんて。
『必ずおまえを探しに行くと』
それは叶いっこない夢の話。
本気になんてしたことはなかった。
(わたしは)
都合のよい夢なんて見ない。
――でも、本当に?
本当は?
足が動かなかった。
石畳に焦げ付く影に縫い止められたかのように。
「ええと、彼と話をした方がいいんじゃ……」
ためらいためらい、ギルウィルドが言った。
余計な口出しをするなと言う気力も湧かなかった。
夫だとまでは思わなくとも、同じ氏族の人間であるということはギルウィルドも察するところだろう。
同じ黒い髪。
それだけならばまだごまかしようもあったかもしれない。
だが、この茶色がかった紫色の目は――。
(どうしようもない)
島の外にはない色彩。
島の者の証左。
「知らない。話す必要なんてない」
声は不自然なほどに掠れていた。聞き苦しいまでに。
「おまえの夫の顔を忘れたのか」
島の言葉ではなかった。
清流のような美しい宮廷リーズ語だった。
ギルウィルドの顔が凍りついた。彼はルキシスから一歩距離を取り、言葉もなく視線だけで驚愕の意を伝えてきた。
「……人違いですよ」
懐かしいミモザ。
同じ色の瞳。
いつも優しい言葉を紡いでくれた声。
もう二度と交わらないはずだった。
彼はルキシスが失った夢の世界の住人だ。
まかり間違って、束の間でも邂逅するなどということはあり得ないはずだった。
だからやはりこれは人違いだ。
そうでなければ真昼の夢。
こうして彼に背を向けたまま、二度と交わるべきではない。
距離を広げて、もう二度と、巡り合うことのないように。
(――でも)
最後にもう一度、ひとめだけ。
そう思ったのが誤りだったのだ。後から考えてみれば。
だが自分自身ではどうしようもない衝動だった。
最後にもう一度、彼の姿を目に焼き付けて。そうすればきっと自分は、それをよすがに、二度と惑うことなくひとりで生きていける。
どういうわけだかそう思ってしまった。何の根拠もない。筋も通っていない。ただの世迷いごと。それなのに。
気が付いた時にはもう背後を振り返っていた。
たった今背を向けたばかり。そのからだを翻して。
同じ黒い髪。
同じ茶色がかった紫色の瞳。
(ああ)
髪を結っていない。化粧もしていない。ドレスどころかスカートですらなくて、男と同じ穿袴を穿いて、本来彼の前に出られる姿ではない。
こんなみっともない姿を見られるのは嫌だった。咄嗟にそう思った。
でも彼とまた目が合った。
ルキシスを見て、彼は少し口元を和らげた。
(エ・ク・リダハ)
それは島の言葉で、妻が夫を呼ぶときの言い方だった。嫁いでからはそう呼びかけることが多かった。時々は、アールシュウィンという彼自身の名前でも呼んだ。彼がそうしてほしいと言ったから。
いずれにせよもう二度と口にするはずのない言葉だったのに、彼の顔を見て脳裏に浮かぶのはやはりその呼びかけの語だった。
潮を含んだ風がふたりの間を通り抜けた。
ここは故郷からは遠く離れて、でも海は繋がっている。
昔を思い出させる風だった。
『――ま、御所様!』
不意に横合いから島の言葉が飛び込んできた。女の声だ。
髪をベールで覆った女が人込みを掻き分けてこちらへ駆け寄ってくる。装飾の少ない、地味ながら上品ななりの女だった。
彼女はこちらを認め、はっと目を見開いた。
腕には籠を抱えていたがそれを取り落とし、両手で口元を覆った。
『御方様』
その言葉でようやっと、ルキシスは我に返った。こんなことをしている場合ではない。幻のような、馬鹿げた夢に浸っていては生きていけない。自分自身の世界に戻らなければ。
もう思い出は得た。
記憶よりも少し鋭角的な、でも優しい、懐かしい、世界で一番素敵な顔立ち。記憶よりももっとずっと伸びた背丈。同じミモザの香り。
今度こそ都合の良い夢に背を向けて、ルキシスは歩み出した。無様に転ばないように足元を睨みつけて、路傍の石ころが石ころであることに安心した。自分の世界はこちらにある。
「リリ」
半歩遅れてギルウィルドが後を付いてきた。いたのか。忘れていた。だが、まあ、そういえば最初からいたのだ。この傭兵仲間は。
『御方様!』
悲鳴を上げて女が駆け寄ってくる。勢い余って、彼女はルキシスの背中に肩から思いきりぶつかってきた。自分は転びはしなかったが、跳ね返された女の方が地面に激しく転倒した。顔面を石畳に強打しそうになったところを、ギルウィルドが慌てて引き起こして支えた。
「ええと、ちょっと、リリ、どうすれば?」
『御方様はわたくしをお見忘れでござりますか』
リーズ語と島の言葉とで同時に話しかけられて、何だかそのどちらをも上手く咀嚼することができなかった。
女はどこか痛めたのか、それとも腰でも抜かしたのか、起き上がれない様子でギルウィルドに抱きかかえられている。
彼女は泣き濡れた瞳でルキシスを一心に見つめていた。
「――イッディマ」
それで、ようやく思い出した。この女はかつて自分の侍女のひとりだった。
あの日、屋敷の図書室で、自分に付き添っていて――いつの間にか姿の見えなくなっていた侍女だった。
イッディマというのは彼女の名前だ。気が付いた時には口にしていた。殆ど忘れていた名前だったが、意外に覚えているものだ。
『御方様』
彼女ははらはらと落涙し、それでもまだルキシスを見つめていた。
彼女もまた一族の末端の出身だった。本家の姫君や正妻の侍女を務めることができるのは、同じ一族の娘か島の貴族の娘だけと決まっていた。
ギルウィルドが困り果てた顔で自分を見ている。だが困っているのは自分の方だ。どうしてよいか分からない。いや、早くこの場を立ち去って、もう二度と彼らと何の関わりも持たないようにすること、それだけが今自分がするべきことだと分かっている。
それなのに、それを成し遂げるにはどうすればよいか――何故だか、それが掴めなくなった。
「その女を捨てろ」
「は? え?」
「その辺に捨て置け」
彼女を置いて一刻も早くここから去らねば。その一心で出た言葉だったがさすがに投げ捨てろとは言えなかった。
「リリ」
「わたしには何の関係もない女だ」
島の中でも高貴な家柄の人間たちは、公の場ではリーズ語で話す。それはリーズ語が帝国の公用語であり、貴族階級にとっては当然の教養でもあるからだ。クロフィルダイは帝国の構成国家ではないが、だが帝国を無視できない。併合されないよう、その野心を招かぬよう、友好的にふるまいつつも自己の独立を死守しなければならない。
だから、一般には島の言葉を使う。公の場や、政に関わる文書ではリーズ語を用いる。場合によっては古クヴェリ語をも用いる。そうやって生き延びてきた。
当然、若様の正妻の侍女であったイッディマはリーズ語が堪能だった。だから今ルキシスの話した言葉も、彼女には正確に理解できていたはずだ。
「御方様」
と、彼女は今度はリーズ語を使った。
「失礼」
優しいミモザがかすかに香った。その香りの主がルキシスの傍らに立つ。彼はギルウィルドに向かって丁寧な所作で両腕を伸ばした。
「当家の者がご迷惑を」
「――お気をつけて」
ギルウィルドは横目にルキシスの様子を窺いつつ、イッディマの身柄を彼に引き渡そうとした。だがそこで突然、彼女は身をよじって暴れ出した。
「御方様は今、たしかにわたくしの名を呼ばれました!」
「ああもううるさい、黙れ」
そう言う自分の声にもどこか勢いがない。そのことに気付いている。
苛々する。何に対してか? よく分からない。
支えようとするギルウィルドの手を狂乱した動きで振り払い、イッディマはその場に身を躍らせるようにして跪いた。そのまま彼女が両手をつき、石畳の上に額を打ち付けたのでさすがにルキシスもぎょっとした。絶対に流血しているはずだ。
「御方様のお怒りはごもっともでございます。お許しを賜ることができなくとも、仕方のないことでございます」
「イッディマ、立ちなさい」
彼女の今の主人、ルキシスにとってはかつての夫がそう言って促したが女は姿勢を変えようとはしない。周囲を行き交う通行人たちがさすがに奇異の目を向けてくる。
不愉快だった。簡単にこうして手をついて頭を地面にこすりつけて、おもねるような態度を取る人間は嫌いだ。
「勝手にやってろ。わたしには関係ない」
それだけを吐き捨て、ルキシスはもう何度目か、自分でも分からなくなっていた試みを繰り返した。すなわち、その場を立ち去ろうとした。
「島へお戻りください」
悲痛さを帯びた、絞り出すような声だった。
「皆、御方様のご帰還を望んでおります」
そんなわけがない。馬鹿を言うな。そうとしか思わない。
「控えなさい」
彼女を宥めるのは穏やかだが厳然とした声だった。若い頃に比べて随分と重みが増した。優しいひとだったが、厳しさには欠けたかもしれない。だが今は毅然とした風格を内に含んでいる。あれから長い年月が経った。島の主としてふさわしい経験を積んだのだろう。懐かしく、愛おしく思った。もうこの先二度と聞くことのない声だから。
「御方様、ラティア様!」
イッディマが叫んだ。その直後、どよめきが起こった。それから通行人の悲鳴も。
その瞬間をルキシスは見ていなかった。彼らに背を向けて遠ざかりつつあったからだ。
だがこの緊迫した騒乱の気配には思わず足が止まった。後ろを振り返りたくなかった。しかしやはり、どうしたってそうはいかなかった。
渋々からだを反転させる。その瞬間、予想外のものが目に入って思わず目を疑った。
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