2.はたらくふたりとお水とごはん(4)
今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。
「毒だな。ま、仕方ない。歯に仕込んでればなかなか自殺を防ぐのは難しい」
「証言を取りたかったのに」
「今更証言が必要か?」
「あるに越したことはないだろ」
フラヴィオとジャコモの主従の元に歩み寄り、ルキシスは彼らの前に膝をついた。ソヴィーノ語で声を掛ける。
『面目ない。生け捕りにできず死なせてしまった』
フラヴィオはジャコモに支えられ、ようよう床の上に座り込んでいるといった有り様だった。真っ青な顔をして、目の焦点も定かでない。全身ががたがたと震えている。
『若君に代わって御礼申し上げまする』
老騎士は丁寧にそう述べた。
『褒美をいただけますか?』
よくよく考えてみれば自分は単なる通訳なので、若君の命を救ってやる義務はなかった。とはいえ雇い主に死なれてはそこで失職してしまうので、義務はなくとも意義はあった。
『無論』
刺客をうっかり死なせたことには落胆したが、小遣いがもらえそうなので少し気分は上向いた。
「いつ気付いた?」
背後からギルウィルドが訊ねてきた。
「事情を聞くとか聞かないとかのあたりだな」
「どうして気付いた」
「さあ?」
幕屋とはそれなりの距離があった。中に入るまでは物音も耳に届いていなかった。
異質な空気を、その変化を、肌で感じ取ったということだろうか。それを言語化して伝えるのは難しかった。
「たぶんおまえよりわたしの方が詳しい」
暗殺とか刺客とか、そういうことには。
ギルウィルドは何か言いたげな気配を醸してはいたものの、それ以上は何も言わなかった。
『護衛を強化した方がよろしいでしょうね』
ジャコモに向かってそう言いはしたものの、連れてきている下男や人足たちに武術の心得があるかは疑問だ。
『――あの女がっ』
少年が声を絞り出した。お目付け役の老騎士の腕に縋り、まだからだを震わせながら。
だがその目に宿っているのは怒りではなかった。絶望と悲しみだった。
『父上はそんなにもぼくが邪魔か』
フラヴィオが嗚咽を漏らす。
彼の問いに対して何か返答をするのは自分の仕事ではないだろう。
ルキシスは腰を上げ、後をジャコモに任せて幕屋を出ていこうとした。ギルウィルドは主従の様子に特に関心も示さず、既に先に立って歩き始めている。
『ルキシス殿』
その背中に老騎士が声を投げかけてくる。
『若君をお護りいただけないであろうか』
ルキシスは足を止め、主従を振り返った。少し考える。
「なに?」
数歩先を歩いていたギルウィルドもこちらを振り返った。
「わたしに若君の護衛役をしないかとお誘いが」
「戦闘には参加しないって話じゃないのか」
「護衛は戦闘に入るのだろうか」
「知らないけど」
彼は眉をひそめた。
「受ける気?」
「若君に死なれたら通訳の出稼ぎも終わりだからなあ」
こんなところに暗殺者を送り込んでくるくらいだ。ひとり失敗したからと言ってそれで終わりとは限らない。
「若君のお守りは爺さんの仕事だと言ってやれ」
それは正論だ。確かに。爺さんという言い方はどうかと思うが。
『若君にはアマティーニ卿がおいででしょう』
それを告げると、ジャコモは沈痛な面持ちになった。自分ひとりでは手に余ると感じているのだろうか。
『ま、できることはお手伝いしますから』
それくらいならアラムも怒ったりはしないだろう。ルキシスとしても手当てがもらえるなら構わない。ただ働きなら御免だが。
結局その夜は刺客の追撃もなく更けていった。兵隊を集めるための打開策についても議論できず、膠着の一夜となった。
◆◆◆
朝方早く起き出すと、ルキシスは兵士たちに開放されている井戸から水を汲んできて顔や手足を洗った。塩分の強い水とはいえ、ないよりはましだ。それからその水を浸した綿の布でからだを隅々まで拭いて身繕いを済ませる。綿布は一般に麻布よりも高価なので、これはルキシスのささやかな贅沢のひとつであった。
庶民の食事は一日二回、昼と夜というのが相場だ。裕福な家庭や貴族たちでは朝食もとるが、ルキシスは何か特別なことでもない限り昼と夜の二回で済ませている。
暇なので厩舎の方へ行った。厩舎といっても急ごしらえの簡素なものだが、エルミューダを含む複数頭が繫養されている。馬丁を兼ねているという下男たちが既に立ち働いていた。掃除をしたり飼い葉や水を交換したり、馬の世話には手間がかかる。重労働だった。
ギルウィルドもそこにいた。自分の馬の様子を見に来たのだろう。ルキシスを認めると、早いねと言った。
「エルミューダに林檎をやってもいいか?」
携えてきた小さな荷物袋から大ぶりの林檎をふたつ取り出す。昨日からエルミューダにやる機会を伺っていたのだが、機を逸し続けていた。
「林檎? いいけど、ありがとう」
一頭だけにやるのは可哀想なので、下男たちに断って他の馬たちにも林檎を与える許可を得る。手の上で雑に切り分け、芯を落として順番に与えてやった。
「贅沢だな、おまえ。おれより良いもの食って」
ギルウィルドはそう言ってエルミューダの首筋を軽く叩いた。エルミューダは林檎のお代わりを狙ってルキシスの手を鼻面で押してきたが、残念ながら林檎は二個しかなく、全ての馬たちに分けると一口分にしかならないのだった。
「後でお代わりを買ってきてやるから」
東の広場に行けば林檎はいくらでも手に入るだろう。小遣いに心許ないのは変わりないが、馬たちに林檎を少し奢ってやるくらいのことはできる。腐っても人間の矜持である。
「きみがそんなに馬が好きだなんて意外だ」
「動物は嫌いじゃない。馬は特にいい」
そう言えば、娘の頃過ごしていた乳母の家には猫がいた。からだの大部分が白く、ところどころ茶色い模様のある雌猫で、小柄で、外に出ると他の猫にいじめられるので家の中にばかりいた。
家から少し離れた高台に散歩に行けば、そこには野ウサギたちが多く生息していた。彼らは大した警戒心もなく、人間を見ても逃げたり隠れたりしない。つぶらな黒い瞳で興味深そうにこちらを見つめて、近付こうとするとそこでやっと逃げていくのだ。あれも可愛らしかった。
「決めた。わたしはこの仕事が終わったら馬を手に入れる」
仕事柄、馬を手に入れても戦争のなくなる冬になると手放すことが多かった。季節は今夏の終わりに差し掛かり、これから秋、冬へと向かっていく。でもできれば今回の冬は愛馬と一緒に過ごしたい。
「美しい尾花栗毛がいいな。馬格があまりなくてもいいから切れ味のある脚を持っていて、なるべく気性の穏やかなので。牡馬はすぐ手を抜くから、真面目な牝馬がいい」
「尾花栗毛は高いでしょ」
「だからいい」
尾花栗毛は栗毛の馬体に、鬣と尻尾の色素が薄く、金色に見えるものをいう。数が少ないのでそれだけで値は上がりやすい。だが、豊かな麦の穂のような黄金の輝きをまとって走る姿は神々しく、思い浮かべるだけでうっとりしてくる。
「戦場に出るなら男馬の方が――」
そう言いかけてギルウィルドは不意に苦虫を噛みつぶしたような顔をした。どうしたのか。怪訝に思って彼の顔を見上げる。
「――いや、そんなに馬が好きならどこかに土地を買って牧場でもやったら?」
ルキシスは半眼で彼を睨みつけた。胡散臭いことを言う男である。阿呆かと思う。
「傭兵の方が実入りがいい」
まあそうだけど、とか何とか、ごにょごにょと彼は口の中で呟いた。
「ひとのことにとやかく言ってないで、おまえが牧場主でも何でもやればいいだろ」
戦場にいるのが嫌な男なのだ。傭兵のくせに。地獄だと思っているらしい。ルキシスからすれば、馬鹿げている。力さえあれば誰に傷つけられることもない。どこよりも安心できる。それが戦場なのに。
自分が嫌だから、地獄だと思っているから、ルキシスも同じだと思っているのだろうか。いや、そこまで愚かではあるまい。ただ、つまりは――余計な気ばかり回す男なのだ。
まあ、勝手に気でも何でも回していればよい。ルキシスには関係ない。




