10.久々に兵隊らしく(4)
「閣下、止めていただけませんか」
ジャンに助けを求める。ルキシスは彼に向かってひらひらと手を振った。
「ルキシス、戻って――」
「おまえは黙ってろ」
言うなり、彼女は真っ直ぐ踏み込んできた。斬りかかるのでなく刺突だ。目を狙っている。これはあくまでただの手合わせであるという認識はあるのだろうか。甚だ疑問であった。
体ごと避ける時間はなかった。何とか上半身を捻って距離を作り、木剣を差し込んで横に払う。彼女はそれに逆らわずに払われた方に跳び、軽快に地面に降り立った。その降り立った足で再び飛び込んでくる。切っ先を喉元に向けて。
問題ない――と本人が述べたとおりに、重たく動きにくい侍女の装束のままでも彼女は素早く立ち回った。袖やスカートや帯飾りが美しい曲線を描いて宙を舞った。演舞か何かのようだった。それが目眩ましになり狙いをつけづらい。幻惑される。一瞬たりとも立ち止まらない、宙を地を、自在に駆け巡る彼女の姿に。
初めて出会った時、彼女を少年兵と見間違えた。兜をかぶっていたし、顔などいちいち見ないから無理もない。右腕を奪われそうになった。城壁の上から蹴り落としてやったのに、ちょっと息をついたらまた同じ少年兵が自分の首を狙っていたのだから妖怪変化かと思った。彼女の蒐集している怪談話の中に倒しても倒しても蘇ってくる亡者の話などありそうなものである。
彼女は確かに身軽だ。だがすべてが――小さい。どうしても膂力では男には敵わない。突き刺す動きは鋭く目でも追いきれないが、やはりロタールほどの重さはないのだった。
それはすなわち刃を持たない木剣での手合わせにおける彼女の不利を示す。本物の刃物であれば上手く急所に突き刺されば彼女の勝ちだ。しかし木剣は刺さらない。せいぜいが打撲や骨折を招くくらいで、それくらいの怪我を負ったところでこちらは勝負を続けることができる。
だからこそ目だの喉元だの、急所を的確に狙ってきているのは分かっていた。しかしそれだって彼女の狙いを読みやすいという意味で彼女の不利にしかならない。
それでも勝算がある――と、考えているのか。
舐められたものだ。
一打で致命傷を負わせることのできない木剣で、動きを制限される婦人の装束のまま。
繰り出される切っ先を受け流し、足払いをかける。しかしその動きは読まれていたのか寸前で避けられた。ルキシスは大きく後方に跳び退り、距離を取ってまた剣を構え直した。
周囲はしんと静まり返っていた。ロタールと剣を合わせていた時には歓声まで上がっていたものを。
ちらりと見えたジャンの顔は憂鬱そうだった。彼女を止めたかったが無理に止めれば彼女の不興を買う。だから力ずくでは止められない。しかしこんな手合わせは望んでいない。そのあたりの煩悶が窺える顔つきだった。
――仕方ない。
さっさと片を付けよう。
ルキシスが斬り込んでくる。少し作戦を変えるつもりなのか、剣を持ったこちらの右手を狙っていた。体を横向きにずらし、彼女の狙いから逃れる。ルキシスは深追いはしない。この速度でこちらが誘導したかった方向とは反対側に身を滑らせたのはさすがだった。
目で確かめる余裕はない。半ば賭けで彼女が逃れた位置に大きく足を踏み出す。体全体を向けるのはその後だ。
自分は賭けに勝った。踏み出した足は地面とは違うものを踏みつけた。彼女のスカートの裾を上手く巻き込んで、地面に縫い止めたのだ。それができていなければ今度こそ彼女の木剣に喉を突かれていたかもしれない。
向き直ればルキシスの顔が憎々しげに歪んだ。彼女が腰に手をやる。隠し持ったナイフでも抜くつもりか。それを頭のどこかで感じ取りながら、体はそれとは無関係に動いていた。結い上げた彼女の黒髪が、立ち回るうちに乱れ、崩れかかっていた。その半ば崩れて輪のようになったところへ木剣の先端を差し込み力任せに彼女の背中側へと引っ張る。髪に動きを縛られた彼女の首ががくんと上向き、白い喉が天に晒された。
「そこまで!」
ジャンの怒声が響き渡った。びりびりと鼓膜まで響く大音声だった。
そしてそれは彼女の手の中のナイフがギルウィルドの大腿に突き刺さる直前だった。
そのナイフはたぶん、本当は、身動きを封じるスカートを切り裂き自由を取り戻すためのものだったのだろう。だがそのゆとりがなくなり、彼女はあっさりと標的を変えた。それこそ反則だと言いたいところだが――傭兵を相手にしているとこういうこともある。
木剣を慎重に彼女の髪から引き抜いた。これも木剣だからできることだ。本物の刃であれば髪を引っ掛けることなどできず、ただ切り捨てることしかできないのだから。
ルキシスは口も開かず、憤怒の表情でギルウィルドを睨みつけていた。
「着替えてこいって言っただろ」
「死ね」
やっと口をきいたと思ったらこれだ。彼女はうなじをさすりながらまだギルウィルドに敵意の眼差しを向けている。
「ルキシス、むちうちになるよ。湿布を貼ってあげるからこちらへ」
ジャンがそう声をかけたが彼女はそちらを見もしない。
「もう一本」
「ふざけんな」
勝てたところでこちらの身が持たない。
「ルキシス!」
再びジャンの怒声が響き渡った。彼はもう待たなかった。大股でルキシスの元にやって来ると、どうやったのかいまいちよく分からなかった巧みな動きで彼女の腕を捕らえ、木剣を取り上げて手の届かないところに投げ捨てた。
「何をする!」
「湿布を」
「いらない。わたしは頑丈だからこんなことでむちうちになったりしない」
ルキシスはジャンの腕を振り払おうとしたが彼も譲らない。見ようによっては捻り上げているように見えなくもないやり方で彼女の腕を取ったまま、円の外に彼女を連れ出そうとする。
しかし彼女もまた譲らないのだった。しっかと両足を地面に踏みしめて抗っている。リュドが駆け寄ってきて彼女の前に跪いた。どうか手当を、とか何とか彼女に懇願している。彼らもつくづくご苦労なことだ。
彼女はわがままで、自分勝手で、周囲を振り回してばかりいる。
今、自分も振り回されたばかりだ。
そしてジャンも、リュドも。
――彼女の夫も。
誰の言うことも素直には聞かない。
またそのことを考えてしまった。
不意にジャンがギルウィルドを見た。険しく、烈しい怒りを宿した眼差しだった。
(――おれのせいかよ)
彼女に傷を負わせないうちに、早く片を付けたつもりだった。それは消耗していた自分自身のためでもあったがルキシスのためでもあったし、ついでにジャンのためでもあったのに。
「やりすぎだ。分かるね」
「――」
全然やり過ぎではない。今まで散々、彼女に右腕を切り落とされそうになったり、腹をぶっ刺されて自分でちくちく縫う羽目に陥ったりしてきたのだから。
ジャンはそれ以上は何も言わず、ひょいとルキシスを肩の上に担ぎ上げた。彼女が抗うのも何のその、そのまま踵を返して歩き出す。周りを囲んでいた騎士や兵士たちが恐れおののいた顔で道を開ける。リュドがふたりの後を駆け足でついていく。
はあああああてめえ邪魔すんじゃねえよおおおおおという彼女の雄叫びだけがいつまでも尾を引いた。
「大丈夫か?」
声をかけてきたのは一番初めに挑んできた、まだあどけない顔をした青年だった。気遣わしげな顔には裏表がなさそうだ。
「大丈夫とは?」
「副団長の御方様にあんなことをして」
御方様。やはりそう思われている。
「あのひとは本人も言ってたとおり頑丈だから」
「そうではなくて」
「……成敗されるだろうか」
ジャンの不興を買ったのは間違いない。でもそれも今更だった。既に散々買いまくっている。
「副団長はこんなことで処罰を下される方ではないと思うが、この先振る舞いには気を付けろよ」
善意の助言である。ありがたく受け止めておこうと思う。
もっとも、とっくに手遅れかもしれないが。
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