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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
女傭兵の結婚狂想曲
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9.ギルウィルドの長い夜(1)

 しかしギルウィルドの長い夜はまだ終わらなかった。やっと解放されてひとり天幕に戻ったところで、その天幕の前によりにもよってフリーデヒルトがぬぼっと突っ立っていたのだ。

 咄嗟に声が上がりそうになった。今の今、忠告という名の脅しを受けたばかりだ。


 それでも何とか喚き散らさないで済んだのは、彼女がひとりではなかったからだ。野外に焚かれた篝火の灯りを映してますます赤々とした赤毛の彼女のかたわらに、リュド少年がいた。それから、三十がらみの男もひとり。名前は知らないが、この部隊に随行している騎士で顔は知っていた。


「何よ、化け物でも見たような顔をして」


 彼女はランタンをリュドに掲げさせ、顎をつんと突き上げてそう言った。


「姫君がなぜこのような夜更けにこのような場所に。ご自身の天幕にお戻りください」


 勘弁してくれ。二度めはないのだ。リュドと、ほかにも大の男がもうひとりいるとはいえ。


「おまえに訊きたいことがあるの」

「では日中、下仕えの下女にでも言伝ください」

「いちいちうるさいわね」

「とにかく今すぐお帰りください!」


 ルキシス様のお友達さん、と情けない声で分け入ったのは当然リュドである。


「そのう、フリーデヒルト様がどうしてもルキシス様にも旦那様にも内密に、お友達さんにお話したいことがあると言って聞かず」

「迷惑です」


 本当に心の底から迷惑以外の何物でもない。


「お話するまでは梃子でも動かぬ、それは明日の朝になっても同じことと仰せで」

「ギルウィルド君といったね」


 それまで黙って成り行きを見守っていた男が口を開いた。


「これ以上旅程が遅れるのも困るんだ。夜分遅くに申し訳ないが、姫君の話を聞いて差し上げてはもらえぬか」


 ギルウィルドは黙って彼を見た。彼が日中、ジャンの馬車に出入りしているところを何度か見たことがある。時には野外で言葉を交わしているところも。右腕――とまでは言わないにせよ、彼の側近のひとりではあるのだろう。ならば注意深く対応する必要がある。


「騎士様は」

「ロタール・フォン・ギュンターだ。七男で爵位はないし継ぐ見込みもないから気安く呼んでくれて構わない」


 いくら当人が爵位を持っていないからと言っても帝国の貴族の出身で、騎士の叙任も受けているのだろう。平民などいくらでも無礼討ちにできる。


「姫君とリュドだけではきみが困ると思ってね、立ち会いを申し出た。無論ここで見聞きしたことは他言無用にいたす。騎士としての誓いだ」


 顔を知っているとはいえ、もちろん彼の人柄を知っているわけではない。他言無用とは言うがジャンの耳には入るだろう。信頼がおけるかどうかは分からない。とにかく油断してはならない。


「姫君にふさわしいお振る舞いではありません。まして間もなく嫁がれる方が。ヴェルケフ卿のお許しがなければお話などできません」

「なんでいちいちジャンの許可がいるのよ」

「手前はヴェルケフ卿に雇い入れていただいた身分ですので」

「いちいちこうるさい男ね。そんな小姑みたいに細かい男だとは思わなかったのに」


 何でもいいからさっさと帰ってくれ。その一念しかなかったが、フリーデヒルトはしっかと大地を両足で踏みしめて、リュドの言ったとおり梃子でも動かぬといった姿勢を示している。


「ルキシスは夫のところに戻れないの?」


 ――結局、自分は彼女を追い返すことに失敗した。あれだけ忠告だか脅しだかを受けたのに。フリーデヒルトがルキシスのことなど口にするから。


「彼女の決めたことなので」

「なんでよ」

「知りませんよ」


 自分にも理解できないことだ。


「……何とかならないの?」


 フリーデヒルトの声音が急に変わったので幾分戸惑った。哀れっぽい、苛められた仔犬のようないじらしさが滲んでいたのだ。


「何とかとは?」

「だって可哀想じゃないの。あんなに夫のことが好きみたいなのに」


 何とかしてやれないの?

 彼女はそうも続けた。

 何とかしてやりたいのはこちらもやまやまだ。しかしそうはできなかった。彼女の夫は彼女に優しすぎて、彼女は自罰的すぎた。


「説得しようとしましたが、無駄でした」


 リュドがさっきから口を挟みたそうに顔をきょろきょろとさせている。彼としては、敬愛する主人の恋を成就させたいところだろう。しかし一方でルキシスの気持ちも無下にはできない。彼も彼で複雑な立場なのだった。


「でも可哀想よ。あれの夫だって、あれのことをいつでも迎え入れてくれるっておまえが言ったんじゃない。愛し合っているのに結ばれないなんて、まして一度は夫婦だったものが、あんまり可哀想だし変な話じゃないの」


 フリーデヒルトはやはり自分には掴みどころのない変な娘だった。彼女の言葉が偽りないものなのはここにいる全員に伝わっただろう。


 しかしあまりその話をここで続けるのもためらわれた。ここには部外者がいる。ルキシスが自分自身で夫のことを語ったリュドやフリーデヒルトはともかく、ロタールなる騎士は直接には何も聞いていないはずで――誰かに何かを語るということは、そこから先、その誰かからさらに顔の見えぬ誰かに話が伝わっていくということでもある。ルキシスだってそれくらい分かっているだろうに。それでも語りたかったのは、語ることで思い出になるから。夫との思い出を、語りたかったから。


 女心というものなのだろうか。迂闊だとは思うが、本人にもどうにもならない欲求なのかもしれない。責めるのは可哀想だった。だがやはり、迂闊であるという謗りは免れ得ない。


「彼女の望まぬことを、誰である無理強いすることは難しいのでしょう」


 彼女の夫でさえ、つまりは彼女の愛を享ける男でさえ彼女に言うことを聞かせられなかった。

 フリーデヒルトは納得がいかない様子で、たぶん口を歪めてこちらを見ているのではないかと思う。夜間なのでよく見えないが。


「……じゃあ、ルキシスは一生ひとりでいるつもり? 夫は生涯ひとりきりなんて言って、もう二度と結婚をしないの?」


 それはフリーデヒルト本人が直接ルキシスに確かめていたことだ。それをいま再びギルウィルドに問うということは、否定してほしいからだろう。


「手前には何とも」


 そう答えるしかなかった。フリーデヒルトが苛立たしげに地面を蹴り付けた。


「彼女は大切な友人ですから、誠実な夫を持って幸せになってもらいたいと思います。しかし」


 男を憎んでいるのではない。卑劣なるものを。

 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。


 結婚して生活の保証を得られれば幸福になれる。しばしば忘れそうになるものの、それが幻想であることを自分は既に知っている。ルキシスは姉のギゼイダほどにはか弱くないだろう。ギゼイダは弱く、ひとりでは生きていくことのできない女だった。それでいて、夫の愛を得るために何かするということもない女だった。だがというのか、だからこそというのか、誠実で愛をもって包んでくれる夫を持てば、婦人はやはり幸福になれるのではないのか。


 でもルキシスは、そんなものもいらないと思っているのだろうか。


「ジャンとは結婚しないのかしら」

「ルキシス様は未来のイースハウゼン伯爵夫人です!」


 フリーデヒルトの独言めいた呟きに、すかさずリュドが反応した。


「ジャンはもうルキシスとは契ったの?」


 急にしんと辺りが静まり返った。篝火の燃える音だけがかすかに耳に入るばかりだ。


「ねえ?」


 誰も何も言わなかったためか、フリーデヒルトはギルウィルドに水を向けてきた。


「し――知りませんよ。知ったこっちゃない」


 でも、たぶん、というよりはほぼ確実に、まだだろうと思う。一度でも肌を合わせていれば彼はそれこそ絶対に彼女を手放さないのではないか。それにどう考えたって彼女は未通娘だ。見れば分かるだろう。


「だからね、あたし、本人に訊いたわけ」

「ほ、本人にっ?」


 思わず声が裏返った。ほかのふたりも呆気に取られている。本人というのはどちらのことか。ルキシスかジャンか。


「そしたらルキシスったら、おまえって頭の中それしかないわけ? ですってよ。失礼しちゃうわね」


 どうやら前者らしい。それもそうか。もしも後者にそのようなことを訊いていたら今頃彼女は厳しい懲罰を受けていたことだろう。


「でももしまだ通じていないんだったら、ジャンは十年近く何をしていたわけ? ジャンは男じゃないってこと?」


 とんでもないことを、姫君はぽんぽん言い放つ。目眩がしそうだった。深窓の姫君とは平気でこんなことを口にする生き物なのか。良識というものが粉々に砕け散りそうな心地だった。念のために述べるが、神殿は婚前交渉を認めていない。世間様の実態はどうであれ。特に貴族社会なんて風紀が乱れているに決まっているが、それでも処女性は重んじられる。

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