8.嫁ぐ女と別れた女(7)
『仮に貴族の地位を捨てたとして、それで彼女を守ることがおできになりますか。飢えさせることなく、雨風に当てることもなく。本物の貧困というものをご存知のはずもない御方が』
冬には裸足のまま森に出て木の皮を剥いで煮て食べた。薪が絶えると煮ることもできなくなる。半ば凍りついたような生のままの木の皮を、擦り切れた衣を着た姉と、親代わりに面倒を見てくれた奴隷の老婆と、身を寄せ合って齧って、生きているのか死んでいるのかも分からないまま何とか命を繋いだ。だが、薪がなく火を熾せなくなるのはある種の救いでもあった。父に焼けた鉄の棒を押し当てられることもなくなるからだ。父は酒を飲んでは子どもたちや奴隷を打擲し、あるいは別の方法で痛めつけたが、酒を飲んでいなくても同じことだった。だから酒を買う金がなくても同じなのだった。
そのような暮らしを誰にもさせることはできない。食べることが大好きで、食事中にはいつも上機嫌な彼女にも、もちろん。
それぞれの手に提げたランタンの灯りだけでは彼の表情は窺えなかった。だが、白けた空気――というよりは、明確な不快の念が伝わってきた。身の程知らずの傭兵風情が何を知ったような口を、と思っただろう。
ギルウィルド自身の発した言葉は彼女のためなのか。自分のためなのか。
それさえも分からなかった。
『何を言うかと思えば』
最大限、嘲弄を押し隠した口調だった。違うかもしれない。考え過ぎかも。ちょっと呆れた、という程度だったかも。あるいはそうですらなく、ごく普通の、何の他意もない言い方だったかも。でもそれももう分からない。
『ルキシスが畏れ多くも皇帝陛下に反発を抱いていることはぼくだって気付いている』
――そういうことではない。だが、それをどう説明できるというのか。
『何か、彼女の出自にまつわるところでわだかまりがあるのだろう。それを嗅ぎ回るつもりはないが、皇帝陛下は慈悲深く寛大で公明正大、正義を重んじられ、極めて優れた見識をお持ちであられる。直接お目通りすれば彼女の気持ちも和らぐだろう』
何を言っているのか咄嗟に理解できなかった。皇帝に目通りすれば――と言ったのか。彼女が? 傭兵風情が、大陸の覇者たる皇帝に?
『ぼくはそれを陛下に願い出ることができる立場であると――きみには説明しておこう』
代々続く貴族に生まれても、生涯皇帝に謁見できない者の方が多いのだ。それを、そんなことくらいどうにでもできる立場であると彼は言う。つまりはその立場で、権力で彼女を守ると。
それが彼の答えなのだ。
だがそれは彼女の望むところではないだろう。どこまでも決定的に。
『ルキシスのことを心配してくれてありがとう。きみに謝意を示したく思う』
暗澹たる気持ちだった。自分の言葉は誰のためにもならなかった。むしろ込み入った糸を更にきつく複雑に絡め合わせただけだった。
もっと神殿で学んでおけばよかった。そう思わざるを得ない。こんな時に何をどう言えばいいか、その術を知っていれば、あるいは。
『……彼女は男を憎んでいると思うか』
しばしの間をおいて発せられたジャンの言葉にはためらいが感じられた。彼女の名誉を思ってのことか。
『はい』
『ぼくの考えは違う』
意外だった。彼はある程度察しがついていると思っていたのに。しかし続く言葉は、その考えを裏切るものではなかった。
『彼女が憎んでいるのは卑劣なるものだ』
おまえがわたしに何かしたわけじゃないだろ。
かつて彼女が言った言葉が急に耳に蘇った。
『だから彼女が君をそばに置いている以上、きみは卑劣な者ではないとぼくは信じている。だから忠告しよう』
ジャンが歩み寄ってくる。下草を踏みしめる足音がする。
彼はギルウィルドのすぐ間近に立ち、その肩に片手をぽんと置いた。気安く、気心の知れた仲間か何かにするように。
『フリーダと密会しただろう』
全身の毛穴が粟立つような感覚が走った。危険だった。
『それは』
まさか知られていたとは。一体どこから漏れた。誰か見ていたのか。
言い訳がもたつく。彼女がルキシスを犯せなどと言い出したことを思い出し、ごまかそうとして、咄嗟に何も言葉が見つからない。
『分かっている。どうせすべてあの娘が悪い。きみとフリーダの間に不品行があったなどとは微塵も思っていない』
本当にそう信じてくれているのだろうか。だが、そうでなければ自分は今生きてここにはいないのではないか。つまりは、成敗されていたはずでは。
『ルキシスの頼みとする友人が卑劣な真似をするわけもなく、あの馬鹿娘に物の道理を言い含めて天幕まで帰してくれたのだとぼくは正しく理解している』
『閣下』
『心配しなくていい。そのことで何か騒ぎ立てるつもりはないんだ。本当だよ。騒いだところで縁談に障るだけだ』
だが、視線はじっとこちらに据えられたまま。やはり射抜くように鋭く、視覚で見分けられなくても独特の凄みがあった。
『しかし気を付けたまえ。二度めはない』
それがこの話の終わりだった。
彼は知っていて、ずっと黙っていた。黙ってギルウィルドを雇い、ルキシスとフリーデヒルトのそばに置いた。宴席では概ねギルウィルドに対しても友好的にふるまっていた。
やはり皇帝の宮廷にまで出入りする貴族となると海千山千だ。おくびにも出さない。
それを思い知らされると同時に、咄嗟に言い訳のひとつもできなかった自分の未熟さに苛立って、何でもいいから殴りつけたい気分になった。
こんな程度の些細な修羅場さえ、自分の力で切り抜けたわけではない。彼の、帝国の大貴族の、寛大なお目こぼしで不問とされただけだ。
やりきれない腹立ちだった。
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