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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
女傭兵の結婚狂想曲
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6.黒胡麻パンが好き

 翌朝早く与えられた天幕を出て、また洗面のための水をもらいに行った。初めは下女をふたり付けてもらっていたが、正式にこの仕事を受けた時に彼女らには引き上げてもらっていた。たかだか随伴の護衛ごときに過ぎた待遇だからだ。自分のことは自分でできる。ひとりの方が気楽だ。


 騎士団の面々は、友好的ではなかったがかといって敵対的でもなかった。こういう時は当たり障りなく挨拶くらいして、機会があれば酒でも奢って下手に出ておくに越したことはない。とはいえ酒を奢る機会は当面なさそうだ。だが挨拶なら機会はいくらでもあり、ついでにただだ。そして彼らの母語はヒルシュタット語だ。自分にとっては下手をすれば母語のノール語よりもよほど気安い言語だった。


 自分たち北方の諸王国は歴史的に常にヒーレン人の騎士や聖職者や商人たちに圧迫を受けてきた。だからこそヒルシュタット語が使えなければ話にならない。彼らは北方の言葉で交渉の席になど着きはしない。ノールの王も元はヒーレン人だ。ノール人の王朝を滅ぼして自らが王座につき、土着した。土着の過程でヒーレン人であることを捨て、ノールの文化に溶け入った。北方諸王国にはそうではない国も多々ある。ヒーレン人の王がヒーレン人のまま、現地の人間を統治することは珍しくはない。そういう国では宮廷ではヒルシュタット語が話され、庶民は現地語を話す。


 だからと言って自分にヒルシュタット語やヒーレン人に対する敵対意識があるわけではなかった。ヒーレン人の支配も圧迫も歴史的に積み重ねられてきた事実に過ぎず、個人の感覚とは別の問題だ。ヨルクのような、ヒーレン人の友人も何人かいる。


 そういうわけで、馴染みのない、しかも世間における階層の違う面々に囲まれていても、自分はさほど何とも感じてはいなかった。ルキシスの方はどうだろうか。知っている顔がほとんどない――というようなことを、口走っていたが。


 盥に汲んだ水を持って自分の天幕に戻る途中で、そのルキシスの姿を見かけた。まだ辺りが明るくなりきってもいない、赤紫色の朝焼けの中で、彼女は横倒しにした丸太の上に腰掛けて何かを頬張っていた。


「おはよう」


 彼女は服だけは侍女の日中の服装に着替えていたが、髪は結っていないし化粧もしていなかった。ギルウィルドを見ると、珍しく何の含みもなくにこっとして見せた。

 たぶん、何か食べているからだろうなあと分かった。彼女は食事中は機嫌が良いことが多い。特に自分に対しては。

 屈託がなさそうな様子には安堵した。昨夜の別れ際は必ずしも後味の良いものではなかった。


「パンをもらった。今にお替わりが来るからおまえもちょっと待っとけ」


 彼女はそう言って、両手に持った丸いパンをギルウィルドに示した。上品に指でちぎったりせずそのままかぶりついているようだ。黒いパンだった――が、一般の黒パンとは色合いが違う。炭のように真っ黒な生地だ。その上表面には黒胡麻と思われるものがこれでもかというほどふんだんにまぶされている。


 彼女のそばに寄れば、確かに焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂った。こんな野営地で焼き立てのパンとはまた豪勢なものだ。組み立て式の、携帯用の竈を使ったのだろう。


「ああ、ええと」


 洗面前なので、若干婦人の前に立つには見苦しい感じがしてためらった。しかしルキシスはそんなことは気にもしないだろう。元々むくつけき兵隊に入り混じって寝起きする生活なのだから。しかし彼女が気にしなくともこちらが気になる。散々一緒に野宿などもしてきたのだが、それはそれだ。


「パンいらないの?」


 不思議そうな顔で、ルキシスはこちらを見上げている。


「いや、もらえるならありがたいけど」

「なら今にリュドが――、ああ、ほら」


 言っているそばから、小姓殿が両腕に大きな籠を抱えて駆け寄ってきた。彼はギルウィルドを認めるといささか歩調を緩めた。


「ああー、お友達さんもおはようございます。ルキシス様の一番お好きな黒胡麻パンのお替わりをお持ちいたしましたよ」


 慇懃に礼をして、リュドは籠の中身をルキシスに見せた。ルキシスは素直に頬を和らげ、中からひとつを取った。


「おひとつでよろしいので?」

「これでいつつめだから」


 朝から健啖なことで何よりである。

 ルキシスはギルウィルドに向かって籠を示した。


「おまえも取れ」

「はい、お友達さんもどうぞ」


 ルキシスの前で露骨に意地悪をするつもりはないらしく、リュドはギルウィルドに籠を向けつつ、清潔そうな白い綿の布を差し出した。焼けたばかりで、素手で取るには熱いのだろう。ルキシスは平気で素手で取っていたが、取った分は膝に広げた綿布の上に置いている。


「どうも」

「一番粉に上質の黒胡麻を粉状になるまですりつぶして混ぜ、その生地にオリーブ油や蜂蜜をたっぷり練り込んで焼き上げたものですよ。ルキシス様の一番お好きなパンです」


 炭のように真っ黒な生地は黒胡麻によるもののようだ。贅沢な逸品である。後で食べた時に割ってみると中にもやはり種子状のままの黒胡麻がたっぷりと練り込まれていた。何とも栄養価が高そうだ。とても庶民の口に入るパンではあるまい。


「もっともらったら?」


 ふたつばかりパンを取って綿布にくるむと、ルキシスがそう口を挟んだ。


「いや、もう十分」

「いつつも食べているわたしがアホみたいなんだが」

「何言ってんの。食べられる時に食べておけばいいじゃん」

「こっちの台詞だけど」

「ルキシス様のお勧めを断るのですか?」


 リュドまでが非難の目を向けてくる。贅沢にはすぐに慣れてしまう。普段から粗食は心掛けている。だが、もてなしを断ったと思われるのも本意ではない。それで結局、もうひとつ黒胡麻パンをもらった。


「……そう言えば、おまえに金を払っていなかったな」


 パンをもぐもぐやりながら、ルキシスがふと思い出したように呟いた。


「金?」

「前にパンを焼いてもらった」


 一瞬、何のことか分からなかった。だが言われてみれば、雨に捕らわれて宿に押し込められていた時、色々と持て余して暇だったので竈を借りてパンを焼いたことがあった。


「あれはあげたんだからいいんだよ。きみから金なんてとらない」

「でも、粉代も薪代もかかったんだろ」

「きみにそれくらいも奢れないほど稼ぎが悪いように見える?」


 ルキシスは神妙な顔になった。


「あれ? もしかして本当におれの稼ぎが悪いと」


 思っていそうな顔だった。心外である。それにこちらはちゃんと貯金もしている。宵越しの金を持たない博打中毒とは違う。


「わたしを値切るくらいだから金がないのかと」

「あれは――だって、高いだろ」


 いつぞやの都市攻めの件である。彼女の手助けを得るにあたってドゥレッツァ金貨三枚をまけてもらった。その代わりにエルミューダを貸し出すことになっている。まだ、貸していない。


「わたしの値打ちとしてはむしろお買い得価格だったはずだが」

「ひとの足元見やがって」


 あの時は完全に足元を見られていた。今思い出しても悔しいというか――やはり足元を見られているなあという感慨が胸を去来する。

 いつの間にかルキシスはにやにやしていた。やはり機嫌は悪くなさそうだ。


「ルキシス様!」


 突然リュドが声を上げた。彼女の前に膝をつき、恭しく礼を取る。何事かと、ルキシスは目を丸くして彼を見た。


「うちの旦那様だってパンくらい焼けますよ!」

「えー……、いや、それはどうだか。パンの焼き方なんて知らないだろ」

「ご存じなくても、きっとお上手に焼かれます!」

「はあ……」


 ルキシスは首を捻っている。リュドが何故こんなことを言い出したのか分からず困惑しているのだろう。

 こちらは、何となく彼の言いたいことは理解できた。つまり、ちょっとくらいパンが焼けるくらいで調子に乗るんじゃねえぞ若造、と言いたいのだ。ギルウィルドに向かって。でもそれが言えないので、こういう主張のやり方になる。健気な主従の在り方である。実際には大貴族の総領様がパンなど焼けるはずがないのだが。


 リュド、とルキシスが少年の名を呼んで彼の顔を上げさせた。ちょいちょいと手招きをして自らのかたわらに座らせ、彼に向かって微笑みかける。


「黒胡麻パンをありがとう。おまえが用意させてくれたんだろう?」

「はい。その……、お好きなものをお召し上がりになれば、お喜びいただけるかと」


 彼は慎重に言葉を選んだが、恐らくは彼女を元気づけようとしたのだ。彼なりの方法で。

 昨夜はあまりに異質な夜だったから。


「こんな場所で黒胡麻パンを食べられるとは思わなかった。嬉しいよ。とても美味しい。わたしが黒胡麻パンを好きなのをよく覚えていたな」


 優しいねぎらいの言葉に少年は感激して目を輝かせている。


「おまえは優しくていい子だな」


 ルキシスは目を細め、親しみ深い表情をしていた。彼女は子どもや動物には親切だが、それにしても珍しい心からの信愛が示されているように思った。


「許嫁はもういるか?」

「……いえ、その」

「いないのか。ジャンは何故世話してやらないんだ。至らない主だな」

「ルキシス様、そのような」

「もし気になる娘がいたらジャンに言ってみたらいい。配下の者の縁談の世話は上に立つ者の責務だからな。きっと良きように計らってくれるだろう」


 リュドはじっとルキシスを見つめていた。どこか痛ましげな眼差しに、何となく察するものがあった。つまり彼女は彼にとって、主の思い人であると同時に初恋のお姉さんといったところか。色々な意味で彼には手の届かぬ高嶺の花だろうが。


「結婚する頃には従騎士くらいにはなっていたいだろうが、このままよく仕え、もう一、二年もすればジャンだっておまえを前線に連れて行ってくれるようになるだろう。そこで手柄を立てられればすぐに従騎士に叙されるさ」


 ルキシスは楽しげに語った。彼女からすれば、弟のような存在に対する、夢も希望もある未来の成功の物語である。それは語るのも楽しいだろう。


「また手が空いた時に稽古をつけてやる。木剣を用意しておけよ」


 ルキシスはそう言って話を締めくくり、再びパンを頬張った。彼女が一番好きだという黒胡麻パンは、確かにその役目を果たしたと見えた。

 もちろん自分は、彼女が一番好きなパンの種類など知らなかった。

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