5.結婚の経験(2)
「わたしの結婚も周りの者たちが決めたことだった」
フリーデヒルトが眉を上げた。彼女は急にもじもじとして、細い指先をしきりに組み合わせては解き、ルキシスを窺うように見た。
「……それで、幸せだったって言えるの?」
「幸せだった。わたしは自分の考えという考えもないうすらぼんやりした愚図で間抜けな小娘だったが、一方で夫は聡明で思慮深く、やはり周囲の大人たちに押し付けられたに過ぎない花嫁を敬意と誠実さでもって遇してくれた」
「顔も知らない夫だった?」
「顔は知っていた。同じ一族の出身だった。輿入れまでは直接お言葉を賜ることはほぼなかったが、お顔は拝していたし、お声も遠く聞き漏れることはあって……、そういう意味では肖像画でしか知らない夫、というわけではなかったな」
「同じ一族と言ってもそんなに遠いんじゃ、そのひとがどんなひとかは分からなかったんじゃないの?」
フリーデヒルトが胡乱な目付きになる。
「そうだな。遠くお見上げするばかりで、若い娘たちの憧れの的ではあったが、実際のお人柄はわたしのようなぼけっとした小娘には知る由もなかった。でも、結婚したらとても素敵なひとだった。世界で一番素敵なひとだ」
「それはおまえの目が恋で曇っているか、おまえの夫がたまたまそれほどまでの人物であったかってことだわ」
「それほどまでの夫だったんだ」
ルキシスははにかんだように笑った。
彼女のそういう笑みを見るのは初めてで、どこか頭を殴られたような衝撃を覚えた。
「……結婚してみて、夫がもしすごくすごく嫌なひとだったらどうすればいいの?」
「素敵なひとかも」
「素敵じゃないかも。すごーく、嫌なひとかも」
「だったら、そうだな。今のわたしであれば、婚家の実権を握る。そんな嫌な奴だったらきっと婚家でも嫌われてるだろ。そこに付け込んで婚家の主人として君臨する。一族や郎党どもにたっぷり優しくして、抱き込んで、用済みになれば夫なんて叩き出してやる。ま、殺してもいいかな。わたしの権力が盤石になっていれば、殺したところでどうということもない」
「や、野蛮……」
呆れたようにフリーデヒルトが呟いた。だがすぐに気を取り直して別のことをルキシスに訊いた。
「じゃあ、じゃあ、嫌なひとではなかったとする。逆にいいひとだったと仮定する。でもわたしが……その、そのひとをどうしても愛せなかったらどうしたらいい?」
「うん?」
「おまえは、だって、嫁ぐ前から夫に恋していたんでしょ? そんな口ぶりだった……、違うの?」
「ああー、うん、小娘らしい憧れを、一族の若君に抱いていた。そうだな、きっと恋していた。結婚して、もっと大好きになった。夫の役に立ちたかった」
「もしそんなふうに思えなかったら……、そんな夫と添い遂げられる?」
ルキシスは口元に指先を当て、しばし考えこむ様子を見せた。
「わたしなりに考えつくところはある。だがそれを正直に言えばジャンにもそいつにも滅茶苦茶叱られそうだから、言えない」
そいつというのはギルウィルドのことか。一体何を考えたのか。
「何よ、言いなさいよ」
「ええーと、子どもを三、四人産むまで我慢する」
「それで?」
「さすがにそれだけ産めばもう義務は果たしただろ。あとは、まあ、貴族社会ではおなじみの、よそに楽しみを」
「ちょっと、きみ」
さすがに止めた。考え込んでおいて言うことがこれか。もちろん、怒る。これから嫁ごうという花嫁に何を言うのか。
「あたしはそんなの嫌よ」
意外にも、フリーデヒルトはそう言ってルキシスのろくでもない提案を却下した。
「結婚するのは世界でたったひとりの大好きなひとで、そのひとといつまでも幸せに暮らしたいもの」
彼女が――一族の総領であるジャンに、ルキシスの言うところの小娘らしい憧れを抱いているのは事実だろう。自分が見る限りふたりはぎくしゃくした関係ではあるが、少なくともフリーデヒルトがひっきりなしに彼の気を引こうとしているのは伝わっている。そしてそれが逆効果であるのも。
フリーデヒルトが顔を俯ける。
「……いいのよ。大好きなひととは結ばれなくても、結婚相手のことを大好きになれれば。あたしだってそれくらいは……」
彼女らしくもなく、語尾は弱々しく空気の中に溶け入るような感じだった。
「結婚するなら夫を愛したり愛されたりしたい。それでいつまでも幸せに暮らしたい。浮気したりとかされたりとか、そんなの絶対嫌! でもあっちのひとのこと、好きになれるかな。それにもしあたしばっかり好きになっても、愛されなかったらどうしたらいいの」
彼女なりに憧れの思いに区切りをつけて、結婚に向き合おうとしているのか。そこまで内省しているとは気付いていなかった。幾分痛々しさも感じる。王侯貴族の結婚に、愛だの恋だのが介在する余地はないだろう。
「愛されたいのなら、自分の気持ちを伝えられるようにならなければ」
ルキシスが静かに答えた。
「愛されたかったらこちらから下手に出て、あなたを愛しているからあなたもあたしを愛してくださいってお願いしろってこと?」
「違う」
フリーデヒルトはいささか気色ばんだが、ルキシスは相変わらず凪いだ声だった。
「フリーダ、わたしの話をしよう。わたしは夫の役に立ちたかった。夫を立て、夫の言うことに従って、微笑んでいればそれがよい妻だと思っていた。だからいつも夫には、はいとか仰せに従いますとか、そんなことしか答えたことがなかった」
「おまえが? 全然、想像つかないけど」
「そうすれば夫の役に立てると思っていたし、元より自分自身の意志なんて大して持ってもいなかった。周りの者の言うとおりにしておっとりしているのが仕事だと思っていた」
誰の意のままにもなってしまいそうな娘だったと、彼女の夫でさえ言っていた。
「だがそれが夫をどれだけ失望させたことか」
ルキシスが目を伏せる。
フリーデヒルトが、どういうことかと怪訝な顔をする。
「ある時夫がわたしに、おまえにもわたしを選んでほしいと仰せに……、わたしと仲良くしたいと。周囲が勝手に選んで押し付けただけの花嫁に」
わたしはいつものように「はい」と答えた。「もちろんです。わたくしも若様とずっと仲良く過ごしたいです」とも。
それはわたしの本当の気持ちではあったが、夫の言葉をただ繰り返しただけだった。だから夫にはどこまで伝わったか、今でも分からない。わたしはいつも、何の手応えもない娘だった。周囲からは何を考えているかも分からないように見えたかもしれないが、そもそも何も考えてなどいなかった。もっと言えばよかった。あなたより先にわたしの方こそあなたを選んでいた。確かに周囲によって選ばれたというのは事実だけど、望んであなたの妻になった。今とても幸せで、これからもっとあなたと仲良くなりたい。あなたが同じように思ってくれていることが心から嬉しい。そう言えばよかった。
ルキシスは淡々と語った。その話は以前に一度、聞いたことがあった。それこそ彼女と彼女の夫との「思い出」ではないだろうか。
「わたしのような手応えのない娘になってはいけない」
ルキシスは目を上げ、真っ直ぐにフリーデヒルトを見つめてやはり淡々と言ったものの、そうは聞こえなかった。つまり心のうちまで淡然と凪いでいるわけではないのだと、こちらにも漏れ伝わったということだ。
「仮におまえが愛することがなくても、愛されることがなくても、必要なことだ」
評価、ブクマなどしてくださる方ありがとうございます!




